風刺の土壌

日本の出来事も遠い国の出来事でも、どこかで「連動」していると当たり前のように思うになったのは、ニュースの速さとグローバル化の進展によるものだろう。
例えば、自民党の若手議員の勉強会で「マスコミを懲らしめる」という言葉がでた矢先、フランスやアルジェリアでの同時テロが起き、イマダ記憶になまなましいイスラム過激派の「シャルリー・エブト」社襲撃事件の悲劇が蘇ったりする。
もちろん二つの出来事には直接的関係はないが、その背景には共通のものを感じる。
つまりグローバル化と「格差」の進行は、多くの不満のエネルギーを押さえ込む必要が生じ、それは必然的に「言論」を抑圧する方向に走りがちだ。
そうした抑圧の力に対して、テロリズムで対抗しようというリスクも高まる。
さて、自民党の若手議員の勉強会とは、非公式のものであるにせよ「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番。経団連にお願いしよう」といった発言がでて、経団連の側からは笑い声がおきたのみだったという。
また、この勉強会の講師にはマスコミ出身の作家・百田尚樹氏で、首相官邸がNHK経営委員に推した人物である。
この作家は「海賊とよばれた男」に次いで「永遠のゼロ」で沖縄の海に散った特攻隊を描いて一躍流行作家となったが、その人の口から「沖縄の二つの新聞社は絶対につぶさなあかん」とか「米兵が犯したレイプ犯罪よりも、沖縄人自身が起こしたレイプ犯罪の方がはるかに率が高い」なんていう発言が出たりするから、人間というものは少々売れるとドコマデ有頂天になれるのかという良きサンプルとしたい。
ちなみに百田氏があげた「二つの新聞社」のひとつが沖縄タイムズだが、数年前に放映された山崎豊子「運命の人」で描かれた米政府と日本との間で結ばれた「沖縄基地をめぐる密約」を追求した新聞社である。
さらにもうひとつ、この「勉強会」にでた発言に、思い浮かべた場面がある。
昨年長崎市で安部首相が原爆被爆者との話し合いの場で、市民による集団的自衛権の行使容認への懸念発言に対して、「見解の相違です」という回答の一言で、質疑を終わらせた場面である。
つまり、自分達と価値観が違うものとは、「議論」の余地さえないという態度、つまり何も生みようもない「永遠のゼロ」の姿勢を示したということである。
そして百田氏といえばハバからず「安部シンパ」を表明しているものの、皮肉にも延長国会にもちこんだ安保法制の進行の足枷になってしまったようだ。

自民党勉強会での「マスコミ威圧発言」ニュースの翌日のニュースで、イスラム過激派がフランスやチュニジアなどでテロを行い数多くの人命が奪われたことが報じられた。
今年1月イスラム過激派とみられる兄弟が、フランスの雑誌社「シャルリー・エブド」を襲撃し、風刺漫画化らが殺害された事件の深い傷がいまだにいえぬ中でのことである。
しばらく前にイギリスでテロが起きビルが爆破された時、店主が「入り口を大きくしました」と広告を出したユーモアは、さすがだと思った。
フランス人も会話好きが多く、本来ユーモアや「風刺」を尊ぶ国民性であると推測する。
というのも多くの日本人が歴史の教科書で一度は目にしたことのある風刺画の作者・ジョルジュ・ビゴーはフランス人である。
風刺画家ビゴーがなにゆえ明治の日本を訪れたかといえば、きっかけはフランスで万国博覧会などで接した日本と「ジャポニズム」に刺激され、日本を見てみたいというヤム難き「渇望」が生じたことによる。
こうしたビゴーらの風刺画の伝統に乗っかった雑誌社がイスラム過激派により襲撃された「シャルリー・エブド」である。
つまり、フランスには早くから毒気のある批判を受け入れる土壌ができており、それでこそ健全な社会なのだという意識がある。
振り返ると、テロが起きるたびに、それまで知らなかったことが明らかになる。
