かつてTVでよくみた「二胡ブーム」の火付け役・チェン・ミンさんは、中国・蘇州生まれの上海育ちである。
音楽教育家の父を持ち、恵まれた音楽環境に生まれ育つが、「二胡」の道を進むことを決めたのは、ほんの「一瞬」の出来事だった。
幼い頃、たまたま通りかかった家の二階で二胡を弾く女性を見た時に、自分もあのように美しく二胡を弾きたくなりたいと、早くも決意を固めたのだという。
父から二胡を習って、上海戯曲学校でも二胡を専攻をした。
二胡を演奏する時、心と体で考えていること、感じていること、すべてがあふれてくるを体感した。それがゆえに逆に、今日は距離を置きたいなと思ったりもするという。
チェンミンさんは、二胡と出会うことによって、もう一人の自分という人間が、自分の傍で生きていると思えるほどに生命感を感じ、生涯弾き続けたいと思うようになった。
さて、チェンミンさんは、戯曲学校の卒業後に二胡奏者となり、上海越劇オーケストラの「メイン奏者」に成長した。
加えて女優であった母譲りの美しい容姿を受け継ぎ、音楽家としての未来はユルギないように見えた。
一方、彼女は自分の将来があまりに単純に見えてしまって、このままここで二胡を演奏し続けて終わるのかと満ち足りない気持ちを抱くようになる。
そこで、以前から興味を持っていた日本で新しい生活を始めてみようと思い父親に相談した。
父親は「二胡の演奏に戻る日が来るかもしれないし、このままやめてしまうかもしれない。だけど君の人生だから、いいんじゃない」とアッサリと承諾してくれた。
そして1991年、自分の力だけを頼りに生きみようと、中国を旅立ち日本に来日した。
来日当初は、お金もない4畳半のアパート暮らしで、日本語は話せなかった。
しかしどうにかアルバイトをかけもちして2年間で学費をため、そして日本文化を学ぶべく共立女子大学入学を果たした。
ちなみに、共立女子大学は、中国と縁が深い大学である。
実は学費をためていた2年間は孤独で貧しく、タダの一度も二胡に触れることはなかったという。
久しぶりに胡を奏でてみるが、弓が逃げていって弾けない。二胡をやめようかと自分に問いつつ、何とか練習して弾けるようになってくると、驚いたことに二胡が以前とマッタク変化していることに気がついた。
そして、チェン・ミンさんは、二胡の音色が変わったことに気がついた。
つまり、自分自身が変わったことを二胡の音色よって知り、二胡に夢中になったという。
1997年大学を卒業後、本格的に演奏活動を始め、2001年に日本でリリースしたアルバムで脚光を浴び、中国二胡ブームの「火付け役」となったのである。
個人的には、「二胡」という楽器の名はチェンミンさん出現によって初めて知ったが、以前から胡弓という言葉は聞いたことがあった。
実は「胡弓」という楽器は日本だけにしか存在しない。つまり、中国に「胡弓」という名の楽器は存在せず、中国語で「胡弓」というと、それは「西域民族の弓」、つまり楽器ではなく「武器」なのである。
「胡弓」はもともと、江戸時代から日本独特の楽器である胡弓を指す言葉であり、実際、日本の胡弓と中国の二胡とでは構造や奏法にもかなり大きな違いがあり、それを同じように呼ぶのは完全な乱用なのだという。
ただし、「胡弓」という語には広義として、「弓で奏する弦楽器全般 」を指す場合もある。
さて、中国の「二胡」に似たものを日本であげるならば、むしろ琵琶ではないだろうか。
ただし、琵琶にも様々なバリエーションがあり、奈良時代から日本の雅楽で使われていた琵琶を原型として、「盲僧琵琶」「平家琵琶」などが出来、近世に至っては、「薩摩琵琶」「筑前琵琶」などに発展していく。
さて、我が居住の福岡市の南方、太宰府近くに四王寺山(大野山)があり、この山頂に「筑前盲僧琵琶」を始めた玄清法印の記念碑がある。
調べてみると、その「筑前盲僧琵琶」という楽器のはじまりは少々意外なものだった。
日本の民間信仰によれば、家の中には「荒ぶる神」すなわち「荒神」がいて、それがカマド近くの「火の神」であるとされる。
今風にいえば「台所の神様」だが、それを鎮めるために琵琶を弾いたのが「筑前琵琶」の始まりである。
また室町時代には、薩摩の地においても盲僧琵琶から、武士の教養のための音楽として「薩摩琵琶」がつくられ、しだいに語りもの的な形式を整えて内容を発展させてきた。
対照的に、筑前琵琶は明治時代中期に女性を主たる対象とする「家庭音楽」として確立したもので、筑前盲僧琵琶から「宗教性」を脱して出来たという意味でも、近代琵琶楽の第1号にあたるものといってよい。
以上まとめると、「宗教音楽」としては、筑前盲僧琵琶が薩摩盲僧琵琶よりも古いが、「芸術音楽」としては、薩摩琵琶の方が筑前琵琶に先行している。
しかし、「近代琵琶」としては、筑前琵琶が先んずることになる。
さて、この薩摩琵琶が武士と筑前琵琶が女性を対象とするもので、その点においても対照的である。
江戸時代に盲僧琵琶から生まれた薩摩琵琶は、武士階級に愛好され旋律も合戦の場面など激しいものが多く、語りかけるところは詩吟に通じるものがある。
