聖書の人物から(夢見るヨセフ)

古代イスラエルの系図は、アブラハム・イサク・ヤコブと続く。そして、ヤコブ(イスラエル)には12人の子がいて、その下から二番目がヨセフ。
ヨセフはヤコブが年老いて出来た子なので、ネコっかわいがり。
そんなヨセフは、あるとき夢をみた。それも繰りかえしみる夢だという。
畑で束を結わえていると、ヨセフの束が起き上がって、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢である。
普通なら、こんな夢は胸にしまっておくのだが、ヨセフはよほど世間知らずなのか、その夢を兄弟たちに語って聞かせた。
それは当然に兄弟を不快にさせ、彼らは「おまえはわれわれの王になるというのか。実際われわれを治めるつもりか」と怒った。
そして、兄弟達はヨセフを陥れる計略を行う。
荒野を遊牧していた時、ヨセフを落とし穴に落とした。そして父ヤコブに切り裂かれた服を見せて、ヨセフがライオンに食われたと嘘の報告した。
ヤコブは、誰も慰めることができぬほどの悲しみを味わった。
しかし、死んだと思われたヨセフは生きていた。ラクダの隊商に発見されエジプトの役人に売られていたのだ。
その売られた先で、ヨセフは特異な能力を発揮して主人の信任を得て、重用されるようになる。
ところがまたもや"落とし穴"が待ち受けていた。
主人の妻に誘惑され、それを拒んだヨセフはその女の虚言により主人の怒りを買い、獄屋につながれるハメに陥る。
ところがある時、同じく獄屋に繋がれていた王家の料理番が奇妙な夢を見てふさいでいた。
そこでヨセフがその夢を解き明かす。それによれば、料理番の罪なきことが明らかとなって解放される夢だった。
実際、彼はヨセフの解き明かしどおりに獄屋より釈放される。
その料理番は、ヨセフに大いに感謝して王へのとりなしを約束するが、無情にもヨセフのことをすっかり忘れてしまう。そして、2年の月日が経過する。
ところがまたある時、エジプト王が7頭の肥えた牛と7頭の痩せた牛が現れる夢を見て不安に慄いていた。
そのことを知った料理番は、ようやく獄屋に繋がれたヨセフのことを思い出し、王にヨセフの特異な能力について語った。
ヨセフは、王の夢の解き明かしのために獄屋から出され、王の夢がエジプトにまもなく起こる7年の豊作と7年の飢饉を示すものであることを解き明かした。
そして、ヨセフの解き明かしに基づいて豊作の7年間に備蓄を行い、それに続く7年間の飢饉を乗り越えることができたのである。
この功績により、ヨセフはエジプト王の信任を得て、ユダヤ人でありながらエジプトの宰相となる。
奴隷として売られ、獄中生活から解放されて「宰相」となった時、ヨセフはすでに30歳になっていた。
さて、7年間の飢饉はヨセフの家族が住むカナン(パレスチナ)の地にも及んだ。
ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちは、「エジプトの備蓄」のことを知り、食糧を買うためにエジプトの宰相に面会を求めた。
その宰相とは、誰あろうヨセフ。それとは知らぬ兄弟達は、地にひれ伏して彼を拝んだ。
その時、ヨセフは20年も前に故郷で見たアノ夢が現実になったことを知る。
そしてヨセフは、扉ごしに兄弟達が弟に犯した罪の「報い」だ語り合っているのを聞いて号泣した。
それでも宰相ヨセフは、素知らぬ顔をして、残してきた幼い弟を連れてくるように命じた。
そして幼い弟をつれて再び、エジプトの宰相(ヨセフ)を拝んだ。
ところが意外や、宰相は「あなた方の父は、その老人は無事か」とその安否を問い、彼らを食事の席に招いた。
そこでヨセフは自分を制しきれず、ついに「わたしは弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです」と語った。
兄弟たちは、ヨセフを陥れた罪につき、ひれ伏して詫びるが、ヨセフは兄弟に対して「恐れることも、悔やむこともありません。神が命を救うために、先にわたしをエジプトにつかわされたのです。ききんはなお五年は続きます。帰って父に告げなさい。ためらわずにエジプトに下ってくださるように。わたしが家族も家畜も、すべてのものを養いましょう」と語った。
そしてヨセフは同じ母親(ラケル)をもつ幼い弟を抱きしめて泣き、他の兄弟たちとも抱きあって口づけをした。
