筑後川に映る人々Ⅱ

昭和を代表する作曲家・古賀政男は、福岡県大川出身である。戦時の暗い世相にあって「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」は、”古賀メロディー”として人々の心に染み渡った。
また、姿三四郎を題材にした美空ひばりの「柔(やわら)」を作曲したのも古賀政男である。
「平成の三四郎」とよばれたバルセロナ・オリンピックの金メダリスト・古賀稔彦(としひこ)も筑後川沿いの佐賀県みやき町出身というのも奇遇である。
さて、筑後が育んだもうひとりの「国民的」作曲家が、古賀政男に師事した中村八大である。
中村は中国の青島(チンタオ)生まれで、14歳の時に父母の郷里・久留米に帰国し、明善高校卒業後早稲田大学に進学、戦後はアメリカ軍キャンプを回りながら、ジャズ・ピアニストとして活躍した。
そして、いずみたくとのコンビで「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」など古賀雄男とは対照的なジャズ・ティストの明るい曲で人々の心をつかんだ。
さて、古賀政男の出身地である大川は家具作りで有名な地だが、古賀に弟子入りしてデビューした大川栄策は、"家具担ぎ"を特技とする。
市内を流れる大川は筑後川の支流で、古賀メロディーは、筑後川の風景と切り離すことができない。
また、青年期を久留米市で過ごした中村八大とっても筑後川の流れは、”心のふるさと”であり続けたことであろう。
福岡市博多区生まれの梓みちよが歌った「こんにちは赤ちゃん」は、1968年6月8日に自分の長男・力丸誕生に際して作曲したもので、力丸氏は現在「八大コーポレーション」の代表をつとめている。
力丸氏によれば、作詞家の永六輔が病院で、ガラス越しに力丸を見る父の様子とか、父が口ずさんでいたメロディーから発展してできたのが「こんにちは赤ちゃん」なのだという。
そう証言する中村力丸氏こそは、「こんにちは赤ちゃん」の”赤ちゃん”であった。
さて、古賀政男は、ひとりの浪曲師に「無法松の一生」という曲を提供するが、この浪曲師・村田英雄も筑後川が流れる福岡県・吉井で生まれている。
筑後川は、かくして古賀政男・中村八大・村田英雄といった”昭和歌謡の巨星”を生み育んだといえる。

九州小倉の作家である岩下俊作が書いた「富島松五郎伝」はあまり知られていないが、これを題材にした「無法松の一生」の方は、居酒屋チェーンの名前としてもよく知られている。
だが「無法松の一生」を有名にしたのは、この小説を映画監督・伊丹万作がシナリオ化し、阪東妻三郎主演、稲垣浩監督で映画化されたことによる。
喧嘩早く、酒と博打に目がない俥引きの富島松五郎。この松五郎は、その気性の烈しさから「無法松」と仇名された男である。
しかし、「すっぱりした竹を割ったような男」と町の親分に呼ばせたように、正義感が強く、相手が陸軍大将であろうが、警察の師範であろうが、自らが正しいと思えば決して屈することがない。そんな市井の一名物男である。
その無法者の松五郎が、堀に落ちた少年を助けたことから、その少年の父親である吉岡小太郎陸軍大尉に気に入られ、吉岡家に出入りするようになる。
その吉岡大尉が病死してしまうと、残された未亡人の良子と遺児敏雄のために親身になって尽くす。
それはまるで別人のような変わりようで、喧嘩も止めあれ程好きだった酒も博打も止めて、その母子のために忠犬のように誠心誠意尽くすことになる。
そして、そのクライマックスは、創作太鼓でありながら、この映画によってあまりにも有名にした小倉祇園太鼓のシーンである。
主題的には、東野圭吾の「容疑者Xの献身」を思わせるが、「無法松の一生」は名作の誉れが高いにも関わらず、それを”完全な形”で見ることはできない。
なんと、戦時中は軍部の検閲がかかり、戦後はGHQの検閲がかかるという、両方からの「二重検閲」という数奇な運命をたどったのである。
では、どうしてこの映画が「二重検閲」を受けることになったのか。
吉岡母子への献身的な行為、そのすべてが夫人への恋心であったことに松五郎は悩むようになる。その心を打明けようと吉岡家を訪ねる。
しかし、結局何も話せず、「わしの心は汚ない。奥さんに済まん」と平伏して、逃げるように去ってしまう。
その後は再び酒に溺れ、そして山裾の夜道で松五郎は行き倒れてしまう。
このシーンでの検閲切除の理由は、「無学文盲の市井無頼の徒が、大日本帝国陸軍の将校の未亡人に恋慕の情を抱くとは、もってのほかである」と言うものであったというが、それ以上に銃後を守り、国民の鑑となるべき軍国夫人が下賎の男に惹かれることの方が許すべからざる行為であったのだろう。
一方、戦後のGHQにより再び検閲を受け、切除を命令されたという箇所の一つは先出した日露戦争大勝祝賀の提灯行列の場面である。
日露役大勝利万歳などと書いた万燈や飾り行灯の類がまっ黒な空へせり上る。画面一ぱいに無数の提灯が湧き溢れる。
戦後の思想解放によって自由思想が検閲の基準となり、軍国思想の排除と共に封建的な描写の部分を問い直す作業が行なわれ、この映画「無法松の一生」も、その対象となったのである。
この「無法松の一生」を歌った村田英雄は、浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、旅芸人夫妻の子として生まれる。
生後まもなく養子に出され、その後、佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。
4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の地方劇場にて初舞台を踏んだ。
その後大人気の浪曲師に因んで少年 酒井雲と改名。無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね弟子入りし、大阪市西九条に移住し修行を開始する。
