我が地元福岡には、繁華街・中洲に”キャナル・シティ”がある。
"運河の街"という名前なのだが、ここは鐘ヶ淵紡績(カネボウ)の工場の跡地に出来たものである。
実は、鐘ケ淵紡績(カネボウ)の本社は東京の墨田区・鐘ヶ淵なのだが、大阪支店(鴫野工場)に「h」字型の水路があり、この水路は通称“カネボウ運河”と呼ばれている。
厳密にいうと、この地に朝日紡績が大阪工場を設立、その2年後の1913年鐘淵紡績に合併された。
その後、物資運搬のための”運河”の開削と工場用地の造成が図られ、この運河が”カネボウ運河”とよばれた。
おそらく、大阪の”カネボウ運河”の存在が”福岡市の”運河”をコンセプトとした街「キャナル・シティ」に繋がったにちがいない。
さて、明治時代に製糸業に従事した女性達が記録「女工哀史」がよく知られているが、他にも「ああ野麦峠」は、長野県諏訪の紡績工場で働く女工の過酷な労働状況を描いていた。
いずれも相当過酷な労働環境で、身を削って国・会社の為に働いていたといってよい。
この状況に危機感を描いた紡績会社側が、 女工の福利厚生・健康維持のために「バレーボール」を手軽に女性でも出来るスポーツとして導入し、各紡績メーカーに浸透していった。
そして紡績会社の企業チームが結成されて行き、 "紡績会社"を中心に日本リーグが作られた。
昭和初期には「鐘紡」新町工場(群馬県)が傑出した力量を持ち、全国工場対抗バレーボール大会や明治神宮国民錬成大会に優勝するなどの実績を残した。
しかし、渋沢栄一が設立に関わった「大日本紡績」の女子バレーボールチームが鐘紡(カネボウ)に優るチームとなっていく。
大日本紡績(日坊)では、当初各工場ごとに女子バレーボール部があったが、1953年年にバレーボール活動を貝塚工場に統合させることを決定。「日紡貝塚」が結成され、監督に大松博文が就任した。
1964年4月、大日本紡績からニチボーへの社名変更に伴い、チーム名を”ニチボー貝塚”に変更した。ちなみに、現在は、愛称を加えてユニチカ・フェニックスとなっている。
実は、1964年東京オリンピックで、「東洋の魔女」と呼ばれたチームの実体は、この「ニチボー貝塚」チームだったのである。
厳密にいうと、彼女達が「東洋の魔女」とよばれたのは、1961年の欧州遠征で22連勝した時からであった。
そして「ニチボー貝塚」チームは、1959年から66年にかけて"258連勝"という大記録を樹立する「奇跡のワンチーム」となる。
そして1964年東京オリンピックの日本対ソビエトの女子バレーボール決勝戦の日がやってくる。
66.8パーセントという驚異のテレビ視聴率を記録し、「東洋の魔女」達は一大ムーブメントを巻き起こした。
苛酷な練習を選手達に課した大松監督が、上杉鷹山の言葉を引用した「なせば成る」という言葉は、頑張る人の”合言葉”になった感さえあった。
かくして、"東洋の魔女"ニチボー貝塚誕生までの裏面には、「女工哀史」や「ああ野麦峠」にみえる女工たちの苦難の歴史があったといる。
1972年、ミュンヘン・オリンピックの体操「男子団体」。
ソ連との激烈な争いの中、ソ連の高得点に対して日本の得点は抑えられ、日本は「規定」でソ連に0・5点のリードを許していた。
そして「自由演技」3種目目、日本に追い討ちをかけるようなことがおこった。
藤本が「つり輪」の着地で負傷し係員に連れ去られた。
靱帯(じんたい)を痛める重症であったにもかかわらず、医務室では痛み止めを打つことを拒否された。
会場に戻りたいと頼んでも拒否され、部屋に1人残され、外からのカギで閉じ込められた。
それは、ソ連影響下の「体操連盟の係員」による実質的「監禁」だった。
ソ連側のネライは、試合会場に戻らぬ藤本のことで、日本選手の"動揺"の誘おうというものだった。
当時の団体総合は6人が演技して「上位5人」の得点を採用する方式であったため、6人目の「不在」は1人の「失敗も許されない」ということを意味した。
日本選手団は、姿が見えない藤本に不安を抱きつつ残り3種目を残していた。
失敗は許されないというプレッシャーの中、選手たちは、ひとりひとりが自分の責任を果たすこと以外にはなかった。
特に加藤初男、塚原光男、監物永三の3人は68年メキシコ大会から3大会連続出場で、「体操ニッポン」の伝統を背っていただけに、プレッシャーはかなり強かったと思われる。
一番若い梶山は比較的冷静で、最後の鉄棒では一番手で登場し、皆に勢いをつける演技を披露した。
そのうち、カナダの観客は日本に味方し、日本に高得点を求め、ソ連にはブーイングが起きはじめた。
藤本の不在が、結局、日本を「ワンチーム」にした感さえあった。
補欠から繰り上がった五十嵐久人は、鉄棒で世界で初めて「伸身後方2回宙返り」を決めたものの、採点に時間がかかり15分間も中断したのは、舞台裏の"熾烈さ"を物語っていた。
