分断を超えた歌

2001年紅白歌合戦でキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌った。「イムジン河」がたどった運命を知るものには感無量のことであったであろう。
北朝鮮と韓国の軍事境界線をまたいで流れる実在の川を題材にとったこの歌は、南北に分断された人たちの悲しみを描いた。
ところが、レコード発売が予定の”前日”に中止に追い込まれた。
しかし この歌のもつ”魂”は消されることなく、何度も生き返った。
帰国しようにも困難な在日コリアン、北朝鮮に拉致された日本人など、ふるさとから引き離され人々の心にも届いていたのだ。
この歌は、北朝鮮の"国歌"を書いた朴世永が作詞し、高宗漢が作曲した歌であったが、 この歌を”発見”し日本語訳したのは、人気の「ザ・フォーク・クルセダーズ」の松山猛であった。
クルセーダーズは「十字軍」を意味し、”天国”も登場する「帰って来たヨッパライ」がミリオンヒットとなって一躍脚光をあびていた。
そのクルセイダーズが、満を持して発売する予定の「イムジン河」が、なぜ発売中止に追い込まれたのか。
鴨川のほとりに 在日コリアンの集落が出来たのは1950年代。祖国が南北に分断される一方日本では戦後復興が加速する。
立ち退きなどで行き場を失った人が集まって、不法占拠だとして水道や電話などの整備はされず周囲からはゼロ番地と呼ばれ蔑まれていた。
京都に育ってた松山は彼らと交流をもち、身近な存在でありながら分かち合えないミゾのあることも感じていた。
当時は朝鮮学校の子と日本の学校の生徒達が いがみ合っていて、けんか沙汰も絶え間なかった。
当時中学2年生だった松山はそのミゾを埋めようと、先生にサッカーで交流をしたらどうか、試合申し込んでくれないかとたのんだ。
すると先生が行くより、子供が行った方が向こうも柔らかい受け取り方するだろうという。
松山が恐る恐る訪ねると、学校側は快く試合の申し出を引き受けてくれた。
そして帰ろうとした時、聞こえてきた曲の旋律に、思わず松山の足が止まった。
さらに外に出ようと廊下を歩み始めると、今度はコーラスが聞こえてきた。
意味がわからなくても、その美しい旋律は頭に残り、松山はその後、朝鮮学校の生徒から手書きの譜面をもらった。
松山は早速 辞典を頼りに翻訳してみると、分断された半島で”北に暮らす人々”が 南の祖国を思い鳥のように自由に行き来したいと願う”望郷の歌”であることがわかった。
実際、松山の周りにも 祖国が分断されて帰る場所を失った人たちがいて、その思いがよく理解できた。
松山とフォークルのメンバーはこの歌をライブで歌おうと決めた。
ところが問題があった。もらった「イムジン河」の歌詞には1番しかなく ライブで歌うには短かすぎた。
そこで松山が歌詞を書き足すことにし分断の悲しみをすくい取るように詞にしたためた。
「イムジン河 水清く とうとうと流る」「水鳥自由に むらがり飛びかうよ」。
この分断の状況が いつかなくなり一つの大河になれば、みんなが自由に人が行き来でるようになればという思いをこめたのだった。
「イムジン河」はラジオでも数回流され、瞬く間に若者の注目を集めた。
日本社会は当時、保守と革新の政治闘争が続いており、学生運動が盛んだった時代、若者たちは政治や世界の情勢に髙い関心を抱いていた。
「帰ってきたヨッパライ」で疑った人気となったフォークルが歌うこの曲を、音楽業界が放っておくはずがなかった。
ところが松山は 京都の実家で発売予定の前日に 発売中止となったというニュースに耳を疑った。
北朝鮮を支持する朝鮮総連からレコード会社に、北朝鮮の原曲の作曲者の名前がないという抗議があった。
クルセイダースは、民謡として誰でも歌ってるというぐらいの認識だった。
ただ、原曲には2番も存在したことがこの時判明する。そこには 南の農地よりも北の方が豊かであるという政治的なメッセージが含まれていた。
朝鮮総連は松山の歌詞の修正も求めたこともあり、政治問題にまで発展しかねない事態となった。
そこへ突如、レコード会社が発売中止を発表、さらに放送に”自粛”ムードが広がった。
何かあれば また抗議されるかもしれないそんな”自粛”が行われたのである。
松山からすれば、盗作みたいな扱いをされたのは心外だった。誰も傷つけるうたでもなく、なぜ横合いからケチつけられるのかと、グリープの思いは皆同じだった。
