中近東の一部では今も行われている刑罰「石打の刑」。それは、半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げ死に至らしめるというもの。
残酷なのは、罪人が即死しないよう、握り拳から頭ほどの大きさの石を投げつけるという。
イエスの時代にはそれが普通に行われていたのであるが、聖書(ヨハネの福音書8章)は、その出来事を次のように伝えている。
律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
現代日本の裁判で「汝等、罪無き者から石を擲て(なげうて)」というイエスの言葉を引用して、孤立無援となったひとりの女性の盾となった弁護士がいる。
その弁護士は、日本国憲法制定においても重要な役割を果たした人物であった。
衆議院第一回選挙で福島県から社会党から立候補し、選出された鈴木義男(よしお)、地元の人々は「ぎだん」とよんで親しんだ。
1946年2月マッカーサーを中心に草案がつくられた。そのGHQ原案をたたき台に日本との折衝でできた「改正案」が衆議院で話し合われることになった。
そして7月に開かれた「帝国憲法改正案委員小委員会」にて、マッカーサー草案になかった条文がで追加・修正されていく。
この小委員会で、芦田均委員長に次いで発言回数が多かったのが鈴木義男で、9条の「平和主義」や25条の「生存権」、17条の「国家賠償権」、40条の「刑事補償権」は、鈴木義男なくしては存在しなかった、もしくは全く違うカタチでなったであろう。
最近の速記録や母校・東北学院の史料で鈴木の功績がようやく明らかになっている。
福島県白河に明治のはじめ、戊辰戦争の激戦地となった。鈴木義男は明治27年この地に生まれた。
仙台の東北学院で学んだ後、東京大学法学部に入学、大正デモクラシーの時代、民本主義を唱えた吉野作造に大きな影響をうける。
鈴木は、「帝国憲法改正案委員小委員会」でGHQ原案による憲法9条には、戦争の放棄や軍備不保持や交戦権の否認はあったが、「平和」の文言が見当たらないことを指摘したのである。
鈴木は、軍備を皆放棄するというのは、敗者の泣き言のような消極的な印象を与えるから、まず「平和を愛好する」のだと宣言しておいて、その次にこの条文をいれようじゃないかと提案した。
日本進歩党の犬養健も、なんだか仕方なくて戦争をやめようという印象があるので、”積極的な節理”として戦争はいかぬというような言葉があればいいと賛同した。
「日本国は平和を愛し、国際信義を重んずる」ことを国是として、教育の根本精神をここにおくといういうようなことを表せるようにしようとうわけだ。
それでは鈴木は「平和」という言葉にこだわったのか。
鈴木は、1921年二度にわたってドイツ・フランスに研究生としてわたった。当時は第一次世界大戦が終わったばかりであった。
そして戦死者1000万人の総力戦、鈴木は戦場を歩きこの破壊のあまりに大きさを痛感し、人類は一大愚挙をあえてしたる次第を考え。
ただその混乱期においても、鈴木は新価値の萌芽を見いだした。
1919年、パリ講和会議で、国際連盟が生まれ、戦争の放棄をうたった不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が結ばれた。
鈴木は、国際協調と戦争の違法化という新しい考え方を知ったのであった。
帰国した鈴木は東北大学の教授となり、雄弁で機知にとんだ講義、教室は学生達であふれていた。しかし、時代は軍国主義へとむかう。教育現場に現役将校を派遣して軍事訓練の強化がはかられた。
この状況を鈴木は「殺人術」を教えると新聞で訴えた。さらには、人類文化の理想は平和にある、軍事教育を全国の学校に大規模に行うことによって、次代の国民の精神におよぼす大なる悪影響は、小青年の心に知らず知らず、戦争本能を植え付け、激発して戦争を好ましむるに至ることであると主張した。
当然、当局にマークされた鈴木は、新聞で”赤い部類”にはいる教授とみなされ罷免の噂があると報道された。
東北大学の評議会で鈴木の処分が話し合われ、教壇にたたせることはできず、時機をみて辞表を提出させることを決定。
ただ、ただちに辞表を出させるのでは、当局の圧力で辞めさせたことになるので、しばらくは病気静養をすすめた。
つまり、ことが落ち着いた頃、直接に事件と関係のないような時期に辞表を提出させたのである。
鈴木が辞表を出した翌年には満州事変が勃発、国際連盟脱退、国際的に孤立の道をあゆむ。