兄弟たちは父のもとに帰り、すべての事情を話した。
ヤコブは気を失うほど驚き、なお信じられず、わが子の数々の贈り物を見て、ようやくそれを信じた。
そしてヤコブはエジプトに向かい、一族は、再会を果たして抱きあった。
さて、ヨセフが兄弟に対して恨みをおくことがなかったのも、すべての神の計画と配慮のもとに行われたことを知ったからだ。
しかし、ヨセフは無罪のため合計13年間獄屋に繋がれ、助けを頼んでおいた料理人が自分のことを忘れるなど、あまりにも無情な時の経過のように思える。
だがヨセフは「夢見る人」(創世記37章)であった。幻を見る人であるばかりか、それを信じられる人であった。
聖書は「遅くあれば、待つべし」(ハバクク書2章)といい、「信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル人への手紙書11章)と語っている。

刑務所での虐待に抗して脱獄をした青年を描いたものに、「ショーシャンクの空に」(1994年)という映画がある。
若くして銀行の副頭取を務めるアンディは、妻の交際していた相手を射殺したという「冤罪」でショーシャンク刑務所に収容される。
そして親子ぐらい年は違うものの、無二の友となるレッドと出会う。
アンディは、金融の知識をいかして 「スティーブンス」という架空の人物を作り上げ、虐待を重ねる所長のマネーロンダリングまで行うようになっていく。
そんな中、入所してきた窃盗犯のトミーに アンディは勉強を教えることになる。
高卒資格を取るまでに成長したトミーだが、アンディの「冤罪」の真相を知っていることが分かると、刑務官らに殺されてしまう。
なんと、アンディに不正貯蓄を行わせていた所長が、アンディが刑務所から出られては困るという理由からであった。
それから1ヶ月後、アンディは突然脱獄をはかる。房内に貼られたポスターの裏側にロックハンマーで穴を掘り続け、彼は嵐の夜20年目にしてついに脱獄した。その前に、仮出所がせまるレッドとの再会を誓う。
脱獄したアンディは、架空の人物「スティーブンス」になりすまし、不正処理していた所長のお金を引き出すと同時に、不正を行った所長らを告発する。
新たな名前と多額の財産を手に入れメキシコへと逃亡し所長への復讐を果たすアンディの姿に、してやったりの痛快さがある。
その後、友人レッドに仮出所が認められ、アンディが待つ約束の地へ向かい、再会を果たした2人は互いの友情を確かめ合うラストは感動的であった。
ところでこの物語で、収容所長はアンディの「冤罪」を知ることになるのだが、それはアンディーの妻の交際相手の殺害について真相を知る人物が入所してきたためである。
彼は別の刑務所でアンディーの妻を殺害したという男の話を聞いたと証言したのである。
そこで、アンディーは「無実」を看守に取り合ってもらおうとするが、前述の理由で無視されついに脱獄を敢行するに至る。
この「ショーシャンクの空で」は実話がベースにあるが、この映画を見て日本のある冤罪事件を思い起こした。
1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人(当時30歳)が刃物で殺害された。 警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所に住んでいた男性、当時25歳を逮捕した。
男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに付着していた血痕などを証拠としてこの男性を起訴した。
そして1953年に最高裁懲役15年の刑が確定した。
ところがこの事件は大きく展開する。
三島由紀夫割腹の衝撃的ニュ-スが広がっていたある日のこと、別の刑務所で、受刑者達の「犯罪自慢」が行われていた。
その中で弘前大学教授夫人の殺害は自分がやったという者があらわれたのだ。
軽犯罪では他の受刑者になめられると思ってつい口が滑ったのかもしれない。
それを聞いていた受刑者が出所後に新聞社に「事件の真相」を通報したのだ。
そして真犯人は時効が来る時を確認の上、自分が「真犯人」であることを告白したのである。
