動物裁判と愛護

イルカの追い込み漁が「残酷だ」として、世界動物園水族館協会(WAZA)が日本の水族館に対し、日本の「伝統的な漁法」で捕獲したイルカの入手をやめなければ協会を除名処分にすると通告してきた。
この問題で、日本動物園水族館協会(JAZA)が5月、多くの水族館が依存しているこの方法での入手の禁止を決めたという。
この「伝統的な漁法」とは、「イルカ追い込み漁」というものだが、獲物の群れを後方側方から追い立てて目的の方向へ誘導する。
そのことの、一体ドコガ動物虐待にあたるのか。
「追い込み漁」の映像を見たことがないのでなんともいえないが、牧羊犬がヒツジの群れの周囲を吠えながら駆けずりまわって誘導していくのと、どこが違うのだろう。
イルカを追い込む漁船は、鉄管を叩いて威嚇音を出しながらイルカの群れのまわり三方を囲み、誘導したい方向にイルカの逃げる方向をつくることで徐々に導いていく。
その際、鉄管を鉄槌でガンガン叩いて、イルカたちを「不快音」で湾内に追い込むと、逃げられないように魚網を素早く展開する。
「鉄管」というのは、直径10センチ、長さ5メートルほどの鉄製の棒のようなもの。
先端の2メートルほどが海中に入り、反対側はデッキの操舵席横になるように設置される。この鉄管が「追い込み漁」のカナメであるという。
イルカを湾内に追い込んだら、いったんそこで泳がせておいて、翌日の早朝から「陸班」「海班」「船班」に分かれて捕獲作業に移る。
まずは「船班」が、湾内を自由に泳いでいた群れをゆっくりと岸へ追い立てながら、網を狭めていくなかで、水深も数十センチほどになり、勢い余って岸に乗り上げてくるイルカもいる。
次にウエットスーツ姿の「海班」が浅瀬に上がってきたイルカの尾びれにロープをかけ、このロープを受け取った「陸班」は、岸に張った長い網につなぎイルカの動きを抑える。
イルカの尾びれの力はとても強力で、作業を危険なものにする。おとなしフリをして、突然大暴れすることも多い。
そこで、動きの少ない間合いを見て、脳と脊髄をつなぐ大動脈および神経を切断することで絶命させることが多いので、海は「血」に染まる。
屠殺されたイルカたちは、小型船で魚市場まで運搬され、刃渡30センチの大包丁と補助用の手鈎を使い、人力で解剖されることになる。
一方、今回問題になっている「水族館行き」のイルカは、岸に追い立てられている個体から購入側の希望に沿うものを「海班」が選ぶらしい。
さて、アメリカの駐日大使といえば、ケネデイ大統領の娘キャロラインだが、実は彼女は「環境問題」と深く関わった経歴の持ち主である。
カリフォルニア沖のプエルトリコのビエケス島は、長い間米海軍が様々な種類の砲弾を着弾させる射撃場として使用していた。
ところが1990年代になって各種の砲弾の爆発による環境汚染が問題となると、抗議活動がだんだんとエスカレートしていった。
抗議活動は、最初はプエルトリコ人だけの運動だったが、1999年頃からはアメリカ本土からも環境活動家たちが参加して大きな運動になっていった。
ケネディ・ジュニア(故ロバート・ケネディ司法長官の息子、JFKの甥)が上陸してキャンプをして反対運動をして逮捕されたこともある。
そのいとこにあたるキャロライン・ケネディも、ニューヨークのリベラルな政界の中におり、プエルトリコの米軍射撃場「ビエケス島問題」の環境協保護に関わっていたのである。
というわけで、普天間基地の辺野古移設問題について「環境保護」の立場から何らかの発言を期待したのだが、それはなく、出てきたのは「イルカの追い込み漁は残酷」という発言だった。
哺乳類の捕獲法が、湾内を血染めにするとしても、牛や豚の屠殺と比べて本当に許しがたいほど残酷なことなのか。