そして、再び起こった第二次世界大戦、戦後には国際連合が発足した。
鈴木は、日本人自身の問題として、新しい平和維持の構想に9条を積極的に位置づけようとしたのである。
その集団安全保障の考え、つまり加盟国は軍事基地提供の義務があるかわりに、ひとたび不当にその安全がおびやかさる場合には、他の60数か国の全部の加盟国が一致してこれを防ぐ義務があるというのだ。
我々は消極的孤立・中立政策等を考えるべきではなく、あくまでも”積極的平和機構への参加政策”をとるべきであると考えた。
7月22日の小委員会で、鈴木の提案をうけ意見が続出する。芦田委員長はリベラルな政治家で、9条の冒頭に、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」と、平和と国際協調を全面に出すこと、それも仕方なくではなく、日本国民の意思としてそうすることを表すとまとめると、党派を超えて全員が一致したのである。
鈴木義男は東北大学を追われた後、1930年に弁護士に転身し、人権侵害を被った弱い立場の人々の弁護に取り組んだ。
特に、「治安維持法」に問われた人々の弁護は、河上肇、鈴木茂三郎、有澤廣巳、宮本百合子、宇野弘蔵といった錚々たる人々であった。
また、それだけにとどまらず、女優のスキャンダルも担当した。
人気女優の志賀暁子が、映画監督との間に出来た子供を堕胎し、刑法違反にとわれた。
ようやく主役をつかんだ暁子は結婚相手との子供を生むわけにはいかなかったという。
鈴木は、相手方の結婚意思が明確になるまでは妊娠はさくべきだが、妊娠をふせぐことは女性のみのよくなしうるところではないと。
妊娠は主として男性の放縦。無責任の結果であると弁護した。
これに対し検事は、この犯罪を犯すに至った経過中には、同情すべき点もないではないが、かくのごとき犯罪を犯すことは女として欠くる点があるのではないかと主張した。つまり母性本能に欠けているないかというのだ。
鈴木は、生まなかったことに対して、女として本能に欠けるというのは、無理を強いることだと主張。
さらに、「汝等の中、罪無き者先ず之に石を投げうて」と言わざるをえない心持がすると訴えた。
なぜなら被告と同一の立場に立った時、刑罰の前に戦慄しながらも、うちかちがたい堕胎の誘惑に捕らわれない者はいないであろうと弁護した。
それは、名誉心あり、羞恥心ある人間として、当然陥る誘惑であり、自分はどうしても之に石を投げうつ気にはなれない。
無罪の判決はなきまでも、刑の執行猶予の恩典は必ず与えられることを信じると語った。
結局判決は「懲役二年、執行猶予3年」と鈴木の弁護は認められた。
鈴木は裁判でしばしば聖書を引用するが、それは幼い体験にある。
10代を過ごしたミッション系の東北学院で、その伝道師の家にうまれた鈴木は弱い立場の人々と生涯をともにすることを自然に学んでいた。
一方、志賀暁子はその後、文藝春秋創業者の作家・菊池寛の口利きもあって映画界にカムバックできた。
主演映画も公開されたが、一時の勢いはなくやがて脇役ばかりがまわってきと。
その後、劇団に入って舞台に立ち、結婚して一時は家庭に入ったりした他、子どもを抱えながら童話を書くなど、苦労を重ねた。
1990年9月、心不全のため、80歳でひっそりと亡くなるが、志賀は次のような所感を残している。
「私は、永久に刑罰をば背負わされても尚、贖罪の安心に到達する日は、訪れはしないでしょう。これ程苦しい私ではありますが、今尚あの子はああした運命の外に逃れるべき途がなかったのだと云うような考えが去来いたしますのはどうしたことでしょう。あの子は、私が生きて行く為ばかりでなく、あの子の為に、それは世に出ることが許されなかったような気がいたすのでございます。この恐ろしい人生の矛盾は、私と同じような過程でお産を経験される方の外は分かって戴けないのではないか」。
2013年、最高裁はようやく嫡出子と非嫡出子の相続分に差を設ける民法規定につき違憲判決を出したが、かつて結婚していない男女間の子どもは「私生児」として“日陰の存在”だった。そのことを考えれば、女性が堕胎するのも無理なら面もある。
それが女性に肉体的にはもちろん、精神的にも過重な負担を負わせてきたことは間違いない。
この志賀暁子事件は、そんな女性の視点に立った最初の判決ではなかったのではなかろうか。
個人的に弁護士・鈴木義男と重なるひとりの医師がいる。今から50年ほど前に「赤ちゃん斡旋」で世間を騒がせたこの医師の行為が、今日の「特別養子制度」を生んだといわれている。
