ガラパゴスなんていわせない

2014年6月、長野県小諸市に店舗を構える「丸山珈琲小諸店」の社員・井崎英典氏が イタリアで開かれた世界大会 「ワールド バリスタ チャンピオンシップ2014」に日本代表として出場し、見事優勝を果たした。
井崎氏は、福岡市出身で弱冠25歳。
この大会での日本人の優勝は初めてというばかりではなく、アジア人としても初の快挙である。
「バリスタ」という仕事は、コーヒーに関する技術と知識を持つ専門職である。
それにしても、10代の終わりごろから世界中のコーヒー畑をまわるという夢を熱く語っていた「井崎君」が、これほど早く夢を駆け上っていくとは、想像することさえできなかった。
その快挙がことのほか嬉しいのは、わずか1年間であったにせよ個人的「接点」をもつことができたからだ。
とはいえ「バリスタ」という仕事の内容は、彼の快挙によって初めて知った次第である。
そういえば、バリスタに似た仕事に「ソムリエ」というのがあった。
田崎真也氏が日本人として初めて世界チャンピオンになってはじめて知ったのが、「ソムリエ」という仕事であった。
「ソムリエ」という仕事は、ワインの地域性や性質、味覚などを知って、時々の料理に合わせてサービスする仕事である。
井崎バリスタと田崎ソムリエの「頂点への道」を調べてみると、二人の歩みは異なっても、気質的には似通ったものを感じる。
さて、田崎氏も井崎氏も20代の半ばという若さでそれぞれ「日本一」となっいる。
ただ田崎氏がソムリエ世界一に輝いたのはそれから10年以上の時を経ているが、井崎氏の場合には日本一から一気にバリスタ世界一となっている。
バトミントンで養った集中力や高い適応力(修正力)がものをいったに違いない。
また両者の違いは、田崎氏が様々なサービス業を経験するなかで「ソムリエ」という仕事に出会っているのに対して、井崎氏は福岡市内で焙煎コーヒー販売店を営む父親のもと、一直線にバリスタを目指した点である。
さて田崎真也氏の場合、日本人がワインの世界で1位となった意外性に驚いたが、一体どうして「ソムリエ」へと導かれたのか興味深いところである。
まず田崎氏は自ら「ソムリエ」につながる性格分析を行っているが、第一にとにかく「凝り性」であったことと、負けん気の強さをあげている。
小学生のときは昆虫博士、中学時代は魚に凝り、ひとつの分野を徹底的に極めたくなるところがあったのだという。
それによって多くのことを記憶する習慣が自然に身についた。
「釣り雑誌」のバックナンバーを取り寄せて読み、毎朝、家の裏にあったグラウンドで投げ釣りの練習をして腕を磨き、さらには釣ってきた魚は自分でさばいて煮魚を作ほどの器用さももちあわせていた。
田崎氏にとってのサービス業への入口は、工業高校1年の夏休みに、釣りクラブの先輩に誘われ、新島で海の監視員のアルバイトをしたことである。
そして、「魚好き=海好き」という連想で、将来は海の仕事をしようと思い、親の反対を押し切って静岡にあった国立の海員学校に編入した。
ところが、バイト先で17歳で事実上「店長」なりお客さんに「ご馳走さま、おいしかったよ、ありがとう」と言われた時に、ハタと思った。
自分は海が好きなのではなく、料理が好なのではないか。
そして、漁師をめざすのではなく、料理人を目指そうと決意した。
そう思うや行動も迅速である。海員学校をやめて、東京に戻って飲食の仕事を始めた。
変わり身が早いが特徴だが、田崎氏の「仕事観」には日本人一般が考えるものと少しは違った点がうかがえる。
田崎氏には「石の上にも三年」なんていう生き方をするのではなく、自分の興味関心に従って世界を広げていくタイプである。
最初は和食の板前修業に行ったが3カ月経っても野菜を洗うばかり。
これは違うぞと、フレンチコックの修行に3カ月行ってみたが、ここでも鍋を洗わされ続けたために辞めてしまった。
一見飽きっぽい性格にも見えるが、田崎氏はあくまでも凝り性なのである。
本もたくさん読んでいて、料理の技術も知識もあるのに、料理に関わる何もさせてもらえず、怒鳴られながら時間を失っていくのは納得できなかっただけなのだ。
料理人の仕事は3年どころか15年修行してやっと一人前と認められるものらしいが、それは15年でたった1軒の店の仕事しか覚えられないということを意味する。
それは広く世界を経験したいと思う田崎氏のスタイルとはまったく合わないものだった。
田崎氏の場合、むやみやたらと店をわたり歩いたのでわけではなく、常に「次はこれをやりたい」という方向性をもっていた。
そして、様々なレストランを経験するうちに、一人一人の客席への料理の盛りつけ、焼けた肉にブランデーをたらして火をつけるフランベや料理に合うワインの提供などをするうち、本当の意味での「サービス」という仕事に目覚める。
