聖書の言葉から(あかがねのへび)

聖書をよむと、「土」(つち)や「土地」というものがいろいろなカタチででてくる。
旧約聖書の「創世記3章」に、人の創造につき次のように書いてある。
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」。その後次のように展開する。
神である主は人を取り、チグリス・ユーフラテス近くのエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
ところがヘビに騙されたイブに従ってアダムは善悪の樹の実を食べる。
その結果、「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない」ということになる。
この段階で「土地が呪われてしまった」のだが、アダムとイブの子供であるカインとアベルという子どもたちの間で間題が起き、事態はさらに悪化する。
カインが神に対する捧げ物のことで、弟に怒りを燃やし、アベルを野原に引き出し、そこで殺してしまう。つまり、人類は二代目にして殺人を犯す。
この時、アベルの方は羊を捧げたが、カインが捧げたものは「土の成り出でもの」をそのまま捧げた。
アベルの血を流した捧げものは、聖書全体の型になることに注目したい。
なぜなら、「血を流すことなくして罪が許されることはない」(ヘブライ人への手紙9章‬‬)は、聖書を貫く掟で、人間はイエスの十字架が死が、人類の罪を「肩代わり」することによって、そのことを意識することもなく生きていることになる。
さて、神はカインに「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問うと、カインは「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか」と応える。
すると、神は「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる」とある。
アダムとイブにおいて「土地が呪われアザミとイバラのを生じた」のに対して、カインとアベルの場合は、「人が土地に呪われ」、「土地はもはやあなたのためにその力を生じない」となっている。
さらには、「あなたは地上をさまよい歩く」ようになるというのだ。
この預言は、その後、現実となっている。イスラエルは大きな飢饉が生じて民族の危機を迎えるばかりか、イスラエルはその全歴史において「さすらい人」として生きることになる。
さて紀元前30C頃、神はアブラハムに、メソポタミアのウルから、パレスチナ(カナン)の地に行き、「エジプトの川からユーフラテス川まで」という範囲で、「この土地を管理しなさい」と命ずる。
それから紀元前17C頃になると、大飢饉がおきて、エジプトの地に身を寄せることになる。その結果、神が管理せよと言われた土地からさえ、出て行かなければならなくなる。
そして、約400年もの間、エジプトで奴隷生活を強いられることになり、民族の苦難が極限に達した時、ひとりの「指導者」が現われる。
パロの娘に見いだされてエジプトのプリンスとして育てられたモーセは、自分がユダヤ人であるということを知る。
この世の虚しい王位と富を求めるよりも、神に選ばれた民として、奴隷として生きることを決意する。
しかし、それでも王様気分が抜けなかったのか、同胞の喧嘩の仲裁にはいって片方を殺してしまう。
それを人に見られてエジプトから逃亡することになり、ミデアンの地で40年間を羊飼いとしての生活を送ることになる。
80歳になった頃、モーセはシナイ山に何かが燃えているような不思議な光景を見た。
その光景とは「燃えているのに燃え尽きない柴」であった。
モーセはそこに近づこうとしたとき主の声を聞く。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジプト3章)と。
人類創世以来、土地は呪われており、靴のままに上がることが許されなかったのだろうか。
実際、幕屋で仕える祭司たちも聖所に入るときは、必ず裸足であった。
ここで、「足のくつを脱げ」の靴とはどんなものだろう。ここで「くつ」というのは、砂漠で羊飼いたちが履く革製のサンダルのことである。
後に、洗礼者ヨハネが来たるべきイエスについて「自分は靴ひもを結ぶ価値さえもない」(マタイ3章)預言するが、イエスの方は「造られた者の中でヨハネより偉大なものはない」(マタイ6章)と語っている。
世界で裸足で生きる民族は多いが、日本で家中で靴をぬぐ習慣があるところは少ない。先祖の土地に対して「一所懸命」であることも、イスラエルに近いところがある。
イスラエルもまた先祖の土地(または井戸)を大事に思う傾向がある。
聖書にはヤコブが掘った井戸というものがあり、この井戸に水を来た女性にイエスは「聖霊」について「井戸」を譬えにして話す場面がある(ヨハネ9章)。
さて、聖書では「くつを脱ぐ」という行為には、どんな意味があるのだろうか。
それは、旧約聖書の「ルツ記」におけるイスラエルの習慣の中にみてとることができる。
イスラエルでは「レビート婚」という義務があり、子どものいない男が死ぬと、その弟が兄の嫁をめとることが定められていた。
