聖書の言葉から(詩篇91)

旧約聖書にあるダビデの詩~「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神と。主はあなたを狩人のわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない」(詩篇91篇)。
この詩はダビデが命の危機にさらされていた時の詩と推測されるが、一体この揺るぎなき信仰はどこに由来するのであろうか。
日本には、疫病を"退散"させる祭りとして京都八坂神社の"祇園祭り"や博多の"山笠祭り"が思い浮かぶが、ダビデの詩から思い浮かべるのは、疫病が"過ぎ越す"というイスラエルの「過越しの祭り」。
紀元前15C、エジプトに寄留するイスラエルの民を去らせるように王パロに求めるが、パロはそれを拒否しエジプトには様々な災いが襲う。
ヒョウがふったり、イナゴが大量発生したり、ナイルの川が赤くなったり、最後に疫病が襲う。
疫病で長男が死亡するにおよび、パロはついにイスラエルの民を去らせる決意をする。
この疫病がエジプトを襲った時、神はイスラエルの民に、門の鴨居に"羊の血"を塗るように命じ、イスラエルの民は災いを逃れた。 すなわち、疫病が”過ぎ越し”ていったのだが、それを記念したのがユダヤ教の最大の祭り「過越しの祭」である。
この「羊の血を塗る」ことが、キリスト教ではイエスの血で洗う「洗礼」の型となる。また、聖書「ヨハネの黙示録」第6章に、”第四の封印”が解かれ疫病が発生するとある。つまり聖書の観点から見ると、疫病は単なる自然現象ではない。
ところで、世界で新型コロナウイルスが広がる少し前に今年のニュースで結構目についたのが、イナゴの大発生で「出エジプト」の記述と重なるものがある。
「出エジプト記」には、バッタが農作物や木の実を食べ尽くす姿が描かれているが、ニュースの映像で見た、数限りない大集団が真黒な塊りとなって砂漠を移動する姿が不気味に映し出されていた。
すべてを食べつくしたら、次のエサを求めて移動しているのだが、真っ黒な塊り自体がひとつの生命体のように見える。
だが我々が馴染んだアノ緑色のバッタが、群れになって農作物を襲うというのはなかなか想像しにくい。
実際、恐ろしいバッタは黒っぽい色をしており、羽や脚の長さも違う。そのため昔は、別の種類の凶悪なバッタがどこかに潜んでいて、忘れた頃に大発生し、襲来すると考えられていた。
しかし、ロシア出身の昆虫学者が1921年に、両者が実は同じ種であるが、異なるフェーズ(相)を持つ、という学説を発表した。彼は当初、両者を区別するための研究をしていたが、凶暴なバッタの卵から、おとなしいタイプのバッタが生まれることを見つけたのだ。
普通のバッタは、基本的に単独行動をとる「孤独相」と呼ばれる状態にある。しかし、密集度の高い環境で育つと、集団行動型の成虫が現れてくる。
そして、そのまま世代交代を繰り返すと、全体が「群生相」という見た目も違うバッタの群れに変容する。その結果、作物を求めて集団で遠征し、恐ろしい"蝗害"を引き起こすようになる。
このようなイナゴの大発生を生み出す理由は、最近インド洋で発生が増加している「サイクロン」が関係しているという。
まず、バッタは約3カ月で1世代、条件が良いと20倍に増える。また乾燥した砂漠に、多量の雨がもたらされると、草などが生え、繁殖条件が整う。
2018年はアラビア半島に珍しく二つのサイクロンが襲来、バッタは9カ月で8千倍に増えたらしい。悪いことに19年も、インド洋で多くのサイクロンが発生したため、さらに増え、被害が拡大したのである。
サイクロン発生回数の増加も、やはり地球温暖化との関係が指摘されているが、日本においては、享保の大飢饉(1732年)の時、害虫が農作物を荒らしたという記録があり、明治以降は北海道の開拓地などでバッタによる大きな被害が出ている。
最近では、10年あまり前、関西国際空港で滑走路が拡張された際に、数百万匹のバッタが発生したニュースが報じられた。

「生命の定義」にもよるが、ウイルスは生き物とはいえない。なぜなら、自力で生きていくための「細胞」を持たないからだ。
そのためウイルスは、常に他の「一人前の生き物」に、どっぷり頼って暮らすパラサイトだ。
例えば、風邪のコロナウイルスは、上気道、つまり鼻から喉までの、粘膜が古くからの住処だ。
従って、ウイルスの立場から考えれば、居場所を提供してくれる宿主にダメージを与え過ぎるのは、愚かな選択だ。宿主が適度に元気で、次の宿主のところまで自分を連れて行ってくれるのが、望ましい。
殺してしまうなど、"愚の骨頂"である。
新型コロナのように「発症しづらく致死率の低い軽い」のが、一番厄介な存在なのだ。
エボラやSARSのような凶悪な病原体ではないので軽視されがちで、潜伏期間が長いため気が付かないうちにうつす、こういうのを 「賢いウイルス」というのかもしれない。
。 80年代のSF映画「グレムリン」は、可愛らしい謎の動物「モグワイ」を、主人公の少年が飼うところから始まる。
