ニンジャとスカーレット

我が福岡市の薬院に近い小さなホテルが、外国人客がネットに「ニンジャがいる」と書いたがために評判になったことがある。
日本人なら、旅館に泊まって、風呂から部屋に戻ったら食事の用意がしてあったり、布団がひいてあったりして驚いたという体験をもつ人も多いだろう。
しかし外国人客にとって人影も見当たらないのに、いつの間にかなされる行き届いたサービスに、「まるでニンジャがいるようだ」と感じるらしい。
また、「忍びの術」は、「おもてなし」というカタチで、現代においても生きているのかもしれない。
ところで「伊賀忍者/甲賀忍者」という歴史に名を残す集団がいるが、いずれも近江か大和にかけて生まれた特殊技能集団である。そこは、戦国の時代にもっとも大名たちが覇を競いあった地域であった。
伊賀は山に囲まれた閉鎖的土地柄からか統一権力が生まれにくく、土豪・地侍がそれぞれ小党を組んで互いが争っていた。
その時に生まれた夜襲・放火・諜報術が、後の伊賀者・甲賀者の誕生につながる。
江戸時代に入り、天下泰平の時代となって、忍者が活躍するいくさがなくなってしまうと、忍者の末裔や流れを汲む人たちは、忍術を伝えていくために無数の流派を立てていった。
忍術に高い価値があるからこそ、後の時代に残そうとしたのだろう。 忍者の教科書ともいわれる「万川集海」「正忍記」「忍秘伝」などがある。
小説や映画、漫画などでは、ドロンと消えたり水の上を走ったりと、忍法を使う黒装束の「超人」として描かれてきたが、それらの本から浮かび上がる忍者の姿は、とても地味である。
忍者は、手裏剣などは実際に使うことは少なく、手足頭を引っ込めて丸くうつぶせになる「うずら隠れ」などの「隠れ身の術」、「のろしやあぶりだし」といった「伝達術」の訓練をしている。
要するに、忍者は自然や周りの環境に応じて創意工夫しながら生き抜くサバイバルの達人。
また忍術書には、「兵糧丸」という食べ物について書かれている。1日に4、5粒食べればおなかを満たして活動できるというもの。
その成分は朝鮮人参やシナモン、でんぷんなどで、機能的な効果があることが科学的に証明されている。
その他、忍術書には酒に酔わない方法、しゃっくりを止める方法、耳に虫が入ったと時どうすればいいかなどが書いてある。
また、忍者は不測の事態にも臨機応変に対応する能力や集中力を常日頃から養う。
ろうそくの炎をじっとみる。音を立てずに歩く「忍び足」、指先の感覚だけで何かを当てるなどの五感を鍛える特訓をする。
最近、たまたまレストランにあった「おもてなしの極意」という本を読むうち、これは「忍者の教科書」ではないかとさえ思った。
その本の見出しには「気配を感じること」「自らの存在を消すこと」とあり、まるで「忍びの者」の生き方のように思えた。
実際、こういうサービスの在り方こそが、外国人に「ニンジャがいる」と思わせるのではなかろうか。
「おもてなし」の極意は、「こちらの気配は消す」こと。
「おもてなし」されていることも、「おもてなし」していることもお互い一切感じない、感じさせないこと。要するに「忍びの術」に徹することである。
近年、「ニンジャ」は世界で知られた存在のようだ。それは、日本から世界に発信された「アニメ・コンテンツ」によるものが大きい。
イスラムでは、女性が身にまとうのが、体を覆い顔を隠す「ヒジャブ」。どういうわけか、この「覆いもの」に「ニンジャ」という名前がついている。
またサッカーにおいて、日本チームが活躍すると、海外メディアはかつて「ニンジャ サッカー」といった表現をしていたことがある。
そこで、忍者の故郷「伊賀・甲賀」あたり出身のサッカー選手を調べてみた。
すると、前アビスパ福岡監督・井原正巳が「甲賀市出身」であることが判明した。