この頃それなりの給料も結構もらうようになったが、「日本一」のサービスを勉強したいという思いが強くなり、給料が半分以下になることを承知で、銀座の高級ドイツ料理店に就職し、その次に六本木の高級フランス料理店に移った。
この店で、先輩たちの洗練されたサービスとに惹かれた。
また先輩たちはスマートなばかりではなく、料理のことも実によく研究していて大きな刺激を受けた。
そこで今度は、日本で最高級のフランス料理店の支配人になろうという目標を持つようになった。
しかし当時の田崎氏にとって一番の「難題」だったのが、フランス料理に必要不可欠なワインの知識であった。
当時の日本にはまだワインがそこまで普及しておらず、今のようにインターネットの情報がなかったため、十分な資料を揃えることができなかった。
そこで、フランスに行くしかないと思った。
フランスて知ったことは、シェフになりたい人は、学校卒業後3カ月ごとに店を変わって2年間の修行期間で8軒の店を経験しながら自分のスタイルを確立していく。その間に、皿洗いなどはしないということだった。
帰国後、本場フランスで学んだという自信もあって、国内のソムリエコンクールに臨んだ。
しかし準決勝までいくものの、その最下位になって悔しい思いをした。
そしてその悔しさをバネに本格的なトレーニングを積み、25歳のときに「日本一」となった。
当時和食店に勤めていたが故に、その意外性が注目を集めた。
しかし田崎氏は当時日本人に合うサービスを勉強しようと思いたまたま和食店にいたのである。
タイトルを獲る前と後ではこんなにも違うのかと驚くほど周囲が変化した。
そしてタイトルをとるタイミングもよかった。
この時期は日本国内でも手軽にフランス料理を楽しめるお店が増えワインブームが広がり、ソムリエ希望者に向けた講演やセミナーにも頻繁に呼ばれるようになった。
優勝の副賞としてフランス旅行に招待されていくと現地でも歓待を受け、このときソムリエの世界チャンピオンに会うこととなった。
しかし、その出会いは、当時すっかり有頂天になっていた田崎氏の鼻ッパシをへし折ることになる。
しかしその出会いは大きな意味をもつものだった。圧倒的な実力差を突きつけられ、日本のソムリエ・チャンピオンなんて意味がないと思えるほどに奮い立たせてくれたからである。
そして田崎氏はソムリエ世界大会を目指すと決めてから、ずっとストイックなトレーニングを続けていった。
予選落ちも2度経験して、あきらめかけたことあった。
しかし、あきらめなかったのは国内大会の時経験したように「世界が変わる」という気持ちだった。
世界大会で優勝すれば、想像がつかないことになるはずだという確信だった。
また、優勝者発表のアナウンスが流れる一瞬の感動を思い浮かべては気を取り直してトレーニングを繰り返していき、ついに37歳にして「世界一」に駆け上ったのである。
田崎氏は、試行錯誤しながら結果的にソムリエという職業を選んだが、田崎氏の「原点」は17歳のときに新島のスナックでお客様から「ありがとう」と言われた喜びで、その原点を常に忘れないようにしているという。
また「漁師→料理人→レストランの支配人→ソムリエ」と夢をかえていくが、ひとつひとつの転身が今の自分には「何がたりないか」という合理的判断に基づくものであったことである。
そしてついに「ソムリエ」という職業にたどり着いた時、田崎氏はそれまでの経験がすべてが無駄になっていなかったことを知るのである。

さて、バリスタ世界一の井崎氏の実家は福岡市内で「焙煎コーヒーの専門店」を営んでおられる。
本人も父親の勧めで17歳にして バリスタの道に入った。
高校卒業後に法政大学へと進学する。
コーヒーをとことん極め、世界で勝負するためには英語力と国際的な感覚が不可欠だと思い国際文化学科を選んだ。
そして英語がほぼ話せない状態であるにもかかわらず、イギリス・シェフィールド大学に留学している。
何しろ井崎氏の真骨頂は物怖じしないところで、とにかく英語をしゃべれるようになろうと授業以外は街に出て、地元の人と話しかけたという。
最初は全く聞き取れなかった英語も、留学の終わり頃には自分の意見を主張できるようになった。
そして、日本に帰る飛行機の中で「これなら世界でやっていける」という感触を得たというのだから、イギリス留学の価値は充分にあったといえる。
さて、井崎氏が大学卒業後に勤務した「丸山珈琲」は軽井沢で創業した珈琲店で、産地から直接コーヒー豆の買い付けを行うなど、コーヒーの品質にこだわった店舗展開を行っている。
なにしろ「丸山珈琲」では、井崎氏以前にすでに2人のバリスタ日本チャンピオンを生んだ会社なのだ。
井崎氏の勤務先は信州の小諸店であるが、学生時代よりアルバイトをしていた。
平日は大学で授業をこなし、週末や長期休暇は新幹線で小諸に通うという毎日が始まりだった。