すぐに自分たちの思いを込め代わりの歌を作った。メロディーは 加藤和彦がわずか3時間で書き上げたその曲が25万枚の大ヒットとなる、「悲しくてやりきれない」であった。
「イムジン河」の発売中止の口惜しさをそのまま表現した歌だった。
しかし、朝鮮分断の分断の深さを際立たせるかのように、その後も「イムジン河」は長く”封印”されることになる。
実は、発売中止騒動以来、「イムジン河」の封印を残念に思ったのは日本人だけではなかった。
松山猛が「イムジン河」を初めて聴いた朝鮮学校に勤めていた在日2世のカン・イルスンであった。
自分と同じように 日本で生まれ祖国の風景を知らない若い世代にこの歌を伝え続けたいという思いからだった。
カン・イルスンの少年時代、在日朝鮮人の間で北朝鮮へ渡る いわゆる「帰国事業」が盛んに行われていた。
「地上の楽園」とうたわれた北朝鮮。差別や貧困に苦しんだ在日韓国・朝鮮人やその日本人妻 およそ9万人が海を渡った。
しかし カンの一家は祖国への思いを募らせながらも、経済的な理由から日本で暮らすことを選んだ。
その後、京都の朝鮮学校で音楽教師となったカンが ライブ会場でたまたま聴いたのが「イムジン河」だった。それは ふるさとを知らず苦しむ自分たちの心を映しているようだった。
カンは 生徒たちに「イムジン河」を教えることを決め、時に日本語で歌わせることもあったが、男子も女子も目を輝かせながら歌った。
そして1987年 カンが教師を辞め京都で音楽家として活動していたところ、予想外の依頼が舞い込んできた。
当時、京都市は北朝鮮と文化的な交流があったため、その一環として ピョンヤンと沿いの町 ウォンサンで京都市交響楽団の演奏会を行うことになり、その引率をカンが任されたのだった。
演奏会のメインはクラシックだがアンコールに「イムジン河」があった。実は このオーケストラ版の「イムジン河」を作ったのは、ナント朝鮮総連の一員として”抗議活動”に関わったリ・チョルウという人物だった。
実はリ・チョルウは、発売中止にはなったこの歌の魅力をより多くの人に知ってほしいという気持ちをずっと持ち続けていたという。
しかし、南への望郷を歌った歌詞がある限り、それを普及させるのは立場上難しいことであった。そこでリ・チョルウはメロディーだけの”オーケストラ版”を作っていたのだ。
このオーケストラ版を聴いたカン心も熱くなっで、このバージョンだったら絶対いける、ぜひ聴いてほしいと思った。
そんな北朝鮮で 「イムジン河」は受け入れられるのか?期待と不安が入り交じる中カンは北朝鮮に渡ったピョンヤンに入ったオーケストラ隊。総勢105名を連れた大所帯だった。
8月3日 ピョンヤンでのコンサート本番。1800人の市民が駆けつけた。そして アンコール、人々の反応は薄く会場は静まり返ったままだった。
独裁体制のもと 人々を鼓舞するような力強い曲が好まれ哀愁を誘う「イムジン河」が公に流れることはなかったという。
北朝鮮で知られていないことは分かっていたものの、カンは拍子抜けしたような心情だったという。
ところがその3日後、日本海側の港町ウォンサンでの演奏会でカンは驚くべき光景を目にする。
ピョンヤンと同じように「イムジン河」を演奏するや、はじめのメロディーのフレーズが流れた時に涙を流している人がいっぱい いた。 「地上の楽園」といわれた北朝鮮に帰国事業で渡った彼らの多くが船が発着するウォンサンに住んでいたのだ。
その中には日本から来たことを特別視され北朝鮮社会になじめない人や日本に戻りたいと願ってもかなわない人もいた。
「イムジン河」は、そんな人々の抱く心にも 響いたのだった。
そもそもこの歌の原曲は北朝鮮の音楽家により作詞作曲されたものであった。そしてカン・イルスンが関わったコンサートで演奏され北朝鮮でも再び聴かれるようになった。
そして発売中止騒動から30年以上たった2001年紅白歌合戦で歌われ大きな話題となった。
2000年初めて 南北首脳会談が行われ、シドニーオリンピックでは韓国と北朝鮮が統一旗を掲げた。
翌年 キム・ヨンジャは北朝鮮で行われる音楽祭に韓国人の歌手として招待された。
実は、キムヨンジャもまた 「イムジン河」を自分の歌のように 大切にしていた。というのもキム・ヨンジャも親族に分断に苦しむ者がいて、統一を願ってライブを中心に「イムジン河」を歌うようになる。
キム・ヨンジャは ハングルと日本語の歌詞で「イムジン河」を歌い、その歌声はテレビで北朝鮮全土にも放送された。
