評判のアニメ映画「天気の子」の内容が濃いすぎる。
舞台は異常気象で雨が降り続く2021年の東京。神津島から家出をしてきた少年が、天気をコントロールできるという「晴れ女」の少女と出会う。
2人は「晴れ」を呼ぶビジネスを始めるのだが、実は、その力を使いすぎると、副作用として地上での彼女の存在が消えていき、「天空」に召されてしまうのだ。
しかし少年は、そのような運命にあらがい、勇気を出して積乱雲の中から少女を救出する。
このアニメはそんなファンタジーで終わらない。
本来は「人柱(ひとばしら)」つまり”いけにえ”となるはずだった少女を奪還したのだから、気象のバランスは大きく崩れる。
その結果、雨はいつまでも、何年も降り続き、ついに東京は水没せんというところで物語は終わる。
個人的には、このアニメ作品の内容よりも、こうしたアニメが興行収入1位となること自体が、興味をそそられる。
それは、古代日本人が抱いた"天空への憧憬と畏怖"が心の奥に刷りこまれているからではなかろうか。
さて、大化の改新の首謀者といえば中臣(藤原)鎌足で、中臣家は元来は鹿島神宮の神官の地位にあった。
聖徳太子が既成の有力姓(かばね)によらない人材登用をうちだしたためか、飛鳥で遣隋使の留学僧・僧旻の私塾で学んでいる。
中臣(藤原)氏の起源の鹿島が在るのは「常陸(国(ひたちのくに)」であったが、太平洋に朝日をみると海面に陽の光のが伸びて"日が立っている"ように見えることからか、「日立」という地名になっている。
日立は日本の東端に位置しで、初日の出を拝むベストポジションにあるのではなかろうか。きっとそのことがここに神社が創立された最大の理由であろう。ちなみに(鹿島)アントラーズの意味は「鹿の角」。
さて、「日の出るところ」を意味する言葉がオリエントで「東方」を意味する言葉となり、ものごとが始まるという意味で「オリエンテーション」という言葉が使われるようになった。
つまり物事のはじまりが「東方」と結びつくようになったのだが、太陽が昇る処に強い関心と興味をもつのは自然なことであろう。
ヨーロッパから見て、オリエントといえば「中近東」を指すが、それはあくまでヨーロッパ(イギリス)からの視点である。
実際、地中海に西岸が面したパレスティナの地は、ヨーロッパ文明の支柱「キリスト教」の揺籃の地であるから、ものごとが始まる場所という意識があった。
古代ローマのことわざに「光は東方から来たる」という言葉があるのも、ギリシャから多くの文化を学んだことに由来する。それは、ギリシアの教会を「東方教会」とよんだことでわかる。
しかし、今では西洋文明はオリエントに学んだというような広い意味に使われている。
ところが、オリエントの人々にとって「日の昇るところ」はさらに東。太陽を神と拝する人々が、日の昇るところに「何があるのか」と、さらに東へ向かったということはありうることではなかろうか。
そして、イギリス起点の経度でみて、日本より東方の国は存在しない。日本は文字通り「極東」の国。
日本という国名も「日の本(もと)」だし、国旗も「日の丸」。
遣隋使の小野妹子の煬帝に渡した「国書」に、「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致す」では、日本が自らを「日出る処」と位置づけている。
日本のことを「日の出るところ」とよび中国を「日没するところ」としたことに煬帝は怒ったらしいが、日本基点で地理的位置関係に言及したにすぎない。
煬帝が怒ったのはむしろ、世界に「天子」が二人存在することだったのかもしれない。
なぜなら、「天子」という言葉の奥には「宇宙をつかさどる」という意味あり、天体の中で不動、つまり位置を変えることのない「北極星」をさす。
一方、日本の場合、「天子」という言葉は、アマテラスという太陽神と結びついているのが面白い。
さて聖書によれば、メソポタミアでは人々が天にむけて塔を建てようとしたところ、神の怒りをかって言葉が通じなくなって、人々は散らされたとある。
天に上ろうとしたシュメール人が、バベルで神の怒りをかい、天髙く昇るのではなく日の出る処を水平にめざしたとはいえまいか。
もしそうならば、シルクロードをペルシアなどの宝物が最東端の日本に伝わったのは、”日出る処”の支配者への思いから生じたのではなかろうか。
実際に、日本の古代文化はきわめてコスモポリタンな文化であった。
奈良の正倉院が、シルクロードの終点ともいわれるのは、太陽への思いをもつ人々の終着点であったということではないか。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の宝物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
正倉院宝物が聖武天皇所有といわれ、インド起源とされる「五絃琵琶」や古代ペルシアが起源とされる四絃の「螺鈿紫檀(らでんしたん)」の琵琶が現存する。
つまり、極東の日本、さらには太平洋岸にやってきた日本人は、特別に太陽への思いが強い人々であったということができる。
