江戸時代末期「北海道」の名をつけたのは、松浦武四郎という旅好きであるが、この人「寅さん」を思い出す。
人生の大半を旅または探検で費やしたのだが、行商をしていたわけではなく、タダもしくはツケで寝泊まりした。旅先で人々は彼をよく受け入れたものだが、なぜ見知らぬ男にツケがきくか。
実は、寅さんの実家が葛飾柴又帝釈天の参道にあったように、松浦は伊勢神宮の参宮街道に沿った松阪に実家があった。
実家は裕福な商家で、いつでもお伊勢参りの際は実家に立ち寄って請求してくれ、というわけだ。
なにしろ全国的に「お伊勢参り」が流行していたことが幸いした。
寅さんが、行商の旅先で出会った人々に、葛飾柴又にある帝釈天参道の「寅や」を訪れ、おいちゃん、おばちゃんに会うといいよ、というのに似ている。
ただ、そこにはお金ではなく、家族の温もりがあるから、という違いがあるのだが。
しかし松浦は単なるボンボンではなかった。未知の世界に分け入る冒険心と探求心にあふれていた。
特に、アイヌの人々との交流なしに、蝦夷地における彼の出色のルポルタージュは世に出ることはなかったであろう。
松浦は28歳ではじめて蝦夷地へと渡り、そこでアイヌの人々と出会う。
寝食をともにする中で、アイヌ文化ともに、人びとの心に触れ、自分たちにはない素晴らしいものをもっていることを強く感じ、蝦夷地地図を制作するとともに、アイヌ語を含む文化の紹介にも力を注いだ。
松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」は、アイヌ民族の姿が克明に記されている。
寒冷な気候の北海道では稲が育ちにくかった一方、自然が豊かなところであり、海の幸、山の幸が豊富であるため、アイヌ民族は動物を狩り、植物を採集することを生活の基盤としていた。
アイヌ語では人間を「アイヌ」、神を「カムイ」と言う。
神は、神の大地を意味する「カムイモシリ」に住んでおり,動物などに姿を変えて、人間の大地「アイヌモシリ」にやってきて、恵みをもたらしてくれると考えられていた。
動物神で最も重要な神とされたのは、「シマフクロウ」である。翼を広げると2メートルもある大きなフクロウは、コタン(集落)を守ってくれる神(コタンコロカムイ)として大切に扱われた。
ヒグマはアイヌ民族にとって肉や毛皮などの恵みを与えてくれる大事な神であり、その大いなる恵みに深く感謝するとともに、魂を神の世界へと大切に送り届け、再び恵みをもたらしてくれるよう祈った。
こうしたヒグマの魂を神の世界へと大切に送り届ける儀式は、「イオマンテ」と呼ばれる。
アイヌ民族の代表的な衣装に「アットゥシ」がある。オヒョウという木の皮の繊維から編まれた「樹皮衣」である。
松浦筆の「蝦夷漫画」において、アイヌ民族がオヒョウという木の皮を剥ぎ、繊維を採る様子が描かれている。
衣装を彩る渦巻き文様は、中国東北部や樺太(サハリン)北部の諸民族でも使われており、アイヌ文化は日本とのつながりだけでなく、交易を通じて中国東北部や樺太北部で暮らしていた他民族の文化とつながっていることがわかる。
また、アイヌ民族はマキリという小刀を用いて、道具に木彫りでアイヌ文様を施していった。
それぞれの道具に刻まれた精緻なアイヌ文様からは、木彫りの技術の高さをうかがうことができる。
この技術の現代の継承者が貝澤徹(かいざわ とおる)で、マキリを使った木彫りでシマフクロウなどを創り、世界的な評価を受けている。
江戸時代末期、アイヌ民族を苦しめた政策が二つある。江戸時代に蝦夷地を領地とした松前藩による「場所請負制度」と、江戸幕府による「撫育(ぶいく)同化政策」といわれているものである。
この「場所請負制度」により、商人は利益を増すためにアイヌ民族を労働力として確保するために自由な移動や結婚を禁じ、強制的に酷使する。
幕府の「撫育同化政策」は、独自の文化を持つアイヌ民族に対し、本州と同じような暮らしを強制させるものであった。
こうした状況に対して松浦は、アイヌ民族は独自の文化を持った人びとで、その文化は尊重されるべきことや、アイヌ文化への正しい理解を求めて、幕府への調査記録などで切実に訴えている。
最近のニュースで日本政府がアイヌを先住民族と認めるが、「先住権」は認めていないというのが気になった。
ちょうど先生を「先に生まれた人」とみなすぐらいのもので、「先に住んだ」だけでどんな意味があるか。
アイヌを長く「土人」扱いして同化と収奪を繰り返してきた日本人(和人)が、幾分の償いの意味もこめて、もう少しアイヌの「先住権」に踏み込んだ理解を示してはどうかと、と思う。
今日、日本の川でサケをとることは水産資源保護法で禁止されているが、研究や儀式などの目的で申請があれば道が特別に許可する仕組みになっている。
