意外ずくめ「日本野球」

現在の早稲田大学情報総合センター内に「ここにかつて野球場があった」ではじまる碑が立っている。
この碑の横に建っているのが「安部磯雄像」で、戦前は「戸塚球場」の名で知られ、戦後は「安部球場」と名を変えた。
つまり、昭和が終わらんとする1987年11月まで、ここは野球場だったのである。
安倍磯雄は、福岡藩士の次男に生まれ地元の私塾向陽義塾、同志社大学で学び、東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となる。
キリスト教的人道主義の立場から”社会主義”を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者として教科書にも登場する。
安倍は、早稲田大学野球部創設者でもあると共に、日本の野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれている。
というのも、今でこそプロ野球人気だが、プロ誕生以前はもちろん、第二次大戦後も50年代まで、野球ファンを”とりこ”にしたのは、意外にも「東京六大学野球」や夏の甲子園大会であった。
それにしても、社会主義先駆者が「日本野球事始め」とは意外だが、一体安倍の何がそうさせたのだろうか。
まず、野球の主役に躍り出たのは明治時代の「旧制一高」(東京大学の前身)であった。
しかし、1904年6月、当時学生野球王者と謳われた「一高」に、早慶両校が連日にわたり勝利すると、"早慶戦"が学生野球の”花形”として衆目を集めるようになる。
しかし両校の応援合戦が過熱化し、やじの飛ば合い。悪口と罵詈雑言の嵐で、慶応の学生が「大隈重信(早大創立者)宅の門から玄関先になだれ込んで大騒ぎをしたり、反対に早稲田の学生が野次馬をともなって福澤諭吉邸(慶應正門)で万歳を唱えるなどした。
両校応援団の間に不穏な空気が流れ、事態を憂慮した両校関係者は、続く試合の中止を決めたばかりか、以後早慶戦は19年もの空白期間に入る。
その空白の期間の頃、早稲田の野球部は初のアメリカ遠征へ旅立った。そこで、大学スポーツだけで行われていたある”応援風景”を目にする。
そこで”カレッジエール”といわれる、整然した応援のスタイルで、ひとりが大声をはりあげるよりも、よほど相手方選手にもよく届く。
それを、そっくりそのまま日本の球場に持ち込み、応援団が相手チームに”エール”を送り、それを相手も返してくれるスタイルが生まれた。
「都の西北」早稲田と「陸の王者」慶應が互いに相手をリスペクトする「エールの交換」である。
さて、東京六大学野球は1914年、明治大学が早慶戦中止の中の両校の間をとりもって三大学野球リーグを結成。早稲田、慶応、明治の三大学対抗からスタートするが、相変わらず早慶戦は実現せずの事態が続いた。
しかし、1917年から法政大学、1921年には立教大学が参加し、五大学でのリーグ戦を実施するようになった。
1925年の秋に早慶戦がようやく復活し、このシーズンから東京帝大(東大)も加わって、今日に続く「東京六大学」が始まったのである。
実は「東京六大学野球」形成のこの間、意外にもある「学問論争」が影響を与えた。
それが、あの「民法典論争」である。日本が近代的な法整備を行うために招いた外国人がボアソナードは、個人主義的色合いの強い民法(以後、旧民法)を創り、政府はそれを採用し1890年に公布された。
ところが1891年、旧民法公布の次の年に東大教授の穂積八束が、「民法出デテ忠孝亡ブ」という言葉で反対を表明した。
この「民法典論争」は、首都圏の大学をも巻き込んでしまった。
「旧民法賛成派」が法政大学・明治大学で、「旧民法反対派」が中央大学・早稲田大学・東京大学で、最終的には、”反対派”が勝利した。
さて、法政大学には現在ボアソナード・タワーという研究施設もあるが、中央大学は、東京五大学野球連盟(1921年~25年、現東京六大学野球連盟)から東京帝国大学などとともに”新規加盟”を打診された経緯を持つが、当時東京帝国大学との「民法典論争」の渦中にあり、これを理由に固辞したのである。
しかしその一方で、中央大学が主体となって、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学とともに新しい五大学野球連盟(現東都大学野球連盟)を結成した。
創生期には専修大学、日本大学と常に優勝争い、東都リーグ発展に大きく貢献したのである。
人気の「六大学野球」と、実力の「東都大学野球」の基本形が出来たのは、意外や「民法典論争」だったのである。

「日本野球事始め」の中心人物といえば安倍磯雄だが、その後継者の飛田一洲(とびたすいしゅう)の働きも見逃すことはできない。
実は、早稲田の球場跡地の「安倍磯雄像」に寄り添うように立っているのが「飛田穂洲像」である。
前述のように、早慶戦の空白期間、慶應が学生大会を開いて”全競技”での早稲田との試合禁止を決議すれば、早稲田も慶應に絶縁状を送るなど、両校の関係は修復不能と思われるほど険悪化していた。
