オズワルドとゾルゲ

ケネディ暗殺から57年、一度は情報開示に傾いたトランプ政権はなぜか再びその扉を閉ざした。
その一方で、CIAで長官賞を受けるほどの有力人物が、ケネディ暗殺がCIAの一部の暴走であったことを証言している。
CIAの強硬路線(ピックス湾事件)が、ケネディの融和路線により、失敗したことなどが背景にあった。
さらに、その証言から、"ケネディ暗殺犯"への布石が、意外にも日本にあったことがわかる。
JFケネディの暗殺犯とされたオズワルドは、1957年~58年にかけて、厚木基地(海軍厚木航空施設)に勤務し、航空管制官を務めた。
そのため当時スパイ天国であった日本で少なからぬアプローチをうけている。
オズワルドは、若い頃より社会主義に傾倒しており、厚木基地勤務時代にロシア語を学んでいた。
ある事件で容疑をかけられ軍法会議で有罪となったオズワルドは1959年の海兵隊除隊後、ソ連に旅行し、そのまま亡命している。
当初オズワルドはアメリカのスパイとして疑われていたようで、厚木基地勤務時代に得た「ロッキードU2偵察機」の機密情報をソ連当局に提供したともいわれている。
その後、ソ連当局はオズワルドのミンスクでの移住を許可している。オズワルドはテレビ工場に勤務し、ソ連の女性であるマリーナ・プルサコワと結婚し、二人の子に恵まれている。
そしてオズワルドは1962年、妻のマリーナと娘たちを連れてアメリカに帰国することとなった。
入国許可が下りるまで半年ほどかかったが、当局は軍事機密を暴露した亡命者であるオズワルドの入国を許可している。
当時ソ連からアメリカに渡るのは至難の業だったのだが、なぜかオズワルドとその一家は、アメリカから引っ越し費用まで用意してもらっていたと、オズワルドの妻マリーナが語っている。
帰国したオズワルドの家族は、ダラス近くのフォートワースに居住し、当初はコーヒー会社で働いていた。
そして、反共産主義者として知られていたエドウィン・ウォーカー将軍を狙撃したといわれているが、なぜか釈放されている。
つまりオズワルドは、当局により”泳がされ”ており、暗殺計画が具体的に動き出していることがわかる。
ただ、ニューオーリンズに移住し、フィデル・カストロの支援団体である「キューバ公平委員会」に参加し、ビラ配布をして逮捕されている。
その後、オズワルドはテキサス教科書倉庫に就職し、その1か月後の11月22日に、ケネディ大統領が遊説のためにダラスに訪れて、事件が起きた。
ダラス市警とFBIは直ちに周りのビルを封鎖し、教科書倉庫ビルにいたオズワルドが第一の容疑者となり、まもなく逮捕される。
事件直後からマスコミは「ケネディ暗殺の容疑者はキューバ カストロの支持者である」と報道している。
ウォーレン調査委員会の報告書では、オズワルド単独犯行が確定したが、オズワルドは直後の「はめられた」以外、その口から一言も動機は語られることもなく、郡刑務所へ移送中にジャック・ルビーによって銃撃され死亡している。

最近、1939年に起きたノモンハン事件が注目を集めている。
日本史教科書の欄外扱いのこの事件が、脚光を集めだした理由は、ドローンで撮影された”戦跡画像”が新たな視点を提供したからだ。
それは、ナスカの地上絵にも似たもので、アメリカの研究者は、ノモンハン事件の意義について次のように語っている。
「第二次世界大戦の起源という複雑なジグゾーパズルで、ノモンハン事件は小さくはあるが、大切なピース。そのピースをはめると、全体の図柄が非常に分かり易くみえるという役割をもっている」。
ノモンハン事件のそもそもの発端は、日本がたてた傀儡国家「満州国」とモンゴルの曖昧な境界をめぐり、同国軍備隊とモンゴル騎兵部隊が起こした小競り合いであった。
この小競り合いが、第二次世界大戦の帰趨に重大な影響がでるとは、誰が想像できるだろうか。
それは、日本の大本営にシベリア方面を攻撃する「北進政策」を諦めさせ、主に海軍が主張する石油の供給を狙った南進政策へとカジを切らせるポイントになったからだ。
また当時の情報を分析し、日本の「北進はない」と判断したスターリンは、その兵力をシベリアから欧州戦線へとその大半を向けることができ、独ソ戦の趨勢を決定的なものとした。
そうしたスターリンの判断に、補強材料を提供したのが、同盟国ドイツ人新聞記者として日本に滞在したソ連スパイのゾルゲである。
1930年代、日本政府中枢にまで接近し最高国家機密漏洩を行った人物リヒヤルト・ゾルゲとはいかなる人物だったのか。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷し戦争の悲惨と狂おしさを目のあたりにした。
国家と国家の利害が激しくぶつかり合い無辜の市民の血が流される。
平等で平和のない世界を夢見たゾルゲは、共産主義が説く世界革命の思想に共感し、モスクワに本部をおくコミンテルン(国際共産党)のメンバ-となった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員という肩書きの元当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。