師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。
1947年に少女浪曲師のと結婚するものの、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で村田英雄に改名し、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
1958年、たまたまラジオで村田の口演を聴いた福岡大川出身の古賀政男に見出され、すでに映画や演劇で知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲「無法松の一生」を古賀が歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビューを果たした。
かろうじて「人生劇場」のリバイバルヒット以外にはヒットに恵まれずにいたが、西條八十作詞・船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に日本レコード大賞特別賞を受賞する。
「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立していった。
村田は1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。
福岡市吉塚の専売局(現在の”BRANCH”)に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇している。
その避難所であった旧十五銀行福岡支店の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂した。
熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きた。
村田は翌日、現在の博多座あたりで、地下室の遺体搬送作業に従事している。

古賀政男は1904年11月18日、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)にて、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれた。8人兄弟の6番目の子である。
古賀喜太郎が農業の合間に、瀬戸物を天秤に乗せて売る行商をしており、古賀が5才の時、父は肝臓病で亡くななった。享年50。
母子家庭となった古賀家で、一家の暮らしむきはますます苦しくなり、 母セツは、幼い我が子を抱えた田口村での生活に限界を感じ、仁川(インチョン)で商いをしていた長男の福太郎をたよって子どもたちを連れて朝鮮に渡った。
ところが、福太郎夫妻は母を無給の乳母のようにこきを使い、セツはかわるがわる孫を背負い、あまりの酷使ぶりに疲れ果てたセツは、手首を切る自殺未遂まで起こしている。
そんな状況の中、母への思いと同時に、兄への憎悪が幼い古賀の胸に刻まれた。
ただ、義理の姉(福太郎の嫁)たちが持っている三味線、大正琴、筑前琵琶の音が救いとなった。
兄は当然のように政男が商人になることを望み、善隣商業学校への入学を強いた。
古賀は、学生生活の中でも、この時代らしい楽団も結成している。
そして大阪にいた兄・久次郎に頼み込み、念願のマンドリンを手に入れる。
兄の中でも、久次郎は音楽好きのせいか古賀に好意的で、自分に才能がない分に、弟に好意を持っていた。
しかし福太郎からしてみれば、学生生活と音楽を謳歌する弟・政男は、役者の真似をしているどうしようもない道楽者としか映らなかった。
1922年、古賀は善隣商業を卒業し、兄・久次郎のいる大阪で商売を学ぶという名目で、京城を離れた。
ただ、古賀が韓国で耳にした音楽は、生涯忘れることのできない強烈な印象を残している。
伝統的な祭りで奏でられる、朝鮮の笛や太鼓。福太郎の店にいた従業員たちが口ずさんでいたアリランなどの民謡。
古賀メロディーは、クラリネットの音、大正琴の三拍子の響き、そして朝鮮の民謡の抑揚などによって形成されていった。
さて、日本に戻った古賀が身を寄せたのは兄・久次郎の金物問屋であったが、はなから商人の道に進む気はなく、上京して明治大学予科に入学する。
そして、みずから”マンドリン倶楽部”を創設し、音楽家の道を目指すようになる。
兄福太郎はなくなったため、老母セツは気丈にも、大川の故郷で駄菓子屋を開き、娘と孫3人と生きていこうと決意を固めた。
そんな折、古賀が住む東京は、関東大震災に見舞われ、マンドリンすら質に入れようかと思ったところ、母の仕送りに助けられる。そんな母の愛を古賀は、生涯の忘れることはできなかった。
1929年に明治大学卒業後、不況の世の中にあって「卒業してはみたけれど」という言葉がはやった。
古賀もその類に漏れず、ビクター入社を目指していた古賀もその願いは叶わぬまま、人に音楽を教えて暮らす日々を送っていた。
しかし、その環境が1930年に一変する。
学生時代に作曲した「影を慕いて」を聞いたコロムビアが、月給120円という大破格で採用を持ちかけてきたのだ。
古賀は早速、初月給給のうち50円を苦労をかけた母に送金している。
そしてコロムビアで、甘い声を持つ青年歌手・藤山一郎と出会い、藤山一郎が歌った「影を慕いて」は1932年の大ヒット曲となる。
このあとも古賀メロディーは順調にヒット曲をリリースし続け、コロムビアは古賀をさらに厚遇し、作曲へ専念することを奨励、印税の支払いも約束した。
「次もヒット曲を」というプレッシャーと、古賀自身ですらどこまで当たるかわからない、そんな疑心暗鬼に思っていた曲「酒は涙か溜息か」であった。
現実の不安から逃れるように都会ではモボ モガと呼ばれる若者たちが時を忘れ ジャズに興じていた。
三味線のような音を出したらうだろう?