それ以外にも、元サッカー日本女子代表監督・大橋浩司(伊賀市出身)、中田一三(甲賀市出身)、西村弘司(伊賀市出身)、なでしこジャパンの宮崎有香(伊賀市出身)など。
実際に、「忍者の末裔」がいて不思議ではない。

徳川家康、最大のピンチとされるのが「伊賀越え」。
1582年(天正10年)、徳川家康は織田信長とともに甲斐に侵攻、武田家を滅ぼし、恩賞として駿河を拝領した礼を言うため安土城を訪れた。
京都を経て堺を見物、信長に会うため再び京都に向かう途中、本能寺の変を知った。
本能寺の変で織田信長がこの世から消えたのを知って、誰よりも命の危険を感じたのは、徳川家康だろう。なにしろ信長と同盟を組んでいた家康の周囲は、"敵一色"に変わったといえる。その真ただ中に、主従わずか30人余で取り残されてしまったからだ。
家臣が率いたのは精鋭ばかりとはいえ、明智光秀の軍勢に見つかればひとたまりもない。
信長亡き今、付近の武将が敵か味方か分からないばかりか、村々は武装し、領主でない武士を襲うのは珍しくない。
いわゆる「落ち武者狩り」だが、途中まで一緒だった穴山梅雪(武田信玄の甥)が村人に殺されている。
家康の首を挙げれば、恩賞は思いのままだろう。
しかし、京都周辺に留まることはなお危険である。
そこで、家康は、三河へ逃げ帰る”決死の逃避行”を行う。
1582年6月2日本能寺の変の当日、信長の死を知った家康は、宇治田原を通り、多羅尾光俊に迎えられ信楽(滋賀県甲賀市)の小川城で1泊、柘植(つげ)(三重県伊賀市)の徳永寺で休憩し、白子(鈴鹿市)から船に乗り、4日深夜か5日未明に大浜(愛知県碧南市)に着いたことはわかっている。
だが、伊賀をどう通り抜けたのかは3説あって、いまだ決着がついていない。
服部半蔵率いる伊賀忍者数百人が御斎(おとぎ)峠に集まり、家康主従を守るシーンは小説などでおなじみだ。
現在の学界の通説は、桜峠を経て丸柱などを通り柘植に至る最短ルートである。
これは、膳所(ぜぜ)藩主の「留書(とめがき)」によるもので、家康に随行した縁者に聞いたとされるもので、書かれたのは伊賀越えの半世紀以上後のものだから、それほど信頼にたるものではない。
三重大学の藤田達生教授によれば、”伊賀越え”というよりも、”甲賀越え”が真相に近いという。
なにしろ同時代史料には服部半蔵も伊賀忍者も登場せず、当時の伊賀は家康にとって、むしろ危険すぎる場所だった。
信長は前年、伊賀へ総攻撃をかけ、村を焼き払たため、伊賀衆の恨みは強く、本能寺の変の直後、地侍が蜂起し信長傘下の福地氏らを追放している。
信長の同盟者・家康からすれば、伊賀は避けたい。通るにしてもできる限り短くというのが真相なのだ。
教授によれば、家康は逃避行を助けてくれた相手に様々な形で報いていて、これが甲賀を通った状況証拠になっているという。
多羅尾氏は江戸期を通じ代官職を世襲。一代限りが通例だから異例の厚遇だ。
警護などをしたとみられる甲賀衆はいずれも500石以上の旗本に。
家康が休んだ徳永寺に、瓦に葵(あおい)のご紋の使用を許し、藤堂藩を通じ周辺の土地などを与えた。船を手配した角屋秀持に廻船自由の特権を与えている。
片や伊賀出身者は「伊賀同心」と呼ばれ、足軽同然の下級武士。家康の危機を救ったにしては軽すぎる報賞で、伊賀者は神君伊賀越えで活躍していないと教授は主張する。
ではなぜ「家康の伊賀越え」となっているのか。
「伊賀越え」「伊賀路を通り」の表現は本能寺の変当時の史料にはほとんどなく、半世紀たった頃から増えてくる。
伊賀越えの途中、服部半蔵率いる伊賀者が家康を助け、その直後、全員が召し抱えられたという「物語」は、八代将軍吉宗の治世に「伊賀者由緒書」の中で突如出現する。
紀州藩主から将軍になった吉宗は紀州出身者を含む「伊賀御庭番」を組織し、積極的に情報収集した。
