昔のポ-ランド映画に、「灰とダイヤモンド」(1958年)という映画がある。
ドイツ降伏後のポーランドを舞台にして、ロンドン派の抵抗組織に属した一人の青年の物語である。
この映画のタイトルは、「街を焼き払い”灰”に変えるほどの戦争があっても、その後には"ダイヤモンド"のごとく価値ある平和を生み出せる」という19世紀のポーランド詩からの引用なのだという。
さて、旧約聖書の中で「灰」や「塵」は、特別な意味が込められている。
神様は、エデンの園で罪を犯したアダムに「お前は汗を流してパンを得るようになる。土に帰るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に帰る」(創世記3章)とある。
これは人間が「死ぬ」存在になったということだ。
さらに旧約聖書には、「灰を頭にかぶる」「塵の中に座る」「地面の塵の上を転がる」といった行為が、よく見られる。
例えば、敗戦の知らせを伝える伝令の兵士が「頭に土をかぶっていた」(サムエル下1章)など。
逆に敗戦の知らせを受けたヨシュアと長老たちは、「地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」(ヨシュア7章)。
国の中で反乱が起こったとき、逃亡したダビデは「頭に土をかぶっていた」(サムエル下15章)。
「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵や灰のようになった」(ヨブ30章)。
これらの行為は、既に起こったことやこれから起ころうとしている災難・悲惨な出来事に対して、神の前に身を低くする気持ちを表す行為とされた。
さて、日本と日本人は、大日本帝国の瓦礫を前にして、多くの国土は灰塵と帰した。
戦後の混乱期、狭い路地にひしめく闇市にリヤカ-の往来を、怒号と嬌声に溢れた雑踏が波うち、ラジオからは美空ひばりの「東京キッド」、並木路子の「リンゴの歌」、笠置シズコの「東京ブギウギ」などの歌謡などが流れていた。
人々が今日のことだけを考えて生きていた。当時の映像をみてもただ生きてさえすれば感謝、というようなけなげさやひたむきさが伝わる。
かつて坂口安吾が「堕落論」(1946年)で「人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」という激越な文章を書いている。
戦前に押し付けられた価値感から解放され、虚飾やステイタスをも剥ぎ取られ、人々は戦争は負けてしかるべきといった実態にようやく気がついた。
作家の安岡章太郎は、エリート軍医を父親にもつが、戦後、適応力も生活力もない父親の姿を描いて、帝国軍人の実態を露わにした。
戦後闇市の時代は、エゴや悪や欲望も容赦なく噴出した時代であるし、欠食・餓死が頻発した事実からすると、命の輝きに満ちた時代という表現は、たわごとのように思えるかもしれない。
その一方で、アメリカの歴史学者ジョン・タワーが書いた「敗北を抱きしめて」は貴重な記録である。
1945年8月,焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに,敗者の卑屈や憎悪ではなく、改革への希望に満ちた民衆の姿であった。
勝者による上からの革命に、敗北を抱きしめながら民衆が力強く呼応した奇跡的な「敗北の物語」であった。
この本は、アメリカ最高の歴史家が描く20世紀の叙事詩と評され、ピュリッツァー賞を受賞している。
思い浮かべるのは、ソニー元会長の盛田昭夫の本「メイド イン ジャパン」の中でみつけた一枚の写真がある。
東京品川の御殿山にて創業された「東京通信工業」(現ソニー)時代の工場の庭で、井深大社長を中心とした従業員約50人ほどの写真がある。
その写真に写る全員の表情が素晴らしい。一人ぐらいプライベートな悩みなどから生じる曇りや翳りを探してみたが、一切見出すことができなかった。
たとえ貧しくとも人々の「目の輝き」のなかに迸る命の力強さと希望、それこそがダイヤモンド!のようにみえる。
そんな思いを抱かせる映画がある。それが「ALWAYS 3丁目の夕日」(1957年)で、高度成長期の日本が舞台。
ストリーらしきものがないのだが、物が溢れていない時代だけど、貧しく不便なりに、人々が素朴に誠実に生きていた時代、そんなノスタルジーが呼び起こされて、涙を流した人もいるのではなかろうか。
まずは、駄菓子屋やベーゴマ遊びといった情景が描かれている。
夏には商店街の中央に氷が置いてあって通りを冷やし、うちわや浴衣で彩った。
子どもたちは、ダッコちゃん人形を体にみにつけ、フラフープを腰で回して遊んでいた。
映画の情景描写の中でも、銭湯の入り口で、長風呂の女性陣を待って、父と息子が牛乳を飲むシ-ン。
1970年代の南こうせつの「神田川」のせつない歌詞を思い浮かべた。