1976年に再審が開始され、証拠となった血痕は人為的捏造の可能性が高いと裁判所は判断した。1977年2月15日、発生から28年後、男性にようやく無罪判決が言い渡された。
男性は年老いた母親や支援者のもとで無罪を勝ち得ることができたと感謝の意を表した。
「幸福でなくてもいい。普通の人生を歩みたかった」という言葉が印象に残った。

旧約聖書のヨセフの物語で思い浮かぶのが、「反アパルトヘイト運動」で知られるネルソン・マンデラ。
マンデラがヨセフと共通していることは、「夢みる人」、そして「赦し」である。
ヨセフは計13年の間、マンデラが獄中にあった期間は、27年にもおよぶ。
さてマンデラは、1918年にトランスカイのクヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれた。
少年時代には、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育つ。
キリスト教・メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学に進んで法律学を学ぶが、在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受けた。
マンデラはその後、南アフリカ最大の都市ヨハネスバーグに移り住んだ。
1950年代、南アフリカの白人政府は、アパルトヘイト(人種隔離)政策を着々と実行していった。
人口の約7割を占めるアフリカ人を、国土の13%のホームランドに閉じ込めることが、この政策の究極の目標だった。
食い詰めてホームランドから白人地域の鉱山や工場に出稼ぎに出たアフリカ人は、参政権もなく、言論の自由もなく、土地所有権もなく、移動の自由もなく、二級市民としての扱いを受けた。
そうした世界の趨勢と逆行する戦後の動きに、アフリカ人の憤激は大衆的な広がりを見せるようになった。
そんな中、マンデラは(African National Congress:ANC)青年同盟の活動家として頭角を現す。
マンデラ達は当初は非暴力的な運動を組織したが、白人政府が一般の民衆に銃を向けるようになると、解放運動の側も武器をもたざるをえないと考えるようになる。
こうして白人政府に「テロリスト」と呼ばれるようになったマンデラは、1962年に逮捕される。
そして「リヴォニア裁判」と呼ばれる不当裁判で、マンデラは国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。
ロベン島は南アフリカ西岸の孤島ではあるが、ここで島の人々と交流をはかり、「夢見るマンデラ」の一面が垣間見える。
マンデラはその後、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監され、環境はロベン島よりも改善された。
そこで、マンデラは、石灰石採掘場での重労働によって目を痛める一方、勉学を続け、なんと1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得する。
180センチ以上の長身だったマンデラは、姿勢もよくて手も大きく、刑務所内でも、王のような風格があったという。
そして反アパルトヘイトの世論が高まり、南アフリカだけでなく世界中の人びとが、「マンデラに自由を!」を合い言葉に、彼の釈放を求めるようになった。
世界中の町で、肌の色に関係なく大勢の人々が街頭デモに繰り出し、また音楽、詩、あるいは美術で、それぞれの思いを表現するようになった。
当時、アパルトヘイトを主導し、政治の世界で最大の権限を行使していたのはアフリカーナー(とくにオランダ系白人)だった。
マンデラは、敵に近づくために彼らが話すアフリカーンス語や歴史を学び、刑務所の少佐が熱烈なラグビーファンだと知ると、ラグビーを猛勉強した。
それ以上に、相手に敬意を示しつつ、話術と笑顔でも魅了した敵を味方に変える魔法を身に着けた。
1990年2月11日、マンデラはついに釈放される。黒人は歓喜し、多くの白人は復讐を恐れた。
そんな中、マンデラは、白人にも黒人にも、武器を捨てよう、憎しみを棚上げして、投票で国を変えようと訴えたのである。
子供たちには、学校に戻って勉学に励むように求めた。
