時代の予兆ソング

2020年5月、アパレル産業のトップのレナウンが倒産、そして8月には歌手の弘田美枝子の死。
両者を結び付けるのは、”オシャレでシックなレナウン娘"のTVコマーシャル。
初お目見えは1961年、若い女性がワンサカワンサカ、イェーイイェーイ”と人生を謳歌する姿を全面に押し出したCMは、時代を先取りした鮮烈なものであった。
創業者の佐々木八十八(やそはち)が、1902年に大阪で衣料品の販売を手掛ける「佐々木商会」を設立したことに始まる。
メリヤスを中心とした繊維商品の製造も手掛けるようになり、1923年から、「レナウン」を商標に登録し用い始める。
社名は、イギリス皇太子 (後のエドワード8世) のお召艦巡洋戦艦「レナウン」が訪日した際、水兵がかぶっている帽子の金色の”RENOWN” という文字のスマートさに見とれた佐々木が、これを商品名にしようと思いついたという。
また、グループ内の「ダーバン」も、供奉艦として「レナウン」に同行していたイギリス軽巡洋艦「ダーバン」からの命名である。
1961年、テレビ朝日系の「日曜洋画劇場」のTVCMとして流れた「ワンサカ娘」は小林亜星作曲によるもので、発表当時は"かまやつひろし"歌唱によるものであった。
弘田三枝子歌唱による「ワンサカ娘」のプロモーション以前にもザ・ピーナッツ歌唱の「レナウンの唄」と言うCMソングがあったが、「ワンサカ娘」に圧倒されて使用されなくなった。
さて1964年東京オリンピックでは、日本対ソビエトの女子バレーボール決勝で、66.8パーセントという驚異のテレビ視聴率を記録し、「東洋の魔女」として一大ムーブメントを巻き起こした。
実は、このチームは、「日本紡績貝塚工場チーム」のメンバーで固められていた。
この事実をもって、東京オリンピックの頃まで、日本は「繊維産業」(紡績)が主要な産業あったことがわかるが、紡績産業の衰退は突然にやってきた。
その発端は、1950年代半ば、日本製の安い綿製品はアメリカ市場で「1ドルブラウス」と呼ばれ、大変な人気を集めた。
当時のレートで1ドル=約360円という円安下、日本の「綿製スポーツシャツ・ブラウス類」 のアメリカ市場におけるシェアは、1955年になると前年の3% から28%に上昇し、アメリカ繊維業界はしだいに恐慌状態に追い込まれていった。
1968年の大統領選挙において、共和党のニクソン候補は民主党支持基盤である南部の繊維産業の支持を得るため、繊維製品の輸入の制限を公約した。
そして翌年ニクソンが大統領に就任すると日本に自主規制を迫った。
一方、当時の佐藤栄作内閣は「沖縄返還」という悲願があり、繊維交渉の場において日米両国の思惑が絡み合った。
佐藤首相は、大平正芳、宮沢喜一という有力者を通産大臣に任じて交渉に当たらせたが解決をみなかった。
1971年7月の内閣改造で、佐藤首相は通産大臣(現経産大臣)に田中角栄を抜擢する。
田中は日米繊維交渉を、大平も宮沢も「外交交渉」と違い、「国内問題」ととらえ、政府が補償金との見返りに織機を買い入れて、しかも再起できないように「潰す」という、官僚では思いつきそうもない、大胆且ユニークな策で臨んだ。
もちろん、繊維業界に対する2000億円の補償をすることに対し、大蔵省からこれを引き出すことは並大抵のことではない。
そこで、予ねてから子飼いにしてきた大蔵官僚(相沢英之など)と密かに話をつけ、問題をあっという間に解決してしまった。
田中は就任3ヶ月目の10月15日には米大統領のケネディー特使と日米繊維協定の了解覚書に仮調印するという電光石火の早業だった。
当然、多方面からの様々な批判があった。大屋晋三日本繊維産業連盟会長は、「糸(繊維)を売って、縄(沖縄)を買うのか!」と怒り、「かかる暴挙に対して、あらゆる手段を尽くして、あくまでも政府の責任を追及する」という抗議声明を発した。
実際に、衆議院で田中通産大臣不信任案、参議院では問責決議案が提出された。
しかし田中にとって、これらの動きは織り込み済みだったといえる。
田中は、日米貿易の今後の発展を考えたとき、理不尽ではあっても、ある程度アメリカの要求は飲まなければならぬ。繊維問題でこれ以上こじれるのは得策ではないという長期的視野に立った判断であった。
救済対策費1270億円が補正予算で計上され、日米繊維交渉は決着した。
時あたかも自身の後継をめぐって、福田赳夫と田中角栄が問題解決を競い火花を散らしていた。
そして佐藤の後継争いにおいても、田中は優位に立つことにもなり、実際次期内閣総理大臣に田中が就任することになる。
こうした日米経済関係の改善は、レナウンにとってはプラスにはたらくこととなった。
かつて繊維産業は縫製業者とか衣服製造卸とか呼ばれて零細性、過多性、低生産性のシンボルであったが、所得上昇に伴って国民の消費生活は多様になり、余暇時間の増大により人々の旅行やスポーツ娯楽等に費やす時間は大きく増加した。
