旧約聖書には「ハバクク書」という預言書がある。ハバククは、ヘブライ王国全盛期のソロモン王後に分裂した「南王国ユダ」という国で神の民イスラエルに向かって預言をした。
紀元前600年頃、当時は新バビロニアという国が政治的にも文化的にも大きな力をもっていて、やがて南王国ユダも、この大国と対峙することになった。
そして新バビロニアが南王国ユダを侵略し、王様がバビロンに連れて行かれ、また民も捕囚となって連行された。このバビロン捕囚により、南王国ユダは滅びてしまう。
ハバククが預言をしたのは、王国が消滅する直前で、自分たちがどうなってしまうか分からない。そんな滅びの気配を感じて、緊張が高まり、不安と恐れが満ちていた。
そして絶望を感じる中で、神がいるなら、どうして何もしてくれないのかと不信仰に陥るものがいた。
まことの神を神とせず、自分たちの力を誇り、自分たちの栄光を追い求める異教の国々の間にあって、南王国ユダも、国を保つためにそれらの国々の言いなりになり、他の国の求めに応じつつ、何とか生き残ろうとしていた。
そこで、ハバククはこれらの国々が興り、自分たちを苦しめ悩ますのは、南王国ユダが神に逆らったために、裁きを受けているのだと告げ、その目的は、あくまでも神がイスラエルを御自分のもとに立ち帰らせるためであること。
そしてハバククは、神が正しいことを貫かれる方で、けしてご自分の民を見捨てられたのでもなく、再びイスラエルが神との正しい関係の中を歩むためで、神のご計画を実現するためにこれらの国々用いておられるのだと告げる。
神はハバククに”幻”をもって「人を欺くことはない。”遅くあらば待つべし”。それは必ず来る、遅れることはない」(ハバクク書2章)と示す。
そしてハバククは、神に逆らった民をも立ち帰らせ、恵みを与えて下さり、救って下さる時が来ることを預言した。
王国の復活の約束ほどではなくとも、希望のない苦難がいつの間にか人の魂を耕して、恵みの時を迎える人々もいる。
プロ棋士を目指す者が集まる、プロ棋士養成機関“奨励会”。ここに入会することすら厳しい道で、その難関を乗り越え入会すると、またさらなる試練が待っている。
それは、年齢制限で、満21歳までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は”退会”という鉄の掟のこと。
ただし、年齢制限の最後の「三段リーグ」で勝ち越せば、満29歳のリーグ終了時まで次回リーグに参加できるという。
この東西を合わせた三段リーグを年2回行い、それぞれ上位2名だけが四段に昇格することができ、そこで初めてプロ棋士となることが出来る仕組み。
ところが、2005年に「特例」として、瀬川晶司がプロ編入試験を実施し見事にプロ棋士になった。
翌年から、奨励会を経なくとも実力がある者が「プロ編入試験」の規定を設けられた。
ところで、この瀬川が開いた道が、もうひとりの棋士に「逆転の人生」をよびおこす。
なんと41歳になったプロ棋士になった今泉健二、その名が注目されたのは、あの天才・藤井颯太を破った番狂わせを演じたからだった。
その人とは、41歳になってプロ棋士になった今泉健二、その名が注目されたのは、あの天才・藤井颯太を破る番狂わせを演じたことによる。
今泉は20歳の頃に「三段リーグ」に入っていた。つまり、プロ棋士になる四段の一歩手前まで来ていたが、厳しい現実がまっていた。
プロ目前とあって相手の気合はこれまでと違って段違い。リーグ戦3期戦って勝ち越すことすら出来なかった。その後も三段リーグでもがき続け、残された時間はわずか1年となっていた。
あの鉄のルールがとんでもないプレッシャーとなってきたが、今泉に最大のチャンスが訪れた。
リーグ戦の首位に立ったまま、最終局をむかえた。しかも昇段がかかる最終局を迎え、終盤においてかなり優勢に立っていた。
普通なら、相手が先にスキを見せるところだが、相手は予想以上に粘って今泉の揺さぶりをかける大胆な一手をうってきた。
すると優勢に立っていた今泉の方が先にミス、焦りはピークに立ってあとは自ら崩れていった。
相手がプロ入りを決め、今泉は3位であと一歩で昇段、つまりプロ棋士になることを逃してしまった。
残されたリーグ戦はあと一期残っていたが、本来なら負けた将棋を徹底的に研究すべきだったが、後輩たちを引き連れてマージャンやカードゲームに明け暮れていた。
今泉はカードゲームが滅法強く、後輩たちをカモにして勝利の余韻に浸っていた。
そして今泉が参加できる最後の「三段リーグ」を迎えた。相手は8歳年下でよく知った仲。実は彼が奨励会に入った頃から、手取り足取り指導してきた後輩の片山であった。
しかし、片山は思った以上に実力をつけていて、予想外の事態に今泉はパニックに陥り、平常心を保てずミスを連発し敗れた。
