See that ABBA!

ABBAの「Dancing Queen」を一度は口ずさんだ人なら、上のタイトルがピンとくるはず。
大学に入りたて頃、連合赤軍事件や丸の内三菱重工爆破事件で、世の中や大学のキャンパスには、荒んだ空気が漂っていた。
若者も大人も、政治に厭(あ)いていたさ中、ABBAの「Dancing Queen」(1976年)の浮揚感は、我々を別世界に連れて行った。
歌詞の中身といえば、ディスコのフロアで周囲の視線をひとり占めする17歳女子の「輝き」を歌ったもの。
それでも、”See that girl Watch that scene、Dig in the Dancinng Queen!”のサウンドに、心が躍った。
多くの人にとって、ビートルズの解散後を埋めるものがあったとしたら、ABBAのヒット曲だったに違いない。
ボーカルの女性二人の声が、あくまでも透き通り、しかも哀感を湛えていた。
それが北欧サウンド特有のものかは知らないが、誰の追随またはカバーも及ばないように思えた。
実際にABBAの名曲は、時代を超えてリバイバル・ヒットするほどの力を秘めていた。
ABBAというポップス・グループは、なにもかもが「異例」ずくめ。
まず、男女カップル2組の4人組のバンドは、それまでにないバンドの形態であった。
スウェーデンは、ロックの本家イギリスからみれば、片田舎といってよかった。その片田舎から突然表れたポップ・グループが世界中を席巻したのだから。
スウェーデンから世界的になった人といえば、グレタ・ガルボという女優がいる。
グレタ・ガルポは、「肉体の悪魔」で知られる国際的女優で、35歳で引退後に80代でなくなるまで公的に姿を見せることはなかった。
ちなみに、原節子は「日本のグレタ・ガルポ」とよばれていた。
1970年代、ヨーロッパでは、ブラック・パンサーにIRA、日本の連合赤軍、イタリアの「赤い旅団」などの左翼ゲリラが跋扈する時代に、グラム・ロックのようなムーブメントが生まれた。その代表が、Tレックスやスレイドだった。
ちなみに、グラム・ロックのグラムは「glamorous」(魅惑的)という言葉から来ている。
しかしABBAは、二組の夫婦で結成されたいわば「ファミリー・バンド」でありながら、それらの強烈な音に対抗できるほどの魅力をもつサウンドを放った。
しかも、その楽曲の全てをメンバー、主に男性二人ビヨルンとベニーの作曲・プロデュースしていた。
ABBAの結成は、誰かの「発案」(プロデュース)よったものではなく、自然な成り行きだった。
四人は、音楽を愛する二人の親友と、それぞれの恋人が意気投合して結成した。
しかも、その全員がスウエーデンの音楽界でキャリアのあるスターだったというのだから、彼らの出会いソノモノが「伝説」といってよい。
ABBAは、オリビア・ニュートン・ジョンも参加した英国のコンテストで、「恋のウォータールー」という曲で優勝して、一躍世界に知られた。
この「ウォータールー」というのは、世界史の教科書にも登場する地名で、「ワーテルロー」の呼び方が馴染みがある。
ナポレオンとヨーロッパ諸国との運命の戦いの場所なのだが、なぜそこに「恋の」とつくのか。
歌詞を見ると男女の恋の駆け引きを戦場になぞらえたものだった。
ドリーム・カムズ・ツルーの「決戦は金曜日」も、男女の「戦い」の曲だったので、それほど突飛なタイトルではないのかもしれない。
日本語に置き換えると、「恋する関が原」なんて具合でしょうか。
さて、ABBAはその後もヒット曲を連発して、「ダンシング・クイーン」は全米はじめ各国で1位となり、世界のスーパースターの仲間入りを果たす。
アグネッタは、「ダンシング クイーン」との出会いは、伴奏をきいただけで、鳥肌が立つような「何か」を感じたと語っている。
彼らが「ダンシング・クィーン」で世界の頂点に立った時点で、ボーカルのアグネッタ以外は全員30代だったことも「異例」であった。
以後、「テイク・ア・チャンス」、「チキチータ」、「ギミー!ギミー!ギミー!」、「ザ・ウィナー」とヒット曲を連発し、レコード・CDのセールスは、世界歴代4位を記録している。

ABBAの「素顔」は、それほど知られていない。
今のようなインターネットのない時代、小国スウェーデンから世界に発信される情報は限られていた。
そのため、彼らの普段の活動についての情報は豊富とは言えず、その素顔が詳細に伝えられる事はなかった。
また、音楽ジャーナリズムはABBAの活躍を好ましく思っていなかったフシもある。
特にアメリカやイギリスの音楽ジャーナリズム関係者は、彼らに関する情報を意図して無視する傾向にあった。
特に、ロック王国・イギリスの音楽関係者はABBAを自国の音楽文化の「敵」だとみなしていた。
それは、皮肉にもイギリスの一般大衆が、ABBAを自国のグループのように愛するようになっていたからである。
