剣を鋤に 槍を鎌に

「主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは"剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌"とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。
これは、旧約聖書「イザヤ2章」の言葉だが、この言葉に基づいたモニュメントが国連に置かれている。
実は、同じく旧約聖書の「ヨエル書4」章には、まったく反対の言葉がある。
「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」である。
まだ軍隊が常設されていなかった時代、敵が攻めてくると一般の農民にこう呼びかけ、人々は農具を武器に作り変えて戦いに臨んだという。
イザヤ書では、この句をあえてヒックリ返して用い、武器を捨てて平和を選び取る意志、「戦わない」意志を明確に示したということである。
預言者イザヤが活躍した紀元前8世紀、イスラエル民族の二つの王国のうち、北のイスラエル王国がアッシリアに攻め滅ぼされ、南のユダ王国も戦乱に巻き込まれ危殆に瀕していた。
国土は荒れ果て、人々は傷つき、滅亡はかろうじてまぬがれたものの、敗残の小国としてアッシリアの支配に屈し、ユダ王国は無力感と絶望とに打ちひしがれた。
かつてダビデ王が都と定めソロモン王が壮麗な神殿を築いたエルサレムも、その栄光を失い無残な姿をさらしていた。
この時に預言者イザヤは、いつの日か、このエルサレムを多くの国々が仰ぐことになると告げた。
しかしそれは「今はみじめな敗戦国だが、いつか力を回復し、強国となって他国の国々に君臨するようになる」という意味ではない。
「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」がゆえに、この国が世界に仰がれるようになるという。
それから8世紀、エルサレムにイエス・キリストが現われ神の言葉を語ったが、当時のヤコブの家(イスラエル)は、イエスに強国になる指導者像を期待し、それが裏切られイエスを十字架につけた。
しかし結果からすれば、イザヤの預言どうりにエルサレムは世界中から「聖地」として仰がれることになる。
、 日本は戦後、イザヤの預言にある、「鎌を槍に打ち直せ」を世界に先駆けて徹底して行い「戦わない」という意思を明確に示した。
ただ、その根拠としての日本国憲法もイマヤ別の文脈で語られるようになった。
少なくとも、世界に「不戦の誓い」を発信することを放棄した、ごく普通の国になる決断をしようとしている。その良し悪しは、歴史によって裁かれるのもであろう。
さて、戦前の日本には、ヨエルの預言「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」にあたるような実態が多く存した。
当時の町村には、必ず寺が有って時を知らせる梵鐘があった。
子供も大人も寺の鐘が鳴れば時間を知りそれぞれが行動を開始した。遊び戯れた子供達も、夕焼けで空が赤らむ頃には、寺の鐘が鳴り家路に着いた。
懐かしい日本の夕暮れでは有るだろう。寺の鐘(梵鐘)は日本の歴史と共に歩んできた。
1932年、「大東亜戦争」に突入、世界を相手に戦争に突入した帝国日本だったが、物資の不足は死活問題となる。特に兵器を造る為の金属がなくなってしまい、ついには寺の鐘まで持って行った。
今でも、寺には鐘付き場は有っても梵鐘が無い寺が見られのは、これは「梵鐘献納」の為である。
ところで近年、福岡県飯塚市小竹町勝野の明楽寺で、鉄筋コンクリート製の鐘が見つかった。
太平洋戦争中、物資不足で国に鐘を供出し、その代替として作られたとみられる。
鐘は、境内に上下逆の状態で半分以上埋まっていた。
樹木に覆われ、水もたまり「金魚鉢のような状態」であったが、本堂建築工事で掘り出すまで鐘と気付かなかったという。
鐘の表面には「大東亜戦争供出記念」と西暦1942年に相当する「皇紀二千六百二年」の文字があった。
住職は「戦争の記録として残していきたい」と話している。
この小竹町には、戦争資料館がある。第2次世界大戦の激戦地だったミャンマー(旧ビルマ)から持ち帰られた夜香花が黄緑色の可憐な花を咲かせ、甘い香りを漂わせている。
戦友の遺骨収集で1976年にビルマを訪れた遠賀町の男性が苗を持ち帰り、挿し木で増やした。
それを、前館長の武富登巳男氏(故人)が譲り受けた。
武富氏も旧陸軍兵士としてビルマで約5年間の従軍経験があり、ご子息によると、「夜香花の香りをかぐと戦場の記憶が生々しくよみがえる。日本で8月のこの時期に咲くことは、あの戦争を忘れるなと訴えているようだ」と語っていたという。

「世界で唯一の被爆国」日本が原発大国になったのは、原爆を投下した当のアメリカが「原子力の平和転用」を日本政府に働きかけたことによる。
「原子力の平和利用」という言葉自体が、モハヤ真実を覆い隠してしている感があるが、その日本は、近年では原発輸出大国となり、それは2011年の311以後も変わらない。
実は、最近の東芝の不正会計処理の背景には、原発の輸出計画の「頓挫」があったようだ。
