読売新聞の渡辺恒雄と、作家の高史明(こうしめい)とは、違う世界を歩んだ二人だ。しかし人生を左右するような”知られざる接点”があった。
渡辺は1934年生まれで、戦時下で反軍青年であった。日中戦争が深まる1939年、渡辺は開成中学に入学し、哲学書を読みふける日々を過ごす。
1945年4月、渡辺は東京帝国大学文学部哲学科に入学する。太平洋戦争で徴兵され、この時代の軍隊生活の例に漏れず、上官から厳しい暴行を受けたこともある。そんな暴行も、天皇の名の下に行われていた。
その年の8月、日本が敗戦すると渡辺は復学、東大のキャンパスに戻ってみると、保守政党から社会党まで「天皇制護持」だったが、共産党だけが「天皇制打倒」を宣言していた。
渡辺は天皇制と軍隊の二つを叩き潰すために、日本共産党に入党を申し込み、下部組織である日本青年共産同盟のメンバーとして活動を始める。
街のビラ貼り、他の学校へのオルグなどから始まり、教員の解雇問題のあった女子校を実力占拠するなど、活躍した。
母校である東京高等学校に行き、インターハイを目指す野球部員に「野球なんてくだらないものをする時ではない」と活動に誘ったこともある。
そして、東大の学生党員約200名のトップに立つまでに至った。
だが渡辺はある日、「党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ」と書かれたビラを目にして、それまで自分が感じていた違和感にはっきり気づくことになる。
共産党は上意下達のタテ社会であり、軍隊とそっくりだったのだ。天皇制を否定していた渡辺だが、「報いられることなき献身」を求めるマルクス主義は、神なき宗教だ、と確信する。
また党内の抗争に敗れ、共産党本部から「警察のスパイ」とレッテルを貼られ、除名されることになる。
1950年、渡辺は東大を卒業すると、読売新聞社に入社した。
一方、日本共産党は1951年、第4回全国協議会(四全協)で武装闘争路線を明確にしていた。
農村に“解放区”を作ることを目指す「山村工作隊」や、「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、各地で火焔瓶を用いた交番の焼き討ちなどが行われた。
1952年4月、奥多摩の小河内(おごうち)村に作られた、山村工作隊のアジトのひとつに渡辺は単身で赴く。
その3日前には、小河内工作隊の23名が警察隊に包囲されて逮捕されるなど、緊迫した雰囲気が漂っていた最中である。
そして、渡辺が訪れたアジトのリーダーは、後に作家となる高史明であった。
高は、その時のことを次のように書いている。
「昼前だった。向かいの尾根に出ていた見張りから、異常を告げる合図があった。何者かが、樵小屋に近づいてきたのである。その知らせは、即座に全員に伝えられた。私たちは、それぞれに身を潜めて事態に備えた。遙かな一本路を見下ろしていると、やがて一人の男が姿を現した。一人だけである」。
渡辺は工作隊のメンバーたちに捕えられられ、渡辺は新聞記者だと名乗るが、メンバーは訝った。
「このまま帰せば、明日にでも、どっと警官隊が押し寄せてくるだろう」「どうだい、殺った方が安全じゃないのか」「ここで片付けてしまうんだ! 簡単じゃないか!」。
高は、そんな殺気立ったメンバー達を制して、渡辺のインタビューに応じた。
「我々は危害を加えるつもりはない。新聞記者であろうと、なかろうとだ。俺たちは、ただみんなに俺たちの願いを知ってもらいたいだけだ。俺たちがここにきているのは、自分たちの楽を求めての事じゃない。それを知ってほしいと思う」と語った。
きっと髙史明は、渡辺の中に戦争の不条理を生きた者として”同族”を嗅ぎ取ったにちがいないが、熱心にメモを取る男が、自分の思いを聞き取ってくれるとは思えなかったとも書いている。
渡辺の取材は、同年4月3日の読売新聞で「山村工作隊のアジトに乗り込む」というスクープ記事となり、渡辺は本紙政治部に抜擢され、後年、政界への影響力を持つまでの存在になる。
その意味で、渡辺の運命をも変えるスクープであったが、渡辺の”命の恩人”ともなった高は、後日あの時メモをとっていた男があんなに偉くなるとは思わなかったと振り返っている。
実は、渡辺恒雄が多摩の山村・小河内を取材した場面、エドガー・スノーが延安のアジトに一人乗りこんで4日間取材し、「中国の赤い星」(1937年)で、”若き毛沢東の実像”を世界に発信した出来事と重なる。その出来事を高史明の方でも無意識に”重ねて”いたのではないかと推測する。
東京・池袋サンシャインシティ内の公園内に「永久平和を願って」という石碑がある。
ただ説明書きなどは一切なく、ここで遊ぶ人々はそのことに気づく人さえも少ないが、多くの花束がたむけてあることが、何か特別の場所であることがわかる。
ここ一帯は、巣鴨プリズン跡地で、公園は東京裁判でA級戦犯とされた人々の処刑地となった場所で、隣接してサンシャイン・プリンスホテルが立つ。
