我が地元・福岡は炭鉱で栄え1960年代はじめ頃まで、時代の先端を走っていたともいえる。
それは、1964年の東京オリンピックの大会組織委員長が、炭鉱財閥出身の安川第五郎であり、オリンピックの開催宣言をしたことにも表れている。
ちなみに「五輪旗」は、第五郎の母校・修猷館高校に保存されている。
そして炭鉱労働者には、疲れをいやす”和菓子”が求められ、飯塚・直方では「さかえ屋」「千鳥屋」「もち吉」などの店が生まれた。
だが、なぜ”和菓子”かといと、長崎から佐賀を通って福岡に入ってくる「長崎街道」の存在が大きい。
1984~85年、世を騒がせた事件が「森永・グリコ事件」だが、森永製菓の森永太一郎や江崎グリコの江崎利一、いずれも佐賀出身である。
「江戸時代、天領(幕府領)であった長崎と藩境を接していたのが肥前・鍋島藩で、ポルトガルから伝わった製法を下に数々の銘菓を育ち広がったのは、「シュガーロード」つまり長崎街道の存在である。
そこは何といっても、オランダ商館長が江戸参府をする際の通り道で、あのシーボルトも、この街道をとおって江戸と往来した。
ところで、安倍首相の昭恵夫人の曽祖父は、アメリカで西洋菓子の製法を習得し、帰国して「森永西洋菓子製造所」を創業した森永太一郎である。
昭恵夫人の父・昭雄は、関連会社の役員などを歴任した後、1983年から1997年まで、森永製菓の第5代社長を務めている。
父の任期中に「グリコ・森永事件」が起き、昭恵夫人には当時、護衛がついたのだという。
さて、長崎街道は、福岡にはいると次のようなコースをたどる。
「原田(はるだ)宿」(筑紫野市)→「山家(やまえ)宿」(筑紫野市)→「内野宿」(飯塚市)→「飯塚宿」(飯塚市)→「木屋瀬」(こやのせ)宿(北九州市八幡西区)→「黒崎宿」(北九州市八幡西区黒崎)→「小倉常盤橋」(北九州市小倉北区室町)。
以上のように長崎街道は、福岡県内の"内陸部"を通るのだが、長崎街道沿いの飯塚で生まれたのが「千鳥饅頭」である。
千鳥饅頭総本舗は、江戸時代の1670年(寛永7年)に南蛮渡来の焼菓子専門店を創業して以来、約350年もの長い年月をかけ、福岡を代表する菓子文化を確立してきた会社だが、そのルーツは、佐賀にあった。
今ではすっかり福岡(飯塚市)を代表する銘菓となった「千鳥饅頭」だが、もともとは1630年(寛永7年)、原田家が佐賀郡久保田に「松月堂」の屋号でお菓子屋を出したのが始まり。
創業の頃、「松月堂」は、カステラや丸ボーロづくりを専門にする老舗だったが、先々代の頃、カステラの材料を使った生地に、白あんを入れることを思いつき、1927年、苦心の末、”新しい菓子”が誕生した。
ただし、「千鳥饅頭」の名前の由来は、福岡に流された菅原道真に関わっている。
道真が福岡に流されてきて自分のやつれた顔を川面に映した際に歌った歌、「水鏡せると伝ふる天神の、みあしのあとに千鳥群れ飛ぶ」である。
ちなみに福岡市・天神の水鏡天満宮もこの歌にちなんで創立されている。
昭和になり、当時の店主であった原田政雄は、「千鳥饅頭」と名付けたこの菓子の完成とともに、飯塚支店「千鳥屋」を出店した。
飯塚を選んだのは、当時、筑豊炭田でにぎわっていた飯塚にリヤカーで行商に行ったところ、商品が飛ぶように売れたからだという。
当地の景気の良さもあるのだろうが、厳しい労働に明け暮れていた人々の体が、甘いものを求めていたのかも知れない。以来、佐賀の菓子王国の伝統は飯塚へと広がっていった。
そして「千鳥饅頭」は、ヨーロッパの菓子と繋がりを深めるという展開をみせる。
先々代の社長の原田光博は飯塚市出身で、1938年の生まれで2008年に亡くなったが、長年福岡商工会議所議員を務め、「福岡オーストリアウィーン倶楽部」の専務理事なども務めたことが大きい。
それは、千鳥屋のお菓子はチロリアンなどドイツやオーストリアの文化と融合する形で開発されたことからもわかる。
1994年に原田光博は、ドイツ連邦共和国から「功労勲章一等功労十字章」を授章されている。
原田光博は、ドイツにて菓子製造修行の際にその夫人ウルズラさんと出会い、1972年ハンブルク市にて結婚した。ちなみにウルズラさんのご実家も菓子店を経営されていたそうである。
原田光博が亡くなられた後、しばらくは夫人である原田ウルズラさんが社長の地位を引き継がれた。
そして、次男の原田健生はドイツ色の強い上智大学経済学部に学び、現在の千鳥饅頭総本舗の社長である。
そして千鳥饅頭とドイツの繋がり、福岡市にもうひとつの人気店を生んだ。
福岡市南区の寺塚には、オースリア・パンとケーキで有名な「サイラー」という店がある。
この店を開いたアドルフ・サイラーは、オーストリアのパン職人の家の出身で、日本に来日した際に「千鳥饅頭本舗」で修行をした人物である。
オーストリアのオーバーエストライヒ州オーバーキルフェンにあるサイラーの店は、1913年から代々パン屋をしている老舗で、アドルフ・サイラーも15歳からパン職人として働き、福岡で修業後1994年に現在の店を開いた。