また、アメリカの音楽関係者にとってみれば、「アメリカ産」こが世界のスタンダードだと考え、世界各国でトップを独走するABBAを「脅威」とみていた。
ABBA人気は、特にオーストラリアでは火がついたような凄まじさ。
オーストラリア公演では、メンバーは「一体何が起こったのか」とステージに立つことに怖気づいたホドだった。
しかし、一旦ステージに上れば、観客は彼らを暖かくむかえ、不安は吹っ飛び30分でコンサートを楽しめた。
オーストラリアは歴史的にイギリスからの移民が多く「辺境」にあり、人々は進歩的でありながら伝統を大切にするABBAと自分達を重ねていたのかもしれない。
ABBAはそのキャリアを通して、一貫して母国スウェーデンを活動の拠点としていた。
ライブ・ツアーやプロモーション・ツアーでもない限りは、スウェーデンを離れる事はなかった。
また、彼らの「素顔」が知られなかったもうひとつ理由は、彼ら自身がマスコミに対してあまりオープンではなかったこともあげられる。
せいぜいマスコミの前に登場するのは新作アルバムのププロモーションの時くらいのもので、それ以外はストックホルム沖の島に建てたコッテージや市内のスタジオにこもって作曲・レコーディングに没頭していた。
アグネッタは控えめな表現を好んいたが、そのルックスゆえに大袈裟な表現より、かえって効果があった。
個人的な印象だが、ドキュメンタリーなどで彼らの活動をみるかぎり、ドコカ日本人を感じさせる。
つまり、ABBAを知る上で、スウェーデン人の「国民性」から見るのも、重要な要素であろう。
スウェーデン人は、一般的に質素で控えめ、感情を表に出すことが少なく、周囲との「協調性」を大切にする民族。
ABBAがスウェーデンを決して離れる事がなかったのは、まさにそれが理由だった。
しかしその反面で、グラム・ロックやパンク・ロックが台頭するなかで、ABBAの「幸せな家族」というイメージは、クールではない、要するにドンくさいと揶揄されることにもなった。
彼らの清潔感、真面目さは、「商業主義」の生み出した幻想にすぎず、レコードを売るために作り出された「虚像」だとしか受け取られなかった。
そのため、彼らの人気が高まるにつれて、ゴシップがない分、ゴシップが捏造されることもあった。
彼ら自身はそれを望んだことは一度もなかったが、そうした周囲の変化が彼ら4人のキズナに少しづつヒビを生じさせていったこと、さらには二組のカップルの仲を引き裂いていったことは否定できない。
先日、NHK・BSでABBAの活動と歴史を追ったドキュメンタリー番組があった。
それは、女性ボーカルを担当していたアグネッタ・フォルツコグの「半生記」である。
彼女は1950年、スウエーデンのヨンショーピングという、ベッテルン湖の砂浜が美しい街に生まれた。
この街は、ハマショールド第二代国連事務総長の出身地であり、家具で有名なイケヤの大倉庫もあるという。
ABBAは1970年代半ば、「彗星」のごとく出現して、成功を手にしたグループだと思われがちだが、そのメンバーは全員60年代からスウェーデンで活躍してきたトップ・スターだった。
アグネッタは、15歳で学校を退学してソロデビューする。会社勤めをしながら夜はバンド活動をした。
その頃の映像を見ると、どこか前田敦子さんに似ている。
17歳にしてヒットチャート1位になり、国民的なアイドル・スターとなった。そして18歳でストックホルムへ。
一方、後の恋人ビヨルン・ウルヴァースだが、高校時代に結成したグループ「フーテナニー・シンガーズ」で一世を風靡したトップ・スターだった。
当時、ベトナム反戦運動から、政治性の強いメッセージソングがもてはやされていたが、ビヨルンのバンドはそれとは一線を画していた。
絶大の人気の二人が出会うのは時間の問題。
あるテレビ番組で競演し、話ているうちに、互いに通じ合う「何か」をに感じた。
ドキュメンタリーで、夫ビヨルンは「魔法にかかった」ような感覚だったと語っている。
そして二人は結婚する。結婚式でピアノをひいたのが親友のベニー。このベニーもたタダものではなかった。
「スウェーデンのビートルズ」と呼ばれた大物バンド、「ヘップ・スターズ」の中心人物だったベニー・アンダーソンだった。
そしてベニーの恋人が、一緒に音楽活動をしていた女性ボーカルのアンニ=フリート。
そのうち人気ミュージシャン同士のカップルで旅行にでかけ、4人で一緒に歌ったりしていた。
当初、グループを結成しようなどという思いは全くなかった。
ところがキャバレーのショウでカバー・ソングを歌っているうちに、オリジナル曲をつくって大ヒットしたりするうちに、ついに1972年ABBAが結成された。
「ABBA」の名は、4人の名前アグネッタ、ビヨルン、アンニ、ベニーの頭文字でてつくられた名前である。