そこですでに「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレーと出会い日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実と出会う。尾崎もコミンテルンのメンバ-でゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
ゾルゲが日本の最高国家機密にアクセスできたはこの尾崎と通じてなのであるが、この尾崎はなんと当時の近衛首相のブレ-ン集団であった昭和研究会のメンバーなのであった。
社会主義に傾倒する尾崎が近衛のブレーンであったことは、不思議な歴史のめぐり合わせであるが、近衛首相は日本における最高の名族である藤原氏の子孫で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために多くの国民の期待を背負っての首相就任であった。
ただ近衛首相は若き日、当時社会主義者で「貧乏物語」で世にしられた河上肇に学ぼうと東大ではなく京大で学んだという経歴がある。
近衛首相のブレーンであった尾崎がゾルゲに流した情報の中に、独ソ戦の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は同盟国ドイツがソビエトと優位に戦えば北に進出しようという意見と、多くの資源がある南方に進撃しようという二つの考えがあった。
政府の最終決定は南方進撃であるが、これをゾルゲはモスクワに打電した。結果的にソビエトは、日本の北進はないとすべての兵力を満州からヨ-ロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであったが、ゾルゲはこの大使館に勤める武官オットーとすでに上海で出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の私設情報担当として出入りするようになった。
オットーがドイツ本国へ送るべき日本に関する報告や分析もゾルゲが書いたとされている。
まさか日本の友好国のドイツ大使館から、敵対するモスクワに国家機密がおくられていようとは誰が想像しようか。
当初ゾルゲが怪人物のようなイメージがあったが、ただゾルゲという人物の本当の姿は、篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」や日本人妻であった石井花子さんが書いた書物「人間ゾルゲ」を読むとかなり違う。
ゾルゲはオ-トナバイに乗った快活な好青年というイメージさえ湧き上がってくるのだ。
石井は銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らした。むしろゾルゲがスパイとして成功したのもそうした人に好かれる性向が人々のガ-ドを緩めたのではないかとさえ思えるのだ。
実は日本の官憲は調査により情報がロシアに打電されていることを知っていた。
ただその発信源がなかなかわからなかった。
多くの外国人を調べ、夫の正体をまったく知らない石井にゾルゲに変わったところがないか尋ねると時々釣りに出かけることがわかった。
特高は行楽を装い富士のふもとにある湖を張り込んだ。湖上に浮かぶ、魚の跳ねる音しか聞こえぬ静寂が覆う湖上のボ-ト上の二つの黒い影。
ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙面をつぎ合わせてみると、そこには暗号が書かれていた。
ゾルゲはついにコミンテルンのスパイであることが発覚したのである。ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日ロシア革命記念日に処刑された。最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返した。
石井花子は後にゾルゲの墓を見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けた。

1932年の日本の傀儡「満州国」の立国に応じるようにソ連はモンゴルにおける自国の立場を強化し始めた。
モンゴルの間に相互協力の協定、事実上の軍事同盟が結ばれ、1937年にソ連赤軍はモンゴルに駐留を開始した。
このようにして、北東アジアにおける日本とソ連の事実上の影響力の範囲が確定された。
モンゴルにおいて、日本の軍隊とモンゴルの国境警備隊との間で衝突が始まった時に、モンゴルに駐留していた赤軍の一部がこの戦いに参加した。これがソ連とモンゴルの間に結ばれていた軍事協定の条件だったからである。
しかしそのあとモンゴルで戦う日本軍の兵力が増強し、急速にモンゴル領土に侵入した。
ジューコフ将軍の指揮の下、ソ連軍は主導権を奪い返そうと、まずは制空権を取り戻すためにスペイン市民戦争において、ドイツ人やイタリア人のエース・パイロットたちを次々に打ち落としたソ連軍のパイロットたちを投入した。
一方、日本軍の司令部は、ソ連軍の主要軍力が日露戦争の頃と同じくヨーロッパ・ロシアに集中していることを十分に承知していた。