しかし、「水をかけてはいけない」などの禁を破ってしまった結果、モグワイの生物としての「フェーズ(相)」が変わり、そこから多数の悪質なグレムリンが発生、町が大混乱に陥るというストーリーであった。
聖書の観点からみると、"疫病"には神のメッセージが秘められていることがわかるが、日頃、おとなしくして気が付いたら狂暴化しているウイルスの拡大は、人間による何ものをもコントロール下におこうという思い上がりに対する"警鐘"にも思える。
では聖書の観点からみて、我々が築かんとしてきた文化とはどんなものであったであろうか。
まず、思い浮かべるのは、旧約聖書の「バベルの塔」の話である。
ヒト、モノ、カネが自由に動くとは、グローバリゼーションが行き着いた世界に他ならない。
最近の巨大企業にとって邪魔なものが国家の枠で、それを取り払った方がさらに富を吸い上げるのに都合がよさそうだということに他ならない。
そうして出来上がる塔とは、ヒト、カネ、モノがより自由に動き、たくさんの労働者を安い賃金で働かせ、それを"中間"で吸収するものさえなく、一握りの人々が莫大な富を高く高く吸い上げるシステムのことだ。
今、世界がコントロール不能に陥りつつある一方で、人間は都市を完全コントロールしようと「スマートシティ」なるものを構築しようとしている。
このシステムはただちに髙い建物の建築を意味するものではないが、どこか旧約聖書の「バベルの塔」の物語を思わせる。
人間が名をあげようと天にまで届かんとする搭を建てようとしたところ、神様が人間が互いに思い図ることはロクナことはないことだと、人々の言葉を相互に理解不能にしたという話である。
今、人間はAIとビッグデータで社会を完全コントロールしようとしている。しかし、AIはこれまでの経験値と情報から期待値を出して、それを選択肢として伝えるものでしかない。
しかし、自然はこれまでとは違うことをするし、これまで存在しなかったものを作り出す。
結局、人間が”不確実性”を完全制御しようとしたサブプライムローン派生のリーマンショックと似た”轍”を踏むのではないか。
旧約聖書「詩篇2」には次のような詩もある。
「なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともにはかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、” われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう”と。 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」。

松任谷由実の「輪舞曲(ロンド)」にも登場する織物「タペストリー」は、ヨーロッパの貴族たちの間では、いかにもロマンチックな織物だが、実はその色が昆虫の死骸かた作ったと知ったら、さぞや気味悪がったであろう。
この美しい染色(コチニール)の原料は、南米マヤ族の農夫達が汗まみれになって数千の昆虫を採集し、その死骸をすり潰して作られている。
特にアジア産のラックカイガラムシ、南ヨーロッパのケルメスカイガラムシ、メキシコのコチニールカイガラムシなどのメスの体を乾燥させ、体内に蓄積されている”色素化合物”を水またはエタノールで抽出したもの。
「タペストリー」はヘレニズム時代にはすでに存在しており、東西交易により広く流通していた。紀元前3世紀から紀元前2世紀に作られた古代ギリシア風の「タペストリー」の一部が、中国西部のタリム盆地から発見されている。
ヨーロッパへは11世紀に十字軍が東方の産物として手織り絨毯を持ち帰ったのが「タペストリー」の始まりとなる。
華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから、壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ、断熱効果が認められた。
ここからヨーロッパでの需要が高まり、国内で生産できる”つづれ織り”の「タペストリー」が生まれた。
それから15世紀にかけて、フランス北部のアラスが織物で栄えた都市だった。
特に上質のウールで織られた「タペストリー」はヨーロッパ各地の城や宮殿を飾るために輸出され、16世紀までにフランドルがヨーロッパの「タペストリー」生産の中心地となった。
中世のキリスト教は、修道院の家畜を襲う狼を邪悪な動物として駆除していたため、”ペスト菌”を媒介するクマネズミが大量発生したが、そのクマネズミの格好の棲家が、壁に吊ったままの埃だらけの「タペストリー」だった。
この14世紀のペスト蔓延を契機に「タペストリー」より軽量で手入れの簡単な布や革が壁を覆うものとして好まれるようになり、印刷技術の発達によって15世紀半ばには「壁紙」にとって代わっていく。
それにしても、ヨーロッパから南米に持ち込まれた”疫病”によりインカやマヤ文明が滅んだといわれるが、南米から持ち出した”染料”が、ヨーロッパのペスト流行拡大を助けたとは!