北朝鮮のコンサートから9か月後、2001年の紅白歌合戦で「イムジン河」を熱唱。年の瀬の夜をにぎわせる。
そしてフォークル版「イムジン河」が発売中止となった”そのままの音源”で発売された。
北朝鮮の作詞・作曲者と共に日本語の詞として松山猛の名が並んだが どこからもクレームはこなかったのである。
そして キム・ヨンジャの歌う「イムジン河」は故郷から引き離され北朝鮮の人々ばかりか、北朝鮮に拉致されて20年以上が過ぎていた蓮池薫さんら拉致被害者の心にも”望郷の歌”として響いていたのである。

終戦の混乱期、日本の子供達がアメリカに好意をもったのは、米兵が配ったガムやチョコレートの味が忘れられぬ程にうまかったというのが大きい。
もっともアメリカが送ったのは、日本人との戦闘に参加したことのない米兵、つまり日本人にいかなる”敵意”も持たない若き米兵(GI)だった。
1964年坂本九の大ヒット曲「幸せなら手をたたこう」の誕生は、そうした少年と米兵との出会いかはじまる。
焼野となった東京で、少年はたまたま米兵に出会い、二人だけのバスケットボールを楽しむ。
米兵は二人の思い出にと「バスケットシューズ」を少年にプレゼントした。少年がそのシューズを履くには大きすぎで、そのまま大事に保管していた。
その少年・木村利一は早稲田大学に進学し、アジア比較法を研究する大学院生となった。クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、現地の若者と共に街の復興のために働くことになった。
1954年、当時25歳の木村は、YMCAのキャンプに滞在したが、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!!」と厳しい言葉をなげかけた。
そして、木村は自分があまりにも無知のまま、この地に足を踏み入れたことに気がついた。
現地の人々の脳裏には、日本兵に村を焼かれ、家族や友人知人、あまたの人が虐殺された第二次世界大戦の傷が生々しく残っていた。
南太平洋に進出した日本軍は、現地のゲリラ活動を警戒するあまり、一部の兵隊が暴徒化したものだった。
木村はかえって、そう簡単には帰れないという思いにかられ、現地の青年たちとトイレ作りなどを行っていくうち、敵意でピリピリしていた現地の若者達とも打ち解け合うようになった。
そのうち、戦後初めて日本にやってきた日本人ボランティアということで、ラジオ出演の依頼があり、木村はラジオで日本が「平和憲法」の下、戦争を放棄したことを訴えた。
そして小学校にバスケットボール・コートを作る許可を得て一人黙々と草取りを始めた。そうした木村の働く姿を見て、現地の人たちも次第に心を開き、コート作りに協力していった。
実は、また木村は、幼き日にバスケットボールを教えてくれたバスケットシューズを持参してきていた。
木村には、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につくが、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
現地の人々が、木村への感情を「態度に示した」ことや、聖書で見つけた「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(旧約聖書・詩編47編)という言葉にインスピレーションを得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは”偶然”以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
そして坂本の楽屋を訪れた木村は、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを語り合い、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの”顔””としてメガヒット「上を向いて歩こう」などをとともに「幸せなら手をたたこう」を披露した。
ところで、木村利人氏の「利人」はドイツ語の「リヒト(光)」。人々の「光」となってとの願いを込めて父が命名したという。
後にスイスのジュネーブの大学教授で、 エキュメニカル研究所副所長になった木村によってヨーロッパにも、この歌は知られた。