さて、本州の最西端に位置する山口県下関市には、市街と橋でつながる彦島という島がある。
彦島は、平家と源氏が戦った「壇ノ浦の戦い」で、平家が最後の陣を敷いた島としても有名。
彦島で、文字や絵が刻まれた岩石「ペトログリフ」が存在するという驚きの発見がなされた。
「ペトログラフ」とは、岩石や洞窟内部の壁面に、文字や絵が刻まれた彫刻のことである。
「彦島八幡宮」にあるペトログリフを、研究者らが調べたところ、3200年前に書かれた「シュメール文字」で、内容も解読されたという。
実は、シュメール人は、バベルの塔で散らされた人々で、ペトログラフと呼ばれる「岩刻文字」は日本ばかりか環太平洋で見つかっており、日本での発見が一番多い古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字だといわれる。
さて、日本人にとって、太陽の光を映す「鏡」が大きな位置をしめる。
もともと銅鏡は中国から日本にもたらされたものであったが、日本独自に製造されたものがある。
中華思想にあって周辺諸国に銅鏡を下賜することにより、その支配圏にある諸国を序列化したということでもある。
それは政治的な意味合いをもつが、日本の場合は宗教的な意味合いが強かったのではないかと推測される。
我々が博物館でみる「銅鏡」は裏面を見せており、何の変哲もない表面をほとんど見ることがない。
日本では、素材として青銅や白銅を鋳造し表面をきれいに磨き上げたものだ。
もし巫女のような人が鏡をかざして人々に向かって光を反射させたら、まるでそこに太陽が降りてきたように見えるのではなかろうか。
そればかりか、光は心の内側までも照らし出すかのような畏れを抱かせたかもしれない。
それだけに銅鏡は宗教的権威のシンボルとみなされた。
「山の幸」や「海の幸」という言葉は聞くけれど、「空の幸」という言葉はあまり聞かない。
ただ、村上春樹の小説「海辺のカフカ」に空から魚が降る話が登場するが、こういうことは結構起きているらしい。
原因は、鳥が何らかの事情で吐き出したという説が有力である。
聖書でいえば、マナという食物が砂漠に降って、40年間イスラエルの民を養ったという記述もある。
というわけで、人間は、案外と空から「降ってくるもの」の恩恵に浴しているものかもしれない。
巨大隕石が急角度で落下するような場合は、すさまじい破壊を引き起こすが、ふつうの隕石なら人間に被害をもたらすより、天からの「贈り物」という側面が大きい。
最近、神奈川で目撃情報があった”火球”ぐらいの隕石は、頻々と地上に落下してきているらしいが、地面にクレーターを作ることもないし、充分に冷えているので草地を焦すこともない。
そして、隕石の中には「隕鉄」という種類があり、その中身は鉄やニッケルの塊で、金属の精錬技術を持たなかった昔の人々は、「隕鉄」を貴重な金属として、道具に使ってきた。つまり「天の幸」なのだ。
そればかりか、天上を起源とする天空の力を宿した「隕鉄」に畏敬の念すら抱いていたに違いない。
日本では、隕鉄を星鉄、隕星、天降鉄などと呼び、やはり「霊的」な力が備わった鉄と信じた。
製鉄技術は、AD4世紀以降に大陸から渡来したといわれるので、それより古い弥生時代の遺跡から出土した鉄器は、大陸から持ってきたものといわれている。
だが、はやくもAD6世紀以降、砂鉄を原料とする「たたら製鉄」が生まれ、玉鋼や包丁鉄など一風変わった性質の鉄が生み出され、日本刀に神秘的な切れ味と強靭さとをもたらした。
日本の鉄器は、最初から還元・精錬された鉄を使ったため多量に遍在する砂鉄や鉄鉱石で足りた。
したがって、それ以降は希少な隕鉄を探し求める必要性は生じなかったのである。
とはいえ、人類学者エリアーデは、古代人には「天空は石で出来ている」という共通の信仰があったと書いている。
とすると、隕石は「天空のカケラ」であり、世界各地に見られる地上の「ストーン・サークル」は、そのカケラが突き刺さった場所を指すという解釈も成り立ちそうである。
これは少々無理な解釈かもしれないが、少なくとも「ストーン・サークル」を天地の交流を示す場所と解釈することもできるのではなかろうか。
さて、天を起源とした「天空のカケラ」たる剣や斧などの武器は、そのまま神秘的な霊力と直結して、敵を打ち滅ぼし持ち主と仲間を守ってくれると信仰が生まれた。
そうならば「天来の武器」を持つ民族は、天から降り来った神々の末裔として畏れられる。
そして、山麓に降った「隕鉄」をたくみに加工し上手に操る者達もまた、天からやってきた人々またはその子孫というように見られたかもしれない。
ひょっとしたら、それが「天孫民族」という言葉と関係しているのかもしれない。
さて、日本の記紀神話に「高天原」というのがあるが、ユダヤ・キリスト教には「天のエルサレム」という言葉がある。
さらに、聖書の創世記に「天の梯子(はしご)」の話(28章)がある。