レナウンは1969年より「アーノルドパーマー」ブランドを日本に投入し、当初はヤング・レディース、続いてファミリー向けに商品展開を行い、基幹ブランドとなり同社の営業を支えた。
また「ダーバン」は、1970年代にフランスの俳優アラン・ドロンをCMに起用し、人気ブランドとなった。
このように生活の場が広がるにつれて、カジュアルウェアやスポーツウェア、リゾートウェアそれにフォーマルウェアといったファッション性の高い衣服への需要が喚起されるようになり、「アパレル産業」とよばれるようになった。
1974年になると、トップ企業の「レナウン」はアパレル企業として初めて売上げ1千億円の大台を突破したのである。
だが石油ショックによる「アパレル不況」により業界全体としての成長は終焉を迎えた感がある。
レナウンは、バブル期に一時は「世界一の売上」を記録するものの、物流施設に対する大規模投資負担に加え、ファストファッションをはじめとするSPAの台頭や百貨店自体の低迷からブランド力の低下を招き、業績を大きく下げ苦境に陥った。
1990年に買収した英国の名門ブランド「アクアスキュータム」もふるわず、中国の会社と資本業務提携契約を締結をするものの、かつての業績には遠く及ばず2020年事実上の倒産に追い込まれたのである。

広告大手代理店「電通」に勤めていた高橋まつりさん当時(24)が、過労からくるストレスで自殺した。
高橋さんは直前の2カ月、友人や母親らに、LINEやツイッターなどで「過労」をうかがわせる50通以上のメッセージを発信していた。
2015年東京大学文学部を卒業して電通に入社し、インターネットの広告部門を担当していた。
半年間の試用期間を終えて本採用となったばかりで、人員不足と業務の増加に苦しんでいた。
さて、日本社会の長時間労働は海外からも批判されてきたが、かつては終身雇用や年功序列といった家族的経営がベースにあった。
ある程度、人材を企業で育てようという意識があった。
1985年成立の「労働者派遣法」は もともと、業務の電算化や、機械化が急速に進み、ビジネスの現場では外部の専門的な技術や知識を活用したいというニーズが高まってきた。
それを受けて「労働者派遣法」が制定され、初めはソフトウエア開発や秘書など13の専門業務にのみが認められたが26業務に増え、2004年には製造業派遣も解禁となった。
それにともなって皮肉にも、専門職としての位置づけが小さくなり、より安い労働力として派遣先との一体化が進んだ。
つまり専門職以外の企業の派遣ニーズの高まりを受けて、この法律は本来の趣旨とは全く異なるものとなってしまった。
さて「労働者派遣法」が制定された1980年代半ばといえば、ファミコンの「ドラゴンクエスト」が流行り、日本企業の躍進で、まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だった。
つまり、バブル景気の頂点に向かって日本社会が勢いよく突っ走って行った時期だ。
栄養ドリンクのCMで「24時間働けますか」(86年)という言葉が臆面なく語られていた。
しかし、それとは反対に日本社会の「陰の部分」がポップスの歌詞の中で表現されていた。
クリスタルキングの「大都会」(79年)、疲れ切った企業戦士を慰めるように、岩崎ひろみの「聖母たちのララバイ」(82年)などがヒットした。
そして「労働者派遣法」が施行される年1986年、シンガー・ソング・ライター浜田省吾の「J.BOY」というアルバムがリリースされた。
メディアにほとんど姿を見せない浜田が「通算5週にわたりアルバムチャート1位」を記録したのは快挙というほかはない。
特にタイトル曲「J.BOY」は、タイトル名や中身といい時代を先取りしていた。
「MADE IN JAPAN」が世界を席巻する一見サクセスストーリーの中にいるように見える日本だが、“果てしなく続くサバイバルレース”とか“頼りなく豊かなこの国”などフレーズで時代への懐疑を露わにした。
そして、意味もなく働きずくめで死んでいった友の姿を「J.BOY」という言葉で表現した。
いわゆるバブルがはじけ何度か大規模なリストラがあり、給与も減る。管理職はヘッドハンティングでころころ代わり、若手は「希望を見いだせない」「激務に耐えられない」と辞めていく。
それは、ミスターチルドレン「トウモロー ネバーノウズ」(1994年)の、先が見えないままに、”勝利も敗北もない孤独なレース”といった歌詞にそのまま繋がりそうだ。
1990年代以降、グローバル化する社会にあって見境のないコストカットに向かい、生産性向上より数値の偽装が頻発して、日本企業は衰退へと向かう。
特にリーマンショック以降はリストラが横行し、「J.BOY」の歌詞の通りサバイバル・レースと化す。
それは、サザンオールスターズ「闘う戦士たちへ愛を込めて」(2018年)の中の「自分のために人を蹴落として成り上がることが人生さ」という激越な歌詞を生むまでに激化していく。