弟がいない場合には、血縁の近い順番で権利の優先度がある。
土地の有力者ボアズは、飢饉でモアブの地で暮らし、その間二人の息子を失還したナオミについてきた嫁ルツと結婚しようとするが、実は、ボアズ以上に「買い戻す」権利をもった親戚がいた。
ボアズは長老たちに承認になってもらって、「買い戻し」の意志があるかどうかを確かめた。
すると「買い戻しの意向」の有無を問われた男は自分の権利と義務を放棄する。
その際に、男は、自分の靴(履物)を脱いで、相手にそれを渡すことによって自分の意志を表したのである。
ここでわかるように、「くつ」を脱ぐということは、相手の意に任せる。もう少し強くいうと、「奴隷の立場に自分を置く」ということに他ならない。
シナイ山で、神がモーセに語った「ここは聖なる地、靴をにぎなさい」と命令にしたがうことは、「神のしもべとして仕える」ことを意味している。
日本の「ゲタを預ける」という言葉に幾分近いようだ。
聖書の「最後の晩餐」の場面では、「足」に関わるもうひとつの場面が隠れている。それはイエスが、弟子達の足を洗う場面である(ヨハネ13章)。
ペテロは「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」といった。イエスは答えて「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」と語った。
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下ください」。
するとイエスは彼に「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係りもなくなる」と応えられた。

日本を代表する花といえば「桜」で、国花といってよい、桜のもつイメージの広がりが多様であることが、そのことを何よりもよく物語っているかもしれない。
たとえば、秀吉の花見のように桜は権勢を示すこともあれば、はらはらと散ることで喪失を表すこともある。
また幾多の文学に描かれたように、人の意識に変調をきたすような妖気のようなものもある。
さて「サクラ」の語源は諸説あるが、そのひとつに田の依代(よりしろ)という意味がある。
「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所ということで、「サクラ」は田の神様が山から里に下りてくるときの依代を表すとされている。
また、サクラの花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしたため、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったという。
つまり、豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、感謝する行事。その際に神様を迎えるための料理や酒を人も一緒にいただいたということが、本来のお花見の意味である。
日本のお花見は奈良時代の貴族の行事が起源といわれている。
奈良時代には遣唐使を介した中国との交易が盛んで、中国から伝来したばかりの「梅」が鑑賞されていた。
894年に遣唐使が廃止され、日本独自の文化が発展するにつれ、桜が花見の主役となっていく。
花見の宴は花の下に座ることによって花粉の生気を吸収する健康法であったという。
その一方、作家の坂口安吾は、桜の木に妖気を感じとっている。
「桜の森の満開の下」で、大昔は桜の花の下にいると人間が取り去られるという伝説があり、見渡す花びらの陰に亡くした子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう話を紹介している。
桜の樹木が人を惑わして気が変になるというのも、わかる気がする。
また、坂本冬実の歌「夜桜お七」は、歴史上の一人の女性を題材にしたものだ。
1683年3月29日、江戸・鈴ヶ森刑場にて「お七」という女性が火あぶりの刑に処せられた。
江戸の駒込の八百屋の娘お七は、天和の大火(1682年12月の)で焼け出され、一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこでイケメンの小姓と出会う。
その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり、相思相愛の仲になってゆく。
翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが、お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み、自宅に放火をする。
ただし、火をつけたものの怖くなり、自ら火の見櫓に登って半鐘を叩きその結果、実害のないボヤで消し止められた。
しかし、お七の生まれる10年前には明暦の大火(振袖火事)がおきたため、放火は「大罪」であった。
しかし、お七は「放火の罪」で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで、年少者は罪一等を減じるという気持ちで、お七に「その方は十五であろう」と何度も念をおすが、よほどのオバカか正直者か、お七は「十六」と正直に答えるばかりで、ついには鈴が森の刑場で火あぶりの刑にされた。