一方、筑前琵琶は、明治の中期に晴眼者で筑前盲僧琵琶の奏者であった初代 橘旭翁(たちばな きょくおう)が、鹿児島で薩摩琵琶を研究して帰り、筑前盲僧琵琶を改良する。
その際、三味線音楽を取り込むことによって表現力をひろげ、旋律はよりメロディアスになった。
そのため筑前琵琶は、女性奏者に人気があり、娘琵琶としても流行し、嫁入り前の女性の習い事として重視された。
そして旧福岡市内には多い時で50人もの琵琶の師匠がいたといわれている。
また博多において花柳界にも「琵琶芸者」なる演奏者があったほど琵琶熱が高く、大正時代末期の琵琶製造高は博多人形のそれに迫るほどであったという。
そして、この筑前琵琶を広げるのに一役かったのが、鶴崎賢定と吉田竹子であるが、吉田竹子の門下から高峰筑風が出て一世を風靡した。
高峰筑風は川上音二郎と同じ博多対馬小路の出身で、その娘が女優となる高峰三枝子である。
高峰三枝子は、1918年、東京府芝区露月町に生まれた。東洋英和女学院(高等女学校)を卒業した。
しかし卒業した1936年に、父・筑風が急死したため、周囲の勧めもあり一家を養うために、映画界入りを決意した。
そして松竹に入社し、同年に公開された大船映画「母を尋ねて」で女優としてデビューしたのである。
個人的な記憶では、「犬神家の一族」(市川崑監督/1976年)での重厚な役を思い出す。
実際この演技が高く評価され、ブルーリボン賞助演女優賞を受賞している。
また上原謙とともに国鉄(現・JR)の「フルムーン」(1981年)のCMに出演し夫役の上原と二人で温泉で入浴するシーンが話題となったこともある。
1990年、田園調布の自宅で倒れて、その1か月後の5月に容体が再び急変し他界した。享年71。
現在、芸能界で活躍していている人のファミリー・ルーツが「琵琶奏者」にいきつく人はすくなくない。
幼い頃聞いた音色と芸人魂がどこかで受け継がれているということだろうか。
親が琵琶奏者というわけではないが、歌手の坂本九や映画評論家も淀川長春なども花街で育ったことが、その進路に影響したことは間違いない。
坂本九の父親は、川崎の港湾請負の会社を経営していた。九番目の子供だったから「九」になったというのだが、坂本が中学二年の頃、両親が別々に暮らし始め、坂本は母親と共に川崎の花街に移った。
坂本にとってそこは三味線や義太夫がBGMの世界となったのである。
一方で坂本氏は、エルビス・プレスビーに憧れ、ホウキをギター代りにして真似をしていたそうだ。ホウキが無い時はたぶん「エアー・ギター」をやっていたと思う。
NHKの番組「ファミリー・ストーリー」で、俳優の永瀬正敏の祖父が琵琶を奏する人であることを知った。
永瀬は祖父のネガが出てきたことにより、祖父が写真家であったことを知る。
と同時に、永瀬は一冊のアルバムに永瀬の曽祖父・永瀬岩登の侍姿の写真を見つけた。
岩登は宮崎・都城市で生まれ、都城一番隊に配属されていた。
大政奉還が起き戊辰戦争が起こり17歳の岩登にも出陣命令が下った。
そして岩登が27歳の時、西南戦争が起こり西郷隆盛は自害したために、岩登も新しい時代を受け入れるしかなかった。
曾祖父・岩登が48歳の時子ども生まれたのが、永瀬正敏の祖父、永瀬宗則であった。
岩登は宗則に「薩摩琵琶」を教え込み、武士の誇りを教えたという。
ただし、子の宗則はムシロ父が見せてくれた戊辰戦争の写真に心惹かれ、次第に「写真の魅力」にとりつかれていった。
そして宗則は、写真師の弟子になり、写真師となったのである。
写真師となった宗則が鹿児島の港・志布志に写真館を置いたのは、軍人たちが故郷の家族に写真を送るはずというよみがあった。
そして、宗則のネライいはピタリと的中し商売は繁盛した。
この時、永瀬の祖父宗則は、写真師にとって最も重要な写真の修正技術に優れ、番組で紹介された宗則の研究ノートには、その試行錯誤のプロセズが綴られていた。
その内容から宗則が、「被写体の内面」を写し出すよう常に心がけていたことがわかる。
番組で、永瀬正敏は祖父の写真家としての仕事を知って、役者がいかに内面を演じて人物を生むかということと通じる所があると語った。
ただ、昭和恐慌でのため高価な写真は敬遠されるようになり、祖父・宗則の写真館の経営も難局を迎え、長男の死という悲運にあもあった。
そんな中誕生したのが、永瀬正敏の父・永瀬義弘である。
その頃、永瀬の祖父・岩登は86歳になっており、息子・宗則は父の高齢も気がかりのため、都城に戻ることにした。
宗則は都城に戻ってから「出張撮影」の写真師となり、仕事の傍ら好んで子供たちにレンズを向けていたという。
そして太平洋戦争が始まった年、岩登が亡くなった。
永瀬の父親である義弘は経済的に困窮する家族の助けになろうと、地元の金融機関に就職し、必死で働いた。
そして結婚し永瀬正敏が誕生したが、思わぬ悲劇が襲う。
次男・善彦が生まれたものの難病を抱えていたため、わずか生後8ヵ月で亡くなった。
