丘を越えて

平家の"落人伝説"は関東や北陸にも及ぶ。共通点は、山奥や離島などのアクセスの悪い土地である。
平家没落が決定的となったのが1185年の壇ノ浦の戦いだが、戦に勝った後も、源頼朝は追討の手をゆるめなかったためだ。
熊本県八代市五家荘では、追討に来た那須与一の"息子"が、逃げ隠れていた平家方の玉虫御前と夫婦になったと伝わる。
源氏の那須与一といえば、屋島の戦い(高松市)で平家方の船上に掲げられた扇を弓矢で射ぬいた逸話で知られる名将。そして玉虫御前といえば、屋島の戦いで扇を船上に揚げた平家方の官女。
なんだか出来過ぎた伝承だが、縁結び祈願のスポットとなっているという。
また宮崎県にも似た伝説を秘めた、源平が仲良く暮らした村がある。
命からがら逃げのびた平家の一部がたどり着いたのが、現在2600人が暮らす宮崎県椎葉村。
実は、この椎葉村は当時農水省の役人であった柳田國男が”民俗学”の調査をスタートさせた”記念碑的”な村としていられる。
村に元々いた人に加え、”源氏方”・”平家方”、そして彼らが結ばれたケース。
源氏方の先祖がいる人には「那須」姓、元々いた人や平家方の先祖がいる人々には地名からの「椎葉姓」が圧倒的に多く、村民の半数を占めるという。
この村には、前述の源氏の方の那須与一が平氏追討のため椎葉村に来る予定であったが病を患い、兄弟の那須大八郎が送られた。
この地域では、人々が直面する厳しい自然環境と生活の成り立ちの影響が垣間見られる。
平家の落人達を残らず討ち取るためやってきた大八郎であったが、農作に励む平家方の目のあたりにして、嘘の報告をすることで彼らを救い、自らも穏やかに生きていこうと椎葉の土地に屋敷を建てる。
その後、大八郎は地元の鶴富姫と出会い、お互いに惚れ合い、村人の祝福の中二人は結ばれたという。
しばらくは幸せを満喫した夫婦であったが、帰還せよとの命令が下されてしまい、2人は離れて生きるしかなかった。
この時大八郎は、生まれた子が男なら大八郎の元へ、女なら鶴富姫が育てるよう言い残し、戻っていった。
出産したのは女の子で、鶴富姫は娘に愛情を注ぎ、良い母親になったとのこと。
だが、源氏方が那須与一ほどの名将をこんな山奥に本当に送り込むかという疑問は残るし、その弟である"大八郎"の存在自体が謎めいている。
家系図や鶴富姫に宛てた子の認知に関わる署名つきの書簡は残っており、江戸時代に書かれた”地元”の古文書「椎葉山由来記」にも記述されている。
だが、それ以外の文書から「大八郎」の存在を裏付けるものがない。
だが、大事なことは伝承の真偽ではなく、こうした伝承が長く語り継がれてきたという事実の方なのだ。
椎葉の人たちは危険な焼畑作業に従事し、山の斜面を開墾して作物を作ってきた。
源平双方とも、こんな山奥で今更”イクサ”もなかろう、そして何よりも水良し食糧良しのこの土地で仲良く暮らそう、という気持ちになったとしても不思議ではない。
秘境の地でようやく兵士達は、背負ってきた様々な"ヨロイ"の馬鹿らしさを思い、それを脱ぎ捨てて、一人の自然人に戻ったと想像する。
生きるためには、敵も味方も関係ない。助け合わなければ死んでしまう。そうした暮らしから得た知恵、精神的な教え、あるいは、強い希望や自壊を込めながら、代々語り継いできたのかもしれない。
さてこの土地の観光スポットが、耳川沿いにあるのが「鶴富屋敷」で、この地こそは那須大八郎と鶴富姫のラブロマンスの舞台として有名である。
二人の伝承をモチーフにした「椎葉平家まつり」は毎年11月に催され、多くの観光客が訪れている。

鎌倉時代、西日本の農業生産力がアップしたという。鎌倉時代といえば農業技術の向上もみられたのは特徴であるが、ある大学教授が出した仮説は興味深い。
元寇では敗走したことになっているモンゴル軍だが、元寇後に逃げ切れず 、そのまま住みついた人々が進んだ農業技術を日本に伝えたという説である
モンゴル軍といえば"騎馬軍団"と思いがちだが、実はモンゴルに服属した"南宋"の中国人が元軍の主力として日本にやってきていたのだ。
彼らが、日本軍と戦うモラールが高かろうはずがない。船を失い中国に帰れなくなった人々が日本に住みつき、日本人と共同して農業を営んだということは、大いにありうることだ。
戦乱を終え一人の人間に戻れば、行くあてもない人間が一人迷い込んだにすぎないのだ。
日本に受け入れられるためには彼等は進んだ農業技術を伝えたのではないか。それがなくとも、単純に労働力の増加になったかもしれない。
そのうち一人の人間としての”親近感”が芽生えたとしても不思議ではない。
敵対する者どうしが椎葉村のカップルのように”和合”するのはよいことだが、ひとつの家においては、ロミオとジュリエットのように、あまり仲良くなってもらっては困るというケースもある。
それが、1159年平治の乱後に伊豆に流された源頼朝と伊豆の代官の娘の政子のケース。
政子の父・伊東 祐親(いとう すけちか)は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、伊豆に配流された源頼朝の"監視"を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫(政子)が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年9月、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
ところが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得た。
しかし二人の結婚に、心をいためた祐親はこの前後に出家している。
1180年8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、祐親は逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。

