「胸騒ぎ」の島々

1923年9月1日の関東大震災は、茅ヶ崎と大島との中間点の海底を震源地として起こった。
これにより茅ヶ崎には烏帽子状の岩が5~6mの高さに隆起し、この岩がいつしか「エボシ岩」として茅ヶ崎名物となる。
ただ、誕生時のエボシ岩と今日ののエボシ岩とでは随分と形状が異なる。
実は1951年、アメリカ進駐軍による「砲撃の的」とされカタチが変わったためである。
エボシ岩は「カコの海岸物語」の証言者なのだ。
そして、サザンオールスターズの数々の名曲によって、江の島と烏帽子岩をシンボルとする国道134号線沿いの海岸は、"胸騒ぎの場所"へと転じた。
さて我が福岡において、玄界灘から関門海峡を経て瀬戸内海にかけての島々は、いろんな意味で”胸騒ぎする”場所である。
それは獄門、検疫、外国人接待、隔離などという”島ならでは”の役目を担わせられたからである。
江戸時代末期、朝廷内部では尊王攘夷で藩論を固めた長州藩と結びついた公家が優勢をしめたが、1863年8月の公武合体派のクーデターで尊攘派公家7人が追放となり、彼らは長州に逃れた(七卿落ち)。
1864年京都での勢力回復をめざす長州藩と朝廷を守る公武合体派の薩摩藩・会津藩との間で京都御所周辺で戦闘がおこった。
長州藩はこの戦いに敗れ、その後幕府方15万の大軍によって長州藩が包囲されることになった。
この時、長州藩に謝罪恭順を求めて内戦の回避をめざす周旋活動が、他藩にさきがけて福岡藩において単独でなされたのである。
そして幕府方の解兵の条件として五卿(七卿のうち1人脱出1人病死)の長州藩からの移転が命じられたのである。
つまり、五卿を九州の五藩が一人ずつ預かることになり、一旦五卿は福岡の大宰府に移されたのである。
福岡の大宰府天満宮境内には三条実美ら五卿が滞在した「延寿王院」があり、近くの二日市温泉周辺には五卿滞在を記念して、それぞれの歌碑がたっている。
しかし幕府にとって、五卿を預かる福岡藩・勤皇派の動きは気になるところであった。
そこで福岡藩は幕府への過剰な忖度から1865年6月、勤皇派の一掃を決断した。
特に福岡藩中老で勤皇派のシンボル的存在・加藤司書は自宅謹慎後、12月に切腹の命令が出されている。
またその自宅(平尾山荘)が勤皇派のいわばアジトと化していた野村望東尼(のむらもうとうに)に対しては自宅謹慎が決定した。
ところで、福岡市の西の糸島半島が突き出た玄界灘に浮かぶ姫島は、「玉姫伝説」からその名前がついたが、いわば黒田藩の「獄門島」として使われた。
野村望東尼はこの平尾山荘で平野国臣ら勤皇派との交流をもつが、その手紙には多くの和歌が詠まれ、「勤皇の歌人」とよばれている。
そして野村望東尼はその年の11月、玄界灘に浮かぶ糸島半島沖の姫島の座敷牢に幽閉されたのである。
この座敷牢の近隣の人々が監視人の目をかいくぐって望東尼に食事を届けたりした。その代わりに望東尼は詠んだ歌を短冊に書いて島の人々に渡した。
そのため、姫島にはそうした短冊をいまだに持っている家や、尼が使ったあんかを家宝のように保管している家もある。
福岡藩の勤皇の志士・籐四郎は、姫島流刑中の野村望東尼の救出を決意し、病床の高杉晋作と相談したところ、高杉は即座に同意し6人の救出隊を編成した。
というのも高杉は、長州藩の保守派優勢のため失意にあった頃、野村望東尼の平尾山荘に匿まわれた時期があったためである。
つまり、「望東尼救出作戦」は、高杉晋作の恩返しの意味も含んだものであった。
救出隊は1866年9月姫島に潜入し無事、尼を救出した。
そして望東尼救出の船は下関に着き、尼は倒幕派のスポンサーであった白石一郎宅に落ち着いた。
しかしこの頃、高杉晋作の病の床にあり病状は思わぬ早さで進行していた。晋作危篤の知らせに望東尼にも馳せ参じたが、高杉は死をむかえんとしていた。
その時高杉は有名な辞世の句「おもしろき こともなき世をおもしろく」と詠み、それに応えて望東尼は「すみなすものは こころなりけり」と詠み、高杉の最後を看取ったのである。
この時の望東尼の思いはいかなるものであったろう。
野村望東尼は1828年 福岡地行(じぎょう)の足軽の家に生まれた。母の死、長男の病苦による自殺、次男の病死、夫の死と相次ぐ不幸の後に、「望東禅尼」と号した。
そうした望東尼は晋作に「もうひとりの息子」を得、それを見送った感慨があったのかもしれない。