映画の中には、いい人間ばかりではなく当然悪役もいるが、良心のかけらもないような悪人は描かれず、昭和の心優しさが全面に出た映画であった。
最近、「ALWAYS 3丁目の夕日」で描かれた情景が、ひとりの政治家の登場と関わりがあることに気がついた。
この映画は、東京赤坂の愛宕付近の情景をセットに蘇らせたそうだが、愛宕といえばNHKが、東京オリンピック開催を機に代々木に移転されるまで置かれていたところ。ここから1922年のNHKラジオ放送やテレビ放送も放映された。
映画の中では、日本で初めての高層の電波塔である関東一円にテレビ電波を届けるはずの東京タワーが次第に出来上がっていく姿が象徴的に描かれていた。
そして1953年にNHKと日本放送が最初にテレビ放送を開始した。
1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた。
その翌年7月10日、岸信介内閣の下、田中角栄は弱冠39歳、史上最年少で郵政大臣として初入閣を果たしている。
実は東京タワーの建設は、一時頓挫していた時期がある。それは建築基準法の31mの高さ制限にひっかかっていたからである。
田中は、役所の屋上に上って立ち腐れになっていた東京タワーの鉄骨をみつけた。
テレビ塔は、地上120mに展望室があり許可できないとされていた。
田中は建設事務次官に、建築基準法を立案したのは自分であり、テレビ塔は普通の建物ではなく、高さ制限の対象ではないと談判し許可を出させ、一機に背をのばして333mにまで達し、1958年12月23日に完成した。
ちなみに、この東京タワーの材料となる鉄骨は、朝鮮戦争で使われなくなった戦車を解体したものだという。
さて、田中は神楽坂に田中土建工業を設立し、軍の命令によるプラントの施工などで財を築くが、初当選したのが1948年で、建築基準法は田中が立案し制定された。同時に「建築士法」を議員立法で制定されている。
田中が、高等小学校卒業で一級建築士の資格を取ったことに感心したが、なんのことはない、「一級建築士」の資格条件を定めたのは田中自身だったということだ。
田中は、当時強力だった労働組合(全逓)に対しても果敢にナタをふるった。
官公庁の労働組合は3公社5現業(国鉄・電電・専売・郵政・林野)とよばれて大きな力をもっていた時代、
郵政省には「全逓」の大きな看板がとりつけられていた。
田中は郵政大臣に就任するや「どこに、大家以上に大きな看板をだす店子がいるか」と看板を下ろさせ、それに組合が抗議すると「看板を掲げておくのなら、家賃は払っているのか」と黙らせてしまった。
また勤務時間の職場集会などの闘争戦術は公務員法の違法行為にあたると2万人の大量処分を行った。その一方で、退職に際しての手当3億円をだしている。
さて田中が郵政大臣として大きく関わったもうひとつの仕事がテレビである。
ただ当時は「ALWAYS 3丁目の夕日」に描かれているとおりで、テレビ受像機は高額で人々は該当テレビで野球や相撲、プロレスを見ていた。
その点については個人的にひとつの思い出がある。
自分が大学(院)に通っていた1980年代のはじめの夏の日、東京の一流企業が立ち並ぶ丸の内のオフィス街の地下で驚くような場面に遭遇した。
それはランチ時、いかにも会社の幹部といってよい年齢層の男たちが、地下街に設けられた大型テレビの画像を見入っているのだ。
それはほとんど黒山の人だかりといった具合であったが、一体何を見ているのかと思って近づくと、そこで見たのはNHK連続テレビドラマ「おしん」であった。
きっと、あの男達は少年時代に「街頭テレビ」をみていた年代の人々であったかと今更ながら思わせられる。
しかし、あれだけの中高年サラリーマン層が「おしん」に見入っていたところに、当時「超」絶好調の日本の経済力の「源泉」を見いだしたような気もした。
彼らがまだ幼少の頃日本経済は貧しく、過去における自分の境遇と「おしん」のそれとを重ねたのかもしれない。
いや、過去の境遇などではなく、当時彼らが中間管理職として、上司と部下の「板ばさみ」で悩む気持ちは、いつも「おしん」状態だったのかもしれない。
さて、田中の郵政大臣としての最大の仕事は、なんといってもテレビの大量免許である。
当時、NHKは放送地域の拡大を、民間の野心家はテレビ事業への参入をもくろんで、数多くの者が争ってテレビ免許の申請をした。
実は、田中郵政大臣はさすが実業家出身だけあって、テレビ受像機が安くなって家庭に入り込む「テレビの時代」を予測して、テレビの「大量免許」を認めたのである。
そればかりか、開局申請者を一斉に呼び出して、各県ごとに申請の許可不許可、統合、株式や役員の配分などを指示し、なんとNHK7局、民放36局に一括して予備免許を与えたのである。
田中角栄こそテレビ時代を開いた立役者であった。
昭和の時代、帽子をかぶった円筒型の郵便ポストが、赤いペンキ塗りで否応なく目立ったが、最近では四角に小型化しあまり見かけなくなった。