現在、品切れになっているのはマスクばかりではなく、カミュの小説「ペスト」もそうらしい。「ペスト」は1940年代のアフリカ北部のフランスの植民地アルジェリア西部のオラン市が舞台。
高い致死率を持つ伝染病の発生が確認されたことで街が封鎖され、愛する人との別れや孤立と向き合いながらも見えない敵と闘う市民を描く。
個人的には、フランツ・カフカの「変身」(1915年)という小説が思い浮かぶ。
なぜなら、カフカの「変身」という作品には、現代人には身につまされるような”実存的”状況が描かれているように思う。
ある男が朝起きたら「虫」になっていたという話だが、突然「変身」することを、逆に突然に周りの世界が変化したと「置き換え」れば、相対的に人間は「変身」したことにもなる。
要するに、人間はある日突然に虫になることはなくとも、ある日突然に世界との「不調和」を体験して悩まされることは、大いにアリウル話である。
つまり、転勤も失業も病気も事故など、「変身」の起因はいたるところに転がっているということだ。
カフカが生まれたプラハを支配していた帝国の名は、オーストリア・ハンガリー二重帝国である。
そこは多数のチェコ人を少数のドイツ人が支配し、カフカがその血をうけついでいたユダヤ人は、その二重構造からもハズレていた。
カフカはその二重帝国のシンボルのひとつであるプラハ大学で化学とドイツ語を学び、結局は法律学を専攻する。
カフカは学んだ法律学も生かせないまま、ふらふらと「労働災害保険協会」に入る。
これも、半官半民の中途半端な組織だったようだが、仕事上、突然事故で手足を失ったような労働者と出会ったようなことも推測できる。
この職場での時間に書いたのが「変身」であった。
主人公のグレゴールはある日自分が虫になっていることに気がつく。
作家は「彼は甲からのように固い背中を横にして横たわり、頭を少しあげると、何本かの弓型の筋にわかれてこんもりともりあがっている自分の茶色の腹が見えた」と描写している。
かつての大黒柱が厄介者となってしまった一家は、母も妹も勤め口をみつけて働くようになる。
そのうち家族は誰もグレーゴルの世話を熱心にしなくなり、代わりにやってき手伝いの大女はグレーゴルを怖がるどころか、彼をカラカウようになる。
家族は生活のために空いた部屋をある男に貸すが、男はグレーゴルの姿を見つけるや家賃も払わず出ていってしまう。
これを契機に家族はグレーゴルを見捨てるべきだと言い出し、父もそれに同意する。
グレーゴルは憔悴した家族の姿を目にしながら部屋に戻り、そのまま息絶える。
目がさめたら虫になっていたという設定だが、誰しも次の日職を失ったとか、記憶を失ったとか、外に出られなくなったとか、有罪の烙印を押されたとかで「虫」になる可能性がなくはない。
こんな人間の「変身」で思い浮かぶのは、大富豪のハワード・ヒューズ。
ヒューズはテキサスのヒューストン出身。彼の父親の最終学歴はハーバード大学法学部中退)で、母親は名家出身。父親は弁護士資格を持っていたものの、地道に働くのが性に合わず一攫千金を夢見て鉱物の掘削に取り組む。
ハワードが3歳のとき、父親はドリルビットの特許と共にシャープ・ヒューズ・ツール社を設立。同社が製造したビットは、それまでのものとは桁違いの掘削能力を発揮し、それらの需要はヒューズ家に大金をもたらした。
ヒューズは学業にほとんど興味を示さず、飛行機、レーシングカー、アマチュア無線に魅力を感じるようになった。
16歳のとき母エイリーンが病死し、その2年後に父が急死し、18歳にして孤児となった。
しかしながら、遺産として87万1000ドルと評価されたヒューズ・ツール社の株 (75%)と当時、ほとんどのメーカーの石油・ガスの掘削機が使用していたドリルビットの特許を受け継いだ。
1925年、ヒューズはカリフォルニア州に移り、かねてからの夢であった映画製作と飛行家業に莫大な遺産を投じヒューズ王国を築く。
またこの頃、彼は偽名でアメリカン航空に郵便係として雇用され、飛行技術を体得する。
そして有名女優との間で数々の浮名さえも流した。
しかし1946年の墜落事故で負った傷の止痛薬から深刻な精神衰弱に陥り、年を重ねるごとに異常行動が頻繁になっていく。
