バベルの末裔

最近、テレビや報道で「言葉が通じない相手」という言葉をよく聞く。
その極めつけは残虐非道の「イスラム国」だが、彼らの側からしても「言葉が通じない相手」というのは、日本を含むとみなされた「アメリカ有志連合」ということになるのだろう。
「イスラム国」は、既存の国境を無視してシリアとイラクで無法と化した地域に、「カリフ」つまりムハンマドの後継者を名乗って自分達の理想の国を実現せんとするものである。
そして彼らと理想を共有する者を戦闘員として集め、彼らの命令に従わない住民や外国人の殺害をも辞さずに、国を作ろうとしている。
このようなイスラム国を見て、我々は「言葉が通じない相手」とするのだか、どこか「既視感」がある。
そもそも自由と民主主義の国アメリカからして、もとは理想を掲げてヨーロッパを脱出した者たちによって「理想」を共有する者たちによって、先住民に対する虐殺と迫害の上にできた国なのである。
アメリカは、その建国に際して人の不足を補うために西アフリカから黒人を輸入したが、「イスラム国」はネットでその理想を自発的に共有する若者を戦闘員として集めている。
ただ、アメリカの理想が「自由の国」であるのに対して、イスラム国の理想が「平等の国」という違いがある。
ちなみに、アメリカが自由と平等をうたった「独立宣言」は、奴隷制度を容認した段階で、黒人奴隷に対しては「適用除外」としている。
今さらアメリカ建国などの昔のことは「時効」といっていいが、それでは1948年「イスラエル建国」はどうだろうか。
ヨーロッパで迫害を受けたユダヤ人が祖国の建設を願うに至った結果、イギリスが主導してユダヤ人のために理想国「イスラエル」をつくらせるためにパレスチナに住む異教徒、異民族を追い出した。
そして現在、そのイスラエルの最大の支援国家がアメリカなのである。
だとしたら「イスラム国」側は、イラク戦後の混乱した地域に国を作って秩序を与えることは不法でもなんでもないと主張するかもしれない。
歴史を振り返れば、ある民族が先住民を押しのけ住み着くのは、アメリカやイスラム国をあげつらうまでもない。
逆に、そういう「原罪」を背負わなくて住んでいる民族や国民が一体どれくらいあるのだろうか。
そもそも人間は、誰のものでもなかった土地に、強いもの勝ちで縄張りをつくり、追い出したり追い出されたりしながら、人どうし殺戮を重ね、他の動植物の種も絶やしてきたのだから。
ともあれ、アメリカとイスラム国は、案外似た部分があるのにもかかわらず、互いに「話の通じる相手」とはみなしていないようだ。
イスラム国の「非道ぶり」を弁護するつもり毛頭ないが、自らを省みることも、コミュニケーションには不可欠である。
例えば、イスラム国がネット上に公開される後ろ手に縛られた人質達が着ている「オレンジ色」の服には特別の意味合いが含まれている。
それは「911テロ」事件の容疑者として、イスラム関係者がキューバにあるアメリカ軍海軍基地に収容されたことと関係している。
その時、容疑者達はオレンジ色の囚人服を着せられて手足を拘束、目隠しもされた状態でいた。
アメリカ側が、彼らをわざわざ本国ではなくキューバの海軍基地に収容したのは、容疑者に対する人権侵害が表に出ることを恐れたからだ。
しかし実際には、海軍基地では容疑者に対する拷問や虐待は繰り返し報告され、現在も収容者の人権問題が取沙汰されている。
また、アメリカ側の空爆によってイスラム国の幹部の多くが死んだようだが、その空爆による住民の被害については一切報道されていない。
そうした女性や子供など弱者の本当の姿を伝えることを使命とした後藤健二さんが、イスラム国側に殺害されたのは皮肉という以外はない。

2001年アルカイダによる「9・11テロ」は超高層ビルを狙い撃ちとしたが、その10周年の記念式典が、世界貿易センターがあったマンハッタンにおけるグラウンド・ゼロの地で行われた。