現在、世界中で分断が深まっている。その一つの理由は難民問題。ヨーロッパでは、難民の受け入れをめぐって対立が深まる。
例えば、東西ドイツが統一すれば、東西の差はなくなるだろうと思われていたが、最近の調査ではギャップは開くばかりだ。
統一から30年を経ても、東ドイツの住民の3分の1以上が、自分たちを「二流市民」だとしている。
そして、昨年のザクセン、ブランデンブルグ両州の州議会選挙で「極右政党」が躍進がみられた。
実は、2015年のメルケル首相による「大量の難民受け入れ」表明は、取り残されるという元東ドイツ市民の不安を煽る結果となった。
アメリカでも、見捨てられたと感じるいわゆるラストベルトの白人労働者と国境を越えてくるメキシカンの関係で同様の事態が見られる。
トランプ大統領は、白人労働者を守るために「壁」を造ると発言し、その費用はメキシコ側負担させると豪語し分断を煽っった。
実際、アメリカは「南北戦争以来」とも形容される深い分断にむしばまれているといわれる。
各々を分かつのは「意見の違い」ではなく、意見が違う相手を拒絶して”人格否定”にまで及ぼうとする態度にある。
例えば、共和党支持者の多くは"地球温暖化"の脅威を認識している。にもかかわらず、対策を打ち出したのが民主党と知るや否定的になる。
議論が始まらないうちから、共和党か民主党、親トランプか反トランプといった殻に閉じこもり、人格ごと相手を否定する構図である。
地域活動が低調になり、異なる意見を持つ他人とふれ合う機会が減った。一方、同じ考え、価値観を持つ者同士はソーシャルメディアで集まりやすくなった。
そんな中、そうした分断を乗り越えようとした二つの村がある。
ともに住民は2千人ほどで、その95%が白人だ。生活圏にはスーパーのウォルマートもハンバーガー店のマクドナルドもある。
対話の参加者に「相手の考えを変えようとするのではなく、相手がなぜそのような考えを持つに至ったかを理解しようと努めて」というルールを課した。
2016年の米大統領選挙で、北東部マサチューセッツ州のレバレット村では8割がヒラリー・クリントン候補に、南東部ケンタッキー州のホワイツバーグ村では地域の8割がドナルド・トランプ候補に票を投じたことである。
以来二つの村の住民は、お互いを訪れるなどの"交流"を続けている。
交流を続ける理由は、いったい何が米国を引き裂いているのか見極めるためだという。
レバレット村は隣町の大学に勤める人が多いリベラルな村だ。
2016年の冬、トランプ氏の当選に”動転し”た住民から声が上がった。「彼に投票した人々のことを、私たちはもっと知らなければいけないのでは」と。
レバレットに住む心理学者のポーラ・グリーンさんが中心となって対話による交流が始まった。
グリーンさん、過去30年以上、ミャンマーやボスニア、ルワンダなど世界の紛争地で、”住民対話”で地域社会を修復させる経験を積んできた人なのだ。
そして人づてホワイツバーグ村との”接点”ができた。
ホワイツバーグは、20年ほど前まで炭鉱で栄えたが、ほとんどが閉山。人里離れた山あいに進出する産業はなく、米国の繁栄からひっそりと取り残されてきた村である。
17年の秋、ホワイツバーグ村と周辺の村々の住民11人がレバレットに招かれた。
レバレット村の住民には「トランプ氏への支持がいかに愚かか、頑迷な保守派に分からせたい」と意気込む人もいて、最初は双方ともぎこちなかった。
ホワイツバーグの住民は「高学歴を笠に、上から目線で私たちを説教してくるのでは」と身構えていた。
3日間の滞在の初日、あえて政治の話はせずに、それぞれの家族について語り合った。
ホワイツバーグ村の住民は、炭坑事故で命を落としたり、閉山で離散したりした親族の話をした。
レバレット村の住民の一人はナチスによるホロコーストを生き延びた両親のことを語っって、一緒に涙したという。
2018年にはレバレット村の住民がホワイツバーグ村を訪れた。寂れた街並みに衝撃を受けた。
停滞から脱出しようと、すがる思いで彼らがトランプ氏に投票したことがわかったと語った。
昨秋は再びホワイツバーグ村の住民がレバレット村へ。銃規制や妊娠中絶など、政治的なテーマも静かに語り合えるようになった。
二つの村の対話は「Hands Across the Hills(丘を越えてつながる手)」と名付けられた。今後は双方の住民が「語り部」になり、人間として認め合うノウハウを広めていくという。