そして極度に細菌を恐れるようになり、1966年にネバダ州のラスベガスにある有名なカジノホテル、デザート・インを買収すると、完全に”除菌”された最上階のスイートルームから外出しなくなり、髪は伸ばし放題で、悪臭さえ放つようになる。
1976年4月70歳のヒューズは昏睡状態に陥り、治療のためメキシコからアメリカに戻る際、自家用機内で息を引き取った。
ハワード・ヒューズの死が伝えるメッセージは、人が依り頼むものの危うさと脆さである。

新型コロナウイルスの起源は、まだはっきりしない。だが、なんらかの動物からやってきたとされる。
コロナウイルスの仲間は昔から、さまざまな哺乳類や鳥類に、それぞれ「お気に入りの居場所」を確保してきた。
人類に「風邪」と呼ばれるありふれた病気を起こしてきた連中の一部も、そこに含まれている。
しかしそれは、「馴染(なじ)みの相手」であることが条件だ。
新型コロナウイルスも、そういう「良い関係」の動物が存在していたはずだ。
だがなぜか、これまで縁のなかった「人類」にとりついてしまった。
勝手の分からない相手に対しては、暴力性を発揮してしまうこともある。
具体的には、新型コロナは、呼吸器系の比較的奥の細胞にとりつく傾向があるらしい。これが重篤な肺炎をもたらしているとも考えられる。
では今後、どうなっていくのか。一般にウイルスは、遺伝子を変えながら、できるだけ宿主に「優しい」方向に進化していく。そういう性質を獲得した株の方が、より多くのコピー(子孫)を作り出すことができるからだ。重い肺炎を起こすよりも、3日だけ鼻水が出る、くらいの方がウイルスにとっても都合が良い。
現段階では、このウイルスを完全に制圧しようと各国が奮闘中だ。当然、まだ諦めるべきではない。だが、もしそれができなかったとしても、ウイルスは将来、人類と「そこそこの関係」を保てるように進化し、また人類の側も徐々に免疫を獲得して、一般的な風邪の病原体の一つに落ち着く可能性もあるだろう。
特にアジア産のラックカイガラムシ、南ヨーロッパのケルメスカイガラムシ、メキシコのコチニールカイガラムシなどのメスの体を乾燥させ、体内に蓄積されている色素化合物を水またはエタノールで抽出して色素としたもの。
 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、全国各地で様々な動きが起きている。小中高校の休校、イベントや会食の自粛といった、社会・経済活動を制限する施策ばかりではない。感染リスクの少ない屋外レジャーや「巣ごもり消費」の増加など、人々の生活習慣を大きく変えるような変化の兆しも見られる。 ここから続き  代表的な例が、企業が主導する時差通勤やリモートワークだ。オフィスや移動中の感染リスクを減らす対策として、この1~2カ月でじわじわと広がった。大都市圏では通勤ラッシュの混雑が緩和され、在宅でも参加できるオンライン会議を導入した組織も少なくない。会社勤めの知人たちからは「無駄な会議や残業が減った」「予想以上に仕事がまわっている」という声も聞こえてくる。  リモートワークが広がれば、仕事のやり方だけでなく、進め方も変わる。たとえば企画を通す場合には、人間関係や根回しであいまいに決まるのではなく、エビデンス(証拠)や理屈がより重視されるようになるだろう。企画内容と直接関係のない間接的なコミュニケーションは対面でないと難しいからだ。その結果、ベテラン社員が経験と勘で自説を押し通せなくなる、今まで発言権が弱かった若手や女性の存在感が高まる、といった変化も期待できる。  ところで、働き方の多様化の必要性や有効性は、以前から指摘され続けてきた。やろうと思えばできたはずの時差通勤やリモートワークが、今まであまり実践されてこなかったのはなぜだろうか。背景には、個人の選択を狭める「食わず嫌い」と、組織の選択を縛る「にらみ合い」の二つの要因があると筆者は考える。  たとえ便利なサービスでも、新たに使い始めるには、準備に時間やお金がかかる。乗り換えることへの心理的な負担もあるかもしれない。