廃棄か別途使用か

一般に使われなくなったモノは廃棄するが、廃棄するにも費用がかかる。
すると、それらを別の場所で使ったり、生まれ変わらせて違う用途で使った方が、より賢い使い途である。
だがそれは、日常生活に彩りを与えるものから、凶悪な力にさえなることもある。
早稲田大学近くにある蕎麦屋、 創業は江戸時代で、早稲田大学創立者の大隈重信もこよなく愛した。
現在は五代目の店主が切り盛りをしている。
この老舗蕎麦屋こそは、「カツ丼」発祥地である。
今から100年も前、初代店主が経営する店は早稲田大学の目の前ということもあり、お昼どきは学生達で大繁盛していた。
夜になると宴会客で賑わったが、みんなのお目当てはソバではなくトンカツ。当時は めったに口にできないぜいたく品だった。
この店では、仕出し屋からとったトンカツを振る舞い、大人気となっていたのである。
その夜も貸し切り営業で、忙しくなるハズだった。
ところが、お客さんが宴会を中止にしてくれという連絡がはいった。
仕出し屋に行ってトンカツをキャンセルしようとしたが、時すでにおそし。
既に大量に届いていたのだ。高価なトンカツを、 捨ててしまうにはあまりにも もったいない。
途方に暮れていたその時、ある常連客の一言がピンチを救った。
そのトンカツを蕎麦のだし汁を使って、たまご丼みたいに柔らかく煮たらどうかというものだった。
店主は、一か八かの思いで、思いきって 蕎麦つゆにカツを入れたまごでとじてみた。
恐る恐る食べてみると、予想外にうまかった。
これが蕎麦屋でカツ丼が誕生した瞬間で、名前はといえば、「カツ丼」に決まり。
カツオ節が持つ和風の旨味がトンカツにしみ込むことで、日本人が大好きな味に仕上がったのである。
大量に作るそばつゆを無駄なく活用できるとあって、蕎麦屋にカツ丼は全国に広まっていっていく。
さて、青森県南津軽郡藤崎町、この地域の特産物と言えば、りんご。
618軒のりんご農園があり、世界で最も生産量が多い「ふじ」の発祥の地として知られている。
今から30年ほども前、この町でりんご農園を営む平田博幸は、丹念に育ててきたりんごの成長を見守っていた。
待ちに待った収穫の時期まで、あと2ヶ月という頃、予期せぬニュースが飛び込んできた。
この年、広い範囲で猛威をふるった台風19号。9月26日、沖縄県を通過したのち、九州、中国、四国地方に甚大な被害を及ぼしていた。
この日の昼には、最大風速50km以上を記録。その勢いを保ったまま、北陸を通過していき、東北地方に向かっていた。
予報通りに進めば、台風は平田が住む藤崎町を直撃してしまう。 とはいえ、収穫時期の2ヶ月も前、まだ成熟していない りんごを収穫しても、そのままでは売り物にならない。
できることといえば、農園に風よけの網を張ったり、りんごの木を支柱で支えたりするくらいしかなかった。
そして迎えた、翌日の早朝。予報通り、台風19号は青森を直撃! 瞬間最大風速53mの強風が県内に吹き荒れた。
その結果、青森県内の農園で大切に栽培されていたりんご、そのほとんどが強風により落下。
藤崎町では、予定収穫数の9割が落ち、残ったのは、わずか1割程度。
それだけではない、台風のダメージを受けた周辺の施設や器具、復旧にかかる費用などを含めると、被害額はおよそ26億円。
この台風19号は、のちに「りんご台風」と呼ばれるほど、農家に大打撃を与えた。
多くのりんご農家が存続の危機に直面した。 来年以降も栽培を続けるためには、どうにかして収入を得なくてはならない。
だが、台風で落ちてしまった りんごは、未成熟で傷が多いため、そのまま店頭に並べることはできない。
落ちなかったりんごは、たったの1割、これでは焼け石に水だった。
数日後、平田はあるアイデアを思いついて意外な場所に相談にいった。
そこは青森神社庁で、担当者からこの案件、一旦預けて欲しいといわれた。
その後、その人物は、様々なところに連絡を入れ始めた。実はその人物、神社本庁の役員でもあって、青森以外の場所でも、そのアイディアが実現できるように口を利いてくれたのだ。
その場所とは東京の明治神宮や湯島天満宮、神奈川の鶴岡八幡宮など、実8箇所の有名神社。
それらの神社は、なんと青森のりんご農家の希望をうけいれ、正月に境内で”りんご”を販売したのだ。
しかも、本来1個100円のところを、1000円という値段で売っていた。
そのアイディアが生み出されたのは、台風が通過し、被害の大きさが判明した直後だった。
強風でも落ちなかったりんごの強運を分けてもらう受験生用の縁起物としてはどうかというアイディアだった。その名も「落ちないりんご」。
台風被害によって落ちてしまったりんごの何割かは、ジュースなどの加工用として使用できたが、それでも、例年の3割程度の売り上げにしかならなかった。