例えば9・11テロで知ったことのひとつが、ターゲットになった世界貿易センタービルの設計者ミノル・ヤマサキという日系移民であったことである。
ミノル・ヤマサキは1912年12月、富山県出身の日本人移民の子としてシアトルに生まれた。
母方のおじが建築家であった影響で建築を志した。家が貧しかったのでサケの缶詰工場で働きながら、学費を稼ぎ苦学して建築学を学んだ。
その後、一流設計事務所に務めながら修業を積み次第に頭角をあらわしていった。
29歳で結婚したその2日後に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が勃発する。
戦前からその能力を認められていたヤマサキ、日系人への迫害が激しかった太平洋戦争中も、収容所に強制収容されることもなくいくつかの事務所を渡り歩いて終戦の年1945年には所員600人を擁する大手設計事務所事務所のチーフデザイナーに迎えられている。
その後4度にわたってアメリカ建築家協会の一等栄誉賞(ファースト・ホーナー・アワード)を受賞するなど日系人の一流建築家としてニューヨークに、当時世界最高の高さを誇るビル(世界貿易センタービル)を設計する栄誉を手にした。
その後もトップクラスの一流建築家として活躍し、数多くの作品を残したヤマサキは、1986年2月、73歳で亡くなっている。日本では都ホテル東京に彼のデザインの一端を見ることが出来る。
ミノル・ヤマサキの経歴に、イサム・ノグチというもう一人の日系人のことを思い出した。
ヤマサキは日米戦争勃発の際、日系人収容所に入ることなくアメリカで活躍し続け一流建築事務所を渡り歩いたのに対し、野口は自ら日系人収容所にはいることを選んでいる。
ノグチの場合、収容所においてアメリカ人とのハーフということで、アメリカのスパイとの噂がたち日本人から冷遇され、今度は自ら出所を希望するがまたも日本人のハーフとのことで出所はできなかった。
ちなみに、イサム・ノグチは、彼とおなじように「二つの国」つまり日本と中国との間で魂を引き裂かれた山口淑子(女優名:李香蘭)と結婚していた時期がある。
また、2013年、アルジェリアで石油プラントが襲撃され、日本人7名が犠牲となった。この国際事業の一端を請け負ったのが「日揮」という会社である。
社名は設立当時の社名である「日本揮発油株式会社」に由来する。
主な業務は、「製品を作る製造設備を造る事」である。
製造設備の内訳は、石油精製プラント、石油化学・化学プラント、LNGプラント、天然ガス処理プラント等を手がけている。
1928年「日本揮発油株式会社」の設立の際、会長が島徳蔵、社長・実吉雅郎、専務・関口寿、常務・角田駒治といった経営陣でスタートしている。
この会社のトップを飾る名前「島徳蔵」という人物は、意外や大阪北浜の相場師として「悪名」を馳せた人物である。
島徳蔵は、第一次世界大戦真っ最中に、増資新株の権利取りとサヤ取り、そしてインサイダー含めてめての荒稼ぎは凄まじかったといわれている。
情報をくれた政治家関係者と連日料亭では豪遊の宴に興じ札束をバラ撒いた。
そしてその政治力と金の力 で1916年に大阪株式取引所の6代目の理事長に就任している。
そして、資本金を6倍半にさせたり、上海取引所設立の利権を手に入れ、株価操作で巨万の富をカキき集めた。
その「株価操縦」の手口においては、仲間を騙したり、裏切ることもハバカラなかったという。
しかし、この島徳蔵創業の「島商店」の転機となったのは、入社してきた実吉雅朗(さねよしまさあき)という人物であった。
実吉は島徳蔵のの長女を妻として、島商店を「製品を作る製造設備を造る」企業に変貌させ、1928年に現在の「日揮」の前身「日本揮発油株式会社」を設立した。
また1968年に「実吉奨学会」を理工系の若手研究者への研究費助成を行うことを目的として設立している。