こうしたもろもろのコストが「できない理由」を正当化し、個人の食わず嫌いを助長する。いつもと同じお店になんとなく通い続け、他に乗り換えようとしない消費者は多い。  働き方の選択においては、上司の意思決定が、本人だけでなく部下たちのパフォーマンスも左右してしまう。この点が、いち消費者の購買行動とは大きく異なる。全社的なコロナ対策は、決定権を持つ上司や経営陣が食わず嫌いを克服する、絶好の機会となるのではないだろうか。  組織が多様な働き方を認めても、すぐに一人ひとりの働き方が変わるとは限らない点にも注意が必要だ。同僚が誰もリモートワークをしていない中で、自分だけが選ぶといったい何が起こるだろうか。周りに迷惑をかける、人事評価が下がる、といったマイナスの影響が生じるかもしれない。そうした懸念が払拭(ふっしょく)されない限り、誰も積極的に始めようとはしないだろう。結局、お互い「にらみ合い」の状況が続き、誰も最初の一歩が踏みだせなくなってしまう。  個人の自発的な選択に任せていても、全体にとって望ましい結果が導かれるとは限らない。この「個人と全体の利益が一致しない」ジレンマ的な状況は、働き方の選択に限らず、多くの社会・経済問題に共通している。周りの空気を読み過ぎてしまう日本人は、特にこのジレンマから抜け出すのが苦手なのかもしれない。日本の組織が概して保守的で、変化を拒んでいるように映るのは、組織の選択を縛る個人間での「にらみ合い」が効いているからでもある。人々の行動を一斉に変える新型コロナ対策は、こうしたジレンマを解消する起爆剤となるに違いない。  新型コロナウイルスは必ず終息する。コロナ後の日本社会は、コロナ前の状態には戻らないし、戻るべきでもない。ジレンマ的な状況から抜け出した個人や組織は、古い慣習と新しい慣習の良いところどりを目指していくだろう。日本の組織が生まれ変わり、中の人びとがよりいっそう輝くことができる。そんなきっかけになることを強く願っている。 またカフカには「城」という作品があって、城に招かれながら、モドカシクモ城には辿りつけない「測量士」の物語である。
だらだらしたラチのあかないところが、カエって「実存的」ともとれる。
「城」は結局は扉を開くことなく、作品は終ってしまう。
さて、カフカにとっての「城」とは、まさしくカフカが生まれた国のようであり、カフカがうけついだ血のようであり、カフカが就職した「労働災害保険協会」のようでもある。
ところで、「パラサイト」がアカデミー賞を受賞したその時、新型コロナウイルスが世界的脅威となった。2020年は、そんな年として記憶されるだろう。
フェーズとは、社会的にいえば「局面がかわる」ということに近い。
局面が変わる典型が、平時と戦時の切り替えである。
我が地元福岡の福岡城は天守閣さえないつまらない城なのかと思っていたら、とんでもない。黒田官兵衛にふさわしい「知略」にあふれた名城なのだ。
櫓の中に収められている干しものや紐など様々なものが、実は籠城にそなえて食糧に「転用」されうる。
つまり城の内部に平時と戦時の間で転用される仕掛けがいくつもある。
以前、テレビでギリシアの島々に残る遺跡の紹介を見て、古代遺跡それ自体も興味よりも、そうした島々で安穏と暮らす人々に羨ましさをおぼえた。
しかし歴史の真実は、そうした思いを吹っ飛ばす。平和な町並みや人々の生活は「戦い」に転じられるメタモルフォオーゼなのだ。
地中海は船の通行路であり、船舶ばかりではなく海賊が拠点としようとした島々は常に海賊の「脅威」にさらされてきた。
そのため「迷路」のように街並みが形成されており、白塗りの住居のいたるところに「銃眼」の跡がなましくなましく残っている。またいざという時には屋根を伝わって逃げられるような建築上の工夫がなされている。
こうしたギリシアの島々を見るにつれ海賊の脅威がこの地域でいかに大きかったかということを知らされる一方で、「海賊」として生きる他はない人々のことも思った。
ローマ帝国に滅ぼされ行きき場のなくなった人々や難民なども多くいるのだろう。
彼らも好き好んで「海賊」のなったわけではない。海賊も平時は大人しいメタモルフォーゼなのだ。