そのとき、記念碑の前で、ポール・サイモンが「サウンド・オブ・サイレンス」を独唱したという。
この曲は今から50年以上も前の1963年にできた歌であるにもかかわらず、地球上を覆う「断裂」を予見していたかのように思える。
個人的には、ポール・サイモンが歌詞に書いた「裸電球の中で見た。一万、おそらくそれ以上の話さずに語らう人々。聞くことなく聞いている人々」に続く風景は、創作でもなんでもなく本当に見た幻または夢なのではないかと思っている。
続けて歌詞は、♪♪人々は頭を下げて祈った。自分達の作ったネオンの神に。そして、警告のサインが煌(きら)めいた。それを形作る言葉の中で。そして、そのサインは告げた。"預言者達の言葉は地下鉄の 壁に書かれている。そして、安アパートの廊下にも"。♪♪
今日、高さを競うように建てたネオンが煌くビル、その足元にはスプレーの落書きで満ちた地下鉄の壁や崩れかけた安アパートが並存しているというのは、今日の格差社会を予見しているようなイメージである。
そして歌詞の中の「預言者の言葉」とは、旧約聖書の「預言者」をさすのだろが、「自分達の作ったネオンの神」という歌詞に「バベルの塔」の話を思い浮かべる。
地上に満ち溢れた人びとが、自分たちの名をあげようと、日干しレンガを天然アスファルトで積み上げ、天にも届く塔を建てようとする。
それが神の怒りにふれ、人の考えることは「良くない」と言葉を乱したしたために、互いのコミュニケーションができなくなったという物語である。
神は天地創造の際「生めよ、ふえよ、地に群がり、地の上にふえよ」と命じているのにもかかわらず、現代人もやはり「広く広く」ではなく「高く高く」の生活を愛好しているようだ。
日本では、東京の六本木あたりで暮らす「ヒルズ族」がその代表だが、彼らも名をあげてこの「高み」に住んでいる人々である。
ところで2010年ぐらいから「アラブの春」とよばれる民主化運動が広がった。
ただこの運動は、独裁政権打倒までの方向性は明確でも、それ以後の「着地点」が見出せない点で、1960年代の日本の学生運動にも似ている。
TVで1969年の東大安田講堂をめがけて放水車が水を高々と放つシーンのバックに歌詞がない「夜明けのスキャット」が流れていたが、それが当時の学生達の「言葉が通じない」雰囲気と不思議とマッチしていた。
一方、「アラブの春」はツイード(つぶやき)によって運動のウネリが拡大し、独裁政権を倒したため「ツイッター革命」とよばれたが、「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞がよく似合う。
なかでも「癌のように広がる静寂の音」という歌詞。
この運動は 実際に「アラブの春」以降、エジプトやシリアをはじめ安定した政権というものはいまだできておらず、混乱はむしろ拡大しているようだ。

今、世界的に進行するグローバリゼーションは、人間の広い意味での言葉を「共通化」しようという試みであり、特に経済においては「バベル的世界」の建設に向かっている印象さえある。
世界の時間や単位・規格を同一の基準に乗せるマデはグローバリゼーションとはいわなかった。
しかしここ30年で、世界市場の上に、共通の企業経営理念、共通の会計原則、金融ビッグバン、そして(地域的)「共通通貨」さえ造ることになっていった。
つまりそれぞれの地域で独自に育ったやり方を世界統一の基準や枠組みに変え、同じ「土俵」に乗せて同じルールでやっていこうという動きである。
つまりグローバリゼーションとは、「言葉の統一」までは至らずとも、言語的作用の裏側にある「思考様式」さえも「共通化」しようという動きなのだ。
世界は境目がなく便利になったように見える一方で、津波の如く襲う「金融危機」やツイッターによって広がる「民衆革命」など、世界に大混乱をマキ起こす「因子」が撒き散らされた感がある。
