聖書の場面から(ピラト&民衆)

紀元前数年の頃、聖書の予言通り、ダビデの系図からイエス・キリストが誕生する。
「ダビデの子」イエスは、聖書の預言に応じて表れた「メシア」(救済者)であることを自ら公言するが、イエスの存在の意味が弟子たちによって理解され、広く知られたのは、十字架の死と”復活後”であった。
イエスには直接選んだ12使徒の他さらに行動を共にした70人の弟子たちがいた。その他に、イエスに従っていた婦人たちがいた。
そしてさらにその周りに、イエスについていけば「何かいいことあるかも」と期待を抱いていた群衆がいた。
しかし、群衆ばかりではなく弟子達も、イエスが自ら「十字架」に向かうという我が目を疑うような結末につまづいた。
それまで群衆は、イエスを「王」に担ごうとしてつき従ってきたといってよい。
イエスは、民衆から「キング オブ キングス」とも称されるが、ローマ帝国を打倒してユダヤ人の王をたて独立を勝ち取れば、今のような屈辱的な生活から逃れられると思っていたからだ。
たまたまイエスが十字架にかかった日は"過ぎ越し"の祭りの日で、当時ユダヤには刑にかかる者の中で一人を恩赦する習慣があった。
イエスを裁いたローマ総督ピラトはイエスのどこにも罪がないと判断したが、民衆を恐れていた。
そこで、熱心党のバラバかイエスかのどちを解放してほしいか、と民衆の側に問題を投げ渡したのである。
実は、「イエスかバラバか?」というのは、ある意味で全人類的な問いかけにも聞こえる。
イエスに失望した民衆は、ローマからの独立闘争の指導者バラバの方に期待をかけ、「バラバを解放せよ、イエスを十字架へ」と叫んだのである。
この応答はとてもシンボリックで、群衆が望んだことは神の国などではなく、コノ世における解放であり、当面の現状を変えることができないイエスにほとんど人々が「つまずいた」のである。
イエスは、病の癒しをはじめとする幾多の奇跡で自らの「神性」を世に表したものの、民衆は期待を裏切り大工のせがれに過ぎないイエスの言動を「神への冒涜」とみなしたのである。
新約聖書において、民衆の「イエス十字架につけよ」という声に、ローマ総督ポンティオ・ピラトが、群衆を前にして「手を洗う」シーンは印象的である。
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」と責任を民衆に投げ返す」(マタイ27章)。
すると、民衆は「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と応じている。
そして、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
モーセ以来、1500年以上にもわたって預言されたメシヤ(救世主)がイエスであったことは、生前には全く理解されずにきたが、十字架の死後に、数々のイエスの復活の証人が現われ、イエスがようやく聖書の預言されたメシアであったことが理解されるにおよびエルサレムで「初代教会」が成立する。

首相在任中に、叩かれまくって亡くなった首相に大平正義がいる。しかし大平首相は、その死後に評価が上がった。
1970年代後半、大平正芳内閣当時、ア~ウ~と答弁する首相の下での政局の混乱ばかりが目についた。
大平氏の首相在任中、福田赳夫氏との政権抗争、60日間抗争やら国会の空転、増税などで散々タタカレまくり、良い材料はほとんど見当たらなかった。
1981年、与党内造反による「不信任」可決によるハプニング解散で「衆参同時選挙」が行われ、その選挙期間中に大平氏は”急死”した。
その「弔い」ムードが自民党の追い風となり、自民党は当初の劣性を大挽回し、なんとか勝利することができたのである。
さて、大平正芳が首相になったのは1978年、第二次石油ショックが起きた時代で、なんとか第一次石油ショックを乗り越えた時期だった。
大平首相は、財政再建を第一の使命とした戦後最初の首相といってよい。
その中で大平首相は、一般消費税の導入をうちだし、国民は大反発した。「天下り」など放置しておいて、なんで国民に負担を押し付けるのかという雰囲気であった。