ギターを伴奏に使った効果は意外なところで表れた。流しが こぞって古賀の曲を弾いたのである。
の音色が日本人の心を捉えた。次に取り入れたのがマンドリンの響き。
「酒は涙か溜息か」は発売されるや、またたくまに流行歌となった。
流行歌というより 都々逸に近いのだが、当時の日本は世界恐慌に端を発した昭和恐慌に陥り銀行や企業の倒産が相次ぎ、その世相を反映していたのか、この暗い曲が大当たり!。
戦前最大の大ヒット歌謡となり、かくして古賀は「コロムビアのドル箱」と呼ばれるようになった。
ところが時代は国家総動員の軍国主義の時代へと向かう。言論の自由がなく、逆らえば命すら奪われかけない厳しい時代が到来する。
真珠湾攻撃が行われる1941年、読売新聞社主催により、古賀が審査員を務める「国民総意の歌」の公募が行われた。驚くことに、古賀は全て選外とし、自らが作曲し、盟友・西条八十が作詞した「そうだ その意気」を発表する。
当時の古賀は軍歌を作曲したばかりか、自ら指揮棒をふるい、歌手を歌わせ、出征する兵士の背中に“エール”を送ったのである。
そこには甘粕正彦や石原莞爾に対する思想的共感があったのは確かだが、古賀の手掛けた曲「軍国の母」などは、皮肉にも我が子の出征や戦死を嘆く母をも「非国民」とみなす時代風潮を作り出した。
当時、軍歌は軍需品で、軍歌の帝王とよばれたのは、古賀の後輩にあたる現在のNHK朝ドラ「エール」の主人公・古関裕而であった。
古関は福島の呉服商の子であり、商業高校出身であること、専門の音楽教育を受けていないという点では、古賀に通じる面があった。
なお、ブルースの淡谷のり子は派手なドレスで慰問したことを軍人に咎められるが、歌手にとってドレスは”戦闘服”であると反論し、始末書の山を築いている。
それでも日本は太平洋戦争に敗戦、新しい世の中には新しい曲が求められた。昭和30年代、古賀メロディーを歌い一世を風靡したのが美空ひばりである。
ひばりこそ、戦後の古賀メロディー”再出発”になくてはならない存在で、「悲しい酒」によって、昭和歌謡は成の域に達したといってよい。
さて、古賀の望郷の思いを映したのが、ディック・ミネの「人生の並木路」であるが、作曲の際、古賀の脳裏には幼い頃の風景が蘇り、涙で五線紙を濡らしたという。
地方の村で唯一の楽しみは年に1度やって来る曲馬団の一座で、当時 サーカスがやってきた鎮守の森が生家の近くにある蛭児(ひるこ)神社である。
曲馬団がテントを張って、サーカスの客寄せのクラリネットが奏でる「天然の美」のうら悲しい三拍子の旋律が古賀少年の胸に刻まれた。
「影を慕いて」「人生劇場」「悲しい酒」は、いずれも三拍子の名曲である。
ふるさと 大川で過ごした期間はわずか7年であったが、古賀が目に焼き付けたふるさとの光景は、小学校の時の遠足で訪れた菜の花が いっぱい咲いた筑後川の情景であった。
しかし、代々木の「古賀政男記念館」に残る1978年の”死の2日前”に書かれたメモはかなり”厭世的”でさえある。
「今宵もまた懐メロ大会を放送している。私の歌はいつまで繰り返されるのだろう。私の歌の好きな人は、みんな悲しい人ばかりだ。早くこんな歌が唄われなくなる日が来ると好い。みんなハピー(原文のまま)になってほしい。
日本人が明るく楽しく愉快に暮らしてゆける時代が来ると好い。悲しみなんかもう沢山だ。
戦争の傷跡もピカドンの慟哭も早く早く消えろ。そして古賀メロディも早く去れ。私も早く消えたい、この世から日本から」。
このメモをどう読み取るか。古賀政男の曲が人々の心に届かなくなった、そんな世相を喜んでいるのか、嘆いているのか。
古賀は死から10日後、王貞治に次いで二人目の「国民栄誉賞」を受賞している。享年73。