先日亡くなった志村けんの実家は東村山で3百年以上続いた農家だが、けんが亡くなった際に、テレビに露出されたのは3歳年上の兄・知之である。
知之は大学を卒業後、47年間東村山市役所に勤め、弟をずっと応援してきた。
それは、実家にある「けん」のキャクター人形であふれていることでもわかる。
その志村家では、一族の中で甲州武田家との関わりがしばしば話題となるという。
実際、甲州武田家を守り続けた戦国武将の中に、「志村」の姓の者を見出すことができる。
長野県の武田家・菩提寺恵林寺が所有する一つの史料には、新たに徳川の家臣となった中には志村姓の武士が多く含まれている。
1575年 武田軍は”長篠の戦い”で織田・徳川の連合軍と激突するが、死闘の末 武田軍は撤退。その後 徳川に忠誠を誓った志村姓の武士や、徳川と敵対する北条家に仕えた別の志村姓の武士がおり、その者たちは 甲斐から小田原更に 東京・立川にも移住した事が分かっている。
これら関東へ向かった「志村一族」が志村けんのルーツなのかもしれない。
ちなみに、東京板橋区を通る中山道沿いに「志村坂上」という地名が残っている。
東京都の西郊・東村山で300年続く「けん」の実家の志村家は、先祖の土地を守りながら麦やサツマイモをつくり養蚕を行ってきた。
ところが1930年 昭和農業恐慌が勃発したため。アメリカへの生糸の輸出が制限されたためその価格が暴落。
志村家をはじめ東村山の多くの農家が急場をしのぐため 先祖の土地を手放していった。
「けん」の父憲司は、8人長男として家計を支えなければならない。
憲司は 農業を手伝いながら猛烈に勉強し、小学校教員を養成する豊島師範学校へ入学する。やりがいがあり 安定した教師という仕事に憲司は家族の未来を託したといえる。
この師範学校は1909年の創部以来全国優勝20回を誇る柔道の名門で、憲司は主将として柔道部を率い在学中に講道館柔道の3段まで昇段する。
そして、豊島師範学校を卒業し無事に教員免許を取り、 師範学校の卒業生には兵役の軽減があり、憲司は戦地へ行く事はなかった。
ここまでは、志村けんが「喜劇の世界」にはいる要素は見えないが、母方の血筋にそれがあったようだ。母となる小山和子は正福寺地蔵堂の境内で年一度踊られる無形文化財の雅楽の初代「踊り子」であった。
小山家は、江戸時代 この地区の名主を200年以上にわたって務めていて、1919年 その小山家の分家に生まれたのがけんの母 和子で8人兄弟の四女。
小山家は社交的な家で、和子は「浦安の舞」の初代踊り子に選ばれている。
たまたま4歳上の兄の結婚式で、兄の妻になった女性には3歳上の兄がいて、それが志村憲司であった。
つまり「親族」の中にあって、立派な教師になろうと努力する憲司は周りにいないタイプであった。
憲司もまた 自分にはない明るさを放つ和子が気に入り、1945年月 二人は結婚する。
太平洋戦争末期の東京大空襲で、東村山周辺も被害が出て、戦後 戦後の教育現場は大きな変革を強いられ、憲司は教師を続けるためにGHQが主導した「再教育講習」を受け指導法を学びなおす。
1950年、憲司と和子の間に元気な三男が誕生し、「徳川家康のように立派になってほしい」と名づけたのが志村けんの本名「志村康徳(やすのり)」である。
ただ父親はいつも難しい顔をしていて、家で冗談も言えないというのが子どもたちの共通認識であったが、けんはその一方、けんはモノマネをしたりコントをやったり笑ってもらう事が楽しくて仕方なかった。
ところが憲司が1963年3月バイク事故に巻き込まれる。幸い命に別状はなかったが、 事故から3年後に記憶障害がみられ、入退院を繰り返すようになる。
そんなか家族を支えたのが母和子で、志村家が暗くならないように独特の方法で笑いを振りまいたという。
1966年「けん」が高校2年生の時、ひとりの女子生徒が当選したのが、ビートルズの日本公演のチケットであった。
クラス一番のビートルズファンである「けん」はそのチケットを女子生徒から譲り受け、7月2日武道館へ向かった。
ビートルズとその音楽に熱狂する観客を目の当たりにし、当時の世界最高峰のエンターテインメントを肌で感じとることができたことが大きかった。
高校3年生の時「けん」は、当時コミックバンドとして人気が出始めていたザ・ドリフターズの門をたたこうと決意する。
ちなみにビートルズのコンサートで「けん」が行った前日に前座として登場していたのがドリフターズで、運命的なニアミスをしていたことになる。
そして、高校の卒業式直前、「けん」は何のツテもないままリーダー いかりや長介の自宅を訪ねる。
そして「けん」は 父親の憲司には何も告げず家を出た。というのも憲司は家族の顔が分からないだけでなく、街を徘徊するようになっていた。
家族は、「けん」がドリフターズに付いていく事を反対しなかった。
