聖書の人物から(ヘロデ王&サロメ)

聖書の中に「ヘロデ」という名前は悪名高い王として馴染みだが、実は「ヘロデ」の名で4人の王が登場するので混乱をまねきやすい。
ただ、自己に対して非協力的な者、もしくは敵対者に対する容赦のない残忍さはヘロデ王家の共通する特徴のようだ。
新約聖書の最初に出てくるヘロデ王は、イエスが生まれた頃ユダヤの王として即位していた人物で、ヘロデ大王とよばれる。
ヘロデ大王は、「メシア」(救世主)誕生のウワサを聞いて心に不安を感じて二歳以下の子供の殺害を命じた人物である。
ただし、身ごもったマリアと夫のヨセフは、神の導きどおり、エジプトに避難していた。
そして、聖書に登場する二番目のヘロデは、ヘロデ大王の子アルケラオス(マタイ2章)で、娘サロメの求めに応じて、洗礼者ヨハネの首を獲った時の王といえばわかりやすい。
また、ヘロデ大王のもうひとりの妻が生んだ子供が、「ヘロデ・アンティパス」という名で、イエスが十字架にかけられる前に、エルサレムで尋問した時の王である。
アンティパスは、一度噂のイエスに会いたいと思っていたが、何を聞いてもイエスから一言の答ももらえなかった。
ただ、この三番目のヘロデは、それまでローマ総督ピラトと仲たがいしていたが、イエスの取り調べを機会に仲良くなったという(ルカ23章)。
さて、ヘロデ王家のルーツは、旧約聖書のエドム人、さらに遡れば「創世記」に登場するエサウに行き着く。
エサウとその弟ヤコブの父イサクは視力が弱って床に伏していた。
死に瀕して長子の特権を譲るべく祝福を祈るのだが、母リベカの入れ知恵でヤコブは毛深い兄エサウに似せるため、ヤギの毛を手につけてエサウに成りすまし、父イサクの今際の床で 神の祝福を祈りうける。
エサウは狩猟などの能力に秀で父イサクに愛されていたが、空腹時に豆スープ食べたさに、長子の特権を弟ヤコブに譲る約束をする。
一方でヤコブは父を騙してでも神の祝福を得ようとする。
人間的尺度では、とても道徳的とはいえないリベカとヤコブ母子の行動だが、その後を見ると神の恩寵はあくまでもヤコブに傾いていったと言わざるをえない。
ヤコブは名前をイスラエルに変え、年老いて十二部族の族長となる。
かたや、エサウの子孫は聖書のなかではエドム人として現れ、ダビデの代にエドム人はその属国となり、しばらくして滅亡している。
エサウの人の良さとヤコブの狡さが目立つが、能力に秀でていたにも関わらす、目の前の利益につられて大事なものを失うエサウと、騙してでも「神の祝福」を得ようとするヤコブ。
一方、ヤコブの子孫はダビデ、ソロモン、イエス・キリストという系図を辿るのだが、エサウの子孫が、イエス・キリスト生誕時に突然登場する。
それは、ローマとの協力関係を約してユダヤを統治することになったヘロデ大王なのである。
時代を隔て出会う、ヤコブとエサウの因縁が面白い。

我が地元・福岡に「黒田節」誕生の逸話がある。
母里(ぼり)太兵衛は、黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。
母里は、あらかじめ酒豪・福島正則の話を聞いており、本来の役割を果たすためにも酒を控えるつもりでいた。
しかし母里は福島正則に「この大杯で酒を飲みほすならば望みのものは何でもあたえよう」という挑戦をうけ、黒田家臣の威信をかけて見事大杯を呑み干したのである。
すると母里が所望したのは、部屋に置かれた「日本号」と呼ばれた名槍だった。
「日本号」は元は正親町天皇が所有していたもので信長・秀吉の手をへて福島正則が所有していたもので、福島からすれば、自己の存在価値の表象のようなものだった。
それでも苦る福島正則から「日本号」をうけとった豪傑・母里太兵衛の話は、福岡城内で有名になった。
明治になって作られた謡曲「黒田節」によって名槍「日本号」はあまりにも有名になった。
「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、呑みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」。