木村は、命と人間の尊厳の究明へと研究の道を広げ、日本の「生命倫理」の草分けとしての大きな業績を残している。 木村は2013年、かつて奉仕活動を行ったフィリピンのダグパン市のロカオ小学校を訪問した。
木村は、かつて友情を温めたランディを探したが、彼の消息は不明であったものの、500人を超す児童が校庭に座り79歳の木村が立った。
「ここを離れて54年。いつか帰りたいとの思いが実現した。今日は人生で最良の日です」。
そして「この歌は戦争の苦しみから生まれました。私たちは武器で戦うのでなく平和をつくるため、未来に向けていっしょに働こうではありませんか」と締めくくった。そして全員が立ち上がった。
児童はフィリピン語、木村は日本語。二カ国語で歌う「幸せなら手をたたこう」が響き合った。

特に、カナダのフイールド・ホッケーチムの通訳は、英語に訳してそれを伝え、「幸せなら手をたたこう」は、カナダの小学校でも歌われる曲となっていった。
松山は、大阪のコリア・タウンの周辺で育ち、幼少の頃から在日韓国・朝鮮人の友人たちがいた。
しかし、通っていた中学校の生徒と朝鮮中級学校の生徒とはいがみあいが絶えず、サッカーの対抗試合を通じて理解を深め合おうと計画し、試合の申し込みにいったときに「イムジン河」を耳にする。
その後、友人となった朝鮮中級学校の生徒から、この「イムジン河」を教えてもらったという。
実はフォーク・クルセダーズのメンバーなどの関係者は、曲の由来を知らず、朝鮮民謡と思っていたという。
先日、世界的な大手レーベルのひとつ、「Universal Music Latin Entertainment」と契約を結んだことを発表したナオト・インティライミ。
アジア人として初の契約(!)とのことですが、今回の世界デビューを含め、ナオトさんといえば、数々の大きな“チャンス”に恵まれているとネット上で噂になっています。
「エジプトで、プロサッカーチームにスカウトされる」。
「パレスチナで、アラファト議長の前で『上を向いて歩こう』を歌う。2人で平和について語り合って、議長府に数泊もさせてもらった」。
「コロンビアで、現地の有名アーティストに気に入られツアーに同行。デビューの話を持ちかけられた」いったいなぜこんな信じがたいエピソードが多数あるんでしょうか。
彼なりの「チャンスをつかむコツ」があれば知りたい。そう思い、取材してきました。
三重県生まれ、千葉県育ち。
世界66カ国を一人で渡り歩き、各地でライブを行う。ソロとしての活動のほか、コーラス&ギターとして Mr.Childrenのツアーサポートメンバーも。2010年にメジャーデビューし、「タカラモノ ~この声がなくなるまで~」、「今のキミを忘れない」は100万ダウンロードを超えるヒットを記録。
その後もNHK紅白歌合戦出場、全国47都道府県弾き語りツアーなど精力的に活動を続け、2018年に名古屋ドーム単独公演で4万人を動員、2019年7月には「Universal Music Latin Entertainment」との契約を発表。
ご自身のことを「ティライミ」と呼んでいるというのは本当ですか?ケチュア語で「太陽の祭り」って意味なんです。イイ感じでしょ!?
ケチュア語とはおもに南米で話されている言語らしい。「団地に引きこもっていた」ところから、世界一周の旅へ。
今日は、ナオトさん流の「チャンスをつかむコツ」をお聞きしたいです。
2003年8月から2004年末までの1年半、「世界一周の旅」に出たときは、各地でさまざまなスカウトを受けましたね。
当時、日本で歌手としてデビューしてたんですけど、まったく売れなくて。結局事務所もつぶれてしまって、8カ月間、亀戸の団地に引きこもっていたんです。
するよ! 僕は中学2年生でギターを始めて、高校1年生で歌手を志し、大学在学中にデビューをしたから、それまでは有言実行で夢を叶えられていたんです。
それが、どれだけ自分が頑張っても結果が出ない。現実は厳しいんだと思い知らされました。
努力だけではどうにもできないこともあると。
でも、ふと壁を見たら「2010年にワールドツアーをしたい」と自分で目標を書いた紙が貼ってあって、「このままじゃいけない!」と全財産の208万円を握りしめて立ち上がりました。
「ワールドツアーをしたいなら、下見に行かなきゃ!」ってね。
そう。僕は生まれながらにしてポジティブ&アグレッシブなんです!
基本スタンスは「飛び込んでいく」そして世界を旅行するなかで、いろんなスゴイ出来事に出会ったんですね!!