ところで、西部グループの総師・堤康次郎は、皇族の"一等地"を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルを建てていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンスホテルの立地はとんでもないところにある。
気になって調べてみると、サンシャインプリンスホテル設立の経緯には、いくつかの興味深いエピソードがあることを知った。
堤康次郎が亡くなって2年後の1966年、長男・堤清二は、井深大(ソニー)、今里広記(日本精工社長)、小林中(後のアラビア石油社長)らの財界人を巻き込んで劇場・美術館、映画館、水族館などを含む”総合文化施設”として、巣鴨プリゾン跡地に本格的な60階建の超高層ビルの建設を計画した。
このことが、マスコミに発表されると各方面から反響が起こったが、なかには堤清二が「予想もしない」ところからの反応もあった。
それは、戦後最大の政界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫からの電話だった。それは堤清二にとって”不吉な”電話だった。
なぜなら西武百貨店は、天皇家の第五皇女をアドバイザーとして雇っていたことから、右翼の執拗な攻撃を受けていたからだ。
連日、右翼の宣伝車が西部百貨店の正面玄関に陣取っては、拡声器のボリュームを一杯にあげて、「皇族を商売に利用する奸商、堤清二に天誅を」と叫び続けていた、そんな最中での児玉誉士夫からの電話だった。
電話の内容は、巣鴨拘置所が取り崩される前に一度中をみたいので、清二に案内を乞いたいという内容のものだった。
西部の堤清二といえば、読売の渡辺恒雄同様に東大在学中に共産党にのめりこんだこともあり、左翼ならまだしも右翼の巨頭からそんな電話がかかるとは予想すらしていなかった。
当日、巣鴨拘置所の正門前で、清二は秘書と二人で児玉の到着を待った。児玉は巨大なキャデラックから線香の束を手に持って降りてきたという。
堤の前で児玉は「今日は面倒をかけます」と頭を下げた。敷地内を歩きながら児玉は、ぼそぼそとつぶやいた。「僕はこの棟にいたんだ」「あっちの棟には東条さんが」「岸はさんは、いつも元気よくこの庭を散歩していた」といったことをつぶやいた。
小一時間も歩き、児玉はある一角に来ると線香に火をつけ、花束をたむけて手をあわせた。 そして堤に「今日はありがとう。長年の胸のつかえがいくらか軽くなった」と、礼を口にした。
この堤と児玉との「出会い」を境にして、右翼の街宣車の姿が、西武百貨店の前からピタリとこなくなったという。
しかし走り出した新都市計画には、最大の試練がやってくる。
1973年のオイルショックで、参加を表明していた多くの企業が撤退し、計画の取りまとめ役であった堤清二の経済人としての信が問われた。
そしてこのとき、清二が頼ったのが異母弟の義明で、清二からすれば凡庸で子供扱いしていた間柄だっただけに、当時39歳の清二がもっとも頭を下げたくなかった相手だったに違いないが、結局、堤義明がこの計画を引き継ぐことになる。
それにしても、皇族の一等地に”プリンスホテル”を建ててきた西部は、なぜこんな場所にプリンスホテルをたてようとしたのか。
それは、この天皇・皇族にとって特別な思いが籠った地には違いない。
巣鴨プリズンの刑場跡地に巨大で先端的なビル群をつくりだし、この土地のイメージを一新し過去の記憶を一掃することは、堤一族のそれまでのホテル建設のための皇族の一等地買収とそう大きく矛盾するものではないとも思った。
作家の高山文彦が寄稿した”東京タワー”に関する次の雑誌記事が、そのことを裏付けるような気がした。
「東条英機ほかA級戦犯の処刑が行われたのが、皇太子(現天皇)15歳の誕生日であったことを知る人は、いまでは少なくなった。東京タワーが竣工式を迎えたのも、12月23日の誕生日なのである。級戦犯処刑から数えてちょうど10年、皇太子は25歳になる。順当にいけばいずれ天皇となるであろう皇太子に因果をふくめるように戦勝国は処刑日を彼の誕生日に定め、死の穢れを一身に帯びたそうした彼の因果を払おうとして、日本人はこの日に竣工式を定めたのではなかったか」と。
ともあれ、天皇・皇族の「負の思い」を閉じ込めたこの土地のイメージが一新されたことは間違いない。そしてこの場所には「サンシャイン」という名がつき、日陰の場所から日のあたる場所に変わった感がある。
平成の時代が始まって3年目の1991年、長崎の雲仙普賢岳が噴火し、。死者 行方不明者は43人に上る大災害となった。
噴火がまだ断続的に続く中、被災地を直接見舞われた両陛下は、多くの犠牲者が出た島原地区へと向かわれた。
その時、案内役の島原市長は、まず天皇陛下の作業服姿に驚いた。さらに驚いたのは、スリッパも履かず床に膝をついて被災者に話しかけられたことであった