他のりんごは、加工することすらできず、廃棄するしかなかった。
そこで藤崎町では、落ちないりんご販売実行委員会を組織。
役所と農家が協力して、台風の2ヶ月後、落ちなかった1割のりんごを収穫。みんなで箱詰めもした。
さらに、パッケージに台風19号の強風にも耐えた強運なりんごであるという証明書も添えた。
そして、翌年の正月、藤崎町のりんご農家たちが直接出向き、協力してくれた神社などで「落ちないりんご」は販売された。
1個1000円と高額ではあったが、彼らの狙い通り、受験生や受験生の家族に大反響。
なんと、6万個も売り上げ、損害の穴埋めに大きく貢献したのである。
その年の春、藤崎町の農家に嬉しい知らせが届いた。受験に合格した学生や、その親から届いたたくさんの手紙だった。
こうして、危機的な状況を乗り越えることができた藤崎町のりんご農家。
落ちないりんご販売実行委員会もこの年限りで解散のはずだったが、受験生たちから「落ちないりんご」の販売を続けて欲しいという声が多数寄せられた。
その反響を受け、台風から2年後、若手のりんご生産者たちで、「有限会社 落ちないりんご」を設立。
毎年、収穫後、「落ちないりんご」を販売。
受験生やその家族をはじめ、縁起をかつぐりんご愛好家に届けている。
このアイデアを出した平田は、現在、藤崎町の町長を務めており、また違った立場からりんごの生産を見守っている。

1952年10月、一時は核戦争一歩手前まで行った朝鮮戦争が終結した。
使われなかった米軍の戦車は日本で解体され、その鉄骨は東京タワー建設に使われることになる。
旧約聖書に「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」 (イザヤ2章)とある。
個人的な体験だが、この東京タワーの売店の新聞で、その約3時間前に自分が死んだかもしれない出来事が起きていた事実を知った。
1974年8月30日、午前11時ごろ、丸の内のビル街を通って皇居広場に向かっていた。
オフィス街の底から上空を見上げると、雲一つかかっていない青空であったことを鮮明に覚えている。
それから、日比谷公園あたりの地下鉄に乗った。
その2時間後、自分が通ったばかりの丸の内オフィス街の「三菱重工ビル」が爆破され周辺企業を巻き込んで、窓ガラスが粉々になって落下した。
8名の死者と多数の瀕死の重傷者を含む300名以上の負傷者が出る大惨事となった。
夕方に現場を訪れると、空も地上も騒然として、戦場とはこういうものかと思ったほどだった。
最近、この凄まじい破壊力のある爆弾は、本来、"この日この場所で"使用されるものではなかったことを知った。
この時代、企業爆破は連続して起きていて、「東アジア反日武装戦線“狼(おおかみ)”」と名乗る極左テロ組織が、犯行声明を出した。
リーダー大道寺将司ら、それ以前に天皇が乗った列車を爆破しようとした計画があった。昭和天皇が「幾千万のアジア人民を虐殺した」と見なし、1974年に「虹作戦」と称する計画を練ったものだった。
皇居前に位置する軍需産業の主力「三菱重工」をターゲットとしてのも、そういう意図があってのことだ。
大道寺は、北海道釧路市出身。小学生時代より、新聞を丹念に読んではスクラップ帳を作る公務員の父親や、北海道議会議員だった継母の義理の兄、そしてその息子で高校生ながらに60年安保反対運動の先頭に立っていた太田昌国らの影響から、政治への関心を持つようになる。
中学校入学後は学区の中にアイヌ居住区が含まれていたため、多くのアイヌの同級生たちと交流する中で、その厳しい暮らしぶりや中学3年時でのアイヌに対する就職差別を目の当たりにし、問題意識を抱くようになった。
大阪阪外国語大学を受験。不合格となるが、そのまま大阪に残り、釜ヶ崎近辺での約1年間の生活を経て高校の先輩たちが中心の社会主義研究会に参加するようになる。
この研究会の意向で法政大学に同会の運動の足場を固めるべく、同大文学部史学科に入学している。
彼らは、那須御用邸に毎年滞在する天皇と皇后が、8月15日の全国戦没者追悼式に出席するため、14日に栃木県の黒磯からお召し列車に乗って原宿の宮廷ホームに帰ってくると狙いをつけ、列車が川口―赤羽間の荒川鉄橋を通るはずの午前10時58分からの4分間に合わせて爆弾を仕掛けようとした。
「天皇暗殺計画」といえば、大正時代の大逆事件を思い出す。
宮下太吉は長野県安曇野市の明科製材所で爆裂弾を製造し、1909年11月3日に同村大足で爆破実験をおこなっている。
千駄ヶ谷の「平民社」で実行計画が練られたが、実行計画には直接参加していない幸徳秋水を含む26名が逮捕、起訴された。
1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決が言い渡され、判決後すぐに刑が執行され日本中に衝撃を与えた暗黒事件であった。