しかしそんな中、早大監督であった飛田こそ、早慶両校のトップを説得して早慶戦復活を果たし、明大の協力を得て六大学リーグの結成にこぎつけた功労者なのである。
飛田穂洲は、茨城県東茨城郡大場村(現・水戸市)出身で、父親は大場村初代村長でもある豪農であった。
親の反対をおしきって早稲田大学に進学し、飛田は自身は野球部で二塁手としてプレー、5代目主将にも選ばれている。
安部磯雄は早稲田の初代部長として、選手およびコーチ時代の飛田に、多大な影響を与え、飛田は安倍を”第二の父”とよぶほど親しんでいた。
安部は飛田に、品性優秀にして人の範とするにたるということこそが、選手の第一条件であるという教訓を伝えている。
1910年、早稲田大学は来日したシカゴ大学に大差で6戦全敗し、当時野球部主将であった飛田は、その責任をとって選手を辞退した。
大学を卒業後、雑誌の編集者をした後に読売新聞社に勤務したところ、早稲田大学野球部監督の要請をうけ1919年から1925年まで初代監督(専任コーチ)を務めた。子供二人のこぶつきの身で、収入減による生活苦は覚悟の上で、社会的な地位はないに等しい監督をを引き受けた。
それはなんといっても、シカゴ大学への雪辱の思いが絶ち切り難かったからだ。
そんな飛田の”雪辱への思い”はシカゴ大との敗戦に始まったことではなかった。
飛田が野球を志したのは、母校の水戸中学が下妻中学戦に敗れたことに衝撃を受け、自ら選手になって下妻に雪辱したいという思いからだったという。
また先輩が慶応中に大敗を喫し、先輩に慶応に勝ってくれと頼まれると、飛田は水戸中学の主将となり、わざわざ上京して慶応と試合し勝利を得ているほどだ。
そんな飛田が早稲田大学野球部監督に就任するや、1勝1敗2引き分けで迎えたシカゴ大学との最終戦を4対0からの大逆転で勝利した。
1925年11月9日のこの日、飛田は夢心地でわが家に帰り、幼児二人を抱いて涙を流し、自分の役割は終わったと”引退”を決意したという。
ちなみに、なお、高校球児に馴染みの「一球入魂」という言葉は、飛田が野球に取り組む姿勢を表した言葉である。
あるOBは、「飛田翁の精神的素養には、生誕地の土地柄から旧水戸藩の士風の伝承もあったと思われる」と語っているが、こんな飛田の気性は父と慕う安倍磯雄とのコンビで、相乗的に野球への夢を膨らませたのではないかと推測する。
というのも二人の出身地である福岡藩と水戸藩は、明治維新に勇み足したか、乗り遅れたかで、そんな師弟コンビの秘めたる思いは、きっと「ベースボール」というスポーツに、単なるスポーツを超えた”何か”を見出したからにちがいない。
実は、福岡(久留米)と水戸の結びつきでは、思い浮かべることがある。
江戸後期、水戸では、独自の"尊王思想"が形成され、この水戸学の影響下、水戸浪士による井伊直弼の暗殺「桜田門外の変」が起こっている。
昭和の時代、この水戸・大洗において井上日召らの「血盟団」が結成され、”君則の姦”を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられた。
こうした「昭和維新」を志す水戸出身の若者の思想形成に、水戸学の”尊王思想"の影響があったことを否定できない。
久留米の神官であった真木和泉は、水戸学を学んで尊王思想を抱き彼らと交流をもった。
さらに久留米生まれの権藤成卿は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成、彼がまとめた「南淵書」は、北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新のひそかな“バイブル”となった。
権藤は1929年の春、権藤はのちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿させ、「血盟団メンバー」に思想的影響を与えたばかりか、そのアジトとなる場所を提供したのである。そこには、政府と財閥との結びつきへの怒りが込められていた。
その点、方向性の違いこそあれ、安倍と飛田の野球における結束と似ていないか。
社会主義者と野球の結びつくに違和感を覚えたが、安倍磯雄は野球をキリスト教精神と相俟って”平和主義”の礎(いしずえ)としようとしたのではないか。
そこに、薩長軍閥がおしすすめる軍国主義への”抵抗”を読み取ることはできないだろうか。

社会主義者の安倍磯雄と野球の結びつきと同じくらいに意外なのは、歌人の正岡子規と野球の結びつきである。
実は、子規自身が野球黎明期の熱心な選手で、子規がプレイした上野には「正岡子規記念球場」がある。
そればかりか子規は、現在まで使われている漢字の野球用語を多く残している。
例えば、「打者」「走者」「四球」「死球」「直球」「飛球」などと野球用語をオリジナルで訳し、新聞や自分の作品の中で野球を紹介した。
なにしろ、自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともあるくらいの熱のいれようだった。