アドルフは本国に帰国して本家を次ぎ、現在の福岡「サイラー」の店は 弟ルドルフに任せているという。
「千鳥屋饅頭」と等しく、ヨーロッパから勲章をもらった洋菓子店が、関西・尼崎に本店をおく「エーデルワイス」である。
本年6月4日、高級洋菓子「エーデルワイス」会長の比屋根毅(ひやね・つよし)が82歳で死去したという訃報が目に留まった。
エーデルワイスといえば映画「サウンド オブ ミュージック」で、トラップ大佐がドイツに併合されるオーストリアへ哀惜を込めて「エーデルワイス」を歌った場面が懐かしい。
そういう意味において、高級洋菓子の「エーデルワイス」も、幾分オーストリアと関係がある。
創業者の比屋根毅は、1937年、沖縄県石垣島のサトウキビ栽培農家に生まれた。子どもの頃読んだ本がきっかけとなって世界を舞台に仕事がしたいと思い、無線通信士をめざした。
15歳の時に島を出て那覇市で2年間を過ごした後、大阪の製菓会社に就職する。
働きながら通信士の勉強を続けていたが、社長から「この世界で頑張れば、洋菓子の本場であるヨーロッパに行かしてやる」と言われ、菓子職人として生きていくことを決意する。
その後、全国菓子大博覧会で大賞を受賞したことを機に、28歳で「エーデルワイス」を創業したのである。
尼崎市の立花商店街の外れに開店した7坪の店舗を、一代で全国に80店舗を展開する大企業にまで育て上げた。
同時に、後に有名パティシエとなる弟子を数多く育成し、今では「洋菓子の父」と呼ばれる存在だった。
創業の翌年には念願の渡仏を果たし、パリで基礎から技術を学び直した。
その間に得られた人脈やお菓子作りの精神は帰国後の新しい商品開発にも大いに活かされ、たくさんの人々の心をとらえた「エーデルワイス」は、現在の大企業へと成長を果たした。
「エーデルワイス」の本部センターは、創業の地である尼崎に置かれている。ここには製造工場に加えて商品の研究・開発や人材育成のための研究所が入っており、事業の拠点として大きな役割を果たしている。
級洋菓子「アンテノール」、ベルギー王室御用達の「ヴィタメール」などを展開し、2012年には、ベルギー国王最高勲章「レオポルド2世勲章コマンドール章」を受章している。
2014年9月、オキコと共同で「エーデルワイス沖縄」を設立し、那覇市のタイムスビルに県内初の「エーデルワイス」を出店している。
第一次世界大戦、中国青島で日本軍に捕らえられたドイツ人達は、日本各地に送られていた。
そして瀬戸内海に浮かぶ似島でドイツ人捕虜達が日本人に本場のサッカーを伝えた。
広島高等師範(広島大学)の学生達が、毎週似島を訪問しドイツ人捕虜と練習試合をしている。
この学生達の中から少なからぬ者がサッカーの指導者になり、日本のサッカー界をケンインした。
またドイツ人達は、ホットドッグやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在原爆ドームとして知られる「広島物産陳列館」で紹介され一般に知られることになった。
また
特にドイツ人捕虜の一人カール・ユーハイムは、クリスマスにドイツケーキを焼き、解放後も日本に残って「バームクーヘン」の店を神戸三宮に開き、今日までその店は発展し続けている。
ユーハイム本人はサッカーをしたわけではないが、サッカーと深く関わった一人の男と不思議な縁で結ばれることになる。
実はユーハイムの店の発展を築いたのは、似島でサッカーを学んだ学生が育てた「チーム」を率いた人物によるものであったからだ。
カール・ユーハイムは、1908年、中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働いていた。
ドイツの軍港であったこの地は、第1次世界大戦中、イギリスと同盟していた日本軍が1914年に占領し、カール・ユーハイムは捕虜となった。
そして1915年から「似島」の捕虜収容所で暮らすことになる。
似島といえばドイツ人捕虜達が日本にサッカーの技術を教え、この島で育った森健兒(Jリーグ創設)森浩二(元アビスパ福岡監督)らが日本のサッカー界の牽引役となった。
さて1919年のドイツ降伏で自由の身となったユーハイムは、東京・銀座で働きやがて横浜で妻の名を冠した「E・ユーハイム」という店を持った。
しかし1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へやってきた。
そして、神戸・三宮にケーキと喫茶店を出して成功した。
ドイツ菓子のメーカー「ユーハイム」は、バームクーヘンの店として知られ、ハイカラ神戸の「象徴的」な店となった。
しかしそのユーハイムは、1945年8月14日ツマリ終戦前日に亡くなり、経営は夫人のエリーゼ・ユーハイムに託されることになった。
しかし太平洋戦争が起きた頃から店の経営は一気に傾き、戦後の様々な難事も重なって、エリーゼ・ユーハイムは「会社の実権」を失うところにまで追い詰められた。