キリストの使徒・ヨハネはパトモス島にて人類の未来を予言するおそるべき文書「ヨハネ黙示録」を筆記している。
11世紀には、このヨハネを記念して聖ヨハネ修道院が建てられた。
このパトモス島の住民たちは、聖ヨハネ教会で必要な資材や食糧を供給するために働く人々が多く、そして聖ヨハネ修道院は、修道院というよりまるで軍事要塞のような外観をしていることが印象深かった。
つまり、人々の聖なる礼拝場でありつつも、いざという時には人々が逃げ込む要塞と化すメタモルファーゼ(変異体)なのだ。
そして島全体が聖ヨハネ修道院の「城下町」のような感じさえするのだ。かつて海賊が来たときは、聖ヨハネ修道院に屋根屋根を伝わって逃げ込めるような「屋上道」を用意していることであった。
イタリアでは新型コロナの医療崩壊に「これは戦争だ」と言っていくらいで、地球温暖化が原因ならば、こうした事態つまり「フェーズ」の違いで、インフラなどの転用なども考えることであろう。
職場でテレワークが広がり、宅配サービスなど日常の変化もある程度永続化していく時代でもある。

さて、人類は新型コロナウイルスという見えない敵との戦いに直面している。
現実には、大抵の仕事は「代役」でもこなせる。だからこそ、世の中はなんとか回っている。同時に、休んでも不利益にならないよう、労働者を守るルールを徹底させることも大切だ。
これを契機に、立場の弱い者への理不尽な要求や、陰湿な同調圧力を、この社会から無くそうではないか。
これまで人間は意識せずに自然の力に頼って生きてきた。好例が体に常在する細菌だ。数千種類・数百兆個ある細菌の遺伝子の総数は、人のそれの100倍にもなり、絶えず人体の中で活動している。
まさに人間は微生物の共生系なのだ。その働きはまだよく解明されていないが、腸内細菌のように消化を助けるものから内臓の機能、精神の安定をつかさどるものまで多種多様だ。だが、その遊ばせ方を間違うと病気になる。若年性糖尿病や食物アレルギーなど近年の非感染性の疾患は、こうした常在細菌の働きが抗生物質の多用や肥満などによっておかしくなったことに起因すると言われている。
まさに、「小さきものを大事に遊ばせる」ことが、これからの社会や人間を健康に幸福にすることにつながるのだと思う。 現在知られる感染症の大半は、農耕以前の狩猟採集時代には存在していなかった。感染症が人間の社会で定着するには、農耕が本格的に始まって人口が増え、数十万人規模の都市が成立することが必要でした。貯蔵された穀物を食べるネズミはペストなどを持ち込んだ。家畜を飼うことで動物由来の感染症が増えた」
私たちは感染症を『撲滅するべき悪』という見方をしがちです。だけど、多くの感染症を抱えている文明と、そうではない文明を比べると前者の方がずっと強靭だった。
16世紀、ピサロ率いる200人足らずのスペイン人によって南米のインカ文明は滅ぼされた。新大陸の人々は、スペイン人が持ち込んだユーラシア大陸の感染症への免疫を、まったく持っていなかったからです」
人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。感染症に対抗するため大量の抗生物質を使用した結果、病原菌をいかなる抗生物頁も効かない耐性菌へと『進化』させてしまった実例もある」
「多くの感染症は人類の間に広がるにつれて、潜伏期間が長期化し、弱毒化する傾向があります。病原体のウイルスや細菌にとって人間は大切な宿主。宿主の死は自らの死を意味する。
病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していくのです。感染症については撲滅よりも『共生』 『共存』を目指す方が望ましいと信じます」
「一方で、医師としての私は、目の前の患者の命を救うことが最優先。抗生物質や抗ウイルス剤など、あらゆる治療手段を用いようとするでしょう。しかし、その治療自体が、薬の効かない強力な病原体を生み出す可能性もある。このジレンマの解決は容易ではありません」
さて、日本ではあまり注目されていないが、まさに今、東アフリカを中心に「サバクトビバッタ」が大発生し、極めて深刻な状況にある。
