芥川龍之介の「侏儒の言葉」で妙に印象に残った一節がある。
「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫
迦々々しい。重大に扱はなければ危険である」。
確かに、マッチを重大な発明というには莫迦々々しいが、だからといって軽くは扱えない。
その発明は、意外にもワットの蒸気機関改良以後だが、年表に「マッチ発明」を見たことがない。
ライターが初めて登場したのは1772年のことで、マッチに先立っているのだ。
マッチは1826年に、イギリスの薬剤師ウォーカーによって初めて発明された。
軸木の先に黄燐を付けた「黄燐マッチ」であった。
日本で広がったのは明治のはじめ頃で、意外なほど歴史は浅い。
そして戦後、戦火に怯えずとも、食料や物の不足はむしろ深刻になり、配給品が横行していた。
当時のマッチは生活必需品。朝、まずマッチで火を起こさなければ、炊事ができなかった。
まさに、マッチ一本、”家事”の元なのだ。
だが一日一人あたり数本の計算で配給されるマッチは擦っても折れたり、火薬がついていなかったり。
質の良いものはヤミで髙い値段がつけられた。
1948年9月2日、車に乗った女性がメガホン片手に東京都内の街頭で、翌日開く「燃えないマッチを持ち寄る会」を宣伝し、ガリ版りのチラシを配ってまわった。
当時20代の若さで、幼い長男を背負って陳情に歩いたこの女性の名は、奥むめお。
第1回参院選に当選した国会議員でもあった。
福井県出身で日本女子大卒業後、平塚らいちょう、市川房枝らと女性政党や政治集会参加を禁止じた「治安警察法第5条」の改正に取り組んだ。
1922年に改正は実現するものの、一般の女性が集会に参加することはほとんどなく、関心も低かった。
衝撃を受けた奥は生活に根差した活動に方向転換。職業婦人を支援し、昭和初期に「託児所」を開き、婦人消費組合教会を組織した。
当時、奥の「不良マッチ追放」の呼びかけは人々の心をつかんだ。
会場となった明治通り沿いの社会事業会館には、マッチを風呂敷に包んでやってきた数百人の女性が殺到、次々と取り換えてもらった。
会には、マッチ会社の代表十数人、商工省、経済安定本部の担当者が出席、女性達は粗悪品を使わねばならない苦労を訴え、
責任を追及した。
居並ぶ企業は謝罪し、「以後不良品を作らない」と約束するハメとなった。
なんといっても、女性が集会を開くなど考えられなかった時代に、メーカーや行政をはっきり意見をいい、粗悪品を取り換えさせる大会を開いたところに大きな意義がある。
この集会に役所も参加していることでわかるとうり、そこには国のバックアップもあった。当時、経済安定本部や物価庁が、「ヤミを抑える国民運動」を展開しようとしていたからだ。
この集会に参加した主婦たちは、各地で主婦の会、婦人会といった団体をつくる。
こうした動きが結集して「主婦連合会」が発足し、奥が会長についた。
不当値上げに反対して、「商品テスト」で製品の欠陥を検証、表示のごまかしを問うことにより、「消費者運動」をひろげていった。
なお、奥は生活省の設置を国会で度々訴え、その50年後にあたる2009年に「消費庁」が発足している。
「不良マッチ追放主婦大会」の場所つまり「主婦連」発祥の地には、平成に入り再開発され、今は「警視庁原宿警察署」が建っている。
1954年1月 マグロ漁船第五福竜丸140トンは、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。
不漁のミッドウエ-海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ-シャル群島の東北海上にあって操業にはいったその時、乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。
数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおった。そして生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
船員達は突然の異変を訝しみながらついに 誰とは知れず一人の船員が原水爆の実験ではないかと言った。
彼らはあわてて操業を中止し母港静岡県焼津港に向かった。
無線で助けをよぼうか。それはできない。そうすれば傍受したアメリカ軍に撃沈される危険がある。
帰港の途上彼らはすでに原爆症の初期症状にみまわれていた。
帰港した福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでいた。帰港した船員達は隔離され検査をうけた。多くの船員は依然体調不良を訴えたが回復していった。
しかし無線長である久保山愛吉という33歳の船員だけは回復せぬまま病床にあった。
彼らが帰港した焼津は、東京と名古屋のほぼ中間に位置する。
静岡県のほぼ中央部で駿河湾を臨み、北は遠く富士山を見ることができる全国屈指の漁港がある。