そんな焦心のエリーゼが見込んだのが、ユーハイムに乳製品を納めていた河本春男という人物であった。
未亡人エリーゼは河本の「人柄」を見込んでだのだろうが、「サッカー人」であったことも関係しているだろう。
第一に河本はサッカーなくして神戸と縁づくこともなかったであろうし、サッカーで養った人間力を持った人だったといえそうだ。
実は、当の河本自身もエリーゼ・ユーハイムと同じく、太平洋戦争で「人生設計」を狂わせられていたのである。
河本は1910年愛知県に生まれで、中学校でサッカー部に入り3年時には全国大会で優勝した。
刈谷中学(現・刈谷高校)の初代の校長が「英国のイートン・カレッジに範を取る校風を創る」という理想から、愛知県では珍しく「フットボール」を校技としていた。その為、河本も自然とその校風にならってサッカーを始めた。
河本は、1928年に東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学した。
東京高等師範はその前身の「体操伝習所」(1878年設立)以来、日本サッカーの草分けとして、すでに50年の歴史があった。
ちなみに日本のサッカーの始まりは、1873年、東京・築地の海軍兵学寮へ指導に来ていたイギリス海軍のダグラス少佐とその部下33人の軍人が、訓練の余暇にプレーしたということなっている。
しかし、本場のサッカーに直接ふれたのが、似ノ島における広島の高等師範の学生達だった。
そしてこの時の学生が育てた強豪チームの校長が、河本の存在に目をつけ、神戸に招くのである。
河本は高師時代に、右のウイングFWとしてのクロスの精度を上げるために1日100本もの練習を続け、リンパ腺が腫れ高熱を発するほどの練習ぶりで、1年生にしてレギュラーとなった。
そして1924年の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創立メンバーにも選ばれている。
1932年高師を卒業し、神戸一中(神戸高校)の校長のじきじきの要望によって神戸へ赴任した。
神戸一中は、似島でサッカーを学んだ広島高師出身の一人の教諭によってすでに「強豪チーム」となっていた。
実は神戸一中の校長は、刈谷中学がかつて神戸一中を倒した時のキャプテン河本の存在に早くから目をつけていた。
そして校長自ら、わざわざ東京へ出向いて東京高師側に強く要請して「河本」を獲得したのだという。
しかしこの神戸赴任が、河本の”第二の人生”を決定付けようとは、本人も含め誰が予想したことだろう。
神戸一中は小柄な選手が多いチームだったが、河本部長の下でその特性の素早さを生かして体格の不利を補い、数々の「栄冠」を獲得することになった。
河本が神戸での7年の指導期間で日本サッカー界に与えた影響は、彼の母校・東京高等師範が世に送り出した多くの優れた教育者、スポーツ指導者のなかでも、ひときわ輝くものだったといえる。
しかし、その河本とサッカーとの関わりを突然に断ち切ったのは、太平洋戦争の勃発であった。
河本は1939年に神戸一中から岡山女子師範に転勤したが、戦局の悪化とともに軍隊に入り中国大陸へ渡った。
終戦による復員後、岐阜県高山の実家に近い牧場でバターを製造・販売する商売をはじめ、「アルプスバター社」を設立した。
この会社は、河本にとっての思い出の地である神戸の菓子メーカーにバターを納めることとなった。
この時、神戸一中でのサッカー指導時代から、すでに20数年の月日が流れていた。
そんなある時、カール・ユーハイムの未亡人エリーゼ夫人から降って湧いたような話が持ち上がった。
それは河本に、会社「ユーハイム」を引き継いでくれないかという話である。
実はこの時、経営状態は非常に厳しかったが、エリーゼ夫人の熱意に押しだされたかたちとなった。
エリーゼのために、河本の下でユーハイムの再建がはかられることになる。そこには河本がサッカーで培った「一歩先んじ、一刻を早く」という神戸一中時代の出足論が生きていたという。
また河本の経営には、選手の心をつかみOBたちの気持ちを一つにまとめるだけの、誠意と気配りがあったことは推測できる。
河本は、1971年エリーゼ社長死去後に、「ユーハイム」社長に就任し、尼崎の「エーデルワイス」とともに関西洋菓子界に一定の地位を築いた。
そして1985年に経営を長男に任せ、自身は会長に退いた。
河本武新社長は東京ディズニーランドのスポンサー企業となり、フランスのペルティ社と契約し、ドイツにも2、3号店をオープンさせるなどヨーロッパへも進出をはかり、ともすれば守りに傾く老舗体質のなか、常に改革を図ってきた。
戦争で人生の計画を大きく狂わせられたユーハイム夫人と河本春男。二人を結びつけたのは、ドイツのお菓子「バームクーヘン」。
その出会いの種子は、ドイツ人捕虜と広島高師の学生達の似島におけるサッカー交流の時に蒔かれていたといえよう。