長谷川法生の漫画「博多っ子純情」の主要舞台である櫛田神社のある冷泉町、この辺り「冷泉閣」という名のホテルや冷泉公園などが存する。
実は、この地名「冷泉町」は、藤原俊成・定家以来の歌道を守り続けてきたる京都・「冷泉家(れいぜいけ)」の名前からつけられた。
最近、この和歌の家に伝わる古文書の写真版複製本「冷泉家時雨亭叢書(しぐれていそうしょ)全100巻」が完結したというニュースがあった。
1992年の刊行開始から、世紀を跨いだ大事業の完成(2017年)だけに、その文化的価値ははかりしれない。
それではなぜこれほど高貴な家の名が博多町人の集まる街の地名になったのか、そこには「人魚」にまつわるミステリアスな出来事が関係していた。
1222年、博多の漁師の網に人魚がかかった。それがなんと150メートルもある巨大な人魚だった。
人魚が上がったという報告は京都の朝廷に伝えられ、朝廷は「冷泉中納言」という人物を博多に派遣する。
一方、博多の町は人魚が上がったということで大騒ぎになった。
好奇心旺盛な博多っ子のことだから、早速 食べようとしていた時、冷泉中納言と安倍大富という博士が到着した。
安倍大富がこの人魚について占うと「国家長久の瑞兆なり」つまり、国が末永く続く前兆であると出たため、食べるのはやめて手厚く葬ることに決定した。
古地図には冷泉中納言が宿泊した場所も記されており、しばらくの間ここに滞在したことから、現在の「冷泉町」の名前はこの出来事に由来する。
冷泉中納言が宿泊していた龍宮寺(当時は浮御堂と言っていた)に人魚を運び、塚を作って埋葬した。
その「人魚塚」は現在でも龍宮寺に残っており、希望すれば「人魚の骨」という実物を見ることができる。
冷泉が文化の香りのする街であることを示すものがもうひとつある。
「文庫」といえば、中世では金沢北条氏の「金沢文庫」、足利学校の「足利文庫」などが有名な例である。近世には徳川将軍家の「紅葉山文庫」が名高いが、日本で初めての町人による文庫が冷泉に存在したのだ。
「冷泉公園」と冷泉小学校をはさんでほとんど隣接しているのが、博多山笠の舞台として有名な「櫛田神社」である。
江戸後期に博多の町人たちが資金を出し合い、蔵書を寄付して櫛田神社に設立された。
それは、貴族や武士階級向けの文庫は古くからあるが、町民なら誰でも利用できる近代的な図書館といってもよい。
「櫛田文庫」は1818年に開館。古事記など神道関係の本をはじめ徒然草や古今和歌集などの教養本、日本の風土を解説した日本水土考、中国の二十一史といった歴史書など計1300冊以上がそろえられた。
なぜ庶民向けの図書館が設立できたのか。
そこには、国学を通じて福岡藩の重臣に人脈のあった同神社神職・天野恒久らの設立への奮闘があったという。
福岡藩は、藩主の意向で藩校として東学問所修猷館、西学問所甘棠(かんとう)館が相次いで開校するなど、藩内の学問熱が高まった時期だった。
さらに藩有数の国学者・青柳種信に天野は師事し、櫛田神社を配下に置いた寺社町奉行の井手勘七も水戸国学を学び、10代藩主の教育係でもあった有力者だった。
日本最初の町人による文庫だったが、わずか4年で閉鎖された。その理由を示す史料は今のところみつからず、謎となっている。
1945年6月、B29爆撃機の編隊239機は九州を北上して福岡上空に到達。
博多や天神を中心に約2時間の爆撃が行われ、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。
福岡大空襲において、避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂した。
熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。
この惨事と関わったのが、歌手の村田英雄である。
村田は、福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、旅芸人夫妻の子として生まれるが、一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ転住。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり、宮崎県の地方劇場にて初舞台を踏んだ。
師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。
福岡市吉塚の専売局(現在のBRANCH)に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇。
翌日、十五銀行(現・福岡銀行)ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。
この福岡大空襲のグラウンド・ゼロこそが現在の冷泉公園の位置する
場所であった。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた福岡大川出身の古賀政男に見出され、浪曲「無法松の一生」を古賀が歌謡曲化し、歌手デビューを果たした。