この種類のバッタは日本には棲息(せいそく)していないが、ケニアには「千億匹」単位の規模で襲来し、過去70年間で最悪の被害が生じたという。
群生相のバッタは非常に飛翔(ひしょう)能力が高く、1日に150キロを移動することもある。また体重は約2グラムだが、1日で自分の体重と同じ量の草を食べてしまうので、1平方キロ程度の群れが来れば、1日で3万5千人分の食糧を食べ尽くしてしまう。
被害はすでに中東から、パキスタンやインドに拡大しており、約2千万人が食糧危機に直面している。国連食糧農業機関(FAO)は、「極めて憂慮すべき、前例のない脅威」として、強い警告を発しているのだ。
科学技術にも同じことが言える。
昨年ノーベル化学賞を受賞した吉野彰博士のリチウムイオン電池は、軽量で高い出力を持ち、繰り返し充電が可能という夢のような発明だ。
またたく間に普及し、携帯電話にも使われている。今後も再生可能エネルギーと組み合わせ、地球環境の負荷を軽くさせるような事業へ貢献することが期待される。
だが、使い方を間違えば兵器などに応用されて人類を滅ぼしかねない力を秘めている。
  極論すれば、全ての社会活動を停止し、人の動きを止めれば、ウイルスは次の宿主が得られず、自然消滅するだろう。
だがそれは、私たちの社会システムが「窒息」することでもある。
そうなれば結果的に、感染症以外の原因で犠牲者が出ることもありうる。さまざまな条件を比較考量し、適切な選択肢を随時見つけていくことが、あるべき対策なのだ。
しかし、世界中に広がっていく中で弱毒化か進み、長期的には風邪のようなありふれた病気の一つとなっていく可能性があります」
「一方で、逆に強毒化する可能性も否定できない。原因ははっきりしませんが、1918〜20年に流行したスペインかぜはそうでした」
最終的にウイルスが広がるのを防げないのであれば、感染拡大を防ぐ努力は無意味ではないですか。
「それは違います。第一に、感染が広がりつつある現時点では、徹底した感染防止策をとることで、病気の広がる速度を遅くできます。さらに言えば、病原体の弱毒化効果も期待できる。新たな宿主を見つけづらい状況では『宿主を大切にする』弱毒の病原体が有利になるからです。集団内で一定以上の割合の人が免疫を獲得すれば流行は終わる。今、めざすべきことは、被害を最小限に抑えつつ、私たち人類が集団としての免疫を獲得することです」
「従来の感染症は多くの犠牲者を出すことで、望むと望まざるとに関わらず社会に変化を促したが、新型コロナウイルスは被害それ自体よりも『感染が広がっている』という情報自体が政治経済や日常生活に大きな影響を与えている。感染症と文明の関係で言えば、従来とは異なる、現代的変化と言えるかもしれません」

本は電子書籍になり、どこでも持ち歩けるようになった。70年代は米国の大型車が若者の人気で、大きな邸宅を建てることが出世した者の夢であり、親孝行の証しだった。
だが、現代の若者は車を持たず好きな時に好きな車種を選べるカーシェアを志向する。賃貸住宅に住み、ネットで好きなものを注文し、飽きたらまたネットで売る。物を長期間所有しないし、決まった場所に住まないことが流行なのだ。従って、大きなものより、小さくて持ち運びできる、しゃれたものが好まれる。
移動のコストが下がりシェアリングが増えれば、人々が絶え間なく移動する時代がやってくる。私はそれを「遊動民の時代」と呼ぼうと思う。
都市に住む私たちは、あちこちの店で食材を買い集め、レストランで食事をする。最小限のものしか持たず、現地調達で、複数の地域に借家を持って渡り歩けば、狩猟採集民の暮らしと似たようなことになる。
違いは都市生活者が個人単位で動き、リサイクル不能な素材のファッションを身にまとい、人工物を渡り歩いて暮らすことだ。
ばらばらでいられるのは情報機器が人々をつないでいるからだ。都市には多様な製品が並び、それを個人が好みに応じて選ぶことで、個性豊かな暮らしを満喫できる。
しかし、このまま人工知能(AI)に頼るデジタル社会に突入すれば、予想外のものに出合う機会は減り、人々の個性も失われていく。自分の好みと思ったものが、実は情報操作されて多くの人が選んだものになるからだ。