旅のなかではいろいろな出来事がありましたが、すべて「自然に起きた」というよりも、おそらく僕の「アグり」の高さが関係していると思います。
たとえば、エジプトでプロサッカーチームに選手としてスカウトされたときは、現地で草サッカーをやっている輪に飛び込んでいったら、地元チームの監督がたまたまそれを見ていて、「一緒にやらないか」とスカウトしてくれたんですよ。
僕は幼稚園から高校生までは本気でサッカー選手を目指していて、Jリーグ・柏レイソルのジュニアチームにも所属していたので、海外ではサッカーをやっている人たちがいたら必ず混ぜてもらうようにしてたんです。
当時、パレスチナとイスラエルは紛争の真っ最中だったんですけど、自分にできることは「歌」しかないと思い、それをどこで歌えば届くかを考えたとき、「パレスチナ解放運動の指導者、アラファト議長に聴いてもらえばいいんだ!」と思って、議長府に飛び込みました。
どうやってそんなところに飛び込んだんですか…?ジャーナリストに扮して。 そこで重要な役職らしき人に「歌いにきたんだけど」と言ったら、歌わせてもらえることになって。
アラファト議長は『上を向いて歩こう』にすごい感銘を受けて、食事会に招いてくれたんです。仲が深まって議長府に2泊3日することになりました。
その後、国営放送でインタビューを受けて歌ったんですけど、なんとそれがパレスチナ中に流れていたらしくて。
いち若造の「平和への思い」を直接語ることができました。本当に奇跡のような出来事だったと思います。
「コロンビアで、有名アーティストに気に入られ国内ツアーに同行」…ということもあったんですか?
海外ではよく、Liveレストランやフェスに飛び入りで参加してたんですけど、その日もお客さんとして行ったらマイクを渡されたので、20分即興で歌ったんです。
そしたら、スカウトされて週3で歌うことになって、結局3日間の滞在のつもりが2カ月いました。ある日楽屋にいたら、コロンビアを代表するシンガー、アンドレス・セペーダに「うちのイベントに出ないか?」と声をかけられたんです。
そこから、ツアーで3~4カ所を一緒にまわりました。すると、「アンドレス・セペーダにくっついてる面白い日本人がいるぞ」と噂になって、取材やラジオ出演をしてるうちに、CDデビューの話が来たんです。
でも、仮にコロンビアでデビューしたらしばらくはコロンビアに滞在しなくちゃいけなくないじゃないですか。
それに結局、ワールドツアーをするにしても、まずは日本で結果を残したかった。だからとりあえず帰国しました。
ナオトさんはなぜ、そんなに大きなチャンスをつかめるんでしょう?
ひとつ言えるとすれば、それは、あらゆるチャンスに対して「I’m ready」でいることだと思います。
チャンスって何回あるかはわからないけど、そう何度もあるわけじゃないですよね。その貴重なチャンスに対し、自分がどれだけ準備ができているのかをずっと考えてきました。
たとえば、道端で、電車で、あるいは会社の飲み会で…自分のやりたいことのキーマンになるかもしれなかった人がいるはずなんですよ。
それに対して自分が「ready」じゃないと、何もできずに知らぬ間にチャンスを逃しているかもしれませんよね。
先ほど「マイクを渡されて20分即興で歌った」と話されていましたが、「ready」じゃないと絶対できないですよね。
そう。「自分はこんなことができる」「こんなことがしたい」という旗をずっと掲げておくことが大事なんですよ。
僕は、歌えと言われたらすぐに歌えるし、夢も語れるし、今も最新のCDを常にバッグのなかに入れています。
ポイントは、いつ来るかもわからないチャンスに対して、努力しつづけ、準備することがでるかどうか。
たとえば、受験だったら試験の日に向かって努力すればいいからわかりやすいですが、人生のチャンスはそうじゃない。
チャンスは1時間後に来るかもしれないし、10年後に来るかもしれない。「絶対逃すまい!」というハングリー精神を持って待っていれば、必ずそれをつかむことができるんです。
「人はお膳立てしてもらうと必死になれない」
今回の世界デビューは、世界一周してた当時のコネクションから実現したんでしょうか…?
いや、実はコネクションは使っていないんですよ。
2016年に活動休止をして、ゼロの状態でギター1本持って、LAの空港に降り立ちました。「待ってろ世界!」って。
そこからいろんな人に会って、歌って、曲を作って、配って、営業して、また紹介してもらって…というのを2年半、ひたすら繰り返しました。
かなり泥臭く活動したんですね。…でも、日本での知名度とかを使って、もっと簡単に世界デビューすることもできたんじゃないですか?
