旧約聖書では「怒り」の神、新約聖書では「愛」の神。それは唯一の神・イエスの十字架の死を境に、人類のステージが大きく変わった感がある。
聖書の世界観でいえば、我々はいけにえ不要の"恵みの時代"に生きている。
新約聖書はギリシア語で書かれており、神の愛は「アガペー」で、男女の愛「エロース」と区別している。
パウロは、アガペーの愛を次のように語っている。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない」(コリント人への第一の手紙 13章)。
またより具体的な譬えとして、有名な「善きサマリア人の譬え」というのがある。
ユダヤ人達がイエスを陥れようと、ある律法学者が一番大切な律法は何かと問うと、イエスから「どう読むかと」逆に聞かれる。
律法学者が、「全身全霊をもって神を愛することと、自分と同じようにあなたの隣人を愛すること」と答えると、イエスは「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と応じている。
しかし、この律法学者は、「そのとうり行いなさい」といわれて少々意表をつかれたようだ。
彼は自分を弁護するように、「では自分の隣人とは誰か」とわざわざ聞き返している。
そしてイエスは「善きサマリア人の譬え」(ヨハネ10章)を語る。
あるとき、追はぎに襲われ半死半生の傷を負ったユダヤ人がいた。
ところが、祭司とレビ人が道端に倒れている人を見ると、道の反対側を通って去って行った。
そして次にやってきたサマリア人は、いたわりの心をもって倒れた人の手当をする。
傷の手当てをしたばかりかロバに乗せ、自分は歩いて行った。
そして宿屋に連れて行って介抱し、一泊した後の翌日、宿屋の主人にお金を渡して手当を頼む。そして足りなかったら帰りがけに寄るからその時支払うと言って、宿屋の主人にお願いする。
イエスは律法学者に、「さて、あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」と聞く。
それに対して律法学者は「サマリア人です」と答えてもよさそうなのに、「その人に慈悲深い行いをした人です」と、サマリア人という言葉は口に出そうとはしなかった。
このエピソードはイエスがいかに人々の心を見抜いていたかをもの語るが、この「善きサマリア人の譬え」を困っている人がいたら助けましょうレベルでとらえると、本質からはなれている。
実は、ユダヤ人はサマリアと隣接しており、異邦人と混血し偶像崇拝に陥ったサマリア人とは口もきかないほど険悪の間柄であった。
イエスの譬えは、ユダヤ人とサマリア人との「壁」を乗り越えるため譬えであったととらえられる。
つまり、救いが「異邦人に伝えられる」という「新しい契約」の型を示すものであった。
さてここ数年、日韓関係が徴用工問題を機に急速に冷え込んだ感があるが、イエスの「善きサマリア人」を
実践したような人物がいる。
さて、新羅時代の都、慶州にある「ナザレ園」は、日本人観光客もよく訪れる仏国寺に近い田園地帯にある。
現在も日本人女性9人がいるが、彼女たちは日本の植民地だった朝鮮半島出身の男性と結婚した人たちで、平均年齢は90歳を超える。
創立者である金龍成(キムヨンソン)はキリスト教信者で、もともと咸鏡道(ハムギョンド、北朝鮮に位置)で福祉施設を経営していて、1950年に勃発した朝鮮戦争後に慶州に移った。
そのときの戦争孤児や戦争未亡人、シングルマザーらを保護するために1972年に「ナザレ園」を創設した。ちなみに、ナザレはイエス・キリストが育った地である。
そして“真の愛の尊さと人間に国境はない”をモットーに、その救護対象に日本人女性も含まれていた。
直接のきかけは、韓国の刑務所に窃盗や放火の罪で服役していた日本人妻2人の存在を知ったこと。
女性たちが釈放されると、金は「貧しさゆえに罪を犯した」と身元を引き受けて面倒をみた。
当時は反日感情が激しく、「なぜ日本人の施設をつくるのか」と抗議されたこともあったという。
厳しい境遇の妻も多かった。夫が朝鮮戦争で徴兵されて戦死したり、極貧のあまり山の洞窟に住んだりした女性もいた。日本で結婚し韓国に渡ったら本妻がいた、ということもあった。
金は「女性に罪があるとすれば、韓国の青年を愛したことだけだ」といつも話していたという。
朝鮮半島に取り残された日本人妻の多くは当時の強い「反日思想」のため日本人であることを隠して生活していた。
そのため、日本政府もその実態を把握しておらず、死亡扱いされていたり、国籍を失っていた。
または生きるために朝鮮戦争の混乱を利用して韓国籍を取得していたりしていたために、その身分を証明することは容易ではなかったが、金龍成をはじめとする支援者の協力で直接間接を含めて百数十名を日本に帰国させている。
金龍成は2003年3月に亡くなり、海の見える小高い丘に眠っている。
作家の上坂冬子は、慶州を旅行していて、日本人妻がたくさんいる不思議な福祉施設があることを偶然知り、「慶州ナザレ園―忘れられた日本人妻たち 」(中公文庫1984年)を著している。