韓国映画である「JSA」は一個の人間と、国民であることの相克を浮き立たせていた。
JSAとは「Joint Security Area(共同警備区域)」のことで、朝鮮半島を分断する板門店地域のことである。
南北の38度の国境線で互いに警備しあっている南北の兵士同士は、国は違っても同じ役割を担わされた普通の若者である。
国境線で顔を合わせ冗談などを交わしたりするうちに仲良くなり、時々互いの監視所に行っては恋人や故郷のことを話すようになっていた。
しかし、そうした兵士達のほのかな友情も、"第三者"が現場に入り込むや一転し、悲劇的な結末を迎えるというものであった。
この”第三者”とは国家をシンボライズした人物であり、個々の友情も国家が介在した時、あっけなく引き裂かれざるをえなくなる。
冷戦時代に対立していた米ソの兵士などが交歓する写真を二つ思いだした。その写真がとても印象的だったのは、米ソ冷戦が激化していた時期に見たからだったろう。
一枚はエルベ河畔の町で米ソの兵士たちが笑顔で手を握り合っているもので、米ソが連合軍としてドイツと戦っていた時期のものである。
二枚目は、米ソの人工衛星開発競争の中で米ソ宇宙飛行士が互いに抱き合うシーンである。
これは米ソの科学者が共同でドッキング装置をつくり、1955年7月17日、人工衛星が地球を回る軌道上でドッキングし、両国の宇宙飛行士は、おたがいに相手の宇宙船を訪問し合い一緒に食事をした時の写真であった。
こういう写真を見ると、人間は”個人のレベル”に還元すれば何ひとつ軍拡競争に走る必然性などどこにもないような気がしたものである。
1979年に「メテオ」という映画があった。米ソの核科学者が力を合わせて近づいてくる巨大隕石を核兵器で破壊するという映画であった。
人類が平和であるためには、人類が戦うべき”共通の課題”があればと思ったりもするが、現在は深刻さをます「地球温暖化対策」ということかもしれない。しかしこの課題に対してさえもそれぞれの”お国の事情”が優先してなかなか足並みがそろわない。
戦争でもテロでも、兵士達は相手方の人間に個人的な恨みがあるわけではない。
国民以外の共同体は、個人や家族を中心とした具体的な親密さのネットワークとして存在している。
一方、国民はこれと異なり、それを構成する個人は他の大多数のメンバーのことを知らず、間接的に知る機会すらもたず、一生会うこともない。それなのに、国民は想像の中では生々しいリアリティーがあって、深い同胞意識によって連帯し、人は時にそのために死ぬことさえもある。
アメリカ人やイスラム教徒が、相互に恐怖や敵対心を抱くのは、アメリカの政治学者ベネディト・アンダーソンのいうところの「想像の共同体」の所産であり、それを”火種”にしたり、油を注いだりするのは、為政者の”政治的な意図”が働くからでもある。
例えばトランプ大統領が、エルサレムに関するキリスト教福音派の意向を重視するなどして、自分の支持基盤に対して応えるという、きわめて”民主的な装い”の下、国を戦争に導くことさえもある。
人間はそもそも一定の「暴力性」を抱えており、イデオロギーの対立や宗教対立、民族紛争などの中に絶えず出口を求めているのだろうか。
為政者は、その出口を自身に向かわないように巧みに操作する。それが”分断”を生む最大の原因といってよい。
思い起こすのは、 日本人が連合軍に占領されていた時代に、チョコレートやガムを与える米軍兵士に群がる坊主頭の日本人の子供達の姿や街行く人々の表情がある。
あの写真を見ると、日本人が何かの"憑きもの"から解放されたような晴れやかな表情をみることができる。
日本人がそれまで一生懸命に背負ってきた物が見事に崩れて、自分の生活以外には何も背負うこともなくなった姿だ。
国家が掲げる大義、イデオロギーの非寛容、宗教的憎悪など背負い込んだ”政治化"された人間が、一個の”自然人”に戻るのは、よほど”例外的”なことなのか。

日本でも、通産省役人が池袋で交通事故をおこし、その事後の扱いを巡って「上級国民」という言葉が出始めている。 例えば、福岡の柳川市。平家の騎馬武者6人が逃げ込んだとされるのは、6人は身を隠すため、漁師になって港を整備したり、海賊を退治したりしたことで慕われた。
地元では今でも、漁師の事を6人なぞらえて「六騎(ろっきゅう)」という。
長崎県佐世保市の宇久島でには、平家の武将、平家盛が逃げ込んだ。のちに「宇久」に改姓し、地域を治めるほど力をつけたとされる。
島では家盛の所持品が大切に保管されている。
鹿児島市喜界島では、13世紀初頭には、落人約200人が島に上陸し、源氏の追っ手に備えて陣地を作ったとされ、現在もその跡地が残っている。
この喜界島を拠点にして奄美大島や加計呂麻島にわたっとされる。