真実と脚色の狭間

2012年9月福岡で、青木新門の「いのちのバトンタッチ」という講演を聴いた。青木は2001年アカデミー賞作品賞を受賞した映画「おくりびと」の原作となった「納棺夫日記」の作者である。
コトのはじまりは当時より20年以上も前、青木宅に、俳優の本木雅弘から思いもよらない電話があったことだ。本木がインドを旅した時の写真集に、青木の「納棺夫日記」の文章を入れたいという内容だった。
「納棺夫日記」は自費出版だったので、どこで本を読んだのか訝しく思いながら、全く問題ないので自由にどうぞという返事をした。
後でわかったことは、本木はインドで「納棺夫日記」を読んだ観光客と会ったのだそうだ。
しばらくして、本木の「写真集」が送られてきたが、本木が上半身裸になってガンジス河の中に足を入れて、手の上に菩提樹の葉っぱに蝋をつけ、火を付けて流そうとしている写真があった。
それは日本の精霊流しのようだが、その写真の傍らに「そのウジもいのちなのだ。そう思うとウジたちが光ってみえた」という「納棺夫日記」の言葉が引用されていた。
青木は当時26歳の本木が、「ウジが光って見えた」という文章を選んだことに髙いセンスを感じた。
青木にとって、その言葉こそが「納棺夫日記」の核心だったからだ。
インドのべナレスはヒンズー教の聖地中の聖地で、多くの人がそこで火葬され遺灰を川へ流されることが最高の幸せと信じている。
そこで、ガンジスの川べりで死を待つ人々が多くいる。
薪をたくさん買える人は全部きれいに死体を焼くことができる。
そして銀の皿の上に遺骨をのせて遺族の人たちがそれを小舟に乗って河の中に流す。
が、薪を充分に買えなかったり、遺族がいない人は、頭だけを焼いて体はそのまま流す。
そういうものが流れるところへ、人々は川に浸かって沐浴している。
煙があるところに、物乞いがいて、犬が歩いて、猿がいて、牛が座っていて、牛の糞がいっぱいある。
汚いというより、生も死も混沌とした世界である。
本木はその風景に「ウジが光って見えた」という文章を引用しだのだ。
それから2年ほど青木のもとには何の音沙汰はなかったが、青木はたまたま本屋で雑誌「ダヴィンチ」に本木が本をもってソファーに横たわり、「この本を映画化したい」という見出しがでているのだ。
手元の本をヨク見るとそれこそが青木氏の「納棺夫日記」に外ならなかった。
早速、青木は本木に手紙を書いた。葬式や納棺などの場面を映像化すると暗くて重いものになる。
一般の方に見てもらうには、伊丹十三監督の「お葬式」のような商業的に脚色化したものでないと見てもらえない。
しかしインドで感じた本木の「ウジが光って見えた」という視点なら映画化できるかもしれない、いっそ一人で作ってみてはどうかと提案した。
本木は青木氏が映画化を「許可した」ものと早合点したのか、自分分は一介の俳優でしかない。監督もできなし、脚本も書けないが、とにかく頑張ってみますと書かれてあった。
それから5~6年何の音沙汰もなかったが、その間本木は映画関係者に「映画化」の話をし、断られ続けていたという。
そんな中ただ一人、中沢敏明というプロデユーサーが興味を示した。
本木の情熱に後押しされた中沢氏の働きで、いくつかの企業が資本をだした「制作委員会」というものが出来た。
そして、しばらくして青木の処に脚本が送られてきた。
青木はその脚本に正直ガッカリしたという。
まず、映画の舞台が「納棺夫日記」の舞台、つまり浄土真宗の拠点でもある富山ではなく、真言宗の多い山形であったこと。
最後の場面では”人間”」で終わっていて、”後生(来世)”の一大事の観点がなかったことである。
つまり、宗教的なものは全部外されていて、青木が思うところとの”着地点”とは違うと思った。
制作委員会に手紙を出して修正を迫ったが、全部決定しているので直すわけにはいかないという返事だった。
ただ原作者としての「青木」の名前は外してくれと言ったが、それは社会の商業秩序に反すると言われた。
しばらくして、本木から電話があり、富山の小料理屋で会うことにした。
本木の真摯な態度に心をうたれた青木は、「映画は映画、本は本ということでいい。それで手を打ちましょう」と言うと、本木はやっと刺身に手をつけてくれた。
数年後、本木から「完成試写会」の案内と一緒に招待券が一枚入った封筒が送ってきた。青木氏は、有楽町館の映画館で「試写」を見て、お棺とか死体を扱いながらも、あれだけ美しい映像に仕上がっていたことに感動したという。
何よりも満足したことは、映画の題は「おくりびと」となっていて、どこにも原作者である青木の名前が無かったことであった。
る日、青木のもとに本木から電話があって「アカデミー賞外国部門賞にノミネートされました」という喜びの声であった。
ノミネートだけで名誉とされるのに、青木はつい「絶対オスカーとりますよ」と軽い気持ちでいった。
