聖書の人物から(サムソン)

ハリウッド映画「サムソンとデリラ」(1949年)でビクター・マチュアが演じたサムソン。ドコを見るかで全く印象が異なる人物である。
旧約聖書「士師記」によれば、人並みはずれた怪力をもつゆえに、罠にはまって目をつぶされ公衆の面前で屈辱を味あわせられる。
最初に「サムソン」を読んだ時、怪力をもてあます"恥多き人"という印象をもったが、信仰という面からみると、満身創痍の中で命つきるまで自分の使命を果たそうとした”偉い人”と思うようになった。
さて、「出エジプト記」にあるモーセそしてその後継のヨシュアが世を去ったあと、イスラエル全体を統率するリーダーが不在となっていた。
そこで、その時々、必要に応じ、神によって立てられたリーダーが「士師」と呼ばれる人々で、サムソンも士師の一人である。
このサムソンが生きた士師の時代は、イスラエルが強大な異教国ペリシテに支配され、その偶像におかされて、主なる神への純粋な信仰が失われ、神の国の一国民としての自覚が薄れ、「各自が、自分の目に正しいと見るところを行う」(士師記21:25)牧者を失った時代であった。
旧約聖書によれば、サムソンは「ナジル人」と書いてあるが、「ナジル人」とは、自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。
つまり、サムソンは生まれる前から御使いからのみ告げによって、「イスラエルをペリシテから救う」(士師記13:5)という使命を与えられた特別な人であったとみてよい。
当時イスラエルの人々は、ペリシテから武器を奪われ、鉄を精製して武器を造ることも禁じられて、サムソンはロバの顎の骨を武器として、ペリシテ人とひとりで戦い、1人で千人を倒したという。
そんなサムソンの怪力ぶりに苦しめられたペリシテ人は、サムソンの元へ妖艶なるデリラという女性を遣わし、その弱点を探らせる。
サムソンはデリラの誘惑に負け、怪力の秘密は長髪にあり、それを剃り落されたなら、怪力は失われ、並みの人となることを打ち明けた。
ちなみに、映画でデリラを演じたヘディ・ラマーは発明家でもあり、その発明は今日のWi-Hi技術に生かされている。
その結果、デリラの膝枕で眠っている間に髪の毛は剃り落とされ、その「怪力」は失われてしまった。
そればかりか、ペリシテ人の捕虜となり、両目を抉り出され、足かせをはめられて、牢屋で粉挽きの労働を課せられる惨めな状態に落ちてしまう。
サムソンは神により、生まれる前からイスラエルの士師となる使命が与えられており、その頭に決して剃刀を当ててはならないと命じられていた。
サムソンの「怪力」の秘密は髪そのもの価値というより、その誓いを守りとおすことにより神との関係を保つということを意味している。
ペリシテ人は、牢獄のなかでサムソンの髪が伸びるのに気が付かなかった。
そして、捕らわれのの身に落ち込んでいる間に神との関係が修復すると同時に、サムソンの髪の長さが「時が満ちる」ことを暗示するかのようだ。
その後、ペリシテ人の指導者たちは、彼らの神ダゴンを祭る祭りを開催し、会場となる大会堂に国中のペリシテ指導者を集め、「我らの神ダゴンは、敵サムソンを我らの手に渡された」と言って偶像ダゴンをたたえた。
その時、サムソンは大会堂の中でペリシテの指導者たちの前で、戯れごとをさせられ、笑いものにされる。
そこで、サムソンは、盲人となった彼の手引きをしていた若者に頼んで、大会堂の二本の大黒柱に寄りかからせてもらい、主に「主よ、私をもう一度強くして、私の目の一つのためにもペリシテに報いさせてください」と祈って、「ペリシテ人と一緒に死のう」と柱に寄りかかる。その会堂はサムソンもろともペリシテ人たちの上に倒れかかり、自らも命を失うが、その時に倒したペリシテ人の数は彼がそれまで殺したよりものより多かったという。
「ペリシテ」とは今日の「パレスチナ」を意味し、イスラエルとパレスチナはいまだにその争いを続けている。
そしてサムソンが生まれたガザは、”ハマス”などイスラム過激派の拠点であり、しばしばイスラエル側からの問答無用の空爆にさらされている地域である。

日本史の中でサムソンに幾分似た運命を感じさせるのが、西郷隆盛である。
西郷隆盛と大久保利通は、幼い頃より朋友であったが、「征韓論」をめぐる争いで袂をわかつ。
大久保は、新たな明治国家の設計者であり牽引車となるが、西郷は"幕府を倒す"ということに人生のハイライトがあったように思う。
結果からみると、明治維新により行き場を失った旧士族の終焉を自らの命とともに導いた感がある。
新政府の下で、西郷は新政府の下で、未来が描けぬまま旧士族の運命とともに、城山にて自害する。
さて、西郷がサムソンと似ているのは、その心の在り様といえるかもしれない。
それは、純粋かつ無私ということである。
島津斉彬(なりあきら)は、西洋文化の研究から、薩摩の特産品作りなど幅広い施策を行った薩摩の名君。