その郵便局の始まりは、一般の公共機関とは少々違う経緯を辿った。
明治初年、前島密(ひそか)は、全国津々浦々の醸造家、人馬継立業、地主など地方名望家を郵便局長に登用した。
局舎を無料で提供させ、代わりに「官」の身分を与え、長年務めれば勲章をもらえ、代代わりの世襲も与えた。
これが「特定郵便局」なのだが、軍国主義の時代には、特定郵便局の「顔」で庶民の貯金を集め、それが軍事費に投じられ戦争資金になる。
いわば戦争とは財政投融資によって行う公共破壊事業なのであった。
戦後、GHQがいったん廃止後、復活するが、面白いのは郵便局員の労働組合である「全逓」は、特定郵便局廃止を打ち出した。
全逓からすれば、特定郵便局は封建の遺物のようなものに映ったに違いない。
ところが田中角栄郵政大臣は、特定郵便局2万局拡大構想を打ち出した。
大蔵省の集める税金だけではなく、庶民の貯金を公共投資に使えば、日本経済は飛躍できると見なした。
さすがに大蔵省の反対で2万局は実現しなかったが、郵便局は自前の収入源を使って、はじめは2000局が認められた。
なにしろ「ひとり100票」といわれる地域の顔であり、地元名士の虚栄心を満足させるもので、特定郵便局長会は田中に大感謝した。
さらには、参議院全国区選挙では、郵政省の高級官僚をいつも上位で当選させ、田中派に所属させた。そして田中派を中心とした「郵政族」がハバを利かすことになる。
さて郵便局には、本局ともよばれる「普通郵便局」が存在している。
2005年の段階で、普通郵便局が1308に対して、特定郵便局が18923にまで拡大、簡易郵便局4447と合わせると24678という構成になり、これこそが全国に張り巡らされることになるのだから、官に繋がるカネと票を自民党にもたらし、長期政権を支えるカナメとなったのである。
こうなると、自民党の派閥体質、政官業の癒着体質が郵便局に集約されることになる。
それを一点突破しようというのが「郵政民営化」で、2005年小泉首相の「自民党をぶっこわす」のスローガンの下、郵政民営化法案を成立させた。
田中派が利益を吸い上げる仕組みをこわすと、小泉はメディアを巧みに使って「郵政民営化」の是非をめぐる選挙で圧倒的に勝利をおさめる。
そういえば、小泉首相のように既得権益に踏み込んで国民の支持をえた政治家がいた。
中曽根康弘は当時肥大化していた行財政改革を政治使命として、その方向を定める臨時調査会会長に経団連の土光敏雄を任命した。
これによって国鉄・専売・電電が、それぞれJR・日本タバコ・NTTへと分割民営化されたのである。
国民に直接訴えかけ、党内基盤が弱くても長期政権を維持できた点でも、小泉内閣に近いものがある。
ところで派閥は、「日本列島改造論」で成長論を唱える田中角栄に対し、元大蔵官僚で財政均衡主義・安定成長を唱える福田赳夫という構図が鮮明化していた。
その「角幅戦争」の幕開けは1972年ポスト佐藤栄作選びに遡る。
佐藤栄作首相と同じく官僚出身の福田が有力であったがフタをあけてみると田中が総裁に選ばれた(田中156票/福田150票)。
この時福田は田中の金力を思い知り、後に総裁選びの際には「党内総裁予備選挙」導入に積極的に賛同した。
しかしその党内予備選挙において、田中の朋友・大平正芳に敗れ、予備選の第1号の敗者となっている。
大平/福田の党内予備選挙は結局、派閥争いを一般党員にまで広げ再び福田の田中に対する怨蹉を深める結果となった。
近年、「党内予備選挙」といえば、小泉首相が「自民党をぶっこわす」で地方の一般党員の心に訴えかけ予想外の票を集め、総裁となったことを思い出す。
小泉首相は、かつての福田首相の秘蔵っ子といわれる存在であっただけに、かつての「角福戦争」の火種が再焼したという見方もできる。
実は、現在の自民党主流派は、小泉元首相、麻生元首相、そして安倍首相はいずれも福田派としてスタートしている。
小泉首相は、田中派の牙城、さらいは派閥政治・既得権益の温床として、そのターゲットを「郵便局」に集約させた上で、「自民党をぶっこわせ」と国民に直接訴えかけ、それが見事にあたった。
安倍内閣も、小泉路線の延長上にあたるが、小泉首相時代に成立した「郵政民営化」法案は、郵政公社を「郵便局」「郵便事業」「ゆうちょ銀行」「かんぽ生命」の4つに分割し、その株を漸次民間に売却する途上にあった。
独立行政法人となった郵政公社の中でも、庶民の郵便局は、世界最大の預貯金額を誇り、それが郵政省の力の源泉だった。
ところが民営分割化されるや、「かんぽ生命」の不正契約問題で幹部・職員の大量処分を招いている。
郵便局というかつての親方「日の丸」の意識が残り、それへの信頼がアダになったともいえる。
こうした不正契約の惨状は、小泉首相以来の市場万能主義路線、つまり「新自由主義」の行き詰まりを示すものにも思える。
果たして、灰の中からダイヤモンドが出てくるか。