福岡県新宮沖に相島(あいのしま)があり、江戸時代に朝鮮使節を接待した島として知られる。
16C豊臣秀吉の朝鮮出兵によって著しく傷ついた日朝関係を、徳川将軍家はなんとか回復しようと、「朝鮮通信使」を江戸に招くことにした。
朝鮮通信使は、徳川の代替わりのたびに、祝賀の目的で李王朝から国書(信書)をもって訪日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者である。
各藩が接待をバトンタッチしながら江戸に向かうのだが、福岡県相島は全国で唯一「朝鮮通信使」を接待した島であり、江戸時代を通じて12回、往復で24回の朝鮮通信使を受け入れている。
朝鮮出兵で熊本の加藤清正と共に、戦陣を果たした黒田長政は、さすがに居城のある土地には朝鮮通信使を招き入れることに、抵抗感があったのかもしれない。
「黒田家文書」によれば、棟数にして40ぐらいで、畳数931畳分を新調したという。
客館の敷地は全体で野球のグラウンドの面積にも匹敵するほどの大きさを占めるが「常設」といわけではない。
それは10~20年に1度の大イベントである「朝鮮通信使」のための接待所だったから、通信使の帰国後は解体し、西公園に近い伊崎の庫に収められたという。
実はこの相島にはミステリアスな一面がある。
島の東側の長遠な「積石塚群」は、大人から幼児までの日本で二番めの規模をもつ。
不自由な足場を歩くうちに、「賽の河原」という言葉が思い浮かんできた。
相島の「神宮寺」の文書に、1947年に農民達、渡海してこの島を開拓したという記録があるが、「石塚群」の存在はそれ以前にこの島に住んでいた人々がいたことを物語る。
彼らは、安曇族や宗像族というのが有力説であるが、この小さな島に、なにゆえにこれだけの規模の石塚群があるのか、「謎」である。
だが、相島でそれ以上に不可解な事実は、毎回500人を超える異装の朝鮮人来島という大イベントにつき、伝承や口承などがほとんど残っていないという事実である。
2006年、山口岩国の客館において、相島の地図が見つかり、客館の位置が明確に示されており、また発掘によっても裏づけがとれ、ようやく「客館」が波止に近いあたりと確定したほどである。
現在、世界遺産登録を目指す"胸騒ぎの島"である。

山口県の東部、広島・愛媛の両県に近接した大島は移民の島として知られている。
大島は「屋代島」とよばれ瀬戸内海三位の面積をもつ、石器時代からの海上交通の要地であった。
源平合戦の際、源氏の軍船の寄港地と伝えられ、また水上水軍の根拠地として重要視された。
幕末、第二次長州征伐においては最初に戦火を浴びて明治新政府誕生の生みの苦しみも味わっている。
大島東部は花崗岩質の土壌で水が不足しがちで畑作地帯となり、西部は保水もよく稲作も可能であるが 山が多く土地は狭い。江戸時代サツマイモが伝えられ享保の凶作の頃から東部を中心に人口が急増し、「イモ食い島」とよばれるようになる。
明治の西南戦争後の不況で出稼ぎ人が多数帰農し「過剰人口」に悩むようになる。さらに1883年以来の旱魃で人々は餓死寸前の状態に追い込まれた。その悲境のさなかハワイ移民の話がもちあがった。
背後に明治政府の外相で長州出身の井上馨の力があったといわれている。
1885年から1894年までの10年間、大島から数多くの人々が官約移民としてハワイに渡った。
移民の先駆者である郷土の先人達の記録を残すべく、1999年2月、日本ハワイ移民資料館が開館した。
資料館といっても建物は一般の民家である。
この家の持ち主は福元長右衛門で5人兄弟の次男で9歳の時父親を亡くし1898年16歳でサンフランシスコに渡り苦学して学校に通い貿易業に従事し1911年帰国している。氏がなくなった後、この家は寄贈され日本ハワイ移民資料館となった。
福元長右衛門氏はアメリカ帰りということもあり、家の造りや使用された道具などが当時一般の日本人家庭とはちがっていた。
日本ハワイ移民資料館そうした福元家の家屋の造りなどがそのまま保存されている。
また福元長右衛門がアメリカから日本に持ち帰った当時の服や鞄・靴などの生活品も展示されている。
大島町役場に行くと職員のみなさんは全員アロハシャツで仕事をされており雰囲気がとてもなごやかであった。
島は1963年ハワイのカウアイ島と姉妹縁組を結び、以来島ぐるみの交流をしている。
1889年にはカウアイ島よりホームステイの交換留学生8人ら一行が来島している。 1998年には安下庄高校がカウアイ島への修学旅行を実施している。
また「旅する巨人」といわれた民俗学者・宮本常一は周防大島出身で氏の集めた資料をもとに2004年に「周防大島文化交流センター」が東大和町にもうけられている。
さらに、「なみだ船」はじめ多くの演歌のヒット曲を生んだ作詞家・星野哲郎氏の出身地でもある。