この対極の敗戦で心は完全に折れ"無"になってしまった。"絶望"というのは今までもあったが、”無”になるというのは初めてであった。
奨励会を退会した今泉は知人の紹介で、大手飲食チェーンで働き始めた。配属先はパスタ店の厨房。すでに29歳になっていたが、将棋をとったらただの役立たず。
調理の経験はほとんどなく、出来ることといえば声が大きいことぐらい。
周りは年下の子ばかりで、将棋を指すはずの手は傷だらけで、心は荒んでいった。
ところが、思いもよらず前述の瀬川昌司によって奨励会への「編入制度」が出来たことで、その年、もう一度将棋にかけてみようと、思い切って勤めていた会社をやめた。
今泉は「三段リーグ」の惨敗で精神面に課題があることに気がついていた。
そこで圧倒的な技術面で、精神面をカバーすれば問題ないと思い、自分にあった戦術を必死に研究した。
辿りついたのは、序盤に飛車を中央に置く「中飛車」。これだと、相手のどんな作戦にも対応しやすく、得意の混戦を
さらに有利に戦えると考えた。
今泉の将棋は確実にパワーアップし、名だたる大会で立て続けに優勝、プロ棋士を破るなど抜群の成績を残した。
仕事を3年続けたところで、日本将棋連盟にプロ編入を求める嘆願書を提出した。
そして編入試験に合格し、再びプロへの最終関門に臨んだ。今泉は出だしこそ8連勝を飾るのだが、勝ち進むにつれて頭に浮かぶのは、過去の敗戦ばかりで、負けがこむようになる。
二期目になっても、悪い流れを断ち切れないまま、昇段のためには落とせない対局を迎えた。
相手は大学を出たての田中悠一で、相手のミスで優位にたっていた。しかし勝負を決める一手がなかなか打てずにいた。
反撃を食らうリスクを冒すことになるからだが、そのうち相手の方が大逆転の一手に気がついてしまう。
そして今泉は棋士との礼儀さえ投げ出してしまう。譜面を両手ですべて崩し、仰向けに寝転んでしまった。
今泉はこの時、プロ棋士に必要な心が、技術では補えないことを思い知る。
三段リーグに参加できるのは全部で4期あるが、またしても逃げ出してしまった。残りの成績はボロボロで、2度目の挑戦は。あっけなく幕を閉じた。
プロ棋士を諦めた今泉は父の勧めで介護ヘルパーの資格をとって行った職場は、認知症がある人や介護度も高い人も利用する施設。
施設で働き始めた頃は、声がで界以外に何もできなかった。
毎日が予想外の出来事ばかりだったので、利用者とコミュニケーションをとったり、同僚たちに支えられ臨機応変な対応ができるようになった。
今泉は高齢者施設で働くのと並行して、不思議なくらい将棋の成績が出はじめた。
若い頃から将棋の力はそこそこあったが、足りなかったのは心の部分。
施設では、悩んでいる時は、先のことは考えずに、目の前にある一点のみに集中して全力でやりきる。
目の前の人を喜ばせる。すると自分が楽しくなる。
この二つを根っこにしていると、また違った視点がでてくる。
介護施設で働くうちに心が鍛えられ、将棋では粘りに粘って得意の混戦にもち込めるようになった。
そして終盤にはリスクを負って、攻めの一手をうてるようになった。
そして41歳でプロ編入試験に合格し、2015年に悲願のプロ棋士デビューを果たした。プロになって3年ほどたち、藤井颯太七段との大局を迎えた。
今泉は得意の「中飛車」を繰りだし、混戦に持ち込んだ。中盤、藤井が一機に攻め込んできたが、以前のように動じることもなかった。
形成不利の中、直感を信じて「五八金」という悪手を使ったが、その「五八金」が最後に藤井の逃げ道をふさぐことになって勝利が転がり込んできた。
実は、今泉はいつのまにか介護の仕事が大好きになっていた。介護の現場は直接「死」と向き合う仕事で、相手はいなくなる環境の中、いつでも笑っていきたいと思うようになったという。
今泉は35歳までは将棋の世界しかなかったが、介護というもう一つの"居場所"を見つけたことで生まれた新しい境地を得たのかもしれない。
今泉が藤井を破った時、マスコミは「凡才が天才を破った」と報じた。
「三段リーグ」に2度も敗れて、奨励会を退会になり、プロになったのは今泉健二だけ、後にも先にもそんな棋士は出ないであろう。
その意味で、「不世出の凡才」といえようか。
世界的なピアニストであるフジコ・ヘミングの母方の実家・大月家は、現在の岡山県総社市日羽である。
祖父大月専平は、同郷岡山の犬養毅の影響か民権思想に憧れ、実家の農業を継がずに東京に向かう。
政党の機関誌や新聞を手に取るうちに、それらを印刷するインキについて 興味を持つようになる。
そして専平は機械油から墨インキを作る方法を研究、生産することに成功し、明治20年代の半ば 大月専平は大阪の北梅田町に墨インキ工場を立ち上げる。
そんな専平の次女として生まれたのがフジコの母・投網子である。
しかし、専平は9歳の時に病に47歳で倒れ早世するものの、裕福な大月家には ピアノがあり、投網子は幼い頃から慣れ親しんで、最高峰東京音楽学校への進学する。