ちなみに、島徳蔵の次女の夫が郵政大臣・野田卯一であり、現在の野田聖子衆議院議員につながっている。
ともあれ、アルジェリアで石油プラント襲撃事件は、ガラパゴス化とか内向きといわれる日本社会にあって、誇りをもって海外の過酷な労働現場で働く人々が少なからずいることを教えてくれた。

さて我が地元・福岡で「シャルリー・エブド」テロ事件の3ヶ月後に、犠牲となったフランス人風刺画家の「作品展示会」が開かれた。この事実によって、このフランス人風刺画家と日本人との交流を知った。
シャルリー・エブド本社襲撃事件で殺害された12人の中には著名な風刺漫画家4人が含まれていた。
亡くなったのは、同紙編集長で、「シャルブ」のペンネームで知られていたステファヌ・シャルボニエ氏、「カビュー」のペンネームで広く知られていたジャン・カビュ氏、「ティニュー」として知られるベルナール・ベラク氏、そして、ジョルジュ・ウォランスキ氏である。
その中でも、ベルナール・ベラク氏(死亡当時57才)は我が福岡と関わりが深く、テロから3か月後に福岡市内のフランス政府系文化機関「アンスティチュ・フランセ九州」で作品の展示会が行われた。
というのもべラク氏は1992年秋に約3週間、福岡や長崎、大分を旅行し、目にした人々の日常を描いた60点が展示された。
ありふれた日常をペン画を中心に描き、例えば、公衆電話でお辞儀をしながら話す女性の姿など、「電話の相手も同じことをしているに違いない」との説明文が添えられている。
また、満員電車の中でみんなヴィトンバッグを持っているとか、またランスのパンが、フランスよりおいしくなってるとか、1990年代の様子を描いている。
またベラク氏は、「オバタリアン」の漫画家の堀田氏らと、1992年に福岡の温泉に行って、その記念写真も残っている。
1998年に再度来日した際ベラク氏は、アンスティチュ・フランセ九州に作品を寄贈し、テロの後にフランセ九州がベラク氏への哀悼と敬意を示すため、展示会の開催を決定した。
その作品の多くにユーモアのある説明文が添えられ、社会を鋭く、そして暖かく見つめてきたベラク氏の一端をうかがい知ることができたという。
実は、ベラク氏ばかりではなく「シャルリー・エブド」の亡くなった4人は、日本の風刺漫画家の山井教雄氏らと交流があった。
山井氏と共に2006年に設立された漫画家達による平和貢献活動を目的としたNGOを設立しており、これまでに世界20都市で表現の自由や各国の文化の尊重などをテーマにした展覧会やシンポジウムを開いてきたという。
山井氏は1947年青森県弘前生まれで、東京外大スペイン語科卒業後、映画や語学教材の教育ビデオの製作を行ってきたが、1987年ごろより国内外の新聞雑誌で、漫画を連載するようになり、2000年には国際政治漫画でグランプリを受賞している。
さて、フランスの風刺画は毒のあるものが多く、それがあたりまえであり、それでこそファンも多い。
関係者によれば、「シャルリー・エブド」はこれまで、キリスト教絡みの風刺漫画をたくさん描いたのに、イスラム教の漫画を数枚描いただけでテロのターゲットになってしまった。
それはイスラム教の教祖を冒涜したことへの報復として行われたテロだが、それは「シャルリー・エブド」の持っている文化的価値をも否定されるように感じられたという。
その「文化」とは、今の世の中の多くのメディアはかなりコントロールされてる中での、自粛を知らないメディア文化としての価値である。
メディアの多くは、スポンサーの言いなりになったり、それぞれの権力の言いなりになったりしている。
しかしフランスには、「シャルリー・エブド」ばかりではなく、検閲が大嫌いで、自粛もしない。ただ面白いと思ったものはとにかく「書く」というスタンスであることをよしとする傾向がある。
100年の歴史をもつ「カナール紙」は100年の歴史を持っているが、広告は一切入ってない。