また、「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどして、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。
これらのことが評価され、子規はナント、2002年に野球殿堂入りを果たしているのだ。
しかし野球用語をよくよく見ると、「死」「殺」「刺」「盗」などかなり物騒だが、戦局高まる時代背景がものをいったに違いない。
そして、実際の戦時に至った1943年3月、野球の用語、ルールから英語が消えた。
軍の意向を受け、野球用語を全面的に日本語化することが、職業野球(プロ野球)理事会で決定されたからである。
この当時は太平洋戦争の真っ只中であり、敵性語として英語の排除が進み、中等野球(現在の高校野球)、都市対抗野球、東京六大学野球などが相次いで中止された。
しかし、職業野球(プロ野球)だけは行われており、職業野球を存続させるためにと軍の意向通りに日本語化を受け入れた。ストライクは正球、ボールは悪球、セーフは安全、アウトは無為などに変わった。
審判も、ストライクワンは「よし1本」、フォアボールは「一塁へ」、アウトは「ひけ」、三振アウトは「それまで」などとコールするようになるのである。
敵性用語の禁止は野球にとどまらず、テニスのネット・インは「網こすり、よし」などというコールが行われたのである。

朝日新聞は、戦前より全国中等学校野球などを主催したが、軍事色が強まる中で、軍部追従の記事を書いてきた。
その反動で、敗戦後の記者たちの多くは方向性を見失っていた。
それは教師も同様であり、一部の記者たちを中心に、朝日新聞社の命運をかけて「夏の甲子園」復活をかけてGHQや文部省との交渉にあたった。
ところが意外にも、GHQは、日本の野球教育はプロパガンダにつながりかねないと大会復活に難色を示した。それはまるで「野球道」のように戦前は精神論が強かったためだと推測される。
日米野球の違いは、アメリカのジャーナリストのホワイテイングによる「和をもって日本となす」という日米文化比較論の名著というもいうべき本に明らかである。
なにしろGHQは、武道に始まり、歌舞伎の「忠臣蔵」や「勧進帳」はり灸から将棋までも、規制の対象として考えられていたからだ。
そんななか、高校野球の復活に奔走したのが佐伯達夫である。
家系は青木姓を名乗る長州藩の下級武士だったが、父が絶家となっていた広島浅野家で能狂言を教えていた佐伯家を継ぎ、廃藩置県のあと一家で神戸に出て達夫が生まれた。
佐伯は、旧制市岡中学校時代には既に野球の名選手として知られていた。
後に早稲田大学へ入学するが、当時は早慶戦が中断されていた時の在学であったため、慶應義塾大学と対戦できないという悲哀を味わっている。
この佐伯は朝日新聞記者らとの協力の下、終戦からわずか1年後の1946年8月15日に奇跡的に「全国中等野球大会」を復活させた。
ただし舞台は、GHGに接収されていた甲子園球場ではなく西宮球場であったものの、意外にも中止前の617校を上回る750校が参加したのである。
ただし、1967年に日本高等学校野球連盟の会長に就任した佐伯達夫は、高校野球については「プロの養成機関ではなく教育・人間形成の場」と終生公言するほどアマチュアリズム精神に厳格なことで知られている。
特に、1956年には球児はプロ野球の札束攻勢に惑わされてはいけないとの理由で「佐伯通達」を出し「天皇」とも呼ばれるに至った。
しかし、そもそもどうして「春・夏」2回の甲子園があるのか。
そこには東京六大学野球の形勢を決定した「民法典論争」と同じように、ひとつの論争が影響を与えた。
学習院院長乃木希典などが、学生たちが野球に夢中になって学業がおろそかになることを懸念し「野球は心身に害毒をもたらす」と主張した。
これが、世間を騒がせ、この意見を連載した東京朝日新聞は部数を伸ばした。
これに対し毎日新聞傘下の東京日日新聞は「野球擁護論」を展開し、華々しい論戦を展開した。
しかしそれから4年後の1915年、大阪朝日新聞は、突然、「全国中等学校優勝野球大会」を開催する。
東京と大阪の違いはあれ「青少年への野球の害毒」を主張していた朝日が一転、野球推進派に回って大成功し、朝日の部数拡大にも貢献したのである。
一方、もともと「野球擁護論」を展開していた毎日新聞は1924年、建前上”学業”をも考慮した選抜方式の「全国選抜中等学校野球大会」を始める。
終戦後、甲子園球場は占領軍に接収され、GHQは「なぜ、大きな全国大会を年に2回も開催するのか?」と、なかなか使用許可が下りなかった。
このときGHQを説得したのが大阪毎日新聞代表取締役編集局長の本田親男だった。
本田親男は、「夏の甲子園」と選考委員会が選抜する「春の甲子園」の違いを力説し、マーカットの理解を得たという。以来「春の甲子園」は「夏の甲子園」とともに日本の野球ファンを沸かせる大会となった。
そこには意外にも、「野球害毒論」なるものが介在したのである。