ところが二組の夫婦で結成された幸せなファミリー・グループなんていう存在は、パンク・ロック全盛期の70年代当時には格好の「非難」の対象となった面がある。
従来の価値観を真っ向から否定して破壊する事を目的としていたパンク世代にとって、ABBAはまさに「天敵」だったといってよい。
そして「SOS」(1975年)は、いままでのABBAの曲とは違う雰囲気を醸していた。それは「別れ」を歌った曲であった。
アグネッタとビヨルンに二人目の子供が生まれると、アグレッタは子供達との時間をほしがった。
アグネッタは音楽活動と子育てを両立させるのがますます困難となっていき、夫ビヨルンは、妻アグレッタさえソノ気になれば、いろんな仕事ができるのに、とイラだった。
ビオルンが書いた「SOS」(作曲はベニー)を見て、メンバーは二人のことを思い涙ぐんだという。
誰よりもアグレッタは、あまりにも自分達のことを言い当てた歌詞に躊躇したものの、「SOS」を切々と歌ってみせた。
ビオルンは自分の気持ちを整理したくて書いたが、随分ハデにやったものだと述懐している。
ビヨルンは、歌詞にある「勝者」がすべてを手に入れるなんてありえない。あの状況では両方が敗者である。つまり「SOS」は完全にフィクションであったとも語った。
その「SOS」はABBAの名曲中、「最高傑作」の評価が多い。
さらに2年後にリリースされた「ノウイング・ミー ノウイング・ユー」(1977年)は、メンバーの「人間関係」に変化が生じていることを予想させる内容だった。
二人の女性ボーカルがいるというのは、それだけでも難しい問題があったが、プロデユース役のベニーがアグネッタとアンニの二人の女性ボーカルの割り振りを行った。
彼女ら二人の声質もイメージも対照的なのだが、それだけに二人で歌うと素晴らしいコーラスができあがった。
ビヨルンはこのドキュメンタリーで、二人の歌声こそがABBAを今も輝かせている理由だと言っている。
また、もう片方のカップルであるベニーとアンニも長い交際を経て結婚したが、2年半で離婚した。しかしそれでも、ABBAは解散を選ばなかった。
実は、ABBAというのは、実はそのスタジオ・ミュージシャンも含めた大所帯のバンドだった。
アグネッタとフリーダがボーカル、ベニーがキーボード、ビヨルンがギターという割り振りだったが、それ以外に彼らには実質的に準メンバーとも言えるスタジオ・ミュージシャンを抱えていた。
それぞれ、ABBAは結成以前からメンバーの友人であったり、仕事仲間であったりした。
ABBAのメンバーにとって、気心の知れた仲間との仕事こそが素晴らしい音楽を生み出す「秘訣」だったといえる。
しかし二組が離婚した1982年から、スタジオの雰囲気が重くなって、メンバーは「何か」を失ってしまったことに気がついた。つまり4人でいても、前ほど楽しめなくなっていた。
そして、解散の公式発表もしないまま、それぞれの道を歩み始め、1983年にABBAは活動を休止する。
その後も、アグネッタは数曲ソロでレコードを出すが、やがて子どもたちとの生活を大切にするため、マスコミから完全に姿を消すことになった。
ABBAのメンバーのその後を見ると、彼らのライフ・スタイルが堅実なものだったことがわかる。
ビヨルンとベニーはファッションなどのトレンドに関しても全く無頓着だった。
アグネッタも家事や子育てが好きで、ABBA時代から平凡な主婦になる事を望んでいた。その「気負いのなさ」こそが彼らの特徴である。
メンバーの中では、アンニ・フリーダが一番社交的で、社交界の花形的存在となったが、現在はマヨルカ島の邸宅も売り払い 静かに暮らしている、
1999年、コンテスト優勝から25年、ヒット曲を満載したミュージカル「マンマ・ミーア」がロンドンで初演され、ABBAの曲はリバイバルしたばかりではなく、新しい次元に高められた感があった。日本では劇団四季により上演されている。
また2008年、映画「マンマ・ミーア」は日本でも、公開され大ヒットになった。
2013年11月 ABBAが再結成するかもしれないとAFP通信が伝えた。
女性メンバーのアグネタがドイツの週刊誌に語った事から、にわかに再結成話になってきた。
理由は2014年が、コンテストで優勝した年(1974年)から40周年にあたるからだ。
アグネタはインタビューに、「勿論私達は40周年に向けて何かをやろうと考えています。しかしそれがどんな形になるかは今の段階では言えません。私達も年をとってきました。でも杖をついてステージに上がるなんて考えられませんから」と答えた。
実は、ABBAはイマダに解散宣言をしていない。「結成」についても、どの時点かアヤフヤだ。
ビヨルンは、ドキュメンタリー番組で、「ABBAは自然に生まれ、自然になくなった。ただそれだけのことさ」と語っている。
そのBBC制作のドキュメンタりーのタイトルは、「永遠のABBA アグネッタの告白」。