すると本木は、その根拠は何かと聞いてきて言葉に窮したが、青木は次のように答えたという。
最澄に「一遇を照らす、これ国の宝なり」という言葉がある。
例えばインドで何百万人という人が亡くなる。
マザー・テレサはその何百万人中のほんのわずかな行き倒れの人々を「死を待つ人の家」で看取るということを行っている。
それこそが一遇を照らす行為だが、それが人々の感動をよびノーベル平和賞を与えられた。
そういう意味で「ウジの光りはオスカーの光りに繋がっている」と言った。
本木は笑っていたが、青木は我ながら格好いいことを言ったものだと自分に感心したという。
結局、オスカー受賞決定の報告に、青木は世の商業主義に屈せず、あきらめずこの作品を完成させた本木に、心底敬意を表したいと思った。
その反面、青木は「おくりびと」が映画作品としてどんなに素晴らしいとしても、「納棺夫日記」とはどうしても一線を引かざるを得ないものだった。
だからこそ原作者「青木新門」の名前を外してもらったのだ。
青木は講演会で、早稲田大学に入学しながらも退学して納棺夫となった経緯を語られたが、一つの体験が大きな意味をもち、その思いのこそが青木の名前を外した理由だった。
青木の講演「いのちのバトンタッチ」の後半は、その「原体験」語られることからはじまった。
青木は1937年、富山県黒部近くの入善という村で生まれた。5歳で旧満州に渡り、奉天( 現瀋陽)で暮らした。
父はシベリヤへ行き、8 歳の時終戦となった。妹は4 歳、弟は1歳半であった。
父はシベリアに行ったので、母と4人で、難民キャンプに収容されたが、弟は直ぐに死んだ。
キャンプでは発疹チフスが蔓延し多くの人がなくなった。母も罹病し隔離され、やがて妹もなくなった。
青木は、誰かが焼かれている時、妹の死体をそっと「焼き場」に置いてきた体験があった。
今から10年前、アメリカの写真家・ジョー・ダネルが長崎で「我が心良くて殺さずにあらず」という写真展を開いたことがあった。
ジョー・ダネルはGHQの一員として日本にやってきたが、終戦後の日本の風景をひそかに撮っていた。
青木は、その写真展の片隅にある写真を見たとき、動けなくなった。
一人の少年が子供を背負っている写真である。その子供は力なくブラ下がっている感じである。
傍らの「説明書き」を読むと、原爆で亡くなった弟の死体を背負って火葬場の前で”直立不動”の姿勢で立っているのだった。
そのきっと結んだ口の少年の姿に、青木は妹の死んだ体を置いてきた自分の姿と重なり、とめどなく涙があふれるのをとめることができなかった。
それを見ていたダネルが青木に近寄ってきた。
青木はダネルに、中国で「この少年と同じことやってきた」と自身の「原体験」を語った。
ダネルは、その後その少年を探しを会うことを願い、色々と手を回されたようだが、その願いはついにかなわなかった。
ダネルは、晩年は日本で暮らされたが、放射能の後遺症で亡くなっている。
ダネルは青木に、サイン入りの写真をくれ、それは今でも青木の机の上に飾ってあるという。
青木は、あることを否定するのはそれに”反する”ものではなく、「似て非なる」ものによって打ち消されると語った。
青木が、自身の作品「納棺夫日記」と映画「おくりびと」と一線を画し、映画から原作者である自分の名を”外す”ことを願った理由は、それが”似て非なるもの”だったからである。

2017年、北海道の苫小牧市の小児脳神経外科医、高橋義男(67)をモデルに描いたドキュメンタリー漫画「義男の空」が制作10周年を迎えた。
漫画業界での自費出版の継続刊行は異例のことである。
販売元の「エアーダイブ」は、田中宏明さんの次男が高橋医師の治療を受け、北海道にこのような素晴らしい医師がいることを伝えたい」と一念発起し、2006年に立ち上げた会社で、「義男の空」は08年に1巻目を自費出版で発売し、その後も1年に1、2冊のペースで新刊の発行を続ける。
作品、実在の家族をモデルとし、田中さんやスタッフによる丁寧な取材活動を経て描かれており、これまで水頭症や裂脳症、悪性リンパ腫などの重い病に負けずに命を輝かせる9人の子供を描いた。
はじまりは、田中社長の家に起きたことであった。待望の次男(冬馬)誕生にみんな大喜びであったが、この直後に家族はどん底にたたき落とされることになる。
当時 妻が頭が妙に膨らんでいると気づき、市内の総合病院で検査を受け恐ろしい事実が分かった。
水頭症とは頭の中を流れる髄液が過剰にたまり、放置すれば膨らんだ脳室が脳を圧迫してさまざまな障害を引き起こしやがて死に至る。
冬馬の脳室は異常なほどに膨れ上がり髄液が漏れ出して脳にダメージを与えていた。
小さな赤ちゃんの脳を手術することは難しくその時の医師も経験がなく、他に頼れる医師がいないか必死に探した。