人の動きが広く激しくなる分、伝染病の拡散もあっという間に世界的脅威となっていく。
こうした世界は一体誰が何のためにつくり上げてきたのだろうか。
しかし、グローバル化はその意図に反して社会は様々な面で「断裂」をみせて、あらゆる場面で「合意」というものが困難な社会を作り出しつつあるようだ。
それは、グローバル化の「発信源」たるアメリカの足元さえもスクッテいる。
今アメリカの政治は「断裂の時代」を迎えている。
アメリカ議会では、与野党の対立で議会の審議が紛糾し予算成立が遅れ、資金不足から、複数の政府機関が閉鎖寸前の状況に追い込まれた。
また「連邦債務の上限を引き上げる問題」で共和党の抵抗に遭って、デフォルト(債務不履行)に陥る危機にさらされた。
自分に所属する集団に絶対的な忠誠心を誓う「同族主義」が、ワシントンだけではなく、アメリカ全体にひろがっている。
大統領を選出していない党にとって、最優先なのは政策の内容如何を問わずに、相手の政策を阻止することにあるという。
つまり、大統領が実績を上げることをとにかく止めることが大事なことで、まるで政治が「恒久的な選挙戦状態」にあるようだ。
以前は民主党のリベラルな議員も、共和党の保守的な議員も、「共通点」を見つけて政策を創り上げる姿勢をとっていたが、「同族主義」の下では相手の政策とは異なるというだけではなく、相手が敵であり「話が通じない相手」ということになっている。
共和党と民主党の橋渡しをしていた中間層が没落していることや、インターネットやソシアル・メディアなどによる過激な表現による攻撃が、こういう傾向に拍車をかけているのは間違いない。
ところで、現在のアメリカ政治で、「ティー・パーティー」なる存在が大いなる影響を力をふるっている。
政府の役割を最小限に抑えるためには、医療保険や社会福祉も切り捨てるべきだと主張している。
自主自立という建国の精神、つまりアメリカ人の原点が破壊されることに怯える人たちが、予算拡大を伴う法案が登場するたびに、「ティー・パーティー」と名乗り増殖していった。
「ティー・パーティー」という名前は、当時の宗主国イギリスがおこなった茶税政策に反対し、アメリカ人の急進派が、ボストン港に停泊する船が積んだお茶を、海に投げ捨てた「ボストン茶事件」からきている。 そこで、紅茶の代用品としてアメリカ人が考案したのが紅茶のように薄味のコーヒー、すなわち「アメリカン・コーヒー」なのである。
アメリカ人はもともと「国民皆保険」に非常に大きなアレルギーがある国民である。
個人ビジネスが主流で、資金繰りは余裕のある状態ではない。
そのため、人を雇うと経費が嵩むことになる国民皆保険は経営を阻害する要因として考える。
そのため高額な医療費や保険料のため、国民の6人に1人が医療保険にいれない。かさんだ医療費が原因で自己破産に至る。
そうした問題を解決すべく導入されたのがオバマ・ケア(国民皆保険)なのだが、意図に反して様々な弊害が噴出している。
企業の中には、社員の医療保険提供が義務付けられたことにより、フルタイム社員をパートタイムに降格し始めた。
こういったオバマ大統領の手厚い補助は、新移民に多大なる恩恵を与え、とりわけ急増する南米大陸から移民を目指す人々が彼らが市民権を得ればその多くが補助の対象になるので、予算は拡大し債務はさらに膨らむと予想される。
また低所得者層を手厚く補助するオバマケアは、働かずとも税金から医療保険という恩恵を得るとするフリーライダー(ただ乗り)を増加させている。
こんな事態こそ「アメリカン・ドリーム」のカリカチュアである。
というわけで建国の精神を重視する「ティー・パーティー」は、大きな政府に移行するオバマ大統領の取り組みは、貧困から抜け出す人々の努力の根を積んでいると看做しているようだ。
