筑後平野は、のどかな田園風景の中を筑後川がゆったりと流れる。そうした自然の優しさが、筑後を「芸術の里」としたのは想像に難くない。
永六輔とのコンビで数々の名曲を世に贈った中村八大や作曲家の団伊玖磨も筑後で育った。また絵画の世界では、青木繁と坂本繁二郎という近代を代表する画家も輩出している。
最近、こうした心を彩る芸術とは対照的に、昭和恐慌後の凄惨な場所や現代テロリズムの現場に立ち会った人々が筑後川周辺にいることに気がついた。
遡ること1644年、明朝が滅び、鄭成功に呼応し明朝復興の気概を秘めた遺臣・朱舜水が、1659年に長崎にやって来た。
柳川の儒者・安東省庵は、朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して師弟の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そして「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした実学で、水戸光圀の政治・人格・業績に大きな影響を与えた。例えば、光圀が「大日本史」編纂にあたって楠木正成を日本史上最大の”忠臣”として称えたのも、朱舜水の忠義一徹ぶりの姿と重なったからだ。
そして水戸では、独自の尊王思想が形成されていく。
ところで幕末1860年、この水戸学の影響下、水戸浪士による井伊直弼の暗殺「桜田門外の変」が起こっている。
昭和の時代、この水戸・大洗において井上日召らの「血盟団」が結成され、”君則の姦”を除く意図のもと「一人一殺主義」が唱えられた。
こうした「昭和維新」を志す水戸出身の若者の思想形成に、水戸学の”尊王思想"の影響があったことを否定できない。
さてここで、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の”筑後人”がいた。
筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)である。
1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶが「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
そしてこの真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた人物に、権藤直(ごんどうすなお)という人物がいる。
権藤は、"筑後の三秀才"とよばれた医者の息子で、品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に志士的な情熱が渦巻いていたのは確かなようだ。
実は"寛政の三奇人"の一人・高山彦九郎は、久留米の「権藤家」の親類の家にて自決したのである。
そして、権藤直の息子が、血盟団と深く関わることになる権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。
日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
後に、内田とは袂を分かつが、権藤は独自の構想を抱き「権藤サークル」を形成する。
このサークルを母体としながら、1920年には「自治学会」を結成した。
この「自治学会」は権藤独自の結社で、「社稷(しゃしょく)国家の自立」が叫ばれ、明治絶対国家主義を徹底して批判した。
「社稷」とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せた言葉で、古代中国の社稷型封建制に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。
権藤成卿の思想形成は、若き日に中国に遊び「農本主義」思想を生んだことだけではなく、西鉄久留米駅近くの「五穀神社」の存在からみても、筑後の地域性がその思想形成に影響を与えたのに違いない。
また「大化改新のクーデター」構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想をもとめた。
彼がまとめた「南淵書」はたちまち学者たちの批判を浴びるものの、北一輝の「日本改造法案」と並んで、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。
権藤は1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町に創立した「金鶏学院」において講義を行うようになる。
聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
そして1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。
また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も権藤の家にさかんに投宿した。