韓国の金龍成は、日韓の壁を超えた「善きサマリア人」であったといえよう。
旧約聖書は峻厳なる神の裁きや怒りが現れる書が多いが、その中にあって「ヨナ記」や「ルツ記」は、神の「慈愛」を、全編を通じて感じさせるものである。
「ルツ記」でナオミという日本人を思わせる女性が登場するが、ルツの母親にあたる人物で、イスラエルでナオミは、結構ポピュラーな名前である。
ナオミはイスラエルの女性だが飢饉のため家族とともにモアブの地に移ったが、夫エリメレクが亡くなり寡婦となった。
また二人の息子も、モアブ人の女性を嫁として迎えたが、10年の歳月を過ごした後、ナオミは、二人の息子にも先立たれてしまう。
ちなみに、モアブとはアブラハムの甥ロトが住んだ異邦人の地である。
残された姑ナオミと二人の嫁の心境はどのようなものであっただろう。
夫も子どもをも失う、ナオミは涙も涸れはて、頼るものとてない境涯に立ちすくんだにちがない。
そんな折り、故郷ベツレヘムから「豊作」の知らせが届き、食べることには困らないにちがいない故郷ベツレヘムに戻る決意をする。
だがナオミにとって気がかりなのは、モアブ人の二人の嫁のことであった。
イスラエル人は排他的なところがあって異邦人(モアブ人)である嫁までも連れて行くことに気がひき、ナオミは、二人の嫁にそれぞれ自分の実家に帰り、再婚して新たなスタートをきるようにすすめた。
そこで弟の嫁のオルパは、この勧めに従ったが、兄の嫁のルツは、ナオミの勧めを受け入れず、あくまでもナオミについて行くといいだす。
その時、異邦人ルツの言葉は心に心に響く。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1章16節)と。
そして、姑ナオミは堅く離れようとしないルツを受け入れ、二人はナオミの故郷ベツレヘムへとむかったのである。
そして、そこには「はかりしれない」神の恩寵が待っていたのである。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃であり、ナオミの旧知の人々はナオミに「お帰り」と声をかけた。
しかし、ナオミは「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒んで、苦しみを意味する「マラ」と呼んでくれと応じるほどだった。
ただ、すべてを失ったかに思えるナオミだが、信仰においては豊かであった。
それは、「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせたからだ」と語っていることからもわかる。
ところで亡くなった夫エリメレクは土地を所有していたが、跡継ぎである息子を失ったため、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。
しかしユダヤ法では、夫がなくなるとその兄弟が優先的に土地を買い取る権利を有するという規定があった。
ベツレヘムには、エリメレク一族に属する遠縁にボアズという金持ちがいた。ボアズもその土地を買い戻す権利を持つ一人だったのである。
また、ユダヤでは、貧しい者と寄留者には、収穫後の「落ち穂拾い」の権利が与えられていたのだが、何かに導かれるように、ルツは「はからずも」ボアズの畑へと導かれていたのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑の若い者たちに邪魔をすることがないように命じた。
ちなみに、旧約聖書の「ルツ記」は、西洋絵画の代表作ミレーの「晩鐘」にインスピレーションを与えた。
ボアズのルツに対する好意を知った姑ナオミは、亡くなった男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとるというユダヤの慣習に従い、ナオミは自分と遠縁の親戚ボアズとの結婚に訴えた。
訴えたというのはある種の権利であり、それは異郷から来た寡婦のルツの将来を保証しようという思いがあったに違いない。
ただ、それらの権利を持つ者は他にいた。ボアズは遠縁なので、それを行使しようという優先度が高い者が一族にいれば、ナオミの「願い」は実現しない。
そしてナオミは、ルツに具体的な指示を与えた。からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることである。
これは、当時のユダヤの「求婚の習慣」に従ったものであり、大胆でも、はしたないことでもなんでもない。ルツはただその指示に素直に従った。
そしてナオミには、神がそのように導いておられるという確信めいたものがあったように感じられる。
そこで、ナオミはルツに言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」。
ここで、確固たる「信仰の言葉」を発している。