アイヌは古くから北海道を中心に暮らしてきた先住民族。独自の言語や文化を持ち、自然とともに生きてきた。
新しいサケを迎える伝統儀式、カムイチェプノミ。民族衣装を着た女性たちがサケを祭壇に供える。
囲炉裏を囲み、お神酒を盃に入れ、火の神に儀式の始まりを告げる。
火の神はアイヌにとって最も重要な神とされあらゆる神に願いを伝える役目を果たす。
アイヌ伝統のマレク漁。先端にかぎもりがついたマレクと呼ばれる道具でサケをとる漁法。
産卵後のサケの皮は厚く丈夫でチェプケリと呼ばれる冬靴にも使われるほど、アイヌにとってサケは生活に欠かせないものだった。
江戸時代の和人は大きな網を使って遡上する鮭を根こそぎ取りつくすなど、アイヌ民族の生活を脅かすようになり、争いに発展することもあった。
明治維新後、北海道の開拓に乗り出した政府はアイヌに対し同化政策を推し進めた。
明治政府は 「北海道旧土人保護法」を制定。ここで「旧土人」とは アイヌ民族にほかならない。
なんと、この法律は1997年の「アイヌ文化振興法」が制定されるまで存続したのだ。
この法律によって進んだのは教育による和人への同化で、授業は日本語で行われた。アイヌの言葉を消し去ろうとしたのだ。
更に 狩猟から農業への転換を奨励し、希望する者に農地を与えるとした。
これは戦後の農地改革はアイヌの土地も例外とはならず、約4割の土地が奪われることになった。
その一方で、アイヌは100年以上もの間、儀式のためにサケをとることすらできなかった。アイヌの伝統儀式や漁法の伝承のため道に申請する形でサケ漁が認められたのは2005年になってからのこと。
アイヌは、許可制ではなく、自由にサケをとることは先住民族としての権利(先住権)だと訴えているものの、道政府はアイヌをかたった密漁が横行してしまうとして認めていない。
2019年、「アイヌ施策推進法」、いわゆるアイヌ新法が成立した。
国はアイヌを初めて先住民族と認めて差別を禁じ、文化の維持・振興に向た新たな交付金制度を設けるとした。
歴史や文化を伝えるアイヌ民族博物館、伝統舞踊などを見学できる。
「ウポポイ」とはアイヌ語で「(大勢で)歌うこと」という意味de
で、民族共生公園、慰霊施設の三つで構成される。
土地を奪われるということは、先祖の墓をも奪われるということを意味する。
北海道アイヌ協会は、盗掘にあい研究目的で大学に保存されてあるものをここに移送し、この慰霊施設で供養することが、先祖の尊厳を回復することになるとしている。
しかし、一部のアイヌは元来の土にかえして慰霊することがアイヌの伝統だと反対している。
2007年、「先住民族の権利に関す国連宣言」は、先住民族の自決権と先住民族の伝統的な土地に対する天然資源の管理を認めている。
ニュージーランドの先住民族であるマオリ族は、イギリス人による入植で土地を奪れたが、裁判を起こし、国に先住権を認めさせ、土地を取り返した。
アイヌとの交流会に訪れたマオリ族にアイヌの現状を聞いて、サケを捕まえて刑事告発されるなんてとんでもないと驚いている。
裁判で、原告になったのは地域集団(アイヌ語で「コタン」)の子孫。コタンは明治政府が北海道開拓で漁猟権を侵害するまで日常的にサケ漁をしていたとして「権利を引き継いでいる」と主張した。
これに対し、国は明治以降の同化政策でコタンは消滅し、サケの捕獲権などを有するアイヌの集団は存在しないとの立場をとったのである。
それでは、アイヌを先住民族と認めたことにどんな意味があるのか、”記憶”としてアイヌ民族を保存しておこうということなのだろうか。
最近「後藤新平賞」(2007年より)を受けたアイヌの宇梶(うかじ)静江は、「新型コロナウイルス」について次のように語る。
「コロナはウエンカムイ(悪い神)です。でも、自然との対話を忘れてしまった人間たちに、何かを警告するために登場したのではないでしょうか」。
宇梶は自分のルーツを知ることは許されず、いわれなき差別を受けてきた。ただ大自然のカムイ(神)が、生きる力を授けてくれたのという。
宇梶の創作作品にみられる、人間中心主義や功利主義を排し、自然への畏敬を忘れなかったアイヌの精神性が高く評価されたことを意味する。
ふるさとは北海道・日高山脈のふもとの小さな村。いじめられ、差別された少女時代。半農半漁の父の仕事の手伝いで、学校にはほとんど通えなかった。
1956年、23歳のとき上京。56年、中学を卒業し上京。高円寺のタンゴ喫茶などで働き、交際していた和人で建築士の宇梶さんと結婚した。
30代になり、詩人の壺井繁治らが創刊した「詩人会議」に投稿するようになった。
最初は、アイヌをテーマにした詩は書けなかった。どこかで自分の思いを封印していたが、転機は38歳のとき。
差別や偏見から逃げてばかりいてはダメだと思い直し、1972年に新聞欄に「ウタリ(同胞)たちよ、手をつなごう」という原稿を投稿した。