つまるところ、権藤成卿は「血盟団メンバー」にそのアジトとなる場所を提供したことになる。
1932年2月9日、メンバー小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の総帥・団琢磨を襲った。
いわゆる「血盟団事件」の勃発である。
そのターゲットとなった団琢磨は1868年、筑前国福岡荒戸町で、福岡藩士馬廻役・神尾宅之丞の四男として生まれた。
12歳の時、藩の勘定奉行、團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。
金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878年、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。
東京大学理学部助教授となり、工学・天文学などを教えるが、その後工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。
1888年に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任した。
三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、1909年三井鉱山会長となる。
「三井のドル箱」と言われた三池が三井財閥形成の原動力となった。
こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914年三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。
しかし昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。
1932年3月5日、東京日本橋の三井本館入り口で血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された。
ちなみに、音楽家の団伊玖磨はその孫で、団伊玖磨の混成合唱曲「筑後川」は、今なお地元を中心に歌われている。
団琢磨は筑後川の河口・三池炭鉱の創始者であり、井上準之助は、筑後川沿い夜明(日田市)の井上酒造の息子であった。
つまり昭和恐慌のある時期、テロリスト側も、狙われる側も、筑後川周辺にゆかりある人々という奇遇が存在したのである。
福岡県の筑後路は、久留米から東へ(大分方面)と田園地帯が続く。
そんな中、吉井の街に入ると"白壁の塀のある蔵"がいくつも立っていて、ひな人形など伝統工芸の店もあって幾分華やいだ気分になる。
吉井町は、江戸時代に久留米城の城下町と、天領である日田を結ぶ旧豊後街道沿いの宿場町として発展を始めた。
とはいえ、この吉井に白壁の蔵が出来るだけの豊かさをもたらしたのは、五人の庄屋を中心に造られた堰および水路の存在が大きい。
当時の農民の生活は、貧しく水不足で不作の年には食べるものが無く餓死者や、先祖から受け継いだ土地を見捨てて他に移り住む者がいたほどであった。
それはこの地区が土地は肥沃なのに、水利に非常に不便な地域だったためであった。
この頃、生葉郡にはの五人の庄屋がいた。彼らは農民の有様に心を痛め、このままでは村が無くなるという危機感を募らせていた。
目の前を雄大に流れる筑後川から何とか水をこの地に引くことはできないか。
奉行から、成功すれば藩の収入も豊かになるので、詳しく調べて設計書や見積書を作成して願い出るように励まされる。
早速、五庄屋を中心に実地の測量を始め、苦労の末に出来上がった願い所を大庄屋を通じて藩に提出する。
そこには「これらの工事について費やす費用は五人の庄屋が全部受け持ちますから、藩にはご迷惑おかけしません」と書いてあった。
ところが思わぬところから反対の声が上がった。
溝の上流域にある村々の庄屋が、ひとたび大洪水になったら自分たちの村や田畑が大水で大変な損害を受ける恐れがあるというものであった。
これに対して11人の庄屋が「計画通り工事を進めても決して損害を及ぼさない。万が一損害を与えた際は、必ず責任をとり、どんな重い罰でも受ける」という決意を示し、郡奉行も反対する庄屋たちを説き伏せために治まったという。
また藩はい”普請奉行”の丹羽頼母(にはたのも)重次を実地調査に当たらせることにした。丹羽も現地で測量し、藩に対して”藩の仕事”として取り組むべきだという意見を具申した。
1633年12月、ついに念願の藩からの許しが出る一方で、田畑をつぶしたり、家を移動したりすることについて一切反対してはならないという厳しい命令が出された。
1634年1月11日、いよいよ工事が始まった。
藩の監督者が駐在する長野村に、「もし工事が成功しなかったら庄屋を磔の刑に処するぞ」というほとんど脅しに対して、人夫たちは「庄屋どんを殺すな」と工事に必死に取り組んだ。
流し込んだ水が逆流したり、大きな岩に突き当たったりするなど幾多の困難があったが、多くの人々の懸命の働きによって、工事は驚くほどはかどり、わずか60日後の同年3月中旬についに完成したのである。