1969年ドリフターズの新番組「8時だよ、全員集合」がスタート。一番下っ端の見習いとして「けん」の”付き人”生活、および芸人修業が始まる。
芸名は 父憲司の名前を取って「志村けん」とした。
月給は 僅か5千円円で、空腹を満たすため けんはメンバー5人が食べ残していたものを食べていた。
地方巡業の寝台列車の中では楽器の見張り役をしていた1972年 父憲司が54歳で亡くなった。「けん」がドリフターズに入った事は最後まで理解していなかったという。
転機は父の死から1年後に訪れた。中心メンバー 荒井注が体力の衰えを理由に脱退する。
そこで いかりや長介が後継に指名したのが当時24歳の志村けんであった。
1974年「けん」はドリフターズの正式メンバーとしてお茶の間デビュー。
当初、観客の反応は冷ややかで、リーダーのいかりやも、荒井注の後継に指名した「けん」をブレークさせられない事に責任を感じていた。
しかし「けん」は諦めずに、自分らしい笑いを求め、探し当てたのが「東村山音頭」であった。
1963年東村山の農協が制作し、母和子が毎年「盆踊り」で踊る、子どもの頃から馴染んだ曲であった。
「けん」は東村山でしか知られていない「ご当地音頭」で大ブレイクする。
後に「東村山名誉市民」となる志村けんのスタートとなった。
コメディアン「志村けん」、東村山市民の応援のもと、”家族一丸”となって作り上げた感がある。
日本の高度経済成長のただ中、映画「無責任」シリーズで一世を風議したのが植木等であった。
調子のよさそうな男が、厳しい状況下の人々の前に現れ「およびでないっ?およびでない。こりゃまた、失礼しました!」とチャカす。
植木が演じたのは、閉塞した空間を一瞬にして破壊し、チャラにしてしまう「無責任男」。
しかし植木の実像は、細やかな気配りをする人物であったそうだ。
植木の父は三重県の浄土真宗・常念寺の住職で、幼少時代から僧侶の修行に励んでいたが、音楽青年だったことから東洋大学卒業後、1957年にハナ肇が結成した「クレイジーキャッツ」に参加した。
クレイジーのメンバーと出演したバラエティ番組「シャボン玉ホリデー」では「お呼びでない」など数多くのギャグを大流行させ、また1961年には、青島幸男作詞の「スーダラ節」が大ヒットした。
この植木の「付け人」だったのが、博多出身の小松政雄である。
実は、冷泉公園と通りをはさんで隣接しているのが、博多山笠や「博多っ子純情」の舞台として有名な「櫛田神社」で、この神社のすぐ裏手に自宅があった。
小松は7人兄妹の5番目として育った。実父は地元の実業家で名士だったが、早くして病死。以後、小松の家族は貧窮を極めた。
小松は、1942年生まれだから福岡大空襲においてはほぼ爆心地付近で遭遇していることになる。
少年時代の小松は自宅前の「焼け跡」で行われていた露天商の口上をよく見聞しており、サクラがいるのを知っていたという。
コメディアンの小松政雄の原点は、遊び場とした冷泉・川端あたりの露天商や大道芸人の芸や口調から、自然と身についたその芸にある。
そこから生まれた芸が、一時宴会などで使われた「電線音頭」ではなかろうか。
福岡高等学校・定時制を卒業し、1961年に俳優を目指し上京した。
魚河岸などさまざまな職業を経験し、横浜トヨペットのセールスマン時代には相当な収入を得たという。
しかし目指すは芸能界、何のツテもなかったが、公募により100人を超える希望者の中から選ばれ、憧れの植木等の「付け人兼運転手」となり、そのことが嬉しくて仕方がなくて誰かれとなく吹聴し、その後芸能界入りを果たす。
小松は帰福すると、国体道路に面した「かろのうろん」でゴボウ天うどんを食べるのが常で、テレビ取材に少年時代の味そのままだと語っている。
往年のコメディアン「堺駿二」、本名は栗原正至で、大正2年、現在の東京都墨田区に生まれた。
父・重吉は桶屋を生業としていたが、兄で浪曲師をしていた栗原留吉は明治28年生まれで、末っ子の正至とは18歳も年が離れていた。
留吉の芸名は「小柳丸」。浪曲師として活躍する兄の影響もあったのか正至も また芸能の道に進むことになる。
父・重吉が亡くなった時、正至は9歳で、11歳の時に役者の道に進むことになる。つまり正至は 尋常小学校を卒業しないまま役者の道に入る。
母は、 伊村義雄にという新派劇出身の俳優に息子を頼み、一座の”子供部”に入れてくれた。
正至は整った顔だちで女形も演じていて、小村正雄という名が最初の芸名であった。
伊村について一年中旅をしながら舞台に立ち、一座に入って8年目の1931年、正至が18歳の時に”転機”がやってくる。
アメリカから帰国した一人の俳優の舞台を見て正至は魅了される。その俳優の名は 早川雪洲。アメリカ映画界で東洋の貴公子として 一世を風靡しその帰国は注目を集めた。
雪洲は劇団を作り日本各地を公演して回るが、居ても立ってもいられなくなった 正至は、伊村義雄一座から逃げ出す。
