地域を繋ぐ人

1992年元日、群馬県下仁田町にあった「伊藤納豆店」では、店主は店をたたむことにした。
売り上げは年々減少し、子どもたちが先細りが見えている家業を継ぐ可能性は低かった。
しかし意外にも、長男・隆道は会社を辞め、納豆店を継ぐという。しかし、スーパーや小売店を100軒回って、置いてくれることになったのは、たったの2軒しかなかった。
ギリギリの生活を強いられる中、関東にある大豆加工食品会社を"挨拶"まわりと称して、”偵察”に行ったところ、埼玉県で300円もする豆腐が置いてあるのを見つけた。
隆道は早速、この人気商品を製造する「もぎ豆腐店」の茂木稔(当時47歳)を訪問する。
茂木は他の会社とは違い隆道を歓迎、それまでの経緯に耳を傾けてくれた。
そして、茂木は自分が選んだ大豆で自分の納得がいく納豆を作っていると語った。そして大豆を仕入れた値段で隆道に売ってくれた。
隆道はその大豆を使い、両親と共に新たな納豆作りを開始した。試作を重ねたのち、茂木豆腐店に持って行くと隆道の言い値270円で全部買い取ってくれた。
こうして下仁田納豆は、茂木豆腐店の直売店に並べられることとなった。
その結果、70万円だった月商は270万円となり、一家の生活は一気に安定した。
ところで茂木はどうして隆道にここまで良くしてくれるのか、不思議といえば不思議だった。
実は茂木にも、若いときに人に助けられた体験があった。
茂木豆腐店はごく普通の豆腐店であったが、茂木が二代目として継いで17年の時がすぎようとしていた。
そんな時、茂木が豆腐の大部分を納品していた会社が”突如取引をやめる”と言い出した。
困り果てた茂木であったが、ある親しい農民が、今こそ美味しい豆腐を作る夢を叶えるチャンスではないのかと言われた。
しかし、父の代から受け継いだ豆腐を作っていた茂木には、どうしたら美味い豆腐が作れるのか、皆目見当がつかなかった。
そんな時、ある販売コンサルタントに相談すると「お前がこれだと思う材料で豆腐を作って、それに見合う値段をつけて、自分で売ってみろ。困ったらいつでも相談に乗ってやる」と言ってくれた。
豆腐を作るポイントは、凝固剤となる「にがり」の配分が非常に難しく、試行錯誤を繰り返した。
試作品が出来ると、相談に乗ってくれた人々に試食してもらい、アドバイスを受けながら、さらに改良を重ねた。
そして、豆腐が出来上がると、あのチャンス到来と語った農民が、自分の作物を卸している百貨店のバイヤーを紹介してくれた。
こうして茂木の作った「三之助とうふ」は、百貨店で販売され、全国的に知られるとになった。
豆腐店が軌道に乗ってから2年後の1993年のこと、そんな茂木のもとを訪れたのが隆道であった。
茂木は最初に下仁田納豆を買い取って以来、利益を上乗せすることなく、一貫して同じ値段で販売し続けた。
しかし、そんな日々が1年続いたある日、道隆は茂木に突然に取引中止を申し渡された。
突然ハシゴをはずされたような気分だった。売値にして270円の納豆をどこにどうやって売ったらいいのか、わからなかったからだ。
そもそも、人気のある「三之助とうふ」の店に置かれていたから、高い納豆も売れたのだ。
だが、東京の有名百貨店を訪れてみると、意外にも試食もせずに取引をしてくれ、驚いたことに他の百貨店でも同様だった。
実は、茂木が買い取った下仁田納豆は、茂木豆腐店の直営店で売られていただけではなかった。茂木はその多くをサンプルとして、百貨店をはじめとする店舗に渡したり、送ったりしていたことを知った。