失敗やケガが許されない残りの二種目、跳馬と平行棒を日本が完璧な演技を続けるのに対し、有利に立っていたソ連側にミスが続出した。
日本得意の「鉄棒」の最終演技者は塚原光男だった。
藤本を除く5人の選手が見守る中「月面宙返り」(ムーンサルト)の着地が決まった。
塚原が9・90高得点を出した瞬間、日本の逆転金メダル、団体総合5連覇が決まった。
5人は抱き合って号泣した。すべてがソ連を勝たせるように動いていた体操競技の「裏舞台」だったが、日本は観客を味方につけつつ、選手一丸で勝ち取った金メダル。
世界初の「ムーンサルト」での着地の場面をモントリオール大会すべての競技でのベスト・シーンと評する人も多かった。
「裏舞台」で起きたことを知れば、これほど選手が「ひとつ」となった金メダルも珍しいかもしれない。
そこには、日本人選手の活躍を阻もうとするソ連および東欧のチカラが相当に働いていた。
なにしろ、開催直前にソ連のチトフという人物が「国際体操連盟会長」に就任し、審判団もソ連など東欧勢が多数を占めた。
種目別の各国出場枠が「2」になったのも、日本のメダル独占を防ぐためだったといわれている。
また大会直前、エース笠松が虫垂炎になり離脱し、補欠の五十嵐が代わって出場したことも不安材料だった。
それでも、不利をすべて跳ね返して、勝利した”奇跡のワンチーム”であったといえよう。
1998年長野五輪スキージャンプ団体戦では、団体初の「金メダル」を獲得した。
前回大会のリレハンメルの最終ジャンプでミスをして金メダルを逃した原田雅彦には格別な思いがあった。
ただ、原田選手が涙ながらに「おれじゃないんだよ、みんなでつかんだんだよ」と語った言葉の裏には我々の知らない意味があった。
ジャンプ団体1本目が終了する頃に天候が急速に悪化し吹雪になっり雪が積もり出した。助走路が滑らなくなり、期待されていた原田選手が失速した。
天候は回復せず、ジュリー(Jury)と呼ばれる「審判の最高責任者」の判断で、競技の続行か終了かが決まってしまう。
この時点での日本の成績は4位で、このまま競技が終了となればメダルに届かない。
第二回目が行われるか行われないか固唾を呑んで待ったが、それは、多くの日本人がメダルを諦めるほどの「猛吹雪」だったように思う。
1回目で1位であったオーストリアのジュリーは、競技を終えようと提言してきた。
それに加え他の3人のジュリーは上位につけているぶん、コノママ終わってしまった方が都合が良かったのである。
日本人ジュエリーは、選手達はこの試合のために頑張ってきたのでヤスヤスと試合を終えてはならないと提案し、テストジャンパーたちが飛んで安定的に且つ安全性が証明できれば「続行」にしようという結果となった。
そして、出場選手以外の選手による「テスト」と称するジャンプが、吹雪の中で次々と続いく姿がテレビで放映された。
観客からは、時々拍手がおこるもの、テレビの解説者から「テストジャンプ」へのコメントはほとんどなく、この「テストジャンプ」の意味を知らされることはなかった。
ところで、この時飛んだ25名のテストジャンパーの中に、西方仁也の名前があった。
西方仁也はあの原田雅彦選手と同期で、1994年リレハンメル五輪ジャンプ団体で銀を取った選手の中の一人である。
西方は、長野五輪の「選手枠」を狙っていたが、腰痛で日本代表から外れており、テストジャンパー”の一人として招集されていた。
世界でもトップクラスの実力派ジャンパーだっただけに、テストジャンパーとしての参加には、複雑な思いがあったことであろう。
テストジャンパーとは整備を終えたジャンプ台の「安全性」を実際にジャンプして確かめる役割をになっている。
要するに、出場選手達に怪我がないように事前に飛んで「証明」するのが役割であり、自らは怪我の危険を冒すことにもなる。
したがて彼らの仕事は、「悪条件」の下でこそ与えられる仕事であり、相当のテクニックと経験がないと出来ない。つまり、集められたのは実力派のジャンパーばかりである。
皆長野オリンピックを目指すも、叶わなかった選手達であるだけに、悔しい思いを抱えていたのである。
安い民宿を定宿とされ、朝6時に起きて8時にはジャンプ台にいてテストジャンプをする。
ところで試合中断の間、25人のテストジャンパーたちは、転倒をしたりバランスを崩して失速すれば試合の再開はナイこと知っていた。
この時、テストジャンパー達はソレマデの悔しい思いを捨てて、日本ジャンプチームの窮地を救わねばと「一丸」となって雪のジャンプ台から次々と飛んだ。
それは、雪で前が見えない状態であっただけに、恐怖との戦いでもあった。
次々と飛んだのは、雪が助走路に積もっていかないように、後の人が飛びやすくするためだった。