卒業後間もなく投網子は音楽留学を決意、実家から援助を受けてドイツ・ベルリンへと向かった。
24歳の時で、現在のベルリン芸術大学に学び、師事したのはロシア出身で20世紀を代表するピアニストの一人後にクロイツァーであった。
そしてベルリンで投網子は7歳年下のスウェーデン人と出会う。
後のフジコの父で、美術学校で学びながら映画のポスターなどデザインの仕事をしていた。
そして留学して4年目の1931年8月ジョスタと結婚する。
投網子28歳。ジョス21歳の時、父・ジョスタ・ゲオルギ・ヘミングは映画会社の美術部に勤務し、マレーネ・ディートリヒ主演の 「上海特急」のポスターなどを手がけるデザイナーであった。
ジョスタは、母と妹・と共に幼い頃スウェーデンから ドイツに移り住み、間もなく フジコがベルリンで誕生する。
当時ドイツは ナチスが台頭し、ヨーロッパに きな臭さが漂い始める。
1932年7月、 投網子はジョスタと乳飲み子のフジコを連れ5年ぶりに 日本に帰国する。
投網子の後押しでジョスタの個展が開かれ、翌年には投網子はジョスタの作品をまとめたカタログを出版するなどもした。
ところが ジョスタに思うように仕事の依頼が増えなかったため、家族の間に不穏な空気が流れ始める。
投網子は 生活費を稼ぐため子育てをしながらピアノの教師を始めるものの、「夢破れた国際愛」という見出しでジョスタの女性問題が報じられるなどもする。
1938年7月 日中戦争が始まり人々の生活の中に戦争の影がさし込み、外国人であるジョスタは警察から監視されるようになり、ジョスタは妻と2人の子を残しスウェーデンに帰国する。
そして投網子は 女手一つで 子どもたちを育てるためピアノを教えに歩く。そして投網子は、フジコが5歳の頃に何気なく弾いたピアノの音色に驚き英才教育をほどこし、NHKのラジオ番組でショパンの即興曲を演奏したところ"天才少女"と反響を呼ぶ。
フジコが小学校5年生になった ある日投網子は恩師・クロイツァーのところへ連れていく。
実はユダヤ人であるクロイツァーはドイツを追われ当時 都内で暮らしていたのである。
クロイツァーは フジコの演奏に感心し、いつか世界中を魅了するピアニストになるだろうと言い、無償で指導してくれることになった。
フジコは、母と同じ 東京芸術大学に進み22歳の時には NHK・毎日音楽コンクールで2位入賞を果たし、フジコは いつしか母と同じようにドイツに留学してみたいと思うようになる。
ところが フジドイツへの留学の手続きをしたとこる、「無国籍者」となっていたことが判明。戦後の混乱の中、国籍選択の手続きをしていなかったのである。
それでも、1951年 フジコは29歳でベルリンに渡り、母・投網子はピアノを教えて苦しいながら、なんとか工面して仕送りを続けた。
そしてフジコは ベルリンからウィーンへと拠点を変え、日本をでて8年目の1969年やっと好運を掴むことになる。
世界的な指揮者 レナード・バーンスタインらの目に留まり、ウィーンで ピアノリサイタルを開くことになった。
街中にポスターも貼り出され期待が膨らむ一方だったが、フジコに悲劇が襲う。
リサイタル直前、貧しさで暖房がつかえず風邪をこじらせ聴力を失うというアクシデントに見舞われ、演奏はさんざん、やっとの思いで掴んだ一流の証となるはずの大きなチャンスを逃す。
その知らせを聞いた母は、娘の不運に愕然とする。
失意の中 スウェーデンに渡ったフジコは父と再会するが、父親からは冷たくあしらわれ、そんな中、精神病者と勘違いされ入院させられたこともあった。
なにしろ「無国籍」ゆえに大使館が救ってくるれることもなかったのだ。
ただ精神病棟でひとりピアノを奏でると、周りに患者が集まり”音楽の原点”に目覚めた気がしたという。
その後フジコは左耳を回復させるための治療を受け、再びドイツに向かったものの、チャンスは巡っては来ず、ピアノ教師として生計を立てるしかなかった。
フジ子はその頃「この地球上に私の居場所はどこにもない。天国に行けば私の居場所はきっとある」と自身に言い聞かせていたという。
追い打ちをかけるように、成功するまで帰ってくるなという母・投網子の訃報をうける。享年90。
母の死から2年後の1995年、フジコは生活の拠点を日本に移すことを決意し、母校で小さなコンサートを開くなどして生活をしていた。
それから3年後、フジコは時々立ち寄っていた教会に何気なく置かれてあった冊子を手に取る。そこに書かれていたのは聖書の言葉、~”遅くあらば待つべし”。
その1週間後の1999年2月11日、苦難に満ちたピアニストフジコ・ヘミングの人生を描いたドキュメンタリーが放送され、大反響を呼ぶ。
それ以降、コンサートのチケットはたちまちソールドアウト。齢62にして"フジコ旋風"を巻き起こす。