弟を失った正敏は家で寂しく過ごし、そんな中で遊び相手になってくれたのが祖父の宗則であった。
正敏は地元の進学校に入学したものの、高校1年の時、突然俳優になると言い出した。
父・義弘は激怒したものの、今では正敏の成功を誰よりも喜んでいるという。
義弘は永瀬家から俳優が出たのは、祖父・「写真家」宗則の影響が大きかったことを語ったが、永瀬は映画「毎日かあさん」(2011年)で、永瀬は妻役の小泉今日子との共演で、アルコール依存症に苦しむ元戦場カメラマンの役を演じた。
また永瀬が俳優を目指すようになるもうひとつの要素として、「薩摩琵琶」があるのかもしれない。
弟を失い一人ぼっちの永瀬と遊んだのが、祖父の宗則であり、その宗則に薩摩琵琶をもって武士魂を伝えたのが、曽祖父・岩登であった。
番組の最後に、宮崎・都城市にある永瀬正敏の実家には曽祖父・岩登から伝わる薩摩琵琶が飾られており、宗則の歌声が収録されている貴重な「音源」が紹介された。
真の意味での「琵琶奏者の家系」といっていいのが、樹木希林(旧芸名は悠木千帆)である。
樹木は、東京市神田区出身で、内田裕也(ロック歌手)と再婚し、間に娘・内田也哉子(エッセイスト、本木雅弘夫人)がいる。
父は薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水で、母は神保町でカフェを経営していた。
妹は薩摩琵琶奏者の荒井姿水。その息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水で、その妻の荒井美帆は、箏奏者(二十五絃箏奏者)として活動している。
樹木は、市ヶ谷にある千代田女学園に入学後、演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、大学受験直前にスキーで足を怪我したため、大学進学を断念した。
1961年に文学座に入り、「悠木千帆」名義で女優活動をスタートした。
1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ「七人の孫」にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した。
1966年に文学座を退団した後も、個性派女優として多くのドラマ、映画で舞台に出演する。
20代の頃から老人の役を演じ、出演するドラマ、映画などでは老け役が当たり役だった。
1974年にTBSで放送されたドラマ「寺内貫太郎一家」で、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じたが、実年齢は小林より10歳以上若く、頭髪を脱色し「老けメイク」を施した。
個人的記憶をいえば、寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた沢田研二のポスターを眺めて「ジュリー」といいながら、体をクネル姿を見るが我々一家の楽しみだった。
またドラマ「ムー一族」で共演した郷ひろみとのデュエットで「お化けのロック」「林檎殺人事件」をリリース、大ヒットしたのも記憶に残る。
さて、「琵琶奏者」の家系といえば、シンガー・ソングライター小椋佳の父親も琵琶の師範で、小椋佳は子供の頃から父親の琵琶を聴いて育っっている。
ところで「小椋佳」の本名は「神田紘爾」でその次男が神田宏司である。
神田宏司は、1973年に生まれる、中学受験で青山学院入学。14歳の時、原因不明で脳梗塞になり、全身不随となった。
リハビリで少しは体が動くようになるが、高校に入ったが授業についていけず自主退学。その後色々な事をやってみたが続かず、悶々とした青春時代を過ごす。
ところが、ある日突然50歳の父が琵琶を習いたいと言い、「お前もやらないか」と誘ってきた。
そこで浩司も、自分も「やるよ」と即答し、その翌週から早速晴風会の「山下晴風」師に入門し、薩摩琵琶の演奏を習い始めた。
その後、五線譜では表せない音が出て余韻が良いこと、打楽器と弦楽器の二つの楽器になることなど、琵琶の楽器としての魅力にひきこまれていく。
そして9年近く石田琵琶店の坂戸の工房に行き、2003年その工房を卒業する。
父が息子に語った言葉は、「生きている上で必要なことが二つある。生活の糧を自分で得ること。誇りに思える仕事を見つけること」だった。
最初に作った琵琶はなんといっても時間が掛かったことが一番の思い出である。
ひとつひとつの作業に時間が掛かり、出来たとしてもうまく音がならなく、やり直すことの繰り返し。
一番楽しいのは、製作の最後に琵琶を鳴らして音が出た時だが、反対に一生懸命に作ったものが鳴らなかった時のつらさは何ともいえないという。
はじめて出来た琵琶を父にプレゼントした時に、父のうれしそうな顔を見たらそれまでの苦労が一気に吹き飛んだという。
父親こそ、息子の最初の客だった。
ふっと、小椋佳の歌に漂う寂寥感や無常感は、琵琶の音色から生まれたのでは、と思い至った。