「焼津」の地名は、古事記や日本書紀に登場し、日本武尊が東征の途中、天叢雲剣で草をなぎ倒し火をかけて賊を滅ぼした地名に由来している。
明治時代の文豪ラフカディオハーン=小泉八雲は晩年焼津を愛し6年間ここで夏を過ごし、「焼津にて」などの作品も残している。
小泉八雲はここで知り合った漁師・山口乙吉の素朴な人柄に魅了されいつも乙吉の家に滞在した。
ところでビキニ環礁の水爆実験に被爆した第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に放射能が発見されたのである。
アメリカのビキニ水爆実験により被爆した「第五福竜丸」のマグロが築地市場にあがった。
毎日の買い物通いの中で、主婦達は何となくうすよごれたたものを感じるようになったのである。
「マグロの放射能汚染」という出来事は、主婦達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活そのものであった。
そこに素早く反応したのが、東京杉並の主婦たちの小さな学習会であった「杉の子会」である。
「杉の子会」は、当時、杉並区の公民館館長であった安井郁(元・東大教授)をリーダーに、社会科学書をテキストとした、地域の主婦中心の「読書会」としてスタートした。
この築地の魚の放射能汚染に対する「杉の子会」の反応の素早さは、読書会で社会科学書を読み進めていたことも一因であったであろう。
そして、わずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めるのである。
日本の市民による最初のおおがかりな消費者運動であったとみることもできるが、同時にこうした運動を革新政党が目をつけ、運動の主導権を握ろうとしたことが、この会を分裂に追い込んでいく。
やがて「原水協」理事長として原水禁運動の「顔」となった安井氏は、1963年の第9回原水禁大会で、「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現をめぐってアラワになった安保議論や、運動の「党派的対立」のなかに巻き込まれていく。
何しろ、米ソ冷戦の只中で、「社会主義圏」の核実験はヨシという意見まで出ていたのである。
そして「杉の子会」メンバーにも動揺と混乱おこり、ついに1964年4月の機関誌の発行をもって事実上終止符が打たれた。
ともあれ「原水爆禁止運動」の発祥は、東京の杉並区の「主婦達」であったということは、「世界の記憶」に値する。
原水禁運動の発祥の地である「荻窪公民館」は現在は存在せず、同じ場所に荻窪体育館が建っている。
かつて杉並公民館があった現在の荻窪体育館の前には奇妙な形をしたオブジェが立っている。
「オーロラ」とタイトルがつけられたこの碑は「原水爆禁止運動」の発祥の地であることを記念して建てられたものである。
被爆から半年後の9月23日に、久保山愛吉さんは 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
久保山さんの墓は、焼津の弘徳院という寺にあり、墓は原始雲の形に象られていて、広島の花である夾竹桃と、長崎の花であるアジサイに囲まれてたっている。
18C、フランスで女性、特に主婦たちの槍玉にあがったのが、王侯貴族の「パン粉」を頭にかけるという習慣であった。
1730年代、ルイ14世の死後、男性のカツラが簡略化されてゆき、地毛とカツラを両方使うスタイルがこの頃に流行り始めた。
しかし、カツラの髪の色と自分の髪の色が一致しないのが問題、それをごまかすために「パウダー」が使われ始めた。
女性も同時期にヘアピースを使い、よりボリュームのあるスタイルを作るようになっていく。
、当時は髪を洗う習慣が無く、匂いも相当なもの。
そこで髪粉にラベンダーやオレンジの匂い等を加えたり、パステルカラーにしたり、パン粉が使われた。
さて1789年勃発のフランス革命の成果「封建的特権の廃止宣言」「人権宣言」によって、全国的な農民蜂起はおさまっていく。
ところが、国王ルイ16世は、これらの宣言を承認しなかった。
承認を渋る国王に対して市民たちのいらだちは高まっていいく。
また、政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの「物価が高騰」しはじめていて、下層市民には食糧が手に入りにくくなっていた。
一家の台所をあずかるパリの主婦たちが、きりきりしているところへ流れてくるのが、ヴェルサイユの噂。
ヴェルサイユには食糧がたんまりあって、国王や王妃たちは庶民の暮らしなんか気にもせずに、今日もたらふく食べているという。
10月5日、怒ったパリの女性がパリ市役所前の広場に集まった。人数は7千人ともいわれている。
彼女たちは、国王と議会に食糧を要求するために、「パンをよこせ!」と叫びながら、ヴェルサイユに向かって行進を始めた。武器をたずさえて、なんと大砲まで引っ張っていく。
パリからヴェルサイユまでは25キロほどの距離を、なんと大砲をひきながら約6時間歩きつづけた。