薩摩のぐんじばかりか教育に力を入れ、身分にとらわれずに才能ある人物を登用した。
そんな島津斉彬に才を見出されたひとりが、下級武士であった西郷隆盛である。
しかし、斉彬が、藩主についたのは遅咲きの43歳。藩政についたのは7年間という短さで亡くなる。
そんな名君の死は、多くの薩摩藩士を悲しみに包んだが、西郷もそのうちのひとり。斉彬を失ったショックで、斉彬の墓前で殉死の切腹を決意する。
しかしこれを京都の清水寺成就院の僧侶であった月照に、「斉彬公の後を追って死んでも褒めてくれないこと」「なぜ意思を継いでくれなかったのかと言われるだろう」と説得され、思いとどまる。
そんな中、江戸幕府の大老・井伊直弼による弾圧である「安政の大獄」がおきる。
吉田松陰などが処刑されたことでも有名だが、尊王攘夷派であった月照も安政の大獄によって追われる身となっていく。
西郷は月照を助けようと藩政府の要人に掛け合ったり、薩摩で匿おうと奔走するが実現が叶わず、最後は月照と錦江湾に入水自殺をはかる。
ところが、月照は亡くなり、西郷だけ生き残ってしまう。蘇生後の回復が1ヶ月という奇跡的な生還であったが、西郷の苦悩は大きく、このころの自分を「土中の死骨」と表している。
恥多き人生、一度死んだ身との自覚の下、この世にまだやるべきことがあるから生かされたのだと考えるようになる。
そんな体験を経た西郷の座右の銘は「敬天愛人」、その意味は「天を敬い、人を愛す」である。
西南戦争が始まる時、西郷は自分を慕って集まったものへ「わしの体は、おまえたちに差し上げもんそ」と言ったという。
自分を慕い、集まってくれたもののために戦い、尽くし、死ねるなら本望である。これが自分の天命であったという西郷の生き様そのままを表すような言葉である。
1873年(明治6年)の政変は、朝鮮を武力で従えるか否かという「征韓論」から始まったものである。
内政を優先する大久保や岩倉具視が全権大使として朝鮮に乗り込もうとした西郷の行動を阻止し、それを受けて西郷は辞表を提出して野に下った。
一般的な味方は、自分が朝鮮で殺されれば、心置きなく朝鮮に派兵できると考えた西郷が、使節として自ら朝鮮に乗り込むことを主張したといわれる。
しかし、実際は武力で朝鮮を征する考えは西郷の頭になく、むしろ平和的なやり方での国交回復を望んでいた。
ちなみに、征韓論というのはこのとき初めて出てきたわけではなく、明治初年には木戸孝允も唱えている。
幕末から明治にかけて、日本は欧米列強や清国と国交を結び、同様に朝鮮とも国交を結ぼうとした。
ところが、朝鮮は依然として鎖国体制を続けようとするので、「こうなったら武力をもって朝鮮を征するしかない」という征韓の考えが何度も出てきたのである。唐突な考えのようだが、朝鮮は華夷の秩序の下で日本を自国より下において侮蔑するような傾向があった。
西郷が太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。
「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。
とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。
そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」。
西郷と大久保の考えは、戦いを避けるという意味では一致しているようにもみえる。
ただ、西郷が「自分が出向けば朝鮮を絶対に説得できる」と思っていたのに対し、大久保は中国やロシアの存在も視野にあり、両者の思惑には相違があったと考えられる。
大久保は、1873年10月14日に開かれた閣議の席で西郷の朝鮮派遣に反対するが、翌日、西郷の威勢に押された太政大臣の三条実美が西郷派遣を再決定してしまう。
こうして、後は明治天皇の裁可を得るのみとなった。
しかし、大久保は簡単には引き下がらなかった。
10月17日、三条が極度のストレスで倒れると、大久保は岩倉を太政大臣代理に据えるよう画策する。
そして、天皇は西郷が大のお気に入りだったので、岩倉を通して「西郷が朝鮮に派遣されたら、確実に彼は命の危険にさらされるでしょう」と吹き込んだ。
こうして、土壇場で覆された西郷は職を辞し、ほかの征韓・遣韓派の参議もこれにならった。
西郷は故郷・鹿児島に帰り、西南戦争で挙兵するまで猟などをして気ままに過ごした。
これに対し、大久保は国内行政の大半を担う内務省を創設し、初代内務卿として政権のトップに君臨した。富国強兵をスローガンに掲げ、殖産興業政策を実施して国力増強を図っていく。
ただ、「明治六年政変」で西郷は職を辞して政府を去ったものの、位階と陸軍大将の地位はそのまま据え置かれている。
これは、ほとぼりが冷めたら西郷を政府に呼び戻すという、大久保の西郷に対する気持ちが失われていないことの表われである。