福島正則が自ら招いた場面は、ヘロデ王が陥った場面に幾分近い。
さて、聖書には「ヨハネの福音書」を書いた使徒ヨハネが登場するが、それとは別の「洗礼者(バプテスマ)のヨハネ」が登場する。
ヨルダン川にてイエスに洗礼を施したことからそのように表されるが、ヨハネはイエスにつき「靴のひもを解く値さえもない」と自らを規定している。
このヨハネは、ヘロデ王の結婚につい律法に反すると批難し、ヘロデ王もヨハネを恐れていた。
それでもヘロデ王はヨハネの首をきるという悪行を行うが、そこに至る経過は次のとうりである。
ヘロデ王は、美しい王妃ヘロディアの連れ子サロメに、自分の前で踊るように命ずる(マルコ6章)。
サロメは妖艶な踊りを披露し、すっかり興に入ったヘロデ王が「お前の望む物はなんでも与えよう」と言うと、サロメは洗礼者ヨハネの首が欲しい、と申し出る。
ヘロデはその要求に驚くが、客のいる前でサロメに約束した前言を翻すわけにもいかず、獄にいるヨハネの首を獲らせ、盆に載せてサロメに与えられる。
聖書にはサロメがどうしてヨハネの首を欲しかったのかについては書かれておらず、イギリスの劇作家オスカーワイルドがその想像力で見事に描いている。
聖書に登場するサロメの魔性は、多くの芸術家の創作力を刺激したようで、ワイルドにとどまらず、ギュスターヴ・モローの絵画でも知られる。
また「サロメ」を演じて有名になった踊り子はロイ・フラーを代表に少なくない。
しかしなんといってもヨーロッパ中を魅了したのは、20C初頭に現れた「マタハリ」とよばれたフランス国籍の踊り子である。
ただ、マタハリもまたサロメを演じることを切望していたが、逮捕により実現することはなかった。
彼女は女スパイの代名詞となり、時には妖女ともよばれることもあった。
しかし、こういうイメージというものは大概作り出されたもので、国際的に活躍するダンサー・マタハリが何らかの諜報活動に利用されたとしても、彼女がドイツ側にどんな情報を流し、それが戦況にどんな影響を与えたかは、ほとんど判明していない。
それにもかかわらず、マタハリは1917年にドイツのスパイとしてフランス・バンセンヌで処刑された。
近年2005年10月、彼女の裁判の再審請求がフランスの法務大臣に提出された。
それによると、マタ・ハリは当時の愛国心のために歪められた裁判の"犠牲者"であるという。
ドイツに劣勢を強いられたフランス上層部としては、マタハリがドイツと通じていたことにすれば、劣勢の責任を回避できて都合がよかったからだ。
やや似た構図は、ファッション・ブランドで知られるのココ・シャネルが「スパイ」として国外追放になったケースである。
ただ、ココシャネルがドイツに情報を流したのが事実としても、それはビジネスの延長上のことであったといえる。
ココシャネルは、1883年フランスの片田舎に生まれ、孤児院や修道院での生活を送った後に、歌手になることを志したが挫折した。
だが、たまたまデザインした帽子が評判となり、パリに小さな店を構えると、その後は二つの大戦に翻弄されながらも、ファッション・ビジネスの世界を生き抜いて、トップ・ブランドとしての「シャネル」の地位を確立した。
だが、苛酷な時代を生きてきただけに、シャネルもまた正しいことだけを行って生きてきたわけではない。
第二次世界大戦時、パリがナチス・ドイツの侵攻によって陥落し、その占領下におかれた際、ドイツ軍将校や外交官などに接近し、ナチスの協力者として行動していたこともあった。
ナチス占領下のパリで、ナチスの秘密警察ゲシュタポの高官と愛人関係になっていた。
ただ、シャネルの狙いは、ナチスドイツへの協力を通じて、自らのビジネスを守り拡張することであった。
例えば、ナチス占領下のパリでは、ユダヤ人が所有していた企業や資金がドイツに押収された。
ときにシャネルが開発した香水「シャネルNO5」を生産・販売する会社があったが、シャネルは経営権を持つことができず、そのことに不満を抱いていた。
そこで、パリが占領下に置かれた際に、シャネルは、同社の経営権がユダヤ人によって握られていると訴える手紙を占領当局に送り、その権利を奪い取ろうと画策したのである。