こうして出来たのが「山田堰」であるが、その後1665年から第二・三期工事が実施された。
拡張工事と共に水に需要が増していく中で計画されたのが「大石堰」で、1674年に築造され当初75ヘクタールだった灌漑面積は、1687年には1426ヘクタールに達した。
今もこの水路は活用されているが350年も前の技術というから、その水準の高さに驚かされる。
アフガン(アフガニスタン)情勢といえば内戦、イスラム過激派などの政治問題が語られるが、人々を根底から苦しめてきたのは気候変動に伴う”水欠乏”だ。
国民の多くが農業で生活するこの国で、近年、干ばつが頻発、全土で沙漠化が進んでいる。
水不測で泥水を飲んだ幼い子供たちが次々と命を落とす惨状もあった。
山岳地帯では電力が利用できず、資機材の入手が困難なだけでなく、国家支配を拒むアフガン農村の独立性や内戦による治安悪化もあり、日本のような公共事業は技術、財政共に絶望的であった。
それ以前に、日常の飲料水にさえ手が届かぬ焦げ付く大地は、もはや”絶望の大地”といってよかった。
2001年10月に米軍がアフガニスタンを爆撃した際、中村哲氏を代表とする「ペシャワール会」では全国に呼びかけ「いのちの基金」を設立し、空爆下に緊急食糧配給を行ってきた。
この活動が大きな反響を呼び、多くの基金が集まり、そして、この基金をもとに始まったのが「緑の大地計画」である。
アフガニスタン東部における灌漑用・用水路建設を含む総合農村復興事業では、東部を流れるクナール川から水を引き、クナール州からナンガルハール州一帯に農業を復活させようというものであった。
アフガニスタン政府も本腰を上げ、2003年3月から始まった用水路建設は、米軍ヘリの機銃掃射(誤射)を受けながら、文字通り、山あり、谷ありの難工事の連続。
中村医師、日本人ワーカー数10人、現地職員120人、村人1日600人が働き、延べ60万人の手により全長24.3キロメートルの「マリワリード」(真珠という意味)用水路が開通した。
冬のクナール河は清流である。大河の流れは天空を映してあくまで青く、激流が真っ白な水しぶきを上げる。標高7千メートル以上のヒンズークシ山脈を源流とし、アフガニスタン最大の水量を誇るこの河で、灌漑事業に着手して、今やっと16年越しの悲願が達成されようとしていた。
中村哲氏がクナール川から水を引く際に参考にしたのが、中村氏の故郷・福岡県の南部・筑後川の水利技術である。なかでも「大石堰」「山田堰」などにみられる知恵がふんだんに取り込まれている。
しかし、そもそも「堰(せき)」とは何か。
水路や河川にある水の取り入れ口は、水を遠くの水田に届けるために高いところに造られている。
これは、高いところから低いところへ流れようとする水の力を利用している。
堰は、こうした取り入れ口に水が入るように、水位を上げる役割をもっている。
測量技術やコンピュータもない時代に完成したこの堰は、叡智の塊りといってよい。
アフガニスタンで活躍してきたペシャワール会の代表中村哲氏が何度も、筑後川の堰に通い、その技術を吸収していったことは、その著書で知ることができる。
筑後平野を車で移動しながら、この田圃を潤す水の源はどこか。どうやって取水し、洪水を避けてきたのか、傾斜をいかにとって灌漑面積を拡げたのか。
著書で印象的なの場面は、「山田堰」のこと。アフガニスタンの現場で工事が始まってまもなく、ひとりの青年が「先生、そっくりの場所が九州にあります」と告げた。
中村氏は、ちょう揚水水車の設置を考えていて「朝倉三連水車」を見に行くところだというと、同じ朝倉にあるのだという。
なんのことはない。山田堰からひいた用水路「堀川」の中に”三連水車”があったのだ。
実は、山田堰は「斜め堰」という今はほとんど見ることができない堰の原型であったのだ。
しかも、その間に中村氏の幼い子供は脳腫瘍で命が危ぶまれ、ついには命を引き取る悲しみにも見舞われている。
その時の気持ちを中村氏は、「バカたれが。親より先に逝く不幸者があるか。見とれ、おまえの弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」~凛と立つ幼木を眺めながら、そう思ったと書いている。
さて、中村医師はクナール川に大小のダムを建設したほか、一帯で1500カ所以上の井戸を掘削。クナル川からガンベリ地域に至る全長約25.5キロの用水路建設を主導した。
砂漠はみるみる緑化され、ナンガルハル州の65万人を潤したという。
それは、"ビフォー"と"アフター"を写真でみれば一目瞭然、”偉業”というにふさわしく、アフガン政府もこの上ない"謝意"を表してきた。
その一方で、一部住民からは川の流れの変化や、川の流水量減少について不満の声が上がったという。ここで留意したいのは、実際に流水量が減ったかは、定かではない点だ。
中村医師がテロで狙われた原因はいまだ不明だが、少なくともそう感じる人たちがいたということだ。
2019年12月4日、中村哲氏死亡のニュースに、筑後川の水面(みなも)に映ったに違いない"歴史の証人達"の姿が蘇った感じがした。