僕は、海外でデビューするなら、日本のキャリアを一切持ち込んではいけないと思っていました。
なぜなら、人はお膳立てしてもらうと「必死」になれないからです。
自分の夢に向かって引っ張ってくれる人って、誰もいないんですよ。自分が必死になるしかない。
「世界に出たい!」と僕が言うと、「ナオトならできるよ!」「いつか叶うよ!」と言う人はいるけど、それを鵜呑みにして「いつかできるんだ!」なんて思っていても誰も世界に連れていってはくれない。
自分の夢を叶えたいのなら、死ぬ気で命をかけて動かなきゃ。
動かなかったらずっと景色はそのままだけど、自分が動けば景色が変わります。
僕は大学生のころから2回デビューしても芽が出ず、30歳にしてやっと3回目のデビューをしたので、まだまだ夢を叶えている途中なんですよね。
久しぶりに会う友人に「最近どう?」と聞かれたら、「いや~、相変わらずだよ」ではなく、いつでもホットなニュースを伝えられるようにずっと動いていたいな、と思ってます!
今回の世界デビューの件を含め、ナオトさんは幸運に恵まれた人、と思っていましたが、彼が語る「チャンスのつかみ方」にハッとさせられました。
彼が誇る数々の“伝説”は、ラッキーだったからではなく、自分で必死に努力し、動いたからつかみとれたもの。
仕事をしていて「誰かがいい話持ってこないかなぁ」「ミラクルが起こらないかなぁ」なんて思うこともありますが、そんなときは、はたして今の自分はチャンスをつかむ「ready」ができているのか、改めて考えようと思いました。
今年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞は「シュガーマン 奇跡に愛された男」が受賞した。
「シュガーマン」は1970年代に活動し忽然と姿を消した米国の実在する歌手、ロドリゲスが本人さえも「知らない」うちに、なぜか南アフリカで大人気の存在となった過程を描いた作品である。
70年代、ミシガン州デトロイト、場末のバーで歌う一人の男が大物プロデューサーの目にとまる。
彼の名はロドリゲス・シュガーマン。
満を持してデビューアルバム「Cold Fact」を発表するが、まったく売れなかった。
世の多くのミュージシャン同様、彼もまた誰の記憶にも残らず、跡形もなく消え去ったのだ。
しかしソノ音源は「運命」に導かれるように海を越え、遠く南アフリカの地に渡った。
南アフリカ共和国の、海賊ラジオ局つまり正規のラジオ局でもなんでもないところが、「偶然」にこのレコードをかけてしまったのである。
そこからこの曲が序々に広がり、特に80年代には大ヒットしていく。
「シュガーマン」ロドリゲスの歌は、「反アパルトヘイト」の機運が盛り上がる中、体制を変えようとする若者たちの胸に突き刺さったのだ。
そしてロドリゲスの曲は、革命のシンボルとなった。
労働者の悲痛を歌ったロドリゲスの音楽が反アパルトヘイトの反体制の若者に響きあったのだ。
当時、南アフリカは軍事政権下で「情報鎖国」の状態にあった。
南アフリカの若者達は、ロドリゲスをエルビスプレスリーやビートルズに匹敵する大歌手と思い込んでいた。
その後も。ロドリゲスのアルバムは20年に渡って広い世代に支持され続け、南アフリカではローリング・ストーンズやボブ・ディランを超えるほど有名なアルバムになっていた。
一方アメリカでは、売れずに消えてしまったロドリゲスの「その後」を誰も知らなかった。
失意のうちにステージで拳銃自殺したとの都市伝説だけが残されていた。
ところでこの映画「シュガーマン 奇跡に愛された男」の主人公は、ロドリゲスを探す一人の中古レコード店のオヤジである。
南アフリカに外国人観光客が来るようになり、店にくる外国人がロドリゲスのことを誰も知らないことを訝しく思った。
アメリカ関連の情報を探しても、「シュガーマン」の名前は一切載っておらず、雑誌とかテレビとかにも何にも出てこない。
「シュガーマンとは一体誰なんだ」ということで探し始める。
中古店の主人が、彼の歌詞から世界各地の街の名前を拾っていくうち、「dearbornから来た娘」とういう箇所が目にはいった。
アメリカ中の地図を索引して調べてみると、それがデトロイトにある町であることがわかった。