南アフリカの人種、民族集団の代表たちと徹底的に話しあい、1994年、黒人と白人の主要な政治勢力が権力を分かち合う大連立政府が樹立される。
そしてマンデラは、すべての政治勢力に信頼されて大統領に就任した。
マンデラが黒人と白人の融和を成し遂げる秘策として、マンデラはスポーツの力を信じた。
というのも彼が収監されていた間、アパルトヘイトの強化に伴い、国内外からスポーツボイコット運動による圧力をかけられていた。
1991年にアパルトヘイト関連法が撤廃され、32年ぶりに五輪に復帰した。
南アの白人男性が愛したラグビーもまた、ANCが推し進めた孤立化運動により南アを国際舞台から締め出したが、マンデラは新体制への白人の不安を緩和するため、92年11年ぶりに代表チームの「スプリングボックス」を再び世界の檜舞台に立たせた。
アパルトヘイトの象徴であるラグビーをほとんどの黒人は嫌っていたが、マンデラは、アフリカーナーにとってラグビーは宗教と同様であることを知っていた。
マンデラはラグビーによって、希望ある新国家の建設を目指すことにした。
そして、ラグビーワールドカップを自国で開催する夢を実現する。
迎えた開会式の日、マンデラ大統領は前日のチーム激励の際にもらった緑のキャップをかぶってグラウンドに登場し、大歓声を浴びる。
そして、決勝進出。6月24日、マンデラの長年にわたる努力と苦労は実を結ぶ。黒人も白人も、あらゆる肌の国民がスプリングボックスを応援し、ニュージーランド代表との激闘の末、南アフリカは優勝を遂げた。
表彰式、背番号6のスプリングボックスのジャージーに身を包んだマンデラが、大仕事を成し遂げた主将のフランソワ・ピナールに栄冠を渡す。
互いに感謝の意を表し、会場は「ネルソン! ネルソン!」の大合唱。
ピナールがカップを高々と掲げ、マンデラは笑顔で拳を何度も突き上げた。スタジアムのファンだけでなく、南ア国民4300万人の応援がもたらした勝利だった。
人種間に大きな溝があった国に、「ワン・チーム、ワン・カントリー」のスローガンが躍った。
そしてマンデラは「成功するまでは、不可能に思えることがある」と"夢"の重要さを語り、大統領就任演説ではガンジーの言葉「弱い者は赦すことができない。赦しとは強い者の性質なのである」を引用して、"赦し"の大切さを訴えた。

自由になったマンデラは、体制移行のプロセスにおいて、人びとの憎悪の暴発を抑え込むことに成功した。
旧約聖書の創世記の「ヨセフ物語」も劇的な再会を描いている。
ヤコブは年老いて、ラケルとの間に生まれたヨセフを特別に愛して、彼にだけは長ソデの着物を作って着せていた。
兄弟たちはそんなヨセフをねたみ、彼とマトモに口をきこうとしなかった。
その上ヨセフは、兄の悪い噂を父に告げ口したために、兄弟たちはさらにヨセフを憎んだ。
ある時ヨセフは夢を見た。 またヨセフが「日と月と、11の星が、わたしを拝んだ」という夢を語ると、ヨセフを愛する父ヤコブも、さすが心が騒いだ。
しかし「それはどういう事か。ほんとうにわたしと、母と兄弟たちが行って、地に伏しておまえを拝むのか」と、ヤコブはヨセフをトガメた。
ある時、兄弟たちが原野で羊を飼っていたので、ヤコブは兄弟たちの様子を見にヨセフを行かせた。
兄弟たちはヨセフが来るのを見て、彼を殺す絶好のチャンスと思った。
「あの夢を見る者がやって来る。ヤツを殺して穴に投げ入れて、悪い獣に食われたことにしよう。彼の夢の果てがどうなるか見てみよう」
しかし、ヨセフの血を流すことには反対だった兄弟の一人が、「弟を殺しても何の益にもならない。それよりも彼をあの隊商に売ろう。ヨセフもわれわれの肉身だから、手を下すのはまずい」そこで兄弟たちはヨセフを、銀20シケルで奴隷商人に売った。
兄弟はヨセフがイナイことの言い訳に、ヨセフの着物にヤギの血を浸して父ヤコブに見せた。ヤコブは着ている衣服を裂き、腰に荒布をまとって号泣した。
さてヨセフは奴隷としてエジプトに売られ、パロの役人であった侍衛長が買い取った。主人は神がヨセフと共におられることを知り、彼をそば近くに仕えさせ、家の管理をすべて彼に任せた。
ところがヨセフは姿がよくてイケメンであったために、侍従長の妻はヨセフに目をつけ彼を誘惑する。
ヨセフは拒んだが、家に誰もいない時、彼女はヨセフの衣服をつかんで、「わたしと寝なさい」とヨセフに強く迫った。