交通費・宿泊費は自前だったが、それは自分自身への投資と割り切ったという。
さて、井崎氏が出場した「ワールド バリスタ チャンピオンシップ2014」は、 世界54か国の代表が技術を競うものであった。
初出場となった2013年の世界大会では 13位に終わったが、 二度目の挑戦で一気に頂点に駆け上った。
世界大会では 出場者が15分間の制限時間内に、 エスプレッソ、カプチーノ、 それにエスプレッソを基にしたオリジナルドリンクを それぞれ1杯ずつ4人の審査員に提供する。
そしてこの大会の特徴的なところは、大会で使用するコーヒー豆は、出場者それぞれが用意することである。
コーヒーの味以外にも 清潔さや創造性、技術、全体のプレゼンテーション能力などが、 総合的に評価される。
井崎氏は、自らが求める最高の味を追求するために、大会で使用するヒー豆の生産段階から携わっている。
それも、南米コスタリカの標高1800~1900メートルに位置する農園をもつマイクロミルまで出向いたのだという。
そして、エンリケ・ナヴァロ・ジュニア氏がプロセスした二種類の豆を駆使し、今回の優勝を勝ち取ったのである。
ちょうとソムリエ日本一だった田崎氏が、世界チャンピオンと出会ったことが大きな影響を与えたように、ナヴァロ氏と出会った経験は、井崎氏に多大な影響を与えたようだ。
結局、井崎氏とナヴァロ氏との国境を超えたコラボレーションが最高級のコーヒーを生んだともいえる。
井崎氏自身、優勝後のインタビューで、このコラボレーションの意義について語っている。
そして「彼のコーヒー生産に対する情熱は私がお客様の為に最高のエスプレッソを抽出する情熱と同じです」と締めくくった。
とはいっても、井崎氏にとっての最高のパートナーは父親ではないだろうか。
父親こそが井崎氏の「夢先案内人」だったからだ。
何しろ、井崎氏が勤めた「丸山珈琲」代表取締役の丸山健太郎氏と、父親は店を通じて面識があったからである。
そして丸山健太郎氏こそは「理想の国際人」であり、井崎氏がその下で世界に通用するバリスタを目指そうと決意を固めるに至った人なのである。
さて、井崎氏の夢を導いた父親・井崎克英氏のことがネットに書いてあったので紹介したい。
大学を卒業後、知人と学習塾を立ち上げていたが、1996年のある日、客として当時足を運んでいた珈琲店の当時のオーナーから「店を引き継いでほしい」と誘われた。
ちょうど塾の運営に迷いが生じていたころだったので、二つ返事で引き受けた。
しかし当初はなかなか理想の味というものを作り出せなかったが、スペシャルティコーヒーと出会い、ようやく方向性が見えたという。
そして現在克英氏の店では最高品質の「スペシャルティコーヒー」を扱っている。
さて、喫茶店の世界では「コーヒーの味は焙煎7割、入れ方3割で決まる」と言われてきた。
ところが2000年頃から、米国の複数のカフェチェーンが高品質の豆を使い始め、人気を集めたことが豆そのものへの関心が高まりをよんだ。
今では「豆7割、焙煎2割、入れ方1割」という言い方がされるようになっている。
料理と同じくコーヒーもやはり素材の味次第なのである。
父・克英氏の転機となったのは、土産でもらったコーヒー豆に、これまでの知識が覆される思いで、それ以降「豆職人」として歩んでいく覚悟を決めたという。
しかし「高品質」の豆ほど世界中の業者との奪い合いになる。品質の高い豆を入手するには、自分が味の特徴を見分けられるようになるしかなかった。
そこで克英氏は日々コーヒーの味利きをし、酸味や香り、後味などの豆の特徴を数値化できる独自の「物差し」を完成させた。
その技量は世界に認められ、2006年にブラジルなど主要生産国で行われるコーヒー品評会「カップ・オブ・エクセレンス」の国際審査員に選出された。
最高品質の豆は、この品評会で審査員が高評価したものなのだというのだから、審判とプレイヤーを兼任するような立場に立てることになった。
とはいっても、最高級の豆を手に入れるにはインターネット上のオークションで、世界の業者たちとの「入札競争」に勝たなければいけない。
父克英氏は「ほれ込んだ豆は絶対に競り落とす。この機会を逃すと飲むことができない豆もあるから」とネットに語っておられたが、こういう性分は息子である英明氏の性格にそっくり受け継がれている。
中南米でもアフリカでも、おいしい豆があると聞けば、地球の裏側の農場まで足を運ぶ。昨年はエルサルバドルで1位とルワンダで4位に入った豆を落札し、店頭に並べることができたのだという。
というわけで、父親の夢や生き方そのものが世界の井崎バリスタを生んだことを思わせられる。
ともあれ、田崎ソムリエ、井崎バリスタともども、日本人のガラパゴス化なんていわせないと言っているようだ。