こうして下仁田納豆は、隆道があずかり知らぬ”宣伝”によって多くの百貨店などに置いてもらえるようになった。隆道も比較的安価なものから高級なものまで商品を用意し、それらが百貨店に並んだことで、人々の目にとまり、評判を呼ぶようになっていった。
1999年には、年商2億円を突破するまでに成長。 数年前には新たな工場が建てられ、従業員も増えたが、製造方法を変える事はなく、今もほとんどの行程を手作業で行っているという。
また「もぎ豆腐店」もその人気は衰えることなく、今なお多くの人々に愛され続けている。2013年、茂木はガンのためこの世を去った。
隆道は「茂木さんからして頂いたことを、次の世代に繋げていくこと。それは、恩返しというよりも恩送りというのが本当」と語った。

阿蘇の山ふところ、緑ゆたかな山々に囲まれ、三十軒の旅館が集まった黒川温泉郷がある。
常に全国でトップを争うほどの人気を誇っている。
黒川温泉は戦前までは、全国各地にみられる湯治客主体の療養温泉地であり、農林業と炭焼きとの半農半営であった。
阿蘇・杖立、別府などの大型旅館を抱える温泉地に客を奪われ、規模や利便性に劣る黒川温泉は、長い間、低落状態が続き、1970年代の2度のオイルショックと、建築設備への投資による多額の借金を抱えたまま、将来が危ぶまれていた。
1975年頃に最初の転機がやってきた。黒川へのUターンや婿入りが相次ぎ、30代を中心に旅館の二代目が集まって来たのだ。
彼らは都会生活の経験を活かし、観光客の立場から、新しい温泉観光の振興策を模索した。
その環境班に、「新明館」の息子で、後藤哲也(当時24歳)という若者がいた。
後藤は魅力ある風呂をつくりたい一心から、3年の歳月をかけてノミ1本で洞窟を掘り、風呂にして周囲のドギモをぬいた、というより奇人変人扱いされた。
そればかりか、後藤は、若い女性観光客の後をつきまとう姿が噂になり、旅館の庭に塩をまき、庭木を枯らしはじめたのだから、尋常ではない。
それから、およそ20数年の歳月が流れ、代替わりしていたが、客足は以前と変わらず少ないまま。だが、後藤の「新明館」だけは、黒川温泉で唯一、平日にも満室になるほどの人気旅館となっていた。
もちろん、洞窟温泉も人気となった理由の一つだが、20年前の怪しげな行動に、その答えがあった。
あの時後藤は、流行に敏感な若い女性たちが、観光に何を求めているかナマの声を聞くためだった。
その結果後藤は、客が求めているのは、整然とした人工の日本庭園などではないと感じた。
そして、自身の旅館の庭の植物を枯らすために、塩を撒き、山で自然に育った雑木を持ち帰ると、旅館のいたるところに植えた。
そして、日本人の原風景ともいえる、雑木林に囲まれた宿を生み出した。すると、自然を感じる空間に癒やしを求め、都会で働く若い女性たちが殺到! 黒川温泉で唯一の人気旅館へと変貌を遂げたのだ。
ある若手の旅館の主が意を決して、旅館を立て直すため、後藤にアドバイスを求めた。
これまで後藤は、奇人変人扱いをされ、アドバイスなどしたら、自分の客が取られてしまう可能性もある。
しかし意外や、後藤は「それを待っていた」とばかりにノウハウを教えるどころか、率先して旅館の改修を手伝い始めたのだ。
そして、宿泊客が目に見えて増え始めた。かつて、魅力のなかった黒川温泉の旅館は、一軒一軒、それぞれの特徴を活かした露天風呂を持つ宿へと、生まれ変わった。
その一方、企画広報班は、敷地の制約からどうしても露天風呂がつくれない2軒の湯宿を救うため、1983年に黒川の全ての露天風呂が利用できる「入湯手形」を発案し、温泉街の仲間たちが結束した。
変人とまでいわれた後藤の情熱と、人々の絆が、後の黒川温泉の礎となる骨太な理念の形成につながっていったのである。