その頃は、現実に駅前のコインロッカーにデパートの紙袋に入れられて捨てられていた事件が起きていた。
そうした荒んだ時代を背景にして、村上龍の「コインロッカーベイビーズ」という本がよく売れた。
当時、菊田昇医師は、宮城県で開業していたごく普通の産婦人科医だった。
菊田医師は、1949年に東北大学医学部卒業し精神科を志望していたが、ベビーブーム好景気だった産婦人科を選んだ。
秋田市立病院参婦人科院長を経て1958年から宮城県の石巻で開業した。
菊田昇氏は産婦人科の医師として、医療そのものとは性質の異なる現実に心を痛めるようになる。
菊田産婦人科を訪れる女性たち、夫に愛されない妻、強姦による子の母、不貞の子の母、未亡人の子などなど様々な女性の現実であった。
彼女たちは病院に訪れた時に、異口同音におろしてくれとたのんだ。つまり胎児と縁を切りたがっていたのだ。
そして菊田医師は、7ヶ月の胎児の中絶をきっかけにして、自身の行為に葛藤を持ち始める。厚生省の調査で7ヶ月の胎児は体外で生きることが可能だと発表されたからだ。
その反面、産婦人科医の収入源の多くは、人工妊娠中絶というのが現実であった。
菊田医師は医学生時代には聖書を読んでいたが、自分の仕事のことなどを考えると聖書を読めなくなったという。
そして、様々な事情から人工妊娠中絶を求める女性を説得して出産させる一方で、地元紙に”赤ちゃん斡旋”の広告を掲載し、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦に!無報酬”で斡旋したのである。
その際、菊田医師は、「偽の出生証明書」を作成して引き取り手の実子とした。
生むわけにはいかぬ実親の戸籍に”出生”の記載が残らないよう、また養子であるとの記載が戸籍に残らないよう配慮したためであった。
それは明らかに「違法行為」であったが、いつしかその数は100人にも達した。
ただ菊田医師が他の医師と違ったことは、この違法行為を”内々”にしようとはしなかったことにある。
1973年4月17日、石巻の地方新聞に、「生まれたばかりの赤ちゃんを我が子として育てる方を求む」と小さな記事を掲載したことがきっけで発覚した。
この新聞を見て「奇異」に思った新聞記者が、菊田病院を訪れた。
その際、菊田医師は自分はすでに100件を超える「違法行為」を行ったことを告白した。
そして、日本から子捨てや子殺しをなくすためには、母親が子と縁をきることを求めている場合には、母の戸籍に入籍することなく、養親の戸籍に入籍して”縁組”できるような養子法を作る必要があると語った。
実は、菊田医師がこうしたことを世に訴える機会を”待って”いたのだ。
菊田医師は、もしも新聞社が一面トップ記事として全国に報道してくれたら、この事実を”赤裸々”に公開するとまで語ったのである。
菊田医師のそうした行動の背景には、どんな経緯があったのだろうか。
菊田はかつて産婦人科の専門医会で「日本母性保護医協会」の石巻支部で、養子法改正の考えを訴えたことがある。
しかし法の改正は政治家の話だと相手にしてもらえずにいた。その間にも赤ちゃん達は全国で”密殺”され続けていた。
菊田医師はマスコミに訴える他はないとことを周囲に告げると、「そんなことをしたら処罰された上、物笑いになるだけ」と、まともににとりあおうとはしなかったのである。
実際、菊田医師は、1973年「赤ちゃん斡旋」事件によって世間の注目が集まる中、ついに告発されることとなる。
出生証明書偽造で罰金20万円の略式命令を受け、厚生省から6ヶ月の医療停止の行政処分を受ける。
所属関係学会を”除名”され、優生保護法指定医を”剥奪”された。
国会にも参考人として招致されることは"本意"だったとしても、最高裁までももちあがり”敗訴”してしまうのである。
しかしこの事件を契機に、人工妊娠中絶の可能期間が短縮され、1987年には養子を戸籍に実子と同様に記載するよう配慮した「特別養子制度」が新設されたのである。
つまり菊田医師の戦いは、法の戦いとは別のかたちで報われた点で、朝日茂氏の「生存権」をめぐる戦いで敗訴するも、”生活保護基準”を見直す契機となったことに通じる。
その後、菊田医師はマザー・テレサとの出会いを通してクリスチャンとなり、「小さないのちを守る会」で活動していった。
1991年4月の第2回国際生命尊重会議・東京大会で「世界生命賞」を受賞。実は、第1回のオスロ大会で受賞したのがマザー・テレサその人であった。