ほとんど売れなかったが、「王将」で大ブレイクし、1962年に日本レコード大賞特別賞を受賞している。
「王将」といえば、大阪の通天閣の真下に棋士・阪田三吉を記念して「王将」碑が立っている。実は、福岡大空襲の約3か月前に行われた大阪大空襲で通天閣も消失した。
通天閣は大阪のシンボルというより、大阪人の心意気のシンボルであり、なくては寂しすぎるということで、大阪市民の募金活動により1956年に再建された。
さて博多っ子にとって心のシンボルといえば、櫛田神社を中心に毎夏繰り広げられる「博多祇園山笠」。
博多の氏神・総鎮守である櫛田神社は、商売繁盛、不老長寿の守り神として信仰をあつめており、地元の人から「お櫛田さん」と称され親しまれている。
博多の夏の祇園祭「博多祇園山笠」は、櫛田神社右殿の素盞嗚大神(スサノウノミコト)に対する奉納の行事として行なわれているものである。
櫛田神社は冷泉公園から道を挟んで冷泉小学校、すぐ隣が櫛田神社で、福岡大空襲の爆心地となったがゆえに消失した。冷泉地区の住民の喪失感は、いかばかりのものであったろうか。
それは、ちょうど大阪大空襲で通天閣を焼失した大阪人と共通するものである。
社伝では、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされる。
戦国時代に荒廃したが、1587年、豊臣秀吉が「博多町割」とともに現社殿を建立、寄進した。
「博多祇園山笠」は、1241年 聖一国師が病魔退散のため施餓鬼棚にのって”疫病退散”を祈願し、これが有力な起源説とされている。
1587年、豊臣秀吉が九州征伐を行い島津氏を降伏させて九州平定を成し遂げ、 博多の豪商 神屋宗湛と嶋井宗室の協力を得て、「太閣町割り」を行い、山笠の基となる「流(ながれ)」が出来た。
その後、明治政府の神仏分離令や、電線に山笠の飾りにあたる事故などにより、存続の危機を迎えたこともある。
また1945年 福岡大空襲で社殿は焼け、「山笠」も中止となるが、そこは祭り好きの博多っ子。1948年には「山笠」は復活することになる。
1955年には「博多祇園山笠振興会」が発足し、新天町等などでも飾り山行事が行われるようになった。
2020年、疫病退散を願って始まった山笠だが、コロナ禍により戦後初めて中止が決定した。
福岡の繁華街・中洲に近い「冷泉公園」には、昼食時にサラリーマンの姿をよく見かける。
この風景は随分昔ながらのことで、ここに集まる人々こそは、博多の名物「明太子」の最も初期の愛好者であったに違いない。
実は、スケトウダラを加工して食べる食文化は博多ではなく、17世紀に朝鮮半島で広まっていた。
福岡県朝倉郡三輪町出身の川原家は日韓併合後、釜山にわたり回漕業を営んでいた。
1913年、川原俊夫はその朝鮮・釜山に生まれた。
川原俊夫は釜山中学卒業後、1932年に長春に本店があった満州電業に入社した。
そして1936年、福岡県糸島郡北崎の出身の田中千鶴子と結婚する。
田中家は川原家と前後して釜山にわたり、川原家と同様に海運業を営んでいた。
田中千鶴子は釜山高等女学校出身で陸上の選手としてならし、戦前の朝鮮全道の100メ-トル女子記録保持者でもあったという。
川原は、1933年20歳の時、徴兵検査をうけ、以後約11年間召集と解除の繰り返しで、沖縄戦の際には宮古島の守備隊で地獄を見てきた。
戦友達が栄養失調やマラリアで死んでいき、川原の胸に「一度は死んだ身」という意識を強く刻みつけた。
川原が沖縄戦を戦っていたころ、千鶴子は三才の息子の手をひいて満州から福岡に引き揚げてきた。
1946年に博多に戻った川原夫妻は、ある日「中洲市場25軒を引揚者に」という入店募集の記事をみて、そこに入店を決めた。
当時、中洲は1945年6月の福岡大空襲で焼け野が原であったが、この日こそは川原が始めようとする事業の記念すべき日となった。
最初に開いた店は乾物食品ばかり扱っていたが、河原夫妻は釜山で食べたタラコの味が忘れられず、1950年ごろからキムチ風の味付けでタラコを自宅裏で漬け始めた。
「メンタイ」とは韓国語でスケトウダラのことで「明太」と書いて「ミョンテ」とよぶのだが、タラコ(スクトウダラの卵)はその子供ということで「明太子」(めんたいこ)と名付けた。
川原は「味の明太子」をつくりあげるまで、長い時間をかけて試行錯誤した。
まず、メンタイ用の唐辛子を求め、京都のある会社を紹介される。
この会社はカレ-紛の製造・販売そして世界の各種香辛料の調合と販売で知られる会社であった。
また、肝腎の原料のタラコの高い塩分をどう柔らげ、卵の旨みとプチプチ感を蘇らせるかに頭をいためた。
何よりも原料であるスケトウダラの卵の質が良くなければならない、というのが絶対の条件だった。
結局、俊夫の目にかなったものは、北海道羅臼、稚内、釧路で水あげされ、加工されたタラコだった。
最後に一番苦労したのが「調味液」であった。どんな調味液に、どのくらいの期間、漬け込むかによって味はきまる。
いわば「秘伝」の味である。
作っては捨て、作っては捨ての連続でしだいに味に改良を積み重ねていった。