ただ大平首相はこの時「増税」を、様々な措置のうちの一つの可能性として取り上げたにすぎないのだが、マスコミと野党はこの部分を大きく取り上げ、大平首相の意図は歪曲されて国民に伝えられていった感がある。
そこで与党の候補者ですら「一般消費税の反対/増税反対」を訴え、野党提出の内閣の不信任案の議決に際して「造反欠席」しての、ハプニング的解散・総選挙となった次第である。
今の時代から見て、大平首相の一番の予測の正しさは、遡る蔵相時代に、官僚たちによる赤字国債発行の「恒久化」への要望を退け、毎年毎年しっかり議論すべきこととして、1年限りの「特例法」にしたことである。
日本は1973年の第一次オイルショックで戦後はじめての「マイナス成長」を記録するが、1975年度の予算編成で、三木内閣の蔵相であった大平正芳氏は連日の省議の末、やむなく2兆円の赤字国債発行を決断した。
大平氏は、もともと「小さな政府」論者であったが、このことをひどく無念として「万死に値する」とまでいい、さらには大平氏は「一生かけて償う」とまで周囲に語ったという。
大平氏は官僚出身だけに、赤字国債発行が「パンドラのふた」であることに気づいていたのだ。

政治家が”民意”を理解しないことはしばしば問題となりマスコミがとりあげるが、逆に政治家の真情や政治の実情が国民に伝わらず、マスコミに叩かれるということもよくあることだ。
明治に遡ると、小村寿太郎は、日露戦争後ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。
ポーツマス会議での交渉は難しく、日本とロシアの要求の折り合いがつかず難航を極めた。
なにしろ、日本の勝利にはロシア国内の革命があり、日本もこれ以上戦いを続ける余力を残してはいなかった。
アメリカの仲介と、小村の粘り強い努力と交渉術で、なんとか「ポーツマス講和条約」に持ち込んだものの、日本政府は、勝者であったにもかかわらず、多くのものを譲歩せざるをえなかった。
ポーツマス条約が結ばれた深夜、ホテルの一室から「泣き声」が聞こえてきたという。
不審に思った警備の者が小村寿太郎の部屋を訪ねると小村が大泣きしていたという。
国民は、日露戦争勝利の”事情”をよく知らされておらず、多くの戦死者を出し貧窮化していたため、勝利を謳いながらも、「賠償金」さえも取れない外交交渉に対して不満をもつことになった。
そんな雰囲気のなか帰国した小村寿太郎を新橋駅で迎えたのが、当時の内閣総理大臣・桂太郎と海相・山本権兵衛であった。
二人は、もし爆弾等を投げつけられた時に、小村と共に死ぬ覚悟を固めていたという。
マスコミは、「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」と報道し、このポーツマスでの交渉を酷評した。
そして1905年9月5日、首相官邸にに近い日比谷において「火花」が立ち上がる事態が生じた。
いわゆる「日比谷焼き討ち事件」で首都に戒厳令が出され、軍隊が出動する大暴動にまで発展することになる。戒厳令は11月29日まで続いた。
9月5日その碑、東京・日比谷公園でも右翼や野党議員が講和条約反対を唱える民衆による決起集会を開こうとした。警視庁は不穏な空気を感じ禁止命令を出し、丸太と警察官350人で公園入り口を封鎖した。
しかし怒った民衆たちが日比谷公園に侵入。一部は皇居前から銀座方面へ向かい、国民新聞社を襲撃した。すぐあとには内務大臣官邸を抜刀した5人組が襲撃し、東京市各所の交番、警察署などが破壊され、市内13か所以上から火の手が上がった。
また群衆の怒りは、講和を斡旋したアメリカにも向けられ、東京の駐日アメリカ公使館のほか、アメリカ人牧師の働くキリスト教会までも襲撃の対象となった。
これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は戒厳令(緊急勅令による行政戒厳)を布き、近衛師団が鎮圧にあたることでようやくこの騒動を収めたのである。
この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にも上った。
だが、小村寿太郎が賠償金をとることができなかったことに抗議する火花は、小村寿太郎の政治生命を奪うかに思えたが、意外にも小村の政治生命を保つことになる。