最後に、「アメリカン・ドリーム」という言葉があるように、アメリカには成功者が寄付をすることで、アメリカを作ってきたという自負がある。
多くのくの地域では、その町の成功者が、優秀な子供の進学を助けるなどの財団を運営して、役割を発揮している。
また、アメリカでは、美術館もシンクタンクも成功者の寄付で設立、運営されている場合が多い。
大学への高額寄付もよく報道されていて、成功者が果たす役割を「政治の機能」として認めてきた。
そのため、政府の「再分配機能」を重視するオバマ大統領を成功者を産出する環境を阻んでいるとみなす人々は少なくない。
一方、オバマ支持の「リベラル派」は、インターネットの「ウォール街を占拠しよう」という呼びかけで集まった。デモ隊が掲げるスローガンは「99%」。
アメリカの富は、わずか1%の富裕層が独占していて、自分たちのような残りの99%は見捨てられているのが抗議行動の原動力だと言われいる。
実際、当時の失業率は10%に達しようとして16歳から24歳までの若者に限ってみれば倍の20%余りが失業中であった。
ただこの動きは自然発生的なものではなく、ある雑誌の編集者が、保守派の「ティー・パーティー」に対抗して、格差社会のシンボルである「ウォール街」にソーシャルネットワークを介して集まったの点は、「アラブの春」にも共通している。
結局、オバマ大統領と「ティー・パーティー」の戦いは、大きな政府と小さな政府という国のカタチを問う戦いである。
さて格差の拡大を資本主義の必然としたのが、フランス人のピケティが書いた「21世紀の資本」という本である。
現在すごく売れているらしいが、こんな高い本を書店で買う人というのはキットお金に余裕のある人だ。
ピケティは、各国の数世紀にわたる租税資料を分析し、株式や債券などの資産を元手にして得られるもうけは、経済成長に伴って一般の人が得る所得より大きく伸びる傾向があるという。
ただ戦後は、戦争による破壊で資産が失われたうえ、累進課税も広がったので、歴史上「例外的に」お金持ちも貧しい人たちもバランスよく成長できた時代だったという。
しかし、1980年代から先進国で富裕層に資産が集中する傾向が強まり、人口が減り低成長が続くために、相続で引き継がれる資産価値がより高まって、資産を持てるものがより有利になれば、持たざるものが多い若年層が貧困に陥り、さらに格差が広がる悪循環が置きやすい状況になっている。
つまり、相続財産に依存する「世襲社会」が戻ってきているといっている。
さて今、世界で一番格差が広がっているのは中国ではないかと思うのだが、なぜ社会主義の看板を降ろさないのだろうか。
中国の指導者または富裕層にとって、「社会主義」という体制は、意外なウマミがあるのだ。
中国では不動産を含め個人資産への課税は、中国には基本的に存在しない。
それは「社会主義」では建前上、資産階級がいない前提で「財産税」がない中で「特権」をてこに財産を積み上げる人がいる。
この特権とは、ビジネスを円滑に進めるにも公務員の助けがいるため、政府との距離が富の蓄積に直結する社会なのである。
このように世界全体で格差が広がる中「イスラムの下の平等」が若者をひきつけのはわからぬでもない。
明るい希望がないならば、せめて希望は自分を受け入れない豊かな社会が壊れる情景を見たいという、大義よりも死に場所を求めて「イスラム国」に集まって若者もいる。
ちょうど統一した規格のレンガを焼いて高い塔をたてて、それをあたかも「ネオンの神」のごとくに祭る「バベル的世界」。
その世界では一番上層に利益を吸い上げる仕組が浸透し、様々な部面に亀裂と断裂が生じ、そこに「静寂の音」(サウンド・オブ・サイレンス)がしのびこむ。
こうした世界が出来上がっていくのも、結局は人間が「バベルの末裔」であるということか。