なかには、130メートルを超える見事なジャンプを見せるが、それでもジュリー達は納得せず、かつての銀メダリストで五輪選手と同等の実力と思われる西方仁也を指名し、西方がいいジャンプを飛んで安全を証明すれば「続行」の判断を下すとした。
その時、西方には何メートル以上という目安は知らされていなかったのだが、西方はこの時、何の記録にも残らないジャンプがいかに「重い」かということを初めて知る。
今度は自分がツナグ番だとの想いでジャンプに向かい、見事123mの結果を出した。
そして、この結果をみたジュリーは「試合続行」を決断したのである。
そして本番2回目が再開され、岡部選手137m、斎藤選手124mと大ジャンプが続いた。
次は原田選手がジャンプ台に向かう途中、テストジャンパーの控え室にいる西方と声をかけあった。
原田は骨が折れてもかまわないと、前傾を維持しつつ奇跡の137mジャンプをした。
そして、最後に船木が125mを飛んで金メダルが確定した。
ジャンプ台の前に、メダリストとともに、25人のテストジャンパーが一枚の写真に収まった。
オリンピック出場、不出場のわだかまりを捨てて、"ワンチーム"で獲得した金メダルであった。
2006年5月、広島湾に浮かぶ小島・似島(にのしま)に向かうフェリ-の中で意外な名前を見つけた。
Jリ-グで、我が地元のアビスパ福岡や浦和レッズの監督をつとめた森孝慈の名前である。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて俘虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。
ドイツ人俘虜達はここでホットドッグやバ-ムク-ヘンの作り方を日本人に伝えた。これらは現在原爆ド-ムとして知られている広島物産陳列館で紹介され一般に知られることになった。
さらにドイツ人俘虜は高度なサッカ-技術を日本に伝えた。
そして1919年広島高師とドイツ人俘虜との間で試合も行われた。日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人を翻弄した。
日本は0ー5、0ー6で敗れたのだが、このドイツ人俘虜11人(ニノシマイレブン)との試合こそ、日本初の国際試合となったのである。
この時、チームの主将だった田中敬孝はじめ広島高師(現・広島大学)の学生達がサッカーを習いに宇品港から船で20分のこの島を足しげく訪れた。
サッカーを学んだ日本人学生の多くが”教師”になったことには大きな意味があった。
田中の教え子として元マツダ社長で東洋工業サッカー部(現サンフレッチェ広島)創設者の山崎芳樹や、三菱重工業サッカー部(現浦和レッズ)創設者の岡野良定などがいる。
日本サッカー界の進展のメルクマールは、1964年東京オリンピックに向けて、1960年に西ドイツからデッドマル・クラマーを招いたことであった。
それからの4年間は日本のサッカーの歴史の中で一挙に成長した時であったといえる。
クラマーはドイツサッカー協会からの紹介で日本コーチに脱変えられたが、日本は通常ドイツのコーチが受け取る報酬と同様の額を支払うことができなかった。
それで結構だと犠牲的精神で来てくれた。
クラマーコーチの指導はすべて具体的で、基本に忠実で的確であったという。
サガン鳥栖・松本監督も、東京オリンピック代表候補選手として、クラマーの指導をうけた一人で、その基本は次の3つだったという。
"Look before" (前もって見る、前もって考える)。
"Meet the ball" (最短距離を走ってボールをもらいに行く)。
"Pass and go" (パスを出したら、すぐに空いたスペースに行く)。
クラマ-は、この基本を繰り返し繰り返し日本人選手にたたきこんだ。
なにしろ、当時の日本選手の中でリフティングを10回以上できる選手はたった一人しかいなかった。
それでも、東京オリンピックではあのアルゼンチンを破り”ベスト8”、さらにその遺産がメキシコ・オリンピックでは「銅メダル」をとるという”奇跡"をよんだのである。
ただ、クラマーの指導を受けたのは、ほんの一握りの選手だけで、彼らが引退すると次に続く選手が出ず、メキシコ大会以降、日本のサッカーは不振に陥る。
その後28年間の苦労の末、「Jリ-グ」が誕生し1996年のアトランタオリンピックに出場した。
実はこの「Jリーグ」誕生に貢献したのが、似島で少年時代を過ごした森孝慈・健二の兄弟であった。
広島県の教育者の森芳麿が戦災孤児を「似島学園」を開設するが、その次男・森孝慈は日本代表チームのMFとしてメキシコ五輪に出場し"銅メダル"獲得に貢献した。また兄の健二もサッカー界に寄与し「Jリ-グ」の専務理事などを歴任している。
クラマーはオリンピック選手を育て「日本サッカーの父」と呼ばれるが、その前史としてドイツ人俘虜チーム「ニノシマ・イレブン」との出会いがあった。