さらに4年後には阪神淡路大震災が起き、住宅10万棟以上が全壊。被災者たちは寒空の下で避難生活を送る事になった。
この時、通行の邪魔にならないように、両陛下はバスで現地入りされた。真冬にもかわらず、天皇陛下は薄手のジャンパー姿で、 避難所となっていた小学校へ向われている。
ところで、2003年11月14日が一体 何の日であるか知る人は少ない。
実はこの日、歴代天皇として初めて”全都道府県”への訪問を達成された日である。
両陛下の旅には公式行事への出席以外にもう一つの側面がある。社会的に弱い立場に置かれた人々が暮らす施設への訪問である。
例えば ハンセン病の元患者。国による誤った隔離政策のために人里離れた療養所での暮らしを余儀なくされてきた。
両陛下はこれまで50年をかけて、全国全ての療養所の人たちと交流されてきた。
2013年10月27日には、「豊かな海づくり大会」出席のため 両陛下が水俣に来られることになった。
熊本県南部の町 水俣は、工業廃水が流れ込んだ事で海が汚染。そこで取れた魚介類を食べた人たちが体の震えや激しい痛みに襲われた。
国や企業による対策は遅れ被害が拡大し、水俣病で亡くなった人は認定されただけで1900人以上にも上った。
当初は遺伝といわれ、「公害」と認定されたあとですら発症した家に向けられるまなざしは冷たいものがあった。
両陛下の水俣訪問の際、地元の代表者を中心に、水俣病患者の話も聞いてほしいと動きが起きていた。
また同じ頃 水俣病に長年関わってきた一人の女性も皇后さまに手紙を書いた。水俣病患者に常に寄り添いながら半世紀近くに わたって活動してきた作家・石牟礼道子である。
代表作 「苦海浄土わが水俣病」では患者の尊厳を 身を削るようにして訴え世界的な評価を受けている。
この面会が実現する少し前の月、石牟礼は東京・山の上ホテルで開かれた社会学者の「鶴見和子をしのぶ会」に出かけた。
米国の大学や大学院で哲学などを学んだ鶴見和子は日本を代表する社会学者で、石牟礼とは共著も出している。
その会には美智子様も出席されていて、車いすの石牟礼は皇后の隣の席を用意され、2時間ほど親しく話した。
「こんど(豊かな海づくり大会で)水俣に行きます」ということを直に聞いた石牟礼は、「胎児性水俣病の人たちに、ぜひお会いください」と手紙を書いたのであった。
胎児性患者は「水俣病のまま生まれてきた赤ちゃん」ともいわれる。母親の胎盤を通った水銀で被害を受け、言語障害や運動失調など様々な症状を抱える。すでに亡くなった人も少なくない。
存命の人もたいがい療養施設やケアホームで暮らすが、水俣病患者の中でも最も悲惨な例として知られる。
石牟礼道子の熱心なすすめに、皇后陛下も胎児性患者に面会したいという強いお気持をもたれるようになったという。
県から両陛下訪問の予定が、施設長の加藤さんにあったのは両陛下の水俣訪問前日で、すべて”極秘”と言われ、直前まで、実際に面会する金子さんと加賀田さんにも伝えることもなかった。
当日、面会会場となった環境センターの応接室に金子さんと加賀田さんは車いすで向かうと、すでに両陛下が二人だけで座っておられ、交流の時間をもたれた。
石牟礼は病のためこの面会には立ち会えなかった。せめてお見送りだけでもしたいと、帰京する両陛下を熊本空港の通路で待った。美智子さまは石牟礼の姿を見つけて一瞬歩み寄ろうとしたが、警備の関係から近寄ることができず、何度も振り向いてお辞儀をしながら、階段を上がっていかれた。
ほどなく、若い侍従が車椅子の石牟礼のところに近づいてきた。皇后さまからの御伝言がございますという。誰もいないところに移動してほしいと言われ、空港ロビーの奥まったとこに退くと、こう告げられた。「お見送りに来ていただいてありがとう。そして、これからも体に気をつけてお過ごしください」。
実は、天皇家と水俣とは”或る因縁”がある。皇太子妃雅子さまの祖父は、興銀を経て1964年から71年まで、チッソの社長だった。
患者や支援者たちが押し掛け、大荒れになった70年のチッソ株主総会の映像には、議長席に座る姿が映っている。
この祖父の経歴が、ご結婚に至る過程で問題視された時期もあった。
こうした事情も熟知したうえで両陛下は水俣に向かったと思われる。公式スケジュールでは「水俣病資料館」の訪問が公表されており、そこで予定通り「語り部の会」の会長から水俣病の経緯と悲惨さを聞いた。
そのあと天皇陛下は「本当にお気持ち、察するに余りあると思います」と、異例ともいえる長い感想を語られた。
さて、「象徴とは何かを模索し続けた」と言われた平成天皇だが、国民に”寄り添う”ことを一貫してなされてきたように思う。
昭和天皇も、終戦のいわゆる「人間宣言」後に、数年をかけて全国を巡幸された。
1946年2月世田谷の兵営住宅を慰問された際、巡幸の案内役をつとめた賀川豊彦が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、陛下がいちいち挨拶せられた時のことであったという。