「技術転用」(または「素材転用」)といえば、もっと身近なものが思いうかぶ。
花札の製作技術をトランプに転用させた任天堂、足袋の製縫技術を下着に生かしたワコール、寺の建築技術を教会堂建築にアレンジした鉄川与助などである。
さらに軍用技術を「平和利用」したもので思いつくのは、地雷探査機の技術を掃除機ロボットに転用したアイロボット社、機関銃の技術をミシンに転用したジューキ・ミシンなどである。
また太平洋戦争末期、カミカゼの特攻機を製作した技術者が、その技術を平和利用しようと「新幹線」を生み出したことは良く知られている。
我が地元、福岡市において「剣を鋤に、槍を鎌に」に"近い"実例を探すと、とても意外なことに福岡県庁前の日蓮像本体がそれにあたる。
それは、佐賀県の谷口製作所で作られた。
佐賀県(肥前藩)は幕末期に日本で最初に「反射炉」(=金属融解炉)が作られたところであり、佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもつ谷口鉄工所は、要するに「大砲の製造所」であったのだ。
つまり大砲を作った工場で、鎌倉仏教の開祖の銅像が生まれたわけである。
これも、軍事技術の平和利用の一つといえるかもしれないが、実際、同じ技術や素材が平和利用から軍事利用に転じる場合、またその逆の場合、一体どんな「精神作用」が起きるのか知りたいものだ。
例えば、大阪の陣で有名な豊臣の「方広寺の鐘」を、徳川方が鋳潰して「寛永通宝」に変えてしまったようなケースである。
お金という「俗」のシンボル(手垢ソノモノ)が、仏像という「聖」なるモノに転じたりすることあったし、またその逆に仏像がお金に姿を変ってしまったこともあった。
世界に目を転じると、平和技術の戦時への「転用」を、歴史上もっともドラスチックに物語るのが、ドイツのノーベル賞科学者フリッツ・ハーバーの生涯である。
ハーパーは「毒ガス」の開発者として知られ、アインシュタインからは「才能を大量虐殺のために使っている」と非難された人物で、日本とも少々繋がりがある人物である。
時代はビスマルクの統治下、ユダヤ人の両親のもとに生まれたハーバーは化学の道を志し、「反ユダヤ主義」の障壁にも負けず、もちまえの勤勉さでカールスルーエ大学に職を得る。
まず、合成肥料の元となるアンモニアの合成法を開発し、ドイツの「食糧危機」を救った。
しかしアンモニアは「火薬」の原料でもあったため、ドイツは第一次世界大戦へと突入するやそれが爆薬として利用される。
しかし、ドイツが戦況不利になるにつれ、ハーパーは早く戦争を終わらせるために「毒ガス開発」に没頭していく。
ハーパーは、いわゆる「専門バカ」で、自分の科学研究がどういう道を開いていくか、想像力に欠けていたのだろうか、それともユダヤ人である自分がドイツ社会に受けいれられるために、何でもやろうとしたのだろうか。
ハーパーの妻クララも優秀な科学者であったが、夫のこうした研究に対して「自殺」というカタチで抗議を示している。
ドイツは第二次世界大戦では日本と同盟を組むが、ハーバーは日本への技術供与に貢献し、1926年には日独の文化交流機関「ベルリン日本研究所」を開設、初代所長に就任した。そして日本の星製薬の創業者・星一らとも技術的な関わりをもった。
訪日時の講演で「美の繊細さが日本独自の独創的な文化だろう」と、日本のすばらしさを真っ先に理解した人物でもあった。
ハーパーは戦争をはやく終わらせられなかったことに絶望すると同時に、ユダヤ教を棄てたにもかかわらすアドルフ・ヒトラーはハーバーに危害を加えようとする。
共同研究者だったボッシュは「こんな迫害をしていると、優秀なユダヤ人科学者はドイツを出て行ってしまう」とヒットラーを諌めるが、ヒットラーの根強い「人種的偏見」またはその政治的効果への信念を打ち砕くことはできなかった。
そして、ボッシュの言葉通り、アインシュタインをはじめとする科学者たちが亡命する。
そして誰よりも祖国ドイツに身命を捧げたはずのハーバーは、逃亡先のスイスのバーゼルで客死する。
しかしハーバーの最大の悲劇は、戦争を早く終わらせようと開発した毒ガスが多くのユダヤ人同胞を死に追いやったことだった。

モザンビークは、アフリカ南東部の共和国で、1975年ポルトガルから独立している。
首都はマプートで人口2206万。産業はカシューナッツ・綿花・サトウキビなどを産出する。
1975年~1992年 まで内戦があり、日本からもPKO活動の為に自衛隊が派遣されている。
モザンビーク一帯は人類史の中でも古くから人類が居住してきた歴史があり、およそ300万年前から人類が居住していたとされる。
モザンビークは1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが南アフリカの喜望峰を越えこの地に到達し、地理的に東インド航路の中継地として重要な拠点となり、貿易と船舶への補給で栄えてきた。
ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマの到達した15世紀以降アフリカのアンゴラ、モザンビークなどの支配に乗り出し、16世紀には入植を開始、17世紀半ばには植民地支配が浸透した。