ヴェルサイユに着いたのが夕方4時ころ。国王は例によって狩りに出かけていたので、彼女たちはさらに4時間待たされた。
みんなが興奮しているところに、国王は帰ってきて、主婦たちの代表と会見する。
王は、彼女たちに丁重に接して「パンの配給」を約束し、「人権宣言」などを承認させられた。
さらに、女性たちは国王一家に「一緒にパリに帰ろう」と言い出した。ヴェルサイユのようなところに貴族たちに取り囲まれて暮らしているから、私たち庶民、第三身分の気持ちがわからないんだ。平民の街パリに一緒にいらっしゃい、というわけだ。
パリにも宮殿があるので、そこで暮らすことはできるけれど、平民に囲まれて"針のむしろにすわるようなものだから、国王としては嫌だったのですが抵抗しきれず、翌日、国王一家は女性たちに連れられてパリにやって来た。
主婦たちのセリフが面白かった。「私たちはパン屋とおかみと息子を連れてきたよ!」。
この一連の事件を「ヴェルサイユ行進」といuう。
これ以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に監視されて暮らすようになる。国王と一緒に議会もパリに移動したのである。
このあとしばらく政局は安定した状態がつづいた。国民議会は王の抵抗なく憲法制定作業をつづけていく、かに思えた。
議会の主導権をにぎっていたのはラファイエットやミラボーなど「自由主義貴族」といわれる人たちであった。
ラファイエットたちは民衆には人気があるし、名門貴族ということで国王からも信頼されている。これが政局安定の理由だった。
かれらは、アンシャン=レジーム(旧体制)を壊して国政を改革しようとするが、あくまで国王を中心とした政府を考えていた。
イギリス風の立憲君主制で、国王は表面上は議会に協調するようにみえた。
ところが、ここで事件が起きる。その事件を起こしたのは国王ルイ16世。
なんと、奥さんのマリアントワネットの実家(ハプスブルク家)のあるオーストリアに逃亡をはかったことが発覚したのである。
国境の街バレンヌでみつかり、パリに連れ戻される。
ルイ16世に対する不信は頂点に達し、1881年5月、国王夫妻の処刑の約1年7カ月前の出来事である。
イスラムでは、女性が身にまとうのが、体を覆い顔を隠す「ヒジャブ」。どういうわけか、この「覆いもの」に「ニンジャ」という名前がついている。
イスラム今日では、男は異教徒との戦い(ジハード)に出征中、女性達は「ニンジャ」を身に着けて、家庭を守った。
その意味で、日本の「割烹着」とも似ている。
日本の戦時下、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが国策として推進された。
そうして満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが「割烹着」である。
ゆったり感のある割烹着は元々料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
ところで、日本の和服が、ヨーロッパの女性解放に一役かったといったら意外すぎるかもしれない。
実は、19世紀ごろまで女性をしばりつけていた要素のひとつが、ファッションであった。
20世紀初頭までの西洋のファッションはコルセットを使用し、ウエストから上半身を極度に細く絞り、下半身は針金を輪状にして重ねたクリノリンという骨組みを使用して、スカートを大きく膨らませるスタイルをとっていた。
女性の腰回りを男性の首ほど細くして、体を圧迫、健康によかろうはずがない。
そこに、コルセットから開放された新たな美を追及しようという動きが現われる。
ポール・ポワレはウエストの位置を上げ、高いウエストの位置から、布をドレープさせ、緩やかなシルエット、布の曲線の美しさを表現した。
しかし、メゾン(店)からはポワレのスタイルは美しくないと判断され、メゾンから追い出されてしまう。
その後、ポアレは自身のやり方を貫くために独立した。
当時の有名女優がポワレの服を気に入り、積極的に身に着けるようになったことがきっかけとなり徐々に広がっていった。
ほぼ同時期、ポワレ他にも、マドレーヌ・ヴィオネといった女性デザイナーもコルセットを外すデザインを提案していた。
19世紀後半、日本の横浜などの開港地からヨーロッパに大量に輸出された生糸、絹製品、工芸品、浮世絵版画などが輸出され、モネやゴッホなど後期印象派の画家が浮世絵から多くの示唆や影響を受けていた。
いわゆる「ジャポニズム」といわれる日本ブームが起きていたのだが、服装やモードでも、日本の着物や文様のデザインが重要な変化をもたらした。
ポール・ポワレは当時、比較的ゆったりと動きやすく出来ていた着物の小袖をヒントに、1906年、コルセットを使わないハイウエストのドレスを発表、1909年頃、「キモノ・コート」とよんだ作品を発表している。
モード界の革命は、コルセットからの開放を意味し、日本の着物がそれに一役かったばかりか、女性開放への意識を目覚めさせることにもなる。