そして弟子は取らないという雪洲のところに100日間 通い詰めようやく一座に加わり、”付き人”になる。
駿二はクレジットもないエキストラではあったが、或るとき雪洲は駿二に、「君は まともな役より ちょっと足らない役どころの方がいいね」といい、駿二の役者人生の決定的なアドバイスとなった。
早川の人を見る目は的確のようで、アメリカで俳優を目指して早川に弟子入りしたハリー牛山に、俳優よりも美容師となることを勧めた。
すると、ハリー牛山は日本に帰国し「ハリウッド美容室」を起こし、日本の美容界を牽引するまでになる。
さて駿二はその頃一人の女性と出会い結婚するが、この女性が後の駿二の息子・堺正章の母となる。
乾(いぬい)千代子、東京深川生まれ。後に幹家は日本橋小網町に転籍している。
学校を卒業すると千代子は 芸能の道に進み「松竹少女歌劇団」にはいり、芸名は「三浦たま子」。
当時の松竹歌劇団のスターは「男装の麗人」と謳われた ターキーこと水の江瀧子が大人気であった。
千代子は大勢の踊り子の一人だったが、「三浦たま子」はいつのまにかその名前が見られなくなる。
1933年6月に起こった「桃色争議」ともターキー争議とも言われた松竹と歌劇団との間に起こった労働争議で、水の江瀧子が先頭に立ち歌劇団の待遇改善を求めたものである。
この影響か、千代子はこの頃を境に歌劇団を離れたとみられる。
妻・千代子との新生活が始まった駿二だが、突然早川雪洲が映画の撮影のためパリに向かうことになり、駿二は「ヤパンモカル」劇団にはいる。
「ヤバンモカル」の名は、「やっぱり儲かる」といういい気な名前からきていた。
得意は アドリブによるドタバタ。駿二は シミキンとの共演によって喜劇役者としての才能に磨きをかける。
シミキンと駿二のコンビは浅草ツッコミコントの原点だと言われている。芝居のストーリーとは関係のないギャグの連打のようなコントであった。
しかし1940年シミキンが突然映画に出るため舞台を離れると言いだし、駿二は一時人間不信に陥り、伊東の老舗旅館で働くくことになる。
しかし身がはいらず、親戚を頼り小さな店を開くが商売にも身が入らず、1932年 駿二は いま一度役者として生きていくことを決意する。
そんな折、映画会社との契約が切れたシミキンが浅草で舞台を再び始めるにあたり駿二に声をかけてきた。
かつて駿二を裏切った相手だったが、駿二に迷いはなかった。
駿二は後に「こんな相手とは やりたくないとも思う。しかしひとたび舞台に立ったら好き勝手なことは言えないはずだ。お客のために ベストをつくすことそれが役者の本筋ではないだろうか」と語っている。
シミキンが付けた新たな一座の名は「新生喜劇座」で「リンゴの唄」でも知られる詩人のサトウハチローも作家の一人として参加している。
しかし 前年に始まった太平洋戦争が舞台に影を落とす。”脚本”の事前検閲で所轄の警察に提出しなければならす、劇場には臨検席という警察官の席があり脚本以外のことを言っていないか逐一チェックされていた。
シミキンは 警察官にやりこめられ、駿二や 一座の役者たちも一緒に呼び出しを受けたこともあったが、駿二はその後水の江瀧子の劇団「たんぽぽ」に入る。
そんなある日、駿二に「赤紙」が届く。横須賀海兵団に配属されることになった。そんな時、妻子を助けてくれたのが水の江瀧子であった。
駿二が 横須賀海兵団で担当したのは炊事係で、戦地に行くことなく横須賀で終戦を迎える。
駿二は 復員後すぐ劇団「たんぽぽ」の舞台に立ち、駿二31歳の時に栗原家に次男が誕生する。
それが後の堺正章で、栗原家は 4人の子供に恵まれ6人家族となった。
この年、駿二は 浅草の舞台から映画界に進出、美空ひばり 大友柳太朗など映画スターを支える脇役として軽妙な演技を披露する。
そして駿二が出演する映画が次々に封切られていた。
11歳で役者生活を始めてから30年、堺駿二は超売れっ子の喜劇俳優となり、鎌倉に豪邸を建てるに至る。
ところが自宅のある鎌倉に帰るのは年に数回のことで、僅かな休みを過ごすと駿二は撮影所のあった京都にすぐに戻っていく。
家族は 父に会えない代わりに、駿二の出演する映画を見にいってみることができた。
1962年16歳になった正章は高校在学中にジャズ喫茶や米軍キャンプで演奏していた「ザ・スパイダース」に加入する。
1年あまり父親を説得しての芸能界入りであったが、ザ・スパイダースは 田辺昭知をリーダーに堺正章、かまやつひろし、井上順などのメンバーが躍動し、1966年からヒット曲を連発し、次々と主演映画も作られていくほどの大人気グループとなっていった。
ところが1968年8月10日、新宿コマの喜劇に出演中に父駿二が突然倒れた。脳いっ血であったが、公演は気付かれないように進行した。
息子の正章は 静岡でスパイダースの公演中で、東京に駆けつけた時には、すでに亡くなっていた。