アメリカは中国大陸への進出には決定的に立ち遅れていたが、日本海海戦の日本の完全な勝利は、ローズベルト大統領にさえも衝撃ですらあった。
即座に、ローズベルトは、ハリマンを日本に派遣した。ハリマンはアメリカの鉄道王で、日露戦争の際、日本が公債をアメリカに求むるや、100万ドルを引き受け、日本の為に尽力した人物だったが、それだけでは収まらない抜け目のない男だった。
ハリマンは常にアメリカを太平洋における通商上の覇者たらしめんと志し、南満州鉄道、次に東清鉄道を買収するという方策をたてたのである。
ハリマンの働きかけに対して日本政府は天皇の内諾を得て、10月12日に桂太郎首相は南満州鉄道の共同経営を基礎とする「桂・ハリマン協定」(仮協定)を成立させた。
政府は南満州鉄道を日米の「共同管理」にしておけば、それは日露の緩衝地帯になるばかりでなく、万一ロシアが数年後に立ち直ったとしても、日本とアメリカを相手に戦争は出来ないから安心というヨミもあった。
この協定の存在を知った小村は激怒し、その「破棄」のために大車輪の活動を開始する。
小村の主張は、ハリマンとの共同経営は、疲弊した日本には不利であり、それは資金力を比較してみれば明白、10万人の戦死者と莫大な戦費を費やした「戦果」たる南満州鉄道の鉄道権をみすみすメリカに提供する結果になるというものだった。
小村はポーツマスから帰国後さっそく桂首相を訪ね、「ハリマン協定」の無謀を関係閣僚を順番に説破し、朝議をひっくり返すことに成功した。
意外だったのは日本側の「協定破棄」の電報を手にしたハリマンが、異議は唱えることはなかったことだ。
実は、ハリマンを沈黙たらしめしは、日本人が暴徒と化した9月5日の夜の出来事だった。
内閣総理大臣官舎においてハリマンか歓待せられているまさにその時、警官が民衆に対して高圧的に解散を命じたことが、日比谷公園に集まった群衆を激昂させ、群衆は夥しく押寄せた。
警官の囲みを突破しようとする群衆を前に、官舎にいた元老、閣僚その他の大官は避難したが、ハリマンの宿泊している帝国ホテルは、群衆の集まる日比谷公園に近く、首相官邸はいつ襲われるか予測できない状況にあった。
なんとかハリマンは安全な場所へ移されたが、ハリマンはあの「9月5日の夜」を回想し、亡霊にでも追われるように悄然とし黙り込むようになり、1909年、悶々の裡に亡くなっている。
日比谷焼打ちに救われた小村はその後ニ度目の外相となり、幕末以来の宿願の「関税自主権」の回復に成功したのを機に職を辞した。
小村の政治生命をも断ち切るかに思えた日比谷に立ち上った火花によって、小村は「南満州鉄道」を守った恩人として国民に認識されるにようになったのである。

歴史は、予想外の展開をするものだ。
ローマ総督ピラトが罪を認めないイエスの十字架の刑に対する問いかけに、イスラエルの民衆は「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と応じた。
この言葉は、そのまま歴史のなかで"現実化"していくことになる。
なぜなら、ユダヤ人はイエス・キリストを十字架につけたものとして、ヨーロッパ・キリスト教社会における”迫害の”根拠となっていくからだ。
歴史が意外な展開をするのは、首相と民衆が対峙した1960年安保闘争でもしかり。
政治闘争が最も激しさを増した1960年4月、国会敷地内で東大の女学生が機動隊とのもみあいの中で死亡するにおよび、参議院の承認を経ないままに”新安保の自然成立”へともちこもうとする岸内閣への怒りがエスカレートしていった。
旧安保には1960年には日米双方で改定の提案があれば、条約を改定できることになっていたが、冷静にふりかえると、”安保改定反対”の理由はよくわからいない。
1952年に発効した日米安保条約が、アメリカが日本のどこに基地を置いてもいいけど日本を防衛する義務がない”不平等条約”だったので、それを改正しようというもので、なぜか条約改正に反対する運動が盛り上がった。
当時の学生達は条文を読んだことがなく、安保条約の中身は知らなかったというのが実情である。