宇梶の内なる「アイヌ」が臨界状態に達していたということなのだが、周囲の反応は予想外に冷たかった。
せっかく東京に来たのだから放っておいてほしいということなのだ。
家庭でも、長男の剛士(たかし)さんが暴走族に入ってトラブルを起こすなど、つらい日々が続いた。
息子は小さいころから野球が好きで高校でも野球部に入ったが、練習がきつく、同学年の部員とボイコットしてしまった。
体が大きく、鼻っ柱も強かったためか首謀者にされ、そのことに腹が立ち、暴力事件を起こしてしまった。
静子は、少年院の息子に差し入れはしたものの、それ以外はなにもしていない。息子の更生を信じていたという。
60歳を過ぎてから、アイヌの伝統的な手芸を習い始め、翌年、アイヌ民族でつくる「東京ウタリ会」を結成。
やがてアイヌ刺繍を学び、古い布に刺繍を施す「古布絵(こふえ)作家」になる。
刺繍を学ぶことで「アイヌの精神性」が形となって見えてきたという。
和服の使い古した布にアイヌの文様や絵を縫い付ける新しい表現方法にも挑戦した。それは、二つの人間集団が共生することの象徴でもあり、アイヌであっても和人であっても、大事なことは同じ人間として結びつくこと。
なんだか札幌生まれ帯広育ちの中島みゆきの「糸」を思い出させる。
「北海道」の名づけ親である探検家・松浦武四郎の生誕200年を記念し、出身地の三重県松阪市で開かれたトークショーに俳優となった宇梶剛士と出演した。
また宇梶剛士は、「民族共生象徴空間」PRアンバサダー務めている。
アメリカ先住民のアパッチ族のリーダーであるジェロニモの写真を見た事がある。
土産物屋さんの気のいいオジサンという感じだった。
しかしこのジェロニモは、ジョン・ウェイン率いる騎兵隊と戦った当時の闘争心あふれたジェロニモの写真ではない。
それは、アメリカ軍に敗れ降参し土地を与えられて穏やかに暮らしていた当時のジェロニモの写真である。つまり、「それからのジェロニモ」である。
この写真の背景は詳しく覚えていないが、準観光地化された土地でいわば「見世物」となって、余生を過ごしたジェロニモの姿は、なんとも悲しい。
前述のようにアイヌに「先住権」が認められないならば、我々がアイヌを見出すのは生活の場ではなく、観光地ぐらいになってしまう。
土産物屋で働く姿は見世物というわけではないが、とても民族の誇りに寄与しているとは思えない。
北海道におけるアイヌの土地の収奪は、日清・日露戦争においても続いていた。1916年には、軍用場を生産する御料牧場の拡大に伴い、土地を追われ移住を強いられた。
大正時代に軍の防寒着を作るため国は 綿羊の100万頭増殖計画を実施するため土地を奪われた。
しかし その後 安い化学繊維や輸入の羊毛が増え徐々に 綿羊が不要になっていく。
そこで、あまった羊を有効利用するために食べ始めたのが北海道名物ジンギスカンの始まりである。
一方で「八甲田雪中行軍遭難」時、歩兵第五師団が、難航する救難と捜索のため、アイヌに協力を求めた。
寒冷な冬の山を捜索するのであれば、彼らこそ頼りになると考えた。
早速、要請を受けた茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次郎/べんかい たこじろう)は、仲間10人を引き連れ、八甲田山へ向かった。
現場に到着した辨開らは、67日間、探索に参加したが、生存者を発見することは出来ず、遺体と遺品の発見については優れた探索能力を発揮し、計11名の遺体と、多数の遺品を持ち帰ってきた。
遺族にとっては大きな慰みとなったハズである。
実は、このアイヌへの救助依頼には前段がある。
もともとイカシパは、1847年にオトシベツ・コタン(八雲町)に生まれた。
知勇に富む青年として若くしてコタン(集落)を率いるようになり、いつしか「辨開凧次郎」と和名を名乗るようになる。
辨開は、日本軍の行軍を見て思うところがあったのか、寒冷地の行軍に長けたアイヌ部隊を組織すべきだと、陸軍大臣宛に陳情書を提出している。
我々は野蛮だと卑下しつつも、経験によって身につけた寒冷地を生き延びる能力がある。そのための給金すら求めず、適切な戦闘を行いたいという願いを込めての陳情であった。
しかし、 陸軍省は現在の編成で充分であり、アイヌ部隊は必要ないという判断を下した。
アイヌに古くから伝わる言葉に「天から役割なしに降ろされたものはなし」というのがある。
和人が差別したり排除したものの中に、現代の閉塞感を打破するものがある。
オキナワやアイヌの芸術や音楽に、我々はとても大きな癒しを得ている。
特に、アイヌの文化は、命の繋がりの信仰をベースに自然と人間の共生を教えてくれる。
それを忘れていたことが、新型コロナウイルスが出現した最大の理由であろう。