しかし、主に諜報役を担った伊賀同心は足軽同然の軽い扱い。平和が続いて仕事が減り、困窮していた。
そこで、「神君家康を助けたのは俺たちだ」と強調することで名誉も仕事も欲しかった。
いわば、伊賀者の形を変えた就職活動ともいえる。
吉宗にも伊賀者に注目を集める必要があった。当時「伊賀者」は伊賀出身者だけでなく諜報活動に携わる人全般を指すようになっていたからだ。
自らが使う「お庭番」たちに重みと誇りを持たせるという狙いがあったと推測できる。

日本の「明治日本の産業革命遺産」(2015年登録)が韓国から登録抹消を求められている。そこに多くの朝鮮人労働者が強制労働をさせられていたからだ。
それに関連して、ある一家の”逃避行”のことが思い浮かんだ。
その一家の父親は、炭鉱の現場監督をしており、あの時代に戦争反対を唱える稀有な人だった。
常々、一緒に働いてた朝鮮の人達をかばって、しまいには重労働に耐えかねて脱走を図った朝鮮の人を助けようとして、警察に目をつけられてしまった。
そして父親は家族を連れて逃げ出した。同胞をかばってくれた恩人を、朝鮮の人たちは大切に扱った。
逃亡先の村々で、彼らに助けられながら、その一家は、終戦の前年の1944年9月に、遠く滋賀県日野にまでたどり着いた。
徳川家康が、「伊賀(甲賀)越え」の逃避行なら、その一家の場合は「甲賀入り」の逃避行である。
さて、現在放送中のNHK連続テレビ小説「スカーレット」は、信楽を舞台に、男社会にあって女性陶芸家が自らの道を切り開いていく物語である。
戸田恵梨香演じる主人公・川原喜美子のモデルとなったのが、神山清子である。
上述の”逃避行”とは、神山清子一家の逃避行のことである。
神山清子は1936年、長崎県佐世保市に生まれた。3人きょうだいの長姉だった。小学校に通うようになってすぐ、大きな転機が訪れた。
神山によれば、最初は日野、次いで信楽に住むようになったが、どこでも朝鮮の人たちにはよくしてもらった。自分たちが生き延びてこられたのは、彼らががご飯に呼んでくれて、布団やら何やら、みんなそろえてくれたおかげだという。
実は、このあたりは昔から朝鮮からやってきた人々が多く住む場所であった。
新羅勢力の拡大にともない、660年に滅亡した百済や668年に滅亡した高句麗から、二千人を超える人々が海を越えて移住してきたからである。
正史である「日本書紀」や「続日本紀」によると、百済の王族や貴族らはその知識や技術で官僚に登用されたし、それ以外に近江国に400人とか700人、東国に2千人もの百済人が集団移住し、農業に従事していた。
滋賀県(近江)蒲生郡蒲生町石塔(いしどう)には、百済様式の三重石塔が立っている石塔寺がある。
司馬遼太郎は、著書「歴史を紀行する」で、この塔のことを、「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」と表現している。
石塔寺から東北へ約10kmのところに百済寺がある。高麗や百済の僧が百済系渡来人のために、百済の龍雲寺を模して創建したとされる近江の最古刹である。
つまりこの一帯にも、当時既に百済からの渡来人が集住していたのである。
神山一家に話を戻すと、彼女は幼いころから絵を描くのが好きだった。
そして、信楽には焼き物に絵を描く「絵付け」という仕事があった。神山は中学卒業後、ある絵付け師のもとで、基礎を学び、1954年、陶器製造会社に「絵付け工」として就職した。
当時の焼き物業界は、完全な男社会で、就職はしたものの、はなからできるわけないと決めつけられ、いじめられもした。
1年ほどが過ぎ、社内でもやっと腕前が正当に評価されるようになったころ、絵を褒めてくれる男性が現れた。2人は交際を始め、やがて結婚し、ほどなく1男1女の子宝にも恵まれた。