ヨセフは着物を彼女の手に残したまま、裸で外へ逃れた。
すると、侍従長の妻は突然、大声で叫んで人を呼んだ。「あのしもべが、わたしに戯れようとしたのです」主人は妻の訴えを聞いて激しく怒り、ヨセフを捕らえさせ、獄屋に投じたため、ヨセフは獄中の身となった。
こうした事の後、エジプト王の給仕長と料理長が罪を犯して、ヨセフと同じ獄中の身となった。
給仕長と料理長はともに夢を見て、ヨセフはソノ夢を解き明かした。
給仕長の夢は三日目に釈放されるというお告げで、一方の料理長の夢は三日後に処刑されるという予告であり、二人は夢のとおりになった。
ヨセフは釈放される給仕長に、自分が無実であることをパロに話してくれるように頼んだが、彼は出獄するとその事をスッカリ忘れてしまった。
それから二年が過ぎ、パロは夢を見た。
ナイル川から肥えた七頭の牛があがってきて葦を食っており、それからやせ細った七頭の牛があがってきて、肥えた牛を食べてた。
パロはこの不思議な夢に心が騒いだが、どんな魔術師も解き明かすことができなかった。
この時、給仕長は獄中のヨセフを思い出し、ヨセフはパロに呼び出された。
ヨセフは、今後エジプト全土に七年の大豊作があり、その後に七年の飢饉が起こると解き明かした。
こうして七年の大豊作の時に、パロとその家来たちは食料を蓄えた。
ヨセフは父と兄弟たちをエジプトで最も良い土地、ゴセンの地に住まわせた。イスラエルはその地で大いにふえ、財産を得たのである。
以上がが、「出エジプト」の前段となる「ヨセフ物語」である。
3.マンデラの見果てぬ夢 しかし、ここで、別の問題が頭をもたげてくる。1994年の選挙戦にあたって、マンデラとANCは「すべての人びとに、よりよい生活を(Better Life for All)」というスローガンを掲げた。復興開発計画(Reconstruction and Development Programme: RDP)と呼ばれる経済政策によって南アフリカの富を貧困層に再分配していくこと。これがマンデラの選挙公約だったのである。RDPの基礎となった報告書がMERG[1993]であるが、これはSACPの路線の影響を受けながらも、全体としてはケインズ的な混合経済を目指すもので、近年の世界銀行の雇用創出路線と大きくは変わらない穏健なものである。しかしこれは、ソビエト連邦崩壊直後の新興国の経済政策としては、おそらく過激すぎた。マンデラ大統領が引退すると、RDPは棚上げされ、そのかわりに人種間の格差是正という名目で、一部の豊かな黒人をさらに豊かにしていく政策が展開されていくことになる。再分配を主張する人びとが「外されて」いったプロセスは、クライン[2011]の第10章に克明に記録されている通りである 3 。 現在の南アフリカでは、白人と黒人のエリートが富を独占する一方で、黒人貧困層は置き去りにされ、多くの若者が絶望感を抱いている。UNDP[2011]の巻末の統計によると、南アフリカの国民のうち最も豊かな20%の平均所得は、最も貧しい20%の平均所得の20倍を超えている。この割合は、アメリカ合衆国ではおよそ8.5倍、日本ではおよそ3.4倍だとされているから、現在の南アフリカの経済格差のすさまじさがわかる。貧者も農村で食べられる国であれば、一部の階層が金持ちになっても、貧困はあまり実感されないものだ。ところが、多数派のアフリカ人が土地を奪われた南アフリカでは、都市貧民の大部分には帰るべき故郷が存在しない。南アフリカの経済格差は、インセンティブの域を超えて、社会が崩壊しかねない危険水域に達している。 貧しい黒人の暮らしを底上げすることで犯罪を減らし、肌の色にかかわらず、社会の一体感を強めていくこと。これが、政治家としてのマンデラの最後の課題だった。トランスカイの平和で平等な村で生まれたマンデラがいちばん心残りだったのは、この夢を果たせなかったことではないかと思う。Sampson[1999]をはじめとするマンデラの伝記作品の多くは、彼が「白人と妥協した」ことを賞賛するが、マンデラが心を許した真の友は、ウォルター・シスル(Walter Sisulu)やオリバー・タンボ、すなわち、彼よりも先に逝ったANCの黄金時代の盟友たちだったことだろう。彼らがともに夢見た未来の南アフリカの姿は、現在の南アフリカ社会の姿とは、まったく異なっていたのではないか。