知人の知らせで、たどりついた病院はやけに暗く気持ちが押し潰されそうになったが、壁一面に子どもたちの写真やメッセージがはられていた。
示された治療法法は、シャントと呼ばれる管を体に埋め込む手術で、管にはポンプ機能がついていて脳にたまった髄液をおなかの中に排出する。
手術自体のリスクは少ないもののシャントが不具合を起こす可能性があり成長に応じて交換も必要になるなど手術後も負担がかかる。
もう一つが 内視鏡を脳の内部に差し込む手術で、髄液がたまった脳室に穴をあけて新たな通り道を作る。
生後1か月の小さな脳に内視鏡を通すのは 極めて難しく失敗する可能性も少なくない。
妻は 重い現実に耐えかね泣きだした。
ただ、壁一面にはられた子どもたちの写真を見て先生の腕を信じようと思った。すると”神業”のような手術で 何の後遺症もなく家族のもとに帰ってきたのである。そして冬馬は高校生活を楽しんでいる。
定期検診で先生のもとに通い続けるうちに、 高橋医師の本当のすごさを知った。診察室の壁一面にはられた写真は、手術後もずっと支え続けていることを表していた。
ところがそんな高橋医師に、突然衝撃の事態が巻き起こった。
それは、社会を揺るがした薬害エイズ問題で、先生の患者も被害者の一人であった。
先生はその患者のために責任を認めない国や製薬会社と裁判で真っ向から闘い、その後手術設備のない保健所への異動を言い渡され、病院を辞めざるをえなくなった。
全国の難病な子が たらい回しにされて小の高橋医師の病院に来てたんで「うちの子はどうなるんですか 先生」という親御さんが たくさんいた。
あの高橋医師が 医療の現場を追われてしまうなんて 絶対に許せない。
田中に、あるアイデアが閃いた。実は若い頃に漫画家になる夢を抱いて、大きな賞を取ったこともあった。
その経験を今こそ生かしたい。高橋医師のことを伝えるには患者たちの"ありのままの姿"を描くのが一番だと確信し、高橋医師と患者家族の集いに冬馬を連れて通った。
そして、当時ホームページの制作会社に勤めていたが 仕事の合間を縫ってマンガを描き始めた。
最初に描いたのは札幌に住む ある徳永家の物語で、長男の”標(しるべ)くん”の異変に気付いたのは1歳になった頃だった。
座ることはおろか寝返りも打てるようにならなかった。原因が分からずすがる思いで高橋医師を訪ねた。そこで告げられた診断は大脳の一部が欠ける裂脳症。あまりに残酷なものであった。
脳に大きな空洞があり髄液がたまっていて、体を動かすこともできず”寝たきり”になる運命であった。
その時高橋医師が提案したのは空洞にたまった髄液を抜く手術。退院する時、高橋医師は、脳を成長させるためにできるだけ刺激を与えてほしいと。
流動食しか食べられないと言われても普通の食事を食べる練習を必死に続け、言葉は分からなくても何か伝わるはずだと、毎日絵本を読んで字の勉強も始めた。
外の世界を見せようとできるだけ散歩に連れ出したが世間の目は 冷たいもので、くじけそうな時 励ましてくれたのは高橋医師であった。
田中は徳永夫婦を何度も取材、家族の前に立ちはだかる様々な壁を、”一切脚色せず”にマンガに描いていきた。
そんな日々が1年ほど続いた頃。徳永さん夫婦は信じられない光景を目にした。「あっちに行って 一緒に遊ぶ?」そう聞いた時に、ウンとうなづいたのだ。
言葉が理解できず寝たきりになるはずだった標くんが可能性を切り開き始めた瞬間であった。
その後も水泳をさせたり遊園地に行ったり、周囲に無茶と言われても思いつく限りの刺激を与え続けた。
今ではタブレットを使って会話も自在にできる。好きなおかずを自分で選ぶのが楽しみの一つ。
また、自ら電動車椅子を操作し近所のスーパーに買い物に行くなど人生を目いっぱい楽しんでいる。
標くんを信じ 刺激を与え続けた両親の苦労はしっかりと実を結でいた。
ところで田中が描きためた原稿を東京の出版社に持ち込んだが、名もなき患者たちを描いた地味なマンガにすぎない。何社回っても相手にされなかった。
そこで、田中は、たとえ赤字になろうとも”自費出版”で世に出そうと決断した。
タイトルは 「義男の空」。その後もたくさんの患者たちを取材しその物語をマンガに描き続けた。
障害を理由に親に見捨てられ里親と共に懸命に生きる人。足が不自由でも 必死に練習を続け今はフラダンサーとして活躍する人など。
出版費用がかさみ 借金もしたが、5年目思いもかけないことが起きた。最高峰の賞とされる「文化庁メディア芸術祭〔マンガ部門〕審査委員会推薦作品」に選ばれたという連絡がはいったのだ。
「進撃の巨人」や「テルマエ・ロマエ」などのヒット作と並び自費出版作品の「義男の空」が選ばれたのである。
かつて出版社を回った頃、漫画を”脚色しては?”と言われ迷わず自費出版にしたのは、医師も驚く奇跡を起こしながら、フィクションの要素を入れてしまうと全てウソのように感じられるからだった。