露天風呂と「入湯手形」の登場を契機に、黒川温泉は一つの運命共同体として、10年の歳月をかけて、存亡の危機を脱出した。
黒川温泉は一軒の繁盛旅館を生むよりも、「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」と見立て、全体を黒で統一し共に繁栄していこうという独自の理念を定着させた。
イチブと思っていたらゼンブに連なるという「黒川温泉一旅館」というコンセプト。
各旅館は個性ある温泉施設の充実を競い合い、そのことにより全体が高い水準を維持し、現在予約がとれないほどの人気ぶりとなった。

山口県萩市大島に所属する旋網船団が立ち上がり2010年から「六次産業化」への取り組みを開始した。六次産業とは、漁師などの一次産業者が食品加工や流通販売も業務展開する経営形態のこと。
現在「萩大島船団丸」は、18人の漁師と6隻の漁船団からなる。通常の漁師は魚をとって、それを市場に卸すまでが仕事だと思われているが、「萩大島船団丸」では獲った魚の加工製造・販売まで手がけている。
これまで市場に下ろすまでの仕事としてきた漁師が、新たな仕事を手がけ全体をまとめ上げるのは並大抵のことではない。
それををこなすのは、”紅一点”の坪内知佳。1986年生まれで、船団結成の2010年の時、なんと24歳という若さであった。
しかも坪内知佳は漁師の仕事など経験したことはなく、元々はキャビンアテンダントを目指していた。
英語もペラペラで、留学経験もあるものの、その夢がアレルギーの発症で諦めざるをえなくなってしまった。
それでも、今度は企業向けの翻訳やコンサルタント事業を起業した、萩大島には結婚を機に移住した。
そこで、漁師さんが魚をとって市場に”卸す”だけなのを見て、製造や販売まで、漁師と組んでやれば流通の簡略化により魚の単価が上がり、高い収益を上げられると目をつけた。
 現在は萩大島船団丸を法人化して株式会社「GHIBLI」の代表でもある。
坪内は、船団の漁船に乗って、萩大島に行った日のことを忘れられられないという。
萩大島の濃いグリーンの島影が近づいてくると、海岸ぎりぎりまで身を寄せ合うように建つ小さな家々が見えてきた。
着いたのは静かでひっそりとした漁村だったが、どこか不思議な懐かしさがあった。
ペンキのはげた漁船や年季の入った巨大な燃料タンク、風にはためく漁網と風雨にさらされた倉庫。風景のそこかしこに、親子何代にもわたって、この地で暮らし、海とともに生きてきた人たちの生活と温もりが感じられた。
コンビニもなく、あるのは漁協が直営する小さな商店だけ。味噌も野菜も手作り。魚が獲れても獲れなくても、人々は笑って暮らしていた。
人々は、「島の魚が一番美味しいんだ。これが日本一だ」と胸をはっていて、お金がないと言いながらも、いつも新鮮な魚の刺身を大皿に山盛りにして食べている”贅沢さ”があった。
坪内は、大学を中退し萩で結婚し専業主婦となった。そして離婚をシングルマザーになっていた。
そんな彼らの生き方がうらやましくて、離婚や将来のことで悩んだり、くよくよ悩んでいた自分がとてもちっぽけに思えて、涙があふれてきたという。
萩大島の人たちといれば決してのたれ死にすることはないと確信した。
口べたで気性が荒いと思われがちな漁師たちだが、実は、根は優しくまっすぐな心の持ち主だった。
この人たちと一緒なら、何があっても笑って生きていける。
それこそが生きていく究極の強さだと思えたとき、体の底から勇気が湧いてきたのだ。
最初、家賃2万3000円、冬には凍って水が出なくなるようなこの狭い部屋で、幼い子どもと2人きりの暮らしだった。