第二次世界大戦が終了し1950年~60年代に入るとアフリカ諸国の独立が相次いだいわゆる「アフリカの年」と呼ばれた時期にさしかかる。
しかしポルトガルの植民地であったモザンビークは独立が遅れる。
ヨーロッパ全体の傾向として「植民地放棄」が強い潮流となっていたが、1951年ポルトガルのサラザール独裁政権は反対に、モザンビーク等植民地を実質的な国土とする考えを表明した。
そしてモザンビークを「海外州」と呼び変え、国際社会の非難を避けようとした。
こうした中、エドゥアルド・モンドラーネを議長とするモザンビーク解放戦線(FLERIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始した。
しかし、FLERIMOはマルクス主義を支持しソ連の援助を受けていたため、このことがポルトガル軍がFLERIMOに対して強硬手段を実施する格好の口実ともなった。
しかし、1974年にポルトガル本国で長期独裁政権が倒れると植民地の支配も終わりを告げ、モザンビークは1975年遂に独立を勝ち取った。
そしてFLERIMOは政党化し、モサモラ・マシェル議長は1975年6月にモザンビーク初代大統領となり、社会主義国家としてスタートし、平和が訪れるかとも思われた。
しかし、隣国ローデシアでは白人国家が形成されており、モザンビーク民族抵抗運動(MNR)が結成される。
MNRはポルトガル領時代に白人で組織された「秘密警察」を母体としており、現地人からは嫌悪の対象であった。
このため当初は成人男子や少年を「強制徴収」することで兵力を集め、学校や病院など社会的弱者の多い施設などを襲撃し人々を恐怖させた。
そのため国連決議による「国境封鎖制裁」が実施されると、モザンビークもこの決議に従い国境を封鎖する。
これに対して脅威を感じたローデシアのMNRはすぐにモザンビーク政府軍と衝突し、1977年に内戦が勃発した。
これに対しアフリカ民族会議(ANC)はモザンビーク政府を支援し、黒人と白人の「代理戦争」のような様相を呈した。
1986年には社会主義を提唱し続けてきたマシェル大統領が飛行機の墜落事故で死亡すると社会主義勢力の弱体化もあり、モザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、自由市場経済と複数政党制を謳った新憲法を制定する。
そして1992年に平和協定が締結され、国連PKOのモザンビーク活動の部隊が現地に入り、この中には日本の自衛隊部隊も含まれていた。
しかしハルカそれ以前、ポルトガルがモザンビークを支配していた時代に、日本人が最初にアフりカに残した足跡がこの地にある。
それは伊東マンショ、千々石ミゲルら4人がローマに派遣された天正少年使節がしるした足跡である。
1582年に長崎を発ち、ローマに達して教皇らに謁見した彼らは帰路、1586年9月1日にモザンビーク港に到達した。
一行は食料などを調達した後、インドのゴアに向かおうと出帆したが、順風が得られず、翌年3月まで約半年モザンビークに逗留した。
3月15日にゴアに向けて出航したが、途中で風向きが変わり、大陸側のモガディシオに押し戻され、12日間滞在した後、5月29日にゴアに到着した。
また、宣教師フランシスコ・ザビエルも1541~42年、日本への道中、モザンビーク島に6ヶ月間滞在している。
彼が毎日祈りを捧げていた石のある場所には、現在ザビエル礼拝堂が建てられている。
ところで、モザンビークの内戦は長期化し、100万人の犠牲者と170万人の難民を生み出した。
現在はIMFが経済支援を行いつつ国際社会への復帰を目指している。
内戦は終結したものの内戦中に敷設され200万個にも及ぶ地雷が経済復興の大きな障害になっており、世界の「最貧国」のひとつである。
先日、九州国立博物館における大英博物館展「100のモノが語る世界の歴史」を見に行った。
実は、その中で最も印象的なものこそ、モザンビークで製作されたモノで、97番目の展示物「銃器で作られた母像」である。
ライフル銃を解体して、その部品、部品を見事に組み合わせて「母親像」をつくったもので、近くにいた小学生の「ターミネーターみたい」という率直な声もあったが、その手にはハンドバッグが握られており、確かに「力強い母親」のイメージとなっている。
ちなみにこのハンドバッグは内戦で使われた「ソ連製ライフルAK47」の弾倉から作られているという。
モザンビークでは1976年から92年まで激しい内戦が繰り広げられ、東西冷戦を背景に諸外国から敵対する各陣営に莫大な武器が提供された。
内戦後、700万丁の銃などが残されたが、それをミシンや農具といった生産的な道具に交換する「平和プロジェクト」が始まった。
2011年、地元の芸術家がこの廃棄された武器を使って、高さは102センチにもおよぶ「母」という力強いシンボルを作りあげた。
説明文によれば、この像もまた聖書の言葉「剣を鋤に、槍を鎌に」に基づいて製作されたものだという。

「主は多くの民の争いをさばき
はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」(旧約聖書:ミカ書4:3)