結局1947年5月に示談が成立し、シャネルは戦時に計上した利益に加えて、将来「シャネルNO5」の世界売上の2%を取り分とするこで合意したが、ナチスに協力したとして、フランスでは「売国奴」として非難を浴び、スイスに亡命せざるをえなくなったのである。

ヘロデ・アグリッパは、新約聖書に登場する4番目のヘロデ王である。
ヘロデ大王の2番目の妻による孫で、聖書には「そのころ、ヘロデ王は教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した」(使徒行伝12章に)とある。
このヘロデ・アグリッパの時代に、ペテロが御使いの導きによって牢獄から出るという”不思議”が起きるのだが、その夜が明けると兵士たちの間で、ペテロは一体どうなったのだと大きな騒ぎが起こっていた。
ヘロデ王は、「ペテロを探せ。必ず探し出して今日中に連行しろ」と命令を下した。
しかしペテロを探し出すことができず、番兵たちの不始末に、番兵たちを処刑するように命じた。
それからヘロデ王はローマ総督の管轄地区である地中海沿岸のカイサリアに行き、そこにしばらく滞在していた。
ヘロデ王がカイサリアに滞在していると聞いたフェニキア地方のツロとシドンの指導者たちは一同うち揃って王様を表敬訪問したのである。
ツロとシドンの地方は当時ローマの統治によるシリヤ州に属する地中海沿いにある町で、この地方はヘロデ王の国から食料を得ていた。
実はそれとは裏腹に、ヘロデ王は「ツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた」とある。 このまま王から敵意をいだかれたままだと、彼らの食料の確保についても不安定になってしまいかねない。
そこで人々は和解のためにエルサレムまでの長い距離をやってきたのである。
さて、定められたヘロデ王との面会の日がやってきた。ヘロデ王は王服をまとい、王座に座り、大演説をする(使徒行伝12章)。
集まった人々は口々に「これは神の声だ。人間の声ではない!」と叫び続けた。
この風景、どこか現代日本風である。
人々が叫んでいるマサにその時、ヘロデの足元に一匹の虫が忍び寄ってくる。
王はばったりと倒れ、息が絶え死んでしまう。

日本で派閥政治が幅を利かせていた時代、最大派閥田中角栄の目白御殿は、新人事が発表されるや「目白詣で」が行われるほどだった。
ロッキード事件で田中角栄が逮捕された後においても、法務大臣を田中派で固めるなどして勢力をむしろ拡大した。
だが田中角栄秘書の元妻・榎本美恵子の「ハチの一刺し」証言が現金授受を裏付ける一方、賄賂にあたる現金を運んだ田中の運転手は自殺している。
しかし、田中が刑事被告人のままでは同派閥から首相は出せないという不満がでて、田中派の若頭と呼ばれた竹下登を中心に「竹下派」が分離結成された。
そんなことが思い出されたのは、先日、森友学園問題で2年前に自殺した財務省近畿財務局の職員の妻が国を相手に提訴した件である。
森友学園をめぐる公文書改ざん問題で54歳で自ら命を絶った赤木俊夫氏の遺書には、震える文字で「これが財務官僚王国。最後は下部がしっぽを切られる。なんて世の中だ、手がふるえる、怖い、命、大切な命、終止符」などと書かれていた。
赤木氏は、学校法人森友学園への国有地売却をめぐり、公証記録の改ざんに関与したが、赤木氏の妻は「改ざんは誰が何のためにやったのか、どうやって行われたのか、真実を知りたい」という。
その行為に至るポイントとなったのが、安倍首相の国会での「わたしや妻が関係したということになれば、総理大臣も国会議員も辞めるということ、はっきりと申し上げておきたい」という発言。
この発言を受け、赤木氏は、安倍首相の妻・昭恵夫人と森友学園側との関係を示す部分の改ざんを命じられたとみられている。
改ざんを主導したとされるその佐川局長は当時、連日のように国会の答弁に立ち、一貫して疑惑を否定し、その後、国税庁長官に昇進した。
赤木氏の遺書には、「修正作業の指示が複数回あり、現場として、わたしはこれに相当抵抗しました」ものの、「パワハラで有名な佐川局長の指示には、誰も背けないのです」と書かれている。