この物語をもとにして、つくられたのが坂本冬実の「夜桜お七」(1994年)という曲である。
過激な短歌で知られる作詞家の林あまりさんは、人生をつきすすむ夜桜お七のちょっとしたつまづきを「赤い鼻緒がぷつりと切れた」と表現した。
男は去り、友も去る。「究極の孤独」にあっても、「さくら さくら さくら」と潔く散ろう、という一人の女性の姿を描いたのだという。
「恋する男のためではなく、自分の行く道を自己の意志で歩もうとする現代女性の姿をお七に仮託した」ともいっている。
ところで、この「八百屋お七」の物語は、恋のための一途な行動に走ったために、わずか十六歳の少女でありながら火あぶりという極刑に処せられたことから江戸庶民の同情をかい、井原西鶴の「好色五人女」や浄瑠璃「八百屋お七」・歌舞伎「お七歌祭文」などで広く知られるようになった。
また、お七一家の菩提寺・円乗寺の本堂前に「俗名八百屋お七 妙栄禅定尼 天和三癸亥年三月二十九日」と刻まれた丸い小さな墓があり、今でも訪れる人は絶えない。
また、日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というものだった。
太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入する作戦だった。
かつて、阿川弘之が小説「雲の墓標」で描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿である。
「桜花」は、機首部に大型の爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、航続距離が短いため母機に吊るして目標に接近させなくてはならない。
目標に近づくや搭乗員は「桜花」に乗り移って、母機から切り離し、火薬ロケットを噴射させて誘導しながら滑空して、敵艦に「体当たり」するものである。
「一発必中」と喧伝されたが、この特攻兵器こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともいえる新型兵器だった。
なお、連合国側からは、その非人間性ゆえに、日本語の「馬鹿」にちなんだ”BAKA BONB”(馬鹿爆弾)なるコードネームで呼ばれていた。

ヨーロッパで、日本の「桜」に似て多様な意味が含まれているのが「ヘビ」である。
日本の桜が美しいものなのに不気味な要素があるのに対して、ヨーロッパのヘビは不気味なのに、健康のシンボルとして使われているということだ。
ヨーロッパの象徴の中で、実に意外なのが「ヘビ」である。ヘビは、人間を騙し人間を死すべき存在にしてしまった存在であるから、いい印象はないのだが、意外にもヘビは「医療の象徴」のように扱われている。
ギリシャの近代医学の基礎を作ったといわれるアスクレピオスの医学校は、宗教施設と休息の医療であったとされている。処方は、投薬などを重視したものであった。
患者が要求しても毒薬を使用せず、病人の延命治療に専念したという。設備は、ローマ風呂などの遺跡が今日でも残されていて、床暖房などがこの時代にあったといわれている。
ここにギリシャの全国の若者の優秀者が集められていたという。蛇のイメージは、薬局、医学の他に、医療関係などに多い。ローマ時代になると商業、学問でも使用される。
ジュネーブに本部のあるWHOのシンボルは、モーセが作った蛇の形態に地球儀、国連のオリーブを付け加えたものである。
これはどうしたことであろうか。実は、あかがねヘビの話が旧約聖書にある(民数記21章)。
出エジプトで、荒野をさまよう民は神とモーセに対して言い逆らう。「どうしてあなた方はわたしたちをエジプトから連れ出して来て荒野で死なせるのか。パンも水もないではないか。わたしたちの魂はこの卑しむべきパンにうんざりした」と。
すると神は民の中に毒蛇を送り、それらが民を次々にかんだため、イスラエルの多くの民が死んだ。
ついに民はモーセのところに来て「わたしたちは罪をおかしました。これらの蛇をわたしたちから取り除いてくださるよう、エホバに執り成しをしてください」。
するとモーセは民のために執り成しを始めた。
すると神はモーセに「あなたのために火のへびを造り、それを旗ざおの上に取り付けよ。そして、だれでもかまれたなら必ずこれを見、それによって生き長らえるのである」と語った。
モーセは直ちにあかがねのヘビを造り、それを旗ざおの上に取り付けた。
それによって、蛇が人をかんだ場合でも、そのあかがね蛇を見つめると、その人は生き長らえられた。
実は「あかがねのヘビ」は、「のろい」の象徴として頭に「荊冠」を頭に置かれ十字架につけられたイエスの姿のビジュアルな預言である。
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われている”と書いてあるからです」(ガラテヤ書3章)とある。
また神が、呪いを祝福に変えること(申命記23章)は、聖書の一貫した主題である。
それは、「土地の買戻し」(ルツ記)にも譬えられ、神御自身の血の代価による「レコンキスタ」(国土回復)といえようか。