昭和40年代、伊豆大島を一躍有名にしたのは、都はるみの「アンコ椿は恋の花」。
島の女性の悲恋を歌ったこの歌は、島の応援歌でもあった。海風の強いこの島では、椿の木は防風林として使われ、木の実から
とれる油は食用や化粧用に珍重されてきた。
「アンコ」とは、「姉っ子」がなまった地元の言葉。
もともとは、目上の女性の敬称であったが、地元の女性の一般的ば呼称として使われるようになった。
伊豆大島の女性の衣装は、絣(かすり)の着物に前垂れ、頭に手ぬぐい。前掛けといわずに前垂れというのは、
着物を締める帯の代わりをしたためで、作業着としても普段着としても着られてきた。
毎年1月から3月まで開催される「椿まつり」では、「あんこ」さんに出会える。
さて、椿といえば、最近のTVのCMや新聞広告で目につくのが、「五島椿」である。
長崎県五島といえば、隠れキリシタンの里であるのは有名だが、ツバキ育つ島とはつゆ知らなかった。
2020年、五島の椿を活用した新産業や雇用活性化で地域活性化を目指す「五島の椿プロジェクト」なるものが始動した。
この広報活動で協力する「椿サポーター」に就任したのが、女優の吉永小百合である。
吉永がどういう事情で椿サポーターに就任したのかは定かではないが、昨年公開の映画「最高の人生の見つけ方」のロケで五島に滞在し、美しい景色や魚のおいしさに、人間が生きる原点のような島だと感じたと島の魅力を語った。
なによりも吉永は、椿染めの着物がとても似合いそうな雰囲気ではある。
その着物を手掛けたのは人間国宝・志村ふくみさんの長女で染色家の洋子さん。
洋子さんによれば、ツバキを染めるのははじめてで、茎や葉などを煮出して染め、吉永は想像していたより、ずっとピンクで驚き、着ていると幸せを感じるという。
そして吉永は、東京の代々木の生まれだが、長崎とは縁が深い。吉永のいとこが長崎で医者をしたり、叔母も書道を教えたりしていたのだという。
また吉永は、長崎市内の大浦や浦上の天主堂で原爆の詩を朗読したことから、”長崎平和推進協会”の人々と懇意にしているという。
吉永が原爆の詩を朗読するようになったきっかけは、NHKドラマ「夢千代日記」の出演である。
山陰の雪深い温泉町で、暗い過去を背負いつつも、したたかに生きる芸者たちの人間模様を描いたドラマの脚本の早坂暁。
早坂は「いつか原爆のことを書きたい」という思いを長年抱き続けていた。
それが、胎内被爆した主人公・夢千代で結実した。
きっかけは、海軍兵学校の生徒だった早坂さんが終戦で故郷に帰る車中から見た光景にあった。
早坂が乗った貨物列車が夜になり、広島駅に停車。駅舎もプラットホームもなく、そこから荒野のように見渡す限り何もない広島市内が見渡せたという。
当時、16歳の早坂少年は「若くして終末の光景を見てしまった」とショックを受け、いつかこのことを書かなくてはと思ったと語っている。
原爆症で余命三年と宣告される"夢千代"を演じた吉永小百合に対して、被爆者から「イベントで原爆詩の朗読をしてほしい」と依頼されたという。
また、吉永は長崎を舞台とした映画「長崎ぶらぶら節」にも出演したこともある。
原作の「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞したのは、作詞家のなかにし礼。
なかにしは作詞家として成功後、全国の民謡を聞き続けるなかで各地に失われつつある歌に興味をもつようになった。そして「長崎ぶらぶら節」に出会う。
そしてこの声の持ち主のことを調べ、長崎・丸山の芸者「愛八」という女性であることを知る。
愛八は本名・松尾サダといい、長崎の寒魚村・網場(あば)の出身で、貧しさゆえ十歳の時に、長崎市内の丸山に芸者となるべく売られていた。
とても器量良しとは言い難い女性だったが、生き残るためにあらゆる芸を磨き"名妓"とよばれるまでになった。
この花月に黒田藩御用達の老舗「万屋」の御曹子で、「長崎学」の大家とも称される古賀十二郎という人物が訪れていた。
古賀は学者なのか遊び人なのかよくわからない人物であったが、なぜか器量よしでもない愛八に目をつけた。
愛八はそんな立派な先生がなぜ自分に白羽の矢をあてたのかと問うた。
すると古賀は「上手く歌おう、いい人に思われよう、喝采を博そう、そういう邪念が歌から品を奪う。
おうちの歌は位が高かった。欲も得もすぱっと切り捨てたような潔さがあった。
生きながらすでに死んでいるような軽やかさだ。それでいて投げやりででなく、冷たくなく、血の通った温かさと真面目さ、それに洒落っ気があった。品とはそういうもんたい」と語った。
古賀は中央に対抗できる長崎学の確立の為に、長崎に残された古い歌を探すという何の得にもならない仕事のパートナーにこの愛八を選んだのである。
愛八も自分を理解してくれる人にようやくめぐりあえた嬉しさに恋心を抱きつつ、古賀に伴われて3年もの間旅を続けた。
そして古賀は数多くの歌を「愛八の歌い」に助けながら整理記録していったのである。
そして旅の3年目に出会ったのが「長崎ぶらぶら節」であり、そのなんともいえぬ甘いのびやかな節回しに引き込まれた。