広島の宇品港から8キロ広島湾に浮かぶ「似島」(にのしま)という島がある。
この島は、瀬戸内のうららかさとは対照的に日本人にとって「重い歴史」を刻んでいる。
日清戦争から太平洋戦争の終結まで、帰還する兵士の検疫所があり、後の台湾総督・東京都知事となる後藤新平も、若き日一時ここで仕事をしていた。
そして、太平洋戦争末期には原爆被爆者の多くがこの島に送られたのである。
この似島には海抜300メ-トルほどの安芸小富士とよばれる山があるが、そのふもとに社会福祉法人「似島学園」がある。
また山の中腹に「いのちの塔」があり、あたかも似島学園の「守り神」ように立っている。
この学園は、教育者・森芳麿が戦災孤児を引き取り、翌1946年9月似島に保護収容施設を開設したのを始まりとする。
この施設は、森氏が広島県や広島市に強く訴えかけ、島の北東部の山林を含む「旧陸軍施」設跡地を借り受け、職員と児童の手によって切り拓かれて作られたものであった。
創立時の正式名称は、「広島県戦災児教育所似島学園」である。
職員や戦後の窮迫した社会状況の中、養豚、養鶏、カキの養殖などをして生活した。
そして森芳麿は家族とともに移り住み、二人の息子もこの学園で学んでいる。
戦後1948年、児童福祉法に基づく児童養護施設として認可され、1952年社会福祉法人・似島学園と改称し、1966年には知的障害者施設高等養護部を併設した。
森芳麿の長年に渡る「児童福祉」の貢献に対して2002年、第11回ペスタロッチー教育賞が、2007年には、戦後設立された施設として初めて石井十次賞が贈られている。
似島学園の施設の敷地内には森芳麿の胸像がたっているが、この似島には胸騒ぎの歴史が秘められている。
この島には、第一次世界大戦後ドイツ時捕虜収容所がおかれ、捕虜達と広島市内の師範学校の学生達の交流試合が行われ、その高度な技術がこの島から広島の教職員達に伝わったのである。
ドイツでサッカーワールドカップが開催された2002年に似島に行った際、フェリーに置いてあったパンフレットに福岡を拠点とするJリ-グチ-ム・アビスパ福岡の元監督・森孝慈の名前を見つけた。
似島学園の創立者・森芳麿の次男が森孝慈で、長男・森健兒はJリーグ設立の功労者である。

北九州の門司港は、日清戦争以来、大陸への前進基地としての役割を果たし、多くの将兵や弾薬、食料、軍馬などを数多く運んできたため、門司港には「軍馬の水飲み場」が残っている。
そこで下関に近い彦島に牛馬の牧場があり、そこに「検疫所」がもうけられていた。
この牧場をもうけたのは、日本の牛乳屋では先駆的な「和田牛乳」である。
そして、この和田牛乳と和田一族には、日本の近代史と共に歩いた家族史があり、一人の女優誕生もその小史の一コマとして存在している。
和田牛乳は、徳川慶喜に仕えた幕臣であった和田半次郎よって創業されたもので、いわゆる士族授産の一環として誕生したものであった。
当時、50歳を過ぎていた和田半次郎がたまたま住んだ所に、オランダ人に乳牛を学び日本で始めて牛乳製造販売を行っていた前田留吉という男に出会い、その感化を受けた。
さらに半次郎は初代の陸軍軍医総監の松本良順らによる牛乳が健康に良いという奨励がなされており、牛乳の需要が伸びると見込み乳牛業をはじめた。
ちなみにこの松本良順が、日本で最初の海水浴場を大磯につくった人物である。この大磯には、吉田茂首相の自宅があった。
和田家は日本における牛乳業の草分け的存在で日本で最初の低温殺菌牛乳をつくった一族として歴史に名を刻んでいる。
秋葉原駅近くの旧二長町に牛乳本店とミルクプラントをもうけ、後に北千住などに牧場をもっていた。 二代目和田該輔(かねすけ)の長男の輔(たすく)が後を継ぐべく期待されたのだが、あまりに風来坊気質が強すぎて、とうてい乳牛業にはむかず、輔の弟である重夫が和田牛乳・三代目となるが、この重夫が日本初の低温殺菌牛乳を生んだのである。
ところで、東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。和可菜はいわゆるカン詰用の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり木暮実千代として知られた女優である。とはいっても、実質的な経営は、つまの妹が行っていた。
木暮は、和田牛乳の三代目と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、三代目に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくった。
これが「下関彦島検疫所」となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も政治的な関わりをもつことになったのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は下関生まれで山口の梅光学院を卒業した。
木暮が日大芸術学部の学生時代に、その美貌が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったが、木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にいとこで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
さて1960年代、和田静郎が「すらりとやせる和田式美容体操法」を考案し、実践者の内から「ミス日本」が生まれ大ブレイクする。
2015年、和田の業績を讃え、各界で顕著な活躍を見せ、将来の期待を抱かせる女性に対して「和田静郎特別顕彰ミス日本」が新設され、その第1号に新体操の畠山愛理(広島カープ鈴木誠也夫人)が選ばれた。
ただ、この美容法が「馬の痩身術」からあみだされたことを知る者は、和田一族以外ほとんどいない。