実は、高橋まつりさんの遺した「生きているために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生」といった言葉に、「J.BOY」の歌詞が浮かんだ。
JRもJリーグも、J-POPという呼び名もなかった時代に、浜田省吾の「J.BOY」は、随分先の時代を見通したような曲だったように思える。

1969年の芥川賞受賞作は庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」。日比谷高校をでて東京大学の受験をめざすカオル君は、1年間待って東大をうけた。
「1年待った」のは、東大紛争で東大入試が中止に追い込まれたからだ。
カオル君は、当時の社会にあった「学生なのだから反乱できる」という許容感、つまり「モラトリアム」のある種の甘えた雰囲気に疑問を抱く。
そして左翼運動に突っ走る若者を赤頭巾ちゃんになぞらえ、凶暴な若さという狼に呑みこまれないように「気をつけて」という内容であった。
1968年、東京を中心に各大学で 学生運動 が急に活発になった。
日本での体制反対闘争 は、はじめは各大学で、学費値上げ反対・医学部での研修医の身分保証要求・学生会館の学生自主運営要求などから始まった。
それが団体交渉の中で、大学の体制攻撃や、ひいては政府の政策批判に、急速に広がっていく。
それまでの日本の大学では、講座の 教授 に権限が集中し、教授 が構成員となる 教授会 が、学部の方針や人事などをすべて決めるのが普通であった。そして教授の中から選出される 各学部長 が、学長(または総長) を中心として、大学の重要事項を決めていた。
こうした大学の体制に対して、学生だけでなく、助教授(現・准教授) や 助手(現・助教)・研究員 などからも批判が起こり始めた。
学生の闘争は次第にエスカレートし、学長・学部長・教授 たちとの 大衆団交 から、授業放棄 や 建物の占拠とバリケード設置などを始めた。
こうした 学生闘争 は、またたく間に、国立・公立・私立を問わず、全国の大学に広がり、高校でも同じ動きが始まった。
大学紛争 を主導した学生集団は、はじめは各大学の 学生自治会の連合体 “全日本学生自治会総連合(全学連) ”を母体とする “全学共闘会議(全共闘)”であったが、思想や戦術の違いからいくつにも分派した。
おもな集団は、中核派・革マル派・民青などである。
この中でも先鋭化した学生たちは、大学の施設や建物を占拠して、ヘルメットをかぶり、手にゲバ棒を持って立てこもり、退去を求める大学当局者に暴力を振るうようになる。
そのなかで、主義主張の異なる学生の各派は、時には暴力をふるって、学生のグループ間で互いに争いあう悲惨な”内ゲバ”事件も起きていった。
1969年の1月10日、東大の安田講堂が全共闘に占拠されて、全国の大学に紛争の火の手が走り、大混乱になった。
しかしながら大学サイドには、激化する若者たちと正面から向かい合い、大学改善の議論をする当事者能力がなかった。
東大の入試が延期、つまり、実施不可能になった。ほかの大学にも連鎖反応する状況になった。
この頃、田中角栄は自民党幹事長の職にあったが、坂田道太文部大臣、その親友が東大学長の加藤一郎という関係であった。
この三人が密接な連携プレーをとって、大学の大火事を消すための法律を議員立法でつくった。
しかし佐藤首相自身がそれほど乗り気ではなく、日教組出身の社会党の連中が「大学自治の侵害だ」といきり立っているなどを理由に参議院では審議が停滞。
同年7月、時間切れで大学管理運営法案が廃案になりそうな時、田中が参議院議長室に怒鳴りこんだ。
「子供たちは勉強できず、卒業もできない。講義を聞いて、進級し、卒業したい子供たちも今の騒ぎで大学に行けなくて困っているぞ。今すぐ本会議を開くベルを鳴らせ」と。
結局は参議院長は「角さんが怒っている」と周囲を説いて審議がスタート、1969年8月に 正式名「大学の運営に関する臨時措置法」が 成立した。
その内容は紛争が続けば、大学の一時休校に始まって、閉校措置さらには廃坑措置がとれるというもので、野党も大学も強く反対した。
ただし「臨時法」だから大学の自治を重んじる良識は一定程度示したもので、この法律ができて以来、全国で盛り上がった大学紛争は潮が引いていく。
実は1960年代末から 学生運動が過激化したのは、日本だけでなく、アメリカでは 「いちご白書」 で有名になったコロンビア大学の学生闘争のほか、ヨーロッパでも大学当局や政府に対する反対闘争が起こり、スチューデント・パワーと呼ばれた。
背景には、アメリカの ベトナム戦争介入反対運動 や中国の文化大革命の影響があった。
1978年、松任谷由美が提供したのがバンバンのヒット曲「イチゴ白書をもう一度」であった。
その歌詞にあるように、無精ひげと長い髪で学生集会に出かけていた「ぼく」は、就職が決って髪を切り、「もう若くないさ」と彼女に言い訳をする。
当時の意識としては学生の「敗北宣言」であったが、今となっては、素早く”体制順応”に切り替える若者像を予兆するようなソングに聞こえる。