さて、なかにし氏の「長崎ぶらぶら節」の発見には、もう一人、大正を代表する作詞家・西条八十八の存在が介在する。
西条八十八もまた埋もれたままの民謡を聞き直し、新聞に「民謡の旅」という連載をつづけていた。
西条が長崎の花月で食事をした時に、民謡を聞きたいと注文した時に登場したのが愛八だった。
西条は「長崎ぶらぶら節」を聞いた時に、それをレコード化することを勧めたのである。
レコード会社が「長崎ぶらぶら節」を有名歌手でレコード化してはと提案すると、西条は愛八が歌うからこそ価値があると反対したのである。
その結果「長崎ぶらぶら節」は愛八の歌でレコード化され、なかにし礼の耳に届くことになるのである。
なかにし礼の直木賞受賞作の小説「長崎ぶらぶら節」は、古い歌探しの物語であると同時に長崎丸山芸者・愛八という女性の「発見」の物語ともなっている。
その愛八を演じたのが吉永、吉永の原点は”童謡歌手”ということにある。
大正時代に子供達に文語ではなくわかりやすい日本語で芸術性のある童話・童謡をつくろうという「赤い鳥」運動がおき、それに多くの文学者や音楽家などが賛同し参加した。
ただ、プロの大人の歌手が童謡を歌うと"重すぎる"ことから、同じく子供の童謡歌手が求められた。
実は、女優の吉永小百合のスタートもそうした児童歌手からであった。
小学校5年生の時、人気ラジオ放送「赤胴鈴之助」の児童歌手募集に応じたものである。
オ-ディションがあり女優・藤田弓子も吉永とともにこの「赤胴道鈴之助」を歌っている。
ちなみに、このラジオ放送のナレーター役は当時中学生だった後の参議院議員の山東昭子で、「赤胴鈴之助」は、人材輩出という点で「モンスター」番組だったといえよう。
そして、NHKのラジオ番組などに童謡歌手をたくさんに提供したのが「音羽ゆりかご会」がある。
この会は1933年、音羽の護国寺内の幼稚園にて誕生した。
音羽といえば現在、日本で一番の「文教地区」で当時から有名国立大学や付属の小中学校が居並ぶ地域で、鳩山三兄弟もここで育っている。
そして日本史を知る人なら、「音羽ゆりかご会」が護国寺内に生まれたことに、何かの因縁を感じ取る人もいるかもしれない。
護国寺というのは、五代将軍・徳川綱吉の母親が建てた寺で、母親は"男子の生まれない"綱吉に対しこの寺の僧から怪僧・隆光を紹介され、生き物を大事にしないからだといわれ、それが綱吉の「生類憐れみの令」発令に繋がっている。
つまり護国寺は子供と繋がりの深い寺なのだ。
さて「音羽ゆりかご会」は、当時東京音楽学校の学生だった海沼実が、アルバイトのつもりで子供達を集めて歌唱の指導をはじめたのがキッカケである。
そして、この会が日本における「児童合唱団」の先駆けとなった。
現在の会長は、創設者の孫にあたる三代目・海沼実で、新作童謡CD化などのかたわら、国際的な児童音楽祭にアジア地区を代表して参加するなど、日本の童謡を世界に広めるべく取り組んでいる。
さて「赤い鳥」運動に呼応するかのように、この音羽に隣接した街・大塚で、1915年に福岡藩士の下井春吉により「大塚講話会」が誕生している。
これは童話を子供達に読んで伝えよう巡回する口演会で、わかりやすい日本語を子供達に伝えようとした点で、「音羽ゆりかご会」の設立趣旨と同じである。
アジアで生産される「パーム油」と聞くと、ピンとこないかもしれないが、アイスクリームやピーナッツバターなどの我々の身近な食品に使用されており、石鹸や原油の製造にも用いられている。
パーム油は少なくとも44カ国で生産されているが、全世界の供給量の85%はインドネシアとマレーシアで生産されている。
パーム油は、一言で言うとアブラヤシの”実”由来の食用植物油で、アジアやアフリカ諸国で”調理油”として大変よく使われているが、現在はバイオディーゼルとしても利用が広がっている。
パーム油は、カップめん、ピザの生地、マーガリン、クッキー、チョコレート、アイスクリーム、シャンプー、口紅などで使われるが、このパーム油は、世界的な環境問題となっている。
森林破壊を招き、絶滅の危機に瀕しているオランウータンの生息地に最近パーム油製造業者が侵出して、オランウータンをエアガンで撃って殺しているため生物多様性の面からも、問題が指摘されている。
加えて、その生産が児童労働に依存しがちなこと。
実は、パーム油の世界最大の産地がインドネシアとなったのは、ここを植民地支配したオランダによるものであった。
オランダは1609年からインドネシア(バタヴィア)に東インド総督を置き、日本にも進出してくる。
初期の目的は香辛料貿易であったため、農業開発は行なわれなかったが、インドネシアでは830年ごろ輸出向け作物の栽培が本格化する。
当初は、住民の耕地の5分の1に輸出用の作物を栽培させ、生産物を地租として徴収する「強制栽培」という制度をとった。
この制度は1850年まで続いたが、1870年に農地法が改正され、民間企業が75年もの長期間、ジャワ島で360ha、その他の島で2500haまでの土地を借りることが可能になり、プランテーションが本格的にはじまった。