全部読者の購読によって生きてるため、スポンサーはおらずそれによってコントロールされることが一切ないいわゆる「インディース」である。
今の大きな問題は、「権力による抑圧」ばかりではなく、「スポンサーによる抑圧」であるので、そういうような雑誌とかメディアが残ってるのは、社会の健全さの「証」といえるかもしれない。
もちろんなかには、ウィットもユーモアもない侮蔑的なものもあるだろうが、よほど公共性が高いものでない限り、「市場」にまかせておけばよいということだろう。
今度のテロで、そうした文化のその中核的な存在だった漫画家達が、ことごとく銃撃されて殺されたため、そういう意味での「文化的なロス」が大きいといえよう。
さて、西欧が市民革命を通して獲得してきた基本的人権の特徴として、思想・信教・表現などの精神的な自由を最大限に重んじるということがあげられる。
したがって、それを制限しようと思えば、十分な正当化の根拠が必要になる。
そしてある部分、表現の自由の問題は、神の「神聖」との戦いの歴史でもあったともいえる。
そして、西欧社会は、神や信仰を冒涜することを理由に、表現の自由を制約することは、認められないという地点に到達している。
これが幾多の宗教戦争や弾圧と戦ってきた西欧流の人権意識の地平といってよい。
しかし今回のテロの人々怒りの元は、「射殺」という方法によって「表現」の封殺をはかったことである。
だからこそ今度は、団結して「私はシャルリー」と語ってテロには屈しないという姿勢をもって、フランスばかりではなく、世界中のメディアがアピールしようとしている。
個人的には、テロには屈しない強い姿勢を見せるためあえて「連載を続ける」という姿勢に驚く。
かつてシャルリーの編集長が「膝間づいて生きるより、立ったまま死んでもいい」と「死んだほうがマシ」というようなことを言った。
だからそういうような「自粛」とかは彼らのプライドからしてもあり得ないことである。
「風刺」はギリシャ時代の古くから脈々とつながる文化である。風刺画もフランス革命前後から今日まで西欧文化に根付き、各国にも特有のものがある。権威あるものを笑い飛ばすということは人々に活力を与えてきた。
我が福岡にも「博多にわか」というものが生まれた。
基本的に博多は商人の町であった。旧き歴史をもつ誇り高き博多商人にとって、中津から黒田氏を新たに藩主として迎え入れることは、ある種の屈折が生じたとしても不思議ではない。
那珂川から東を福岡ではなく、依然として「博多」とよび慣わしたのは、そうした博多商人の矜持をうかがわせるものである。
「博多にわか」は、商人達がお面をして顔を隠し藩役人の失策などを軽い笑いにしたところから生まれた。
「博多にわか」で使われるお面の目が鋭くはなく垂れ目でトロンとしているところがなんともいえない。
そしてこのお面こそは「博多ッ子」気質を示しているのではないかと思う。また藩としても、博多商人のその程度のカタルシスを認めざるをえなかったのであろう。
この「博多にわか」の風刺精神も、博多という文化の中で育ったということだ。
その博多の人間も、大阪のお笑いに嫌悪感を覚えたり、江戸っ子の粋にはついていけなかったりする。
つまり何かを風刺することについても、それぞれの国や地域、文化の成り立ちの中で育ってきた土壌の所産といえる。
さて、世界史を俯瞰すれば、キリスト教徒よりも、イスラム教徒の方がよほど共存の精神をもった宗教であることがわかる。
「共存」とはどこかで自己を相対化することが必要だが、それこそが「風刺を風刺として受け止められる」ということではなかろうか。
つまり宗教に対しても「ユーモアにくるんだ批判」として受け止めるダケの土壌が必要となる。
しかしながら、ますます広がる格差の故、その土壌が侵食されているのがこの時代の姿なのかもしれない。