アブラハムの孫にあたるヤコブがベエル・シェバから立ってハランへ向かった際に、ある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。
ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
すると、夢かウツツか、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしているのを見た。
すると、神が傍らに立って「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と語った。
ヤコブは自分は、気がつかないまま「天の門」に寝ていたことに気がつき、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立てた。そして、先端に油を注いで、 その場所を「ベテル(=神の家)」と名付けた。
ちなみに、ヤコブは自分を祝福するまで神の使いを離さなかったため、「イスラ・エル」(神と戦う)と名乗ることになる。
鹿島の神官の家をルーツとする中臣氏は、物部氏ともに「排仏派」として崇仏派の蘇我氏とたたかった。
そして、物部氏もまた中臣氏と同じく、ある意味天への憧れを抱く一族だと推測される。
物部氏は元々は鉄器と兵器の製造・管理を主に管掌していた氏族であったが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していく。
特に、朝廷は528年九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧に物部麁鹿火(あらかひ)を向かわせたことでしられている。
物部氏は、崇仏派の蘇我氏と争い敗れた一族である。
この時、政争で敗れたにせよ中臣氏は「藤原氏」として平安時代に栄耀栄華を極め、朝鮮問題で一度没落した大伴氏も「伴氏」として活躍する。
物部氏の名前がすっかり歴史から消えてしまったが、実はその一部は「石上(いそのかみ)氏」として復権を果たして、全国の物部氏系の国造は何事もなく続いた。
そして現在、天理市にある「石上神社」の神官をつとめているのである。
石上はもと物部弓削守屋の弟である物部石上贄子が称していたが、のちに守屋の兄・物部大市御狩の曾孫とされる麻呂が石上の家を継いだとする説がある。
ところで、日本全国には、”隕石”を御神体とする神社が多い。
一番有名なのは、奈良県吉野の「天河神社」で、芸能の神社で知られるが、赤ん坊の頭ほどの「三つの隕石」が柵に囲まれて存在しているのである。
福岡県・鞍手町のほぼ中央にある剣岳(つるぎだけ)の山麓にある「古物(ふるもの)神社」は、天河神社ほど有名ではないが興味深い神社である。
まず驚きなのは、祭神が「天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神」などで、並の神社ではないことが推測できる。
そして村の名は、石上布留魂大神の座所のゆえ、「布留毛能(ふるもの)村」と名付け、それがナマッテ「古門村」(ふるもんむら)とよぶようになったという。
そして驚きは「石上布留魂大神」といえば天理市の石上(いそのかみ)神宮の祭神として知られるが、この古物神社こそが石上神社の「元宮」なのだという。
さてこの神社の縁起に遡ると、この辺りにはもともと八幡宮と剣神社のふたつの産土神があった。
「剣神社」は、江戸時代1828年8月に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに移して、八幡宮の相殿として合祀した。
また明治になって、「布留毛能(ふるもの)村」の名前から取って古物神社となったという。
さて、剣神社の「縁起」に面白い記述がある。
「天智天皇の御世に、僧・道行が熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた」という。
朝廷がこれを聞いて「草薙の剣」だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻したが、剣の霊は落ちたところにとどまり、そこに祠をたてたのが「剣神社」の起源である。
そして、この縁起の中の「その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった」という箇所に注目したい。
これは「隕石落下」の情景そのものに思える。袋を破って落ちてきたその剣はしばらくこの剣岳に置いてあったという地元の言い伝えがある。
ちなみに、この村の名前「古門」は、隕石の古語である「降るもの」を連想させる。
今日の、日本人が初日の出をめでることや、隕石の御神体を拝することも合わせて、もともと天への憧れと畏怖の念が強い民族であったことがわかる。
また東京大手町のビル街の「平将門の首塚」は、サラリーマンの憩いの場になっているが、反乱を企てた平将門の首が晒された平安京から関東まで飛んできたという話も、ひょとしたら「隕石落下」にコト寄せて生まれたものではなかろうか。