それでも坪内は、これから切り開いていく未来への野望で満ち満ちていた。
そしてパソコンで「総合化事業計画書」と銘打った書類を作成しつつ、沖に浮かぶ小さな島の漁師たちとともに、”大きな革命”を起こそうとしていた。
坪内は吉永小百合風の端正な顔立ちだが、漁師を率いる船団長の長岡秀洋との喧嘩は日常茶飯事だった。
長岡が「小娘は黙っとけ~」と立ち去ろうとすると、坪内は「ちょっとまってや」と彼のウインドブレーカーを思い切り引っ張る。ビリッ!と派手な音とともに、ウインドブレーカーはちぎれていた。
次の瞬間、「ふざけんな‼」船団長のこぶしが飛んできた。坪内が負けじと船団長を殴り返そうとすると、彼のメガネがスコーンと飛んで地面に落ち、大きく曲がった。
船団長はその場でこぶしを握りしめ、ぶるぶる震えながら仁王立ちになっている。
その姿があまりに可愛げたっぷりでおかしかったので、怒りもどこかに吹き飛んでしまった。
「プッ!」と笑いだしている坪内と、憮然とする船団長。とりあえず新しいウインドブレーカーとメガネ、買ってあげると、猛獣をなだめるように言うと、長岡も一気に緊張がとけたのか、顔がゆるんで、「おおう」と子どものように口をとんがらせて、うなずいた。
長岡は、決して坪内のことを自分より上だとは認めていない。事実、漁という現場では当然彼がトップである。
長岡が、最初は事務員程度の“女の子”が、いつからこんなに偉そうな口をきくようになったのかと思うのも無理はない。
ましてや坪内が組織の代表として対外的に出ていくのも面白いわけがない。
彼らとは数えきれないほど喧嘩をしたが、最終的に仲直りできる理由はただ一つ。坪内と彼らが、“ある夢”を共有しているからだ。
ただ、新規開拓を始めて2、3カ月ほど経った頃、出張ばかりして萩にいない坪内に、漁師たちがざわつき始めた。
「あいつは子どもを預けっぱなしで、大阪で遊び歩いとるらしいやないか」というような不満が積もっていった。
漁以外にやってこなかった彼らには、顧客の新規開拓の営業や商談がどんなに大変か、想像するのは難しかったにちがいない。
長岡が「お前、うまいことわしらを利用して、遊び歩いとるやろが。もうわしらだけでできるけ、お前はいらん」。
「もうお前はいらん。出ていけ」の一点ばりの長岡に、坪内も「わかった、わかった」と側にあったA4の紙をつかむと、表と裏にいま取引がある20件の顧客の名前を一気に書きなぐった。
すべて坪内がゼロから開拓して「萩大島船団丸」の顧客にした大切な料理人やお店ばかり。何度も連絡をとりつくしているので、店の名前も、料理長の名前も、住所も、電話番号も、癖も、好みも、全部空で覚えていた。
それらをすべて書き出したうえで、一件一件「ここはサバを入れてはダメ」「ここはタイが好き」「この料理長は釣りの話が好き」など細かい注意書きまでも入っている。
そして坪内は長岡に紙を渡して「萩を出る」と言って出ていった。が、坪内があとで聞いた話では、長岡はそのリストを見て号泣したという。
そのリストは、坪内が半年間、靴底をすりへらして大阪の町々を歩き回り、けんもほろろに追い返されても頭を下げ、食事を吐いてまで商談をこなして獲得した顧客たちだった。
タクシーに乗る経費なんて捻出できない。多い日は3万歩、歩いて営業先を移動していた。当時、坪内の足の爪ははがれていた。その汗と涙の日々の跡がA4の紙の裏表に凝縮していたのだ。
この20件を得るまでにどんなに苦労したのか、長岡は血の滲むような努力を感じ取ってくれたのだった。
長岡はこれを見て「ああ、もうこの子には逆らえんなあ」と呟いたという。

この小さな山間の温泉街がなぜここまで多くの観光客を引き付けるに至ったのか。