神山が就職した当時、信楽の陶器産業は隆盛を極めていた。戦争で鉄や金物が不足した影響もあって、陶器はさまざまな場面で重宝された。
とくに暖房器具の火鉢は飛ぶように売れ、最盛期、信楽は全国シェア8割を占めていた。
ところがやがて、石油ストーブや、家電製品が普及し始めると、火鉢の売れ行きは急にストップし、神山は、およそ10年勤めた会社をあっさりと辞めた。
そして次に自分が何をすべきか、いま信楽焼にないものは何かを考えた。
ある時、神山は子どもが泥だんご作って遊んでるのを見ていて食器や!と思いついた。
土のだんごをいくつも並べるようにして、大皿に仕立てた。できあがったのは素朴な味わいの「小紋様皿」。陶芸家・神山清子のオリジナル作品、第1号となった。
その後も神山は、心の赴くまま、手の動くまま、従前の信楽焼の枠におさまることのないユニークな作品を生み続けた。
知人に勧められ、公募展に出品すると、思いがけず入選を果たし、当時まだ珍しかった女性陶芸家として、彼女の名は全国に知れ渡った。
仕事ぶりを見てみたいと、たくさんの人が訪ねてくるようにもなった。
神山は、30歳になっていたが、華々しく陶芸家の道を歩み始めた神山を、疎ましい思いで眺めている人たちも多くいた。
なにしろ“女性が窯に入ると汚れる”という偏見が寝ずよくあったし、女のくせに生意気やという男たちの“アレルギー反応”で風当りは強かった。
それでも、神山は陶芸家として大きな夢を抱いていた。それは、効率重視の「登り窯」ではなく、古代の陶工のように、山の斜面をくりぬいた「穴窯」で、本物の信楽を作ってみたいという夢だった。
神山は自宅の庭に、夫とともにレンガを重ね、その上に土をかぶせた半地上式の穴窯を築いた。
夢に向かって邁進するが、夫とはすれ違いの日々が増えていった。
展覧会に出そう思うて作ってたもの、みんな外に放り出されたりして、結婚は破綻する。
神山が38歳の時で、自分にはまだ穴窯があると奮い立ち、改めて焼き物に向き合うことにした。
するとある日、長男が古代の窯跡で陶器の破片を拾ってきた。美しい深い緑色の光沢を放つそのかけらに、釉薬は使われていなかった。
これこそが、自分が作りたかった本物の信楽焼と確信し、神山は、”自然釉”の研究に没頭する。
パンの耳を食べながら、すべてを研究と実験につぎ込んだ。
しかし、失敗続きで、何度焼いても、思うような色は出ない。
半ばやけくそで、残った全財産をはたいて薪を買い、通常なら3~4日のところを、16日間もたき続けた。
一方で、重ねた失敗から、一定の温度で長期間たき続けることが必要なのではという思いもあったからだ。
そして迎えた窯出しの日。神山が目を凝らして見ると、窯の奥にキラッと光るものが見えた。
花入れに水差し、つぼ、どれもが緋色の肌に、深い光沢のある彩りが重なり宝石のように輝いてた。
やっと思い描いた色、古代の信楽の色が出せたと思った。その色は、スカーレット(緋色)。
この炎の色で、神山清子は、誰もが認める陶芸家になっていく。

ところで、東京駅には世界を驚かす「奇跡の7分間」というのがある。
「新幹線1両を1人、7分間で清掃と掃除」で注目を集めている企業、JR東日本の子会社で、新幹線の掃除を担当している鉄道整備会社である。
視察だけではなく、米国のスタンフォード大学、フランスのエセックス大学の学生たちが、研修にやってきて、制服を着て、掃除の実習をしている。
日本人の乗客でも、そのキビキビ動作に感心してしまうが、外国の客にとっては、その動きは信じられないようだ。
たまたまホームで待っていた30人くらいの外国人客から大きな拍手と歓声が沸き起こった。そして「ブラボー、ニンジャ」という声さえあがった。