学生達は「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」といっていたが、むしろ日本が攻撃されたとき、アメリカに守ってもらうという内容だったのだ。
1960年の5月19日に衆議院で、野党が”欠席”のまま条約改正案が可決されたため”強行採決”だといっていたが、条約は予算と同様に、衆議院で可決されれば参議院の議決は必要はないので、野党欠席では議論もありえず、タイムリミット6月に自然成立したのだ。
ただその6月、国会を30万の市民が取り囲んだ。この時、岸首相は、警察隊ばかりではなく自衛隊の投入を強く主張した。
しかし、防衛大臣の赤城宗徳は「自衛隊を出したら、同士撃ちになり、まちがいなく自衛隊は国民の敵になる」といって反対した。
この時もしも、赤城宗徳氏が自衛隊投入に強く反対しなかったならば、国会議事堂周辺は大量の流血の騒ぎになり、1986年の中国の天安門事件と同様の事態が発生することになったであろう。
また自衛隊の憲法論争は、以後違った形で展開していたかもしれない。そういう意味では、現代史の"分岐点"になったといえそうだ。
ところで、安保反対運動の中で機動隊ともまれて亡くなったのは、東京大学の樺美智子(かんば みちこ)という女学生だった。
最近、香港の女学生が「民主化の女神」とよばれたが、亡くなった樺美智子さんは、安保反対闘争のシンボル的存在となった。
実は、60年安保で一番の問題は、東京裁判でA級戦犯として裁かれた人間(岸首相)が、国政のトップとして日本の安全保障の命運を握っていること自体に反対だったのだ。
また、岸は日米修好百年を記念してアメリカのアイゼンハワー大統領を迎え自らの政治基盤を固めようとしていたことに対し、市民の「アイク訪日反対運動」にも連動していた。
だが、樺美智子さんの死によってピンチに陥った岸内閣を、正田美智子というもうひとりの「女神」が救ったという面もある。
それは皇太子(後の平成天皇)と正田美智子さんの御成婚によって起こった"祝賀ムード"が、政治の”暗雲”を一時でも取り払ったからだ。
特に突然上程した「警職法改正」(後に撤回)の反対から全国に広がった退陣要求の盛り上がりで窮地に陥った岸内閣にとって、それは九死に一生を得るような”慶賀”であった。
”ミッチーブーム”で人々は政治の口にすることもなくなったからだ。
しかし、その岸内閣も安保改定後、1960年7月15日に総辞職している。

1952年に発効した日米安保条約が、アメリカが日本のどこに基地を置いてもいいけど日本を防衛する義務がない不平等条約だったので、それを改正しようというものでしたが、なぜか条約改正に反対する運動が盛り上がったのです。 当時の全学連の幹部だった西部邁さんは「安保条約の中身は知らなかった。条文を読んだことがないから」といっています。彼らは条約を改正すると「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」といっていましたが、これは逆ですね。日本が攻撃されたとき、アメリカに守ってもらうことが目的だったんですから。 これをきっかけにして、30万人とも100万人ともいわれる学生が国会を包囲し、その一部が国会の構内に乱入して、東大生の樺美智子さんが押しつぶされて死にました。これは学生が将棋倒しになったことが原因なので、責任はデモ隊にあったのですが、これをきっかけに「民主主義を守れ」という運動が盛り上がりました。 条約は衆議院で可決されれば参議院の議決は必要ないので、6月に自然成立しました。 岸は予定されていた米大統領の訪日に間に合うよう、1960年6月20日未明に衆議院で新安保条約の強行可決を行いました。つまり、参議院での審議よりも、憲法の規定する条約批准の衆議院優先による自然成立を狙ったのです。この可決以降、岸の進める安保改定に反対する安保闘争が展開しました。しかし、可決から30日後、改定された安保条約は国会承認となりました。そして、6月23 日に日米間で批准書が交換され、その日に新安保条約は発効しました。 その3カ月後の1911年11月、療養先の葉山で静かに逝った。享年56。
時に「小村がおれば」と惜しんだ明治天皇も、その8カ月後に崩御されている。