モンゴルに駐留しているソ連軍は弱小で、ソ連とモンゴルの間には近代的な交通網が敷かれていない。
こうした状況は日本軍の兵士や士官たちの闘争心に火をつけ、それにより指揮官たちも赤軍とのいかなる武力作戦においてモンゴルの背後には戦車を中心としたソ連の機械化部隊がいたが、満州に駐留していた日本陸軍の関東軍作戦参謀だった辻政信らは相手を侮り、東京・参謀本部の制止を振り切って戦闘を拡大させた。
一方ヨーロッパでは、ドイツへの対応をめぐって"一触即発"の状況にあった。
イギリス・フランスの自由主義陣営とドイツ・イタリアのファシズム陣営とが対立し、両陣営はソ連を引き入れようと外交戦を繰り広げていた。
スターリンは英仏かドイツか選べる立場にいた。
英仏と同盟を結べば、ドイツと戦わなければならない。
ドイツと防共協定を結んでいる日本は背後で攻勢を強めるだろう。
一方、ヒットラーと何らかの合意ができれば、英仏がドイツと戦い、日本を孤立させられる。
欧州戦線ではヒトラーがスターリンと「独ソ不可侵条約」を締結し、ナチスドイツはポーランドへ侵攻。その隙にスターリンは極東の満州へ兵力を増強。
背後の敵である日本が当面攻めてこないように、打撃を与えようと決断した。
それが、周到に用意されたものだったことは、ドローンを使って空から見ると一目瞭然である。
ソビエト軍はシベリア鉄道で近代化された戦車部隊や航空機をノモンハンへ集結させていた。
近代化された戦車がこの塹壕へ1輌ずつ潜んだ。
ハルハ河東岸の約1430基の円形濠が密集一帯から南へ約15キロ、ジーコフの司令部あとがあり、周辺約5キロ四方に、衛星画像で別の3970基もの円形濠が発見された。総攻撃の際に集積した弾薬や燃料を貯蔵するためのものだと考えられる。
ころでわかることは、日本とソビエト・モンゴル軍の圧倒的な兵力量の差である。
一方、辻政信は現場の部下達へ究極の精神論で叱咤激励したが、ソビエト軍の近代化された兵器部隊や航空機などの圧倒的な兵力情報を知らないまま作戦を立案した。
日本軍は敵を正しく把握していないばかりか、日露戦争時の肉弾戦を想定していたような気配さえある。
交戦が始まった3か月余の8月20日、密かに南北約70キロに渡り、兵力を展開してたソ連軍は総攻撃を開始、その二日後には日本軍を包囲した。
ノモンハンでの総攻撃から3日後の8月23日には「独ソ不可侵条約」を締結。そして9月1日、英仏とソ連からの挟み撃ち、とりわけ対ソ戦に当面備える必要がなくなったヒトラーはポーランドへ侵攻。イギリスとフランスはドイツと戦争態勢に入り、第二次世界大戦がはじまったのである。

1945年8月、日本の敗戦により日本はGHQにより占領されるが、そこには連合国の外国人が多数諜報活動を行っていた。
CIAが戦後まもなく諜報活動の舞台としたのが東京・赤坂の二つのクラブであった。
ラテンクォ-タ-のステージには世界的スタ-や国内大物スタ-のほとんどがたったが、その華やかなイメージとは裏腹に、昭和史を象徴するような事件のステージをも提供したのである。
それは、1963年12月におきた「力道山刺殺事件」であり、1982年におきたニューラテンクォータと同じ敷地内にあったホテルニュ-ジャパンの火災であった。
実は、旧ラテンクォーターの方は、226事件で反乱軍が立てこもった「幸楽」の跡地にあったが、ロッキ-ド事件で知られたあの児玉誉士夫と、元CIAの人物とが組んで創設したものである。
フィクサーとして名前を知られた児玉誉士夫は戦争中、中国で日本海軍航空本部の物資調達にあたる児玉機関を上海に創設した。
児玉が中国で築いた莫大な資金はその後、自民党の創設資金に当てられ、自民党に対して隠然たる影響力を持つことになった。
ニュージャパン跡地を整備するはずの千代田生命保険は破綻。紆余折あり、2002年にプルデンシャルタワーが完成している。
そこから外堀通りを1本入ったところに「コパカバーナビルディング」があるが、かつて「コパカバーナ」というナイトクラブがあった。
そこには選り抜きの美女で英語が堪能な女性達が働いていた。
実は、三井物産アメリカ支店長時代のリチャード・ニクソンは、商談のために日本を訪れると、かならずここに連れてこられた。
ファイサル国王も、インドネシアのスカルノ大統領もやってきており、このクラブが諜報活動の温床となることは、自然の帰結であった。
よく知られたエピソードは、「コパカバーナ」でホステスをしていた通称「デヴィ」と呼ばれた女性(本名:根本七保子)であった。
彼女は、「東日貿易」の秘書に仕立てられて、スカルノに接近した。
東日貿易は、児玉誉士夫が指揮をとる日本の商社で、インドネシアにさらなる進出を目指していた。
彼女は見事に使命を果たし、スカルノ大統領の第三夫人に収まり、スカルノの末っ子を生んでいる。
ともあれ、ドイツ人ゾルゲとアメリカ人オズワルド、戦前と前後で共に社会主義に傾倒し、ソビエトのスパイとして諜報活動に携わった。
二人は奇しくも日本で、ケネディ大統領暗殺と第二次世界大戦勃発という世界を揺るがす大事件の”起点”に立っていたことになる。