ナオミは、自分の人生が思いどうりにならないことを何度も体験している。しかし、前述のとうり、嫁のルツをして「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」といわせしめている。
ナオミは貧しいどころか、信仰に富んでいた。
ボアズは、他の買い戻しの権利を優先的に持つ者全員に確認の上、ボアズはその権利を譲りうけ、ナオミとルツの幸せのために、ある意味では犠牲の大きい結婚を承諾したのである。
ところで、このボアズと異邦人ルツの結婚は、人類史にとってどれだけ大きな意味があったかは本人達も想像の域を超えたものだった。
なにしろそこから出た系図は、オベデからエッサイへ。そこからなんとイスラエル王ダビデと続き、さらにはダビデの系図からイエス・キリストが誕生するのであるから。
ある時、弟子がイエスに「世の終わりにどんなことが起きるか」という質問をした。
イエスは、その兆候をいくつかあげたが、そのひとつが「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイの福音書24章)と応えている。
イエスキリストの時代は「壁」の時代であった。先ずはユダヤ人は異邦人との間、そして病人を罪人とみなし、そして律法を守れない者(特に貧者)と交際しないなどの「壁」だらけの社会であった。
実は、イエス・キリストのいう愛は、それらの壁を乗り越えることにある。
その最も典型が前述の「善きサマリア人」の譬え(ヨハネ6章)である。
また、イエスがらい病患者の群れの中に身をおいて癒しをなす一方で、罪人と「壁」をつくるばかりか、貧者を貪って自らを神に近しい存在だと自認する律法学者やパリサイ人を批難した。
さて、アダムスミスの経済思想に、自由放任主義(レッセフェール)というものがある。
各個人は、自分の利益を追求するのだが、それが社会全体の福利を増すという思想だが、独占・寡占の経済社会ではありそうもない。
モーーセの「十戒」の第十戒めは「汝、貪るなかれ」であるが、アダムスミスはエジンバラ大学で「道徳哲学」を教えて、その上に経済学を築いた。
予定調和の中の経済人とは、少なくとも「貪らない」人間を想定していたにちがいない。
さて、最近、民主主義が機能しなくなったといわれる。
色々な見方が出来ようが、民主主義の本来の意味は「多数者(デモス)の支配」という意味なのである。
そうならば、圧倒的多数を占める中間層や貧困層の生活が改善されることこそが、民主主義が機能しているということになる。
ところが、マジョリテイたる人々の生活改善要求が少しも政治に反映されないということは、民主主義が機能不全に陥っているということなのだ。
市場経済が予定調和であるために人間の倫理性が求めらえるように、民主主義は、人々が互いに心を閉ざせば機能しなくなる。
具体的にというと、アメリカにおける「中間層」の存在は、共和党および民主党それぞれに穏健派グループを生んで、民主党・共和党の穏健派が結集して大事な法案を通していくという構図があった。
1980年代、レーガン大統領は、なんと選挙で社会福祉を削減すると公言して選挙選に臨んだ。
日本で当選することはあり得ないが、アメリカでは教会やコミュニティなどが存在しレーガンはそうした古き良きアメリカの復活を訴えたのである。
旧き良きアメリカ、いいかえるとキリスト教の「隣人愛」の伝統を担った存在こそが中間層なのだ。
つまり、物質的・金銭的成功をアメリカン・ドリームを価値体系の中心におく一方で、他方での敬虔なキリスト教信仰とそれに基づいた労働意欲とか倫理が、この中産階級によって保全されてきた社会だったのだ。
しかし格差の拡大と中間層の没落に伴う社会の分断の状況では、災害やテロ、パンデミックなどが起きると、基本的に人々が自分を守ることに専念し、相手に対して想像力を働かせるこもなくなる。
今語られるコロナ後の「ニューライフ」について、ソーシャル・ディスタンスとかタッチレスという言葉に代表されるように、自分を「守る」ことに対する意識が髙くなる。
最近、イタリアの哲学者アガンベンが「サバイバル以外に価値はないのか」という問いを提示しているが、それは人が「生本能」をむき出しにすることで、具体的にいうと自分を守るためにマスクや消毒薬を買い占めるなどの「貪り」である。
買占めは正常な市場機能を阻害する。
イエス・キリストの予言した「愛が冷える」とは、リモートで人の痛みや温もりが伝わりにくいこともあろうが、「不法がはびこる」で思い浮かぶのは「フェイク・ニュース」のことである。
そもそも、アメリカという国は、エリート層が情報を操作して都合のいい社会をつくろうとしてきたという不信感がつのっていた。
元CIAのスノーデンがそれを暴露したが、そうなるとマスコミの流す情報などを人々は信じなくなる。
SNSの匿名性に力を得て、自分を守るために「フェイク」を流すことに抵抗が薄くなる。
人々は何を信じていいのかわからず、信じたいことを信じる。
エビデンスを欠いた疑心暗鬼の世界に”愛が冷える”のは自然な気がする。