川原の店「ふくや」は食料品店としてしだいに知名度はあがっていったが、「明太子」は最初の10年は全く売れず、利益には結びつかない奇妙な存在だった。
なにしろ冷房施設も洒落たガラスケースもなく、金魚鉢にいれて出していたくらいだ。
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タラコをつけ続け味の改良をやめなかったのは、夫妻自身がが釜山で食べたタラコが忘れられず、川原の中で、いつか必ず売れるという確信めいたものがあったかからだ。
すると、近くの「冷泉小学校」の先生達が昼ご飯のおかずにということで「明太子」を買いに来るようになり「明太子」の味は口コミで広がっていく。
明太子がよく出始めたのは1960年頃からで小料理屋が酒の肴に「明太子」を注文するようになった頃からである。
そしていつしかブレイクする。朝積み上げた「明太子」の箱の山が夕方にはきれいになくなる。
中洲の繁栄と呼応するかのよう新幹線の博多開通というめぐり合わせもあった。
新幹線開通を契機として「明太子」は全国的に知られるようになる。
まるで龍宮時の人魚の御利益に与ったかのように。
「博多」の名は、もともと広くの沢山の物産が集まることからつけられた。
なかでも冷泉町は、めでたきことから悲惨な出来事まで交叉するかのようで、「禍福の十字路」とよびたい。
さて、日本の高度経済成長のただ中、映画「無責任」シリーズで一世を風議したのが村田英雄と同世代の植木等であった。
クレイジーキャッツのメンバーと出演したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など数多くのギャグを大流行させ、また1961年には、青島幸男作詞の「スーダラ節」が大ヒットした。
この植木の付け人だったのが、小松政雄である。
小松の自宅は、櫛田神社のすぐ裏手に自宅があった。
小松は7人兄妹の5番目として育った。
実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松家は貧窮を極めた。
小松は1942年生まれで、幼き日より、自宅前「焼け跡で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、”サクラ”の存在さえも知っていたという。
つまり、小松政雄のコメディアンとしての原点は、遊び場とした冷泉・川端あたりの露天商や大道芸人の芸や口調から、自然と身についたのである。
そこから、一時宴会などでブームになった「電線音頭」などが生まれたのであった。
福岡高等学校・定時制を卒業し、1961年に俳優を目指し上京した。
魚河岸などさまざまな職業を経験し、横浜トヨペットのセールスマン時代には相当な収入を得たという。
しかし目指すは芸能界、何のツテもなかったが、公募により100人を超える希望者の中から選ばれ、憧れの植木等の付け人兼運転手となり、それが嬉しくて誰かれなく吹聴するうちに、念願の芸能界入りを果たす。
小松は帰福すると、国体道路に面した「かろのうろん」でゴボウ天うどんを食べるのが常で、テレビ取材の際に少年時代の味そのままだと語っている。
秋の気配漂う10月になると、冷泉公園にて、「日独交流を記念する祭り」が行われている。
会場には大テントの下にビアガーデンが開かれ、設置されたステージでは音楽や踊りで盛り上がる。
この場所で、「日独交流」のビール祭りが行われているのも、何かの因縁だろうか。
日独の交流の始まりは、幕末の「安政の五か国条約」に少し遅れて1860年に遡るが、冷泉公園で開かれているこのビール祭りは、日独交流150年を記念してミュンヘンのビール祭りにならい始まった。
ドイツ・ミュンヘン市では毎年10月上旬に「オクトーバーフェスト」という名で世界最大のビール祭りが開催されている。
期間中には国内外から約600万人がミュンヘンを訪れ、ドイツビール・ドイツソーセージを楽しみ、ドイツ伝統音楽に乗って歌い踊る。
「西日本日独協会」の下、在福岡ドイツ企業・地元企業・自治体が実行委員会を組織し、ドイツと福岡のの交流促進のために開催することになったのもので、正式には「福岡オクトーバーフェスト」よばれるものである。
ちなみに、冷泉町に那珂川を挟んで隣接する西中洲には、かつて「大博劇場」という映画館があった。
この「大博劇場」こそは、ドイツ生まれのユダヤで天才物理学者・アインシュタインが1922年に福岡て講演を行った場所である。
ユダヤ人迫害を逃れアメリカに移住したアシンシュタインは、結果として原爆製造の「マンハッタン計画」の一翼を担うことになる。
太平洋戦争末期にアメリカは日本の大都市(福岡を含む)をことごとく空襲によって破壊し、その最後の仕上げが広島・長崎の原子爆弾であった。
アインシュタインは、原爆はドイツに対抗して開発されたが、それが日本で使用されたことにつき、痛恨の思いを湯川秀樹に明かしている。
第一次世界大戦でドイツ植民地となったマリアナ諸島。そこを発したアメリカB29による福岡大空襲。
その爆心地「冷泉公園」にて、同盟国となった日本人とドイツ人が「ビール祭り」で友誼を温めている図だ。