財務省は、その後改ざんがあったことを認め、佐川など関係者を処分した。最後は、政権におもねって不祥事の後始末をした官僚たちに責任転嫁し、一連の問題は幕引きされている。
最も皮肉だったのは、森友学園の籠池氏は経営する幼稚園の園児に「集団的自衛権賛成」「安倍首相頑張れ」と言わせたり、「安倍晋三記念小学校」の名で寄付金を集めるなど忖度の限りをつくしたが、「詐欺罪」で夫婦ともども忖度官僚に切り捨てられたことである。
16世紀フランスの思想家モンテーニュの親友にエティエンヌ・ド・ラ・ボエシという人物がいる。
ボルドー高等法院の法務官で、32歳で世を去ったが、なんと10代の時に著した「自発的隷従論」が2013年に日本で新訳で蘇って版を重ねている。
ラ・ボエシによれば、圧政は支配者自身が持つ力によってではなく、むしろ支配に服する者たちの加担によって支えられるという。
その構造は「1人の圧政者は数人の取り巻きを重用し、恩恵を与える。取り巻きは恩恵を失うまいと、圧政者の権力維持に加担する。取り巻きはまた自らの取り巻きに恩恵を与え、権力のおこぼれを求めて自発的に隷従する者が、鎖のようにつながっていく」。
さらには「この者達は、圧政者の言いつけを守るばかりでなく、彼の望む通りにものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向を予めくみとらなければならない」という。
ところで最近ネット社会の影響か、衆議をつくして異なる意見をまとめ上げる民主的プロセスは不効率で、”権威主義”の方が受け入れやすい傾向がある。
それは日本だけではなく世界的な傾向で、大衆迎合と結びついた権威主義は、排除や差別さらには「壁」を生みやすい社会でもある。
ある政治学者の分析によれば、権威主義の支持者には比較的恵まれた層と、生活がギリギリの層の二つがあるという。
若者層は総じて上向きの希望をもっているわけではなく、とにかくこれ以上悪くならないということを望んでいるといってよい。
要するに「現状維持」でヨシということだが、現状が現状のままでは収まりそうもない。
例えば、安倍首相が税金で自分の支持者を「桜の会」に招いたり、官邸に近い検事長の定年を法を捻じ曲げて延長をすることは、民主主義の観点からみておかしなことである。
それに対して現政権は、数えきれないほどの疑惑に一切答えず、「資料は破棄」「わからない」「事務方に聞いてくれ」と繰り返してきた。
そんな悪しき現状を通り過ごしつつ、気がつけば「ひと束(ファスケス)」と化していることは、歴史の教えるところである。

ラ・ボエシは、人々が自由を取り戻すためになすべきことを書き残している。
「敵を突き飛ばとか、振り落せとかいいたいのではない。ただ"これ以上支えず"におけばよい。そうすればそいつがいまに、土台を   奪われた虚像のごとく、みずからの重みによって崩壊し、破滅するのがみられるだろう」と。
かつて 東京高検の黒川検事長の定年延長問題では、法の捻じ曲げさえもみられる。
黒川検事長は官邸に近い人物とされ、2月8日に63歳になった。検察官の場合は検察庁法で63歳定年と定まっていて定年延長規定は存在しないのだが、従来は適用されないとしてきた、なぜか国家公務員法の定年延長の規定が使われた。
従来の政府見解では、「検察官に国家公務員法の定年延長は適用されない」とされていたが、安倍首相は「解釈を見直した」それも「口頭で決裁した」ので、適法であり適性な手続きだと強弁している。
法律の解釈や運用に関する場合、口頭決済はありえず、決裁文書上はいまだに法律の解釈は変わっていないのだ。
そういえば、最近新聞にある政治学者が次のように書いている。
「日本で議会政治が始まって130年、行政府の最高権力者に国会で何を聞いても、”理”の言葉がかえってこないという事態は過去にはありませんでした。首相はまるで選挙で選ばれた人間がやりたい政治をするのに、細かい理屈が必要なのかと本気で思っているようです」。
「桜を見る会」の話も一向に収束しない。政権だが、次々と矛盾した事実が明らかになり、事務方の弁明も二転三転、今や破綻寸前だ。