砂糖が主力商品であったが、1920年代に砂糖の栽培が行き詰まり、ゴムやアブラヤシがプランテーションの新しい主力作物として注目を集めていく。
それまでは、ジャワ島での開発が主であったが、これらの作物に気候的に適しており、さらに広い土地のあるスマトラ島に、プランテーション開発が移っていく。
さて、1960年代に女優として世界的有名になるオードリーヘップバーンだが、ヘプバーンの両親ジョセフとエラは1926年に、シンドネシアのジャカルタで結婚式を挙げている。
その後二人はベルギーのイクセルに住居を定め1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。
ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリスの市民権も持っていた。
母の実家がオランダであったこと、父親の仕事がイギリスの会社と関係が深かったこともあって、ヘップバーン一家はこの三カ国を頻繁に行き来していたという。
ヘプバーンは、このような生い立ちもあって英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。
ヘプバーンの両親は1930年代にイギリス「ファシスト連合」に参加し、とくに父ジョゼフはナチズムの信奉者となっていった。
その後両親は離婚し、第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラはオランダのアーネムへの帰郷を決めた。
オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも「中立」を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。
ヘプバーンは、「アーネム音楽院」に通い、通常の学科に加えバレエを学んだ。
しかし1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だとして、ヘプバーンは「偽名」を名乗るようになったという。
そしてナチの危険は、ヘプバーン一家に迫っていた。
1942年に、母方の伯父は「反ドイツ」のレジスタンス運動に関係したとして処刑された。
また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監され、もう一人の異父兄アールノートも強制労働収容所に送られることになったが、捕まる前に身を隠している。
連合国軍がノルマンディーに上陸してもヘプバーン一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による作戦の砲撃にサラサレ続けた。
そしてヘプバーンは、1944年ごろにはひとかどのバレリーナとなっており、オランダの「反ドイツ・レジスタンス」のために、秘密裏に公演を行って「資金稼ぎ」に協力していた。
ドイツ占領下のオランダで起こった「鉄道破壊」などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。
飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちは「チューリップの球根」の粉を原料に焼き菓子を作って飢えをしのぐありさまだった。
戦況が好転しオランダからドイツ軍が駆逐されると、「連合国救済復興機関」から物資を満載したトラックが到着した。
ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。
しかし、この時救援物資を送ったのがユニセフの前身「連合国救済復興機関」であった。
そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえよう。
ちなみに、ヘップバーンはアンネ・フランクと同じ1929年に生まれで1か月の違いだが、アンネフランクに関する映画の出演を依頼されたこともあったが、自身のあまりにも生々しい体験からか、出演を断っている。
ヘプッバーンは女優の仕事から退き、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。
ヘプバーンがユニセフへの貢献を始めたのは1954年からで、アフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。
また1992年終わりには、「ユニセフ親善大使」としての活動に対してアメリカ合衆国における文民への最高勲章である「大統領自由勲章」を授与された。
この大統領自由勲章受勲1カ月後の1993年に、オードリー・ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂がんのために63歳で亡くなった。
女優業を通じて長崎と関わった吉永小百合は、原爆の詩を朗読して世界平和を訴え、かたやオードリーヘップバーンは、ナチス占領下の体験から、「ユニセフ親善大使」となって活動した。
二人が、椿油とパーム油という"植物油"の育つ島と関わりがあったのも、ささやかな共通点である。