ところで、東アジア武装戦線の「虹作戦」は、荒川の河川敷に"不審(?)な人影"があったために実行されなかったという。
そしてこの時、廃棄されなかった爆弾こそが、16日後の8月30日、東京・丸の内の三菱重工ビルで炸裂したものだったである。

産業革命の発明家の中で、「綿繰り機」の発明者として名を連ねるのがアメリカのホイットニーである。
彼が発明したものは、産業革命に留まらず日本の明治維新の帰趨に大きな影響を与えていている。その点は教科書には書いてはない。
ジョージア州のプランテーションで木綿栽培が行われていた。
ホイットニーは、その重労働を知り、「綿花の種とり作業」の工夫に熱中し、「綿繰り機」を発明している。
猫が金網越しにニワトリにちょっかいを出して数枚の羽根しか得られない様子を見て、その仕組みを思いついた。
この綿繰り機はフックのついた木製のドラムを水力を動力として回転させ、金網越しに木綿の繊維だけをドラムが巻き取る方式で、種は金網を通らない仕掛けとなっていた。
1台の綿繰り機で、1日に25kgの木綿から種を除くことができ、これにより作業能率が従来の50倍も向上することになり、綿花の産地である南部の経済発展に寄与した。
しかし皮肉にも、この発明で得られた富こそ、南部でのアフリカ人を奴隷として使う制度を定着させることになった。
さて、ホイットニーは1794年に綿繰り機の特許を取得したものの、その法外な手数料は怨みを買ったばかりでなく、機構が単純だったこともあって、必然的に「模倣品」を作る者が現れた。
あわててホイットニーは綿繰り機の製造販売を開始したが、需要を満たすほどは製造できず、他の製造業者の方が売り上げを伸ばした。
1790年代後半、ホイットニーは綿繰り機の訴訟で債務を抱え破産寸前の上、ニューヘイブンの綿繰り機工場が全焼、さらに借金を抱えることになった。
この苦境を乗り越えるために開発・製造を始めたのが「銃」であった。
折りしもフランス革命の勃発で、フランスとイギリス・アメリカとの関係に暗雲が立ち込めていた。
1798年5月、アメリカ議会はフランスとの戦争勃発に備え、小火器と大砲の代金として80万ドルの予算を議決した。
さらに精密な武器を製造できる者には、まず5000ドルを与え、それが尽きたらさらに5000ドルを与えるとした。
借金を抱えていたホイットニーはこの契約を早速請け負った。契約は1年間だったが、彼は様々な理由をつけて1809年まで銃を納入しなかった。
当時、アメリカではイギリスと戦争状態にあったが、なにぶん銃が圧倒的に少なく、軍用小銃(マスケット銃)の大量生産が急務であった。
ホイットニーだけでなく、サミュエル・コルト(6連発拳銃の創始者)などが「部品互換性」による大量生産に取り組んだ。
それでも1801年、ホイットニーは軍関係者の前で、完成した複数の銃をばらし、その中から任意に取り出した部品により、再び銃をくみ上げるデモンストレーションを行い、関係者を驚かせた。
そして「部品互換性」による大量生産をアメリカで最初に取り組んだのがホイットニーであった。
このため、ホイットニーは部品の寸法精度を正確に測定するノギスの発明や平面削りの精度を高めるフライス盤の改良なども行ったのである。
その後ホイトニーは軍用のマスケット銃の製造を政府から請け負うようになり、1825年に亡くなるまで武器製造と発明を続けた。
1825年、コネチカット州ニューヘイブンにて59歳にして死去したが、彼が開発した「マスケット」銃をもとに改良がなされ、さらに精度の高い「ミエニー銃」などが開発された。
幕末の日本において、坂本龍馬がミニエー銃400丁を買い付けて、「いろは丸」に乗せて運搬中に紀州藩の船と衝突し沈没したと主張したことがあった。
実は、このミニエー銃とは、本来滑腔砲であるマスケット銃にライフリングを刻みこんで精度を高めたもので、「ライフルマスケット」とも呼ばれる。
1853年にイギリス軍が開発・採用した「ライフルマスケット」は、完成度が極めて高く、これがアメリカの南北戦争で南軍の主力銃として大量に使用され、戦後60万挺が払い下げられている。
日本の明治維新に至る戊辰戦争は、南北戦争が終結した約2年後に始まった。
日本ではこうした銃を輸入して、雄藩のほとんどで採用されており、戊辰戦争の「主力銃」となるのである。
歴史を振り返ってみると、人間は、作ったものは、なんらかのカタチで使ってしまう存在のようだ。
日本の原子爆弾投下においても、小倉上空の天候が悪かったため、急遽ターゲットが、長崎に変更された。
そんなにも簡単に何万人もの運命が変わるのかと原爆の非道さを改めて思わせられる。
さて、ニュートンは黒死病で外出を控えて「万有引力の法則」を思いついた。不要不急、いらなくなったものの使い途が案外世の中を変えているかもしれない。