しかし、西郷は鹿児島にとどまり続け、ついに政府へ戻ることはなかった。
一方、西郷や江藤が去ったことで大久保は政府の実権を握り、初代内務卿(現在の内閣総理大臣に相当する地位)に就いて自らが目指す国づくりの実行に動いた。かつて倒幕に向けて共に歩んだ2人は別々の道を進み、やがて正面切って対決することになる。
そして西南戦争という明治国家最大の旧士族の反乱は、西郷の城山における自害で幕を閉じる。
さて、今もなお”西郷さん”と親しまれる、上野の銅像はどのように造られたのか。
当時、偉人を顕彰する銅像では、多くの場合正装姿がモチーフとされるのに対し、「西郷隆盛像」は浴衣姿で愛犬を連れた庶民的な姿である。
これは、一切の名利を捨てて山に分け入る姿に、西郷の飾り気のない人物像を投影したものと言われている。
実は大将姿の騎馬像を製作する計画もあったようだが、人気の高い西郷の大将服姿の像は、”反政府的”な機運を醸しかねないという政治的な意図も働いたようだ。
とはいえ、除幕式の日に西郷像を見た糸子夫人は、「こげんひとじゃなか」とつぶやいたというエピソードが残っている。

サムソンの最後が敵もろとも自らの運命を共にし、西郷は愛する仲間と運命を共にした点に違いがあるものの、両者は「無私」であった点で、共通している。
西郷隆盛は明治国家につきどのような構想をいだいていたのであろうか。
若い日に時代の先端を走っていた島津斉彬のもとで訓育を受けているので、けして古きに固執する人物ではなかった。
1871年に岩倉使節団が出発するとき、使節団(岩倉、大久保など)と留守政府(西郷、板垣など)は「留守政府は、やむをえざる事件以外は改革を一切差し控えるべし」という約束を交わしたが、西郷は学制改革や徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革など、約束を無視して新たな制度を次々と実行に移している。
当然、大久保は西郷に対して複雑な思いを抱いたことが推測できるが、内政優先を唱えて反対した”征韓論争"は名目にすぎなかったのかもしれない。
というのも、大久保は”征韓論反対”の舌のネの乾かぬうちに、台湾出兵を敢行するからだ。
さて、新約聖書のへブル人の手紙11章は、旧約聖書の”信仰者列伝”というべき個所であるが、その中に「信仰とはいまだみざることを、確認すること」として、アブラハムやヨセフの話を伝え、その信仰を称賛している。
そしてこの信仰列伝には、サムソンの名もちゃんと登場する。
「もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者達について語り出すなら時間がたりないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃を逃れ、弱い者は強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた」。
さて、エルサレムで最初に建てられた神殿は「ダビデの神殿」と呼ばれないで「ソロモンの神殿」と呼ばれる。
ダビデは、イスラエルの王として王宮に住むようにるが、心に掛かることがあった。
ある日ダビデは、「自分の手で、神殿を建築したい」との希望を、預言者ナタンに伝えた。
しかし、その夜、ナタンに臨んだ神の言葉は、意外なものであった。
「わたしのために住むべき家を建てるのは、あなたではない。あなたの子孫、あなたの子の一人に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしのために家を建て、わたしは彼の王座を、とこしえに、堅く据える」(歴代誌上17)。
そして神の言葉どおり、ソロモンの時代に神殿は完成する。
さて、旧約聖書には、「測り綱」という言葉が、しばしば登場する。
例えば、ダビデの詩にも「測り綱は、私の好むところに落ちた。まことに、私への素晴らしいゆずりの地だ」(詩篇16)とある。
この「測り綱」「測り縄」と訳された「ハヴァリーム」(「ヘヴェル」の複数形)は、本来、土地の測量を行う者が、土地を区切るために用いたもので、それが「落ちた」とは土地が配分され、その境界線が明確にされたことを意味する。
そのことから、比喩的に「縄張りが決まる」あるいは、「自分の人生の持ち場というべきものが与えられたこと」を意味する場合に使われる言葉である。
新約聖書の「使徒行伝」においても、ペテロの国内伝道とパウロの異邦人伝道というように、それぞれに持ち場があった。
人がなすべきことの領域があって、調子に乗ってそれを"超え"てしまうと、晩節を汚すといったことはよくあることだ。
西郷の城山の自害の直前に語った言葉、「もう、ここいらでよか」という言葉は、とてもシンボリックに聞こえる。
サムソンと西郷には天より「旧きを倒す」という使命が与えられ、ソロモンや大久保には「新しきを建てる」ことに"測り縄"が投げられたということか。