そして中古レコード店の主人はそのアルバムのレコード会社、レコードレーベルの社長を見つけてアメリカまでやって来る
そして社長に「ロドリゲス、今どこにいますか」と聞いたら、「知らない」という。
南アフリカでは凄い売れてるが、アメリカじゃ何枚売れたかと聞いたら、「6枚ぐらいかな」とふざけて言う。
中古レコード店の主人はダメ元でインターネットに「このロドリゲスって人を知りませんか?」と貼り付けた。
随分月日がたって、アメリカから「ネット見たらうちのお父さんが出てんだけど」という電話がかかってきた。
「ロドリゲスさん、生きてるんですか?」と聞いたら娘は「生きてますよ」と答えた。
そこで中古レコード店の主人は、またデトロイトま行ってロドリゲス本人にようやくたどり着いたのだ。
ロドリゲスは1942歳生まれで、娘3人を育てて今や70歳になっていた。
主人が音楽、やってないのかと聞いたら、売れないからトックに辞めてビルの解体作業とかをやってずっと暮らしてきたと言う。
その間、大変貧乏して生きてきたともいった。
暖房もなくて、新聞紙をストーブに入れて暖を取るほどの貧しさであった。
結局彼は、デトロイト郊外のディアボーンという街に住んでずっと肉体労働をしながら、ヒッソリと暮らしていたのである。
どうも、南アでの100万枚ものレコードの売上げのロイヤルティも、彼には一切支払われてない様子である。
というか、彼がそれほど南アで大スターである事サエも、本人の耳に一切入ってなかったのだ。
音楽界から姿を消した後、お金も名声も求めることなく、自分と同じ貧しい労働者階級の人の声になろうと、デトロイトの市議会議員に立候補したが、あえなく落選したこともあったと語った。
あなたは、南アフリカで大スターですよ!100万枚売れてますよ!といっても、ロドリゲスは真に受けることはできない。
それでは南アフリカに一度来てくださいということになって、中古レコードの主人はロドリゲスを南アフリカに連れて行く。
そして1998年超満員の会場で「シュガーマン」ロドリゲスのコンサートが開かれた。
大歓声とともに幕が上がった。コンサートの第一声は「生きてたよ~!」であった。
確かに、「シュガーマン」ロドリゲスは南アフリカのスーパー・スターだった。
観客は「シュガーマン」の歌にリズムをとり酔いしれた。
ところで、「シュガーマン」すなわち「砂糖の様な物を売ってる人」、もっといえばイケナイ白い粉を売ってる人のことである。
「シュガーマン」はそういう「ヤクの売人」について歌った。
南アフリカは、当時厳しいキビシイ「軍事独裁」政権であった。
つまり、こういう歌は絶体にラジオでかけちゃいけない、ということになっていた。
だから逆に「これはヤバイ歌らしい」ということで、だんだん南アフリカの若者達の間で、口コミで売れていったのである。
もちろん「シュガーマン」の歌詞には政治的主張が多く含まれている。
//市長は、犯罪発生率を隠している。女性市会議員は、躊躇している。市民は、苛ついているけれども、投票日なんか忘れてる。天気予報士は、不平を言う。晴れると言ったのに、雨になったから。誰もがみんな、抗議運動をしている。ゴミは収集されず、放ったらかしで、女性の人権は守られない。政治家は民衆を利用して騙し、権力に溺れている。//
これは当時のデトロイトっていう街で起こってた、「市の腐敗」について歌ってる歌なのだ。
ロドリゲスという名前からスペイン系を思わせるが、これが南アフリカの事のように聞こえたのである。
ロドリゲスの歌声は、いまだに南アフリカの人達の心の「宝物」であり続けている。
ともあれこの映画「シュガーマン 奇跡に愛された男」はロドリゲスにまつわる数奇な運命を、彼の歌声で楽しめる珠玉のドキュメンタリー映画である。
実際に聞いてその歌声は素晴らしく、ボブディランにも劣らないように聞こえる。
逆に、何でアメリカでヒットしなかったのかと不思議に思えるくらいだ。
南アフリカの歴史的コンサートからアメリカに戻ったたロドリゲスは、それまでのようにビルの解体作業に向かった。
中古レコード店の主人に、彼を「発見してくれてありがとう」と言いたい。