個人的は、欧米人の動物愛護の感覚は理解しがたいものがあるが、その背景にヨーロッパ中世に行われた人間と動物の戯画のような「動物裁判」があったことを想起するのは筋違いだろうか。
かつて、ドイツ・ロマンチッック街道にあるヨーロッパ中世の街ローテンブルクで「中世犯罪博物館」を訪れたことがある。
罪人への刑罰のひとつに動物のお面を被らせ見世物にするというのがあり、そのお面が牛・豚・狐など多彩であったのが印象的であった。
このような人間への刑罰は、13~17世紀前後の中世ヨーロッパでは、「動物裁判」というものが流行したことと無関係ではないかもしれない。
「動物裁判」とは、その名の通り罪を犯した動物を、人間と同じく裁判にかけて処罰するというもの。
罪状と判決は様々で殺人罪のブタや、破門宣告を受けたバッタ。弁護士の力量で無罪になったネズミなどが存在した。
もちろん記録に残っていない動物の処罰も数多く存在するから、島流しにされたヘビなんかもいたかもしれない。
これらの動物裁判は頻繁にあったわけではないが、残存資料に残されている動物裁判の履歴は、有罪となったものだけでも9世紀から19世紀にかけて合計142件記録されている。
特に動物裁判が活発だったのは15~17世紀にかけてで、裁判の合計件数は122件となっている。
特に裁かれる多かった動物はブタ。
中世のブタは、現在のブタと違いキバが生えイノシシに近い獰猛で、その上農村ではブタを放し飼いにしていた。
そのため、ブタが暴れまわり人間を殺傷するのは珍しくなかったという。
動物裁判の流れは、当時の人間に対する裁判とほぼ同等で、犯罪が確認された動物は憲兵隊によって逮捕され、裁判所の監獄に投獄される。
多分、2、3年に一度のケースのために動物専用の監獄を作るのも面倒だし費用もかかるので、人間と同じ牢にいられれた可能性もある。
罪を犯して服役したらブタと同室になり、騒音と臭気に悩ませられる可能性もある。
現代の刑務所では、罪が重い奴のほうが偉いとかいう不文律のある監獄もある。
仮に窃盗程度で捕まったら、隣のブタは殺人罪なのだから、シャバでもダメ人間なのに監獄でもブタ以下ということになる。
監獄にいれられたあとは、検察官が被告を起訴し、それが受理されると弁護人が任命され、被告は出頭を命ぜられる。
その後の裁判の流れも通常と同様に、罪状が読まれ求刑を求められ、無罪か有罪かの判決を受けた。
有罪の場合、大抵は絞首刑となる。
裁判にかけられたのは動物だけではなく、ハエ・ミミズ・アリ・ネズミ・バッタ・モグラなどの害虫・害獣も裁判にかけられた。
彼らは大量に発生し、農作物に甚大な被害を与えたりする。そこで、彼らの暴挙を止めるために破門制裁や強制退去を命じるために裁判が開かれた。
とはいえ、引き立てることのできる大きな動物と違い、数が多くすばしっこい昆虫を引き立てるのは極めて困難である。
そもそも、ドレが下手人かなんて識別不能である。
そこで、裁判官の使者を動物の住居に派遣し、裁判所に出頭することを命じることになる。
こうして告知したにもかかわらず、指定された日時にこなかった場合、欠席したと判断され、何日かの間隔を空けて、裁判所は被告に出頭を求めますが、3回出頭しなければ「欠席」が確定し、罪に問われる。
もちろん動物が来るハズもないが、人間ならば罰金刑や禁固刑を命ずることができるが、小動物にそれを実行することは不可能。
そこで、唯一実行可能な刑罰である「破門宣告」が命ぜられる。
しかし、必ずしも一方的に裁かれるとは限らず、昆虫裁判でもちゃんと弁護人がいて、弁護人によって弁護され情状酌量で無罪になったり減刑になる場合もあった。
当時では、殺人が行なわれるとそれが動物によるものであっても人間によるものであっても無生物であっても、正式に裁かれなければ神の怒りに触れると考えた。そのため、このような「動物裁判」が発足したと考えられている。
現代人は、昆虫に破門宣告をしたり強制退去を命じても、それにドンナ意味があるかと思うが、当時の人々は大真面目であり、中世のコスモロジーの中では破門宣告にも何らかの意味を感じたのだろう。
しかし動物と人間を対等に扱う「意識」は、動物愛護の精神にも繋がるように思うが、これを中世の古い話とばかりはいえない。
というのも、現代においてこの「自然の権利裁判」といのがあった。
これは、人間以外の自然が原告となった訴訟のことである。
アメリカのクリストファー・ストーン博士が山地のリゾート開発を止めるための訴訟に際し、「樹木の当事者適格――自然の法的権利」という論文を書いて支援したことが発端と言われている。
主として絶滅危惧種や天然記念物が指定され、日本では沖縄のジュゴンや渡り鳥のオオヒクシイ、奄美のウミガメなどが裁判所に提訴されている。
しかし、日本では「動物に原告の資格はない」として全て却下されている。
アメリカでは1973年に「種の保存法」を制定されており、テネシー州のダム建設差し止め訴訟で米連邦最高裁は78年に、絶滅の危機にある魚の「原告代理」となった研究者の訴えを認め、建設差し止め判決を出している。
2015年4月、米ニューヨーク州の最高裁が、州立大学が研究施設で飼育している2匹のチンパンジーについて、不当に自由を奪う「違法拘禁」の可能性があるとして、米では初となる人間と同じ扱いの「人身保護令状」を出した。
19世紀の学者エドワード・エヴァンズは中世のヨーロッパの動物裁判をさして「悲喜劇」と評価しているが、それは今現在でも行われている「自然の権利裁判」とそれほど大きく変わらないようだ。

人間と動物の「戯画的風景」といえば、5代将軍・徳川綱吉の「生類あわれみの令」を思い浮かべるが、8代将軍・吉宗の時代にも面白い場面があった。
1728年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、「発注し」取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
この象の「発注」主は徳川吉宗であるが、「享保の改革」を行った8代将軍としてよく知られ、「米将軍」とよばれていた。
入試問題でTV番組のタイトル「暴れん坊将軍」の誤解答で有名になった将軍だが、とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した人物であった。
それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みたりした。
また、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
また酪農も推奨し、珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。
とはいっても「生きた象」が日本に渡来したのはこの時が初めてではなく、5回目であったという。
ただ、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたという点で、従来の場合とは異なるところである。
歴史にのこる最初は、1408年で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着した。孔雀2対などと共にインドゾウが献上されたとある。
吉宗が招いた象も1730年6月には早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、「浜御殿」で飼われたという。
もちろん、相当な飼育費がかかったと推測されるが、1741年4月、江戸中野村の源助に下げ渡され、見世物になった。
翌年暴れまわって騒ぎを起こすなどしたこともあり、この年の末には21歳の波乱の「ゾウ生」を閉じた。
「官位」までも頂き天皇謁見の栄誉に与った象ではあったが、末路は寂しいものだった。
ただ象がやって来たのが江戸の大衆文化の勃興期にあたり、歴史上これほど多くの人々の目に「さらされた」点で、この象の上に出るものはいなかった。
中国からやってきたこの象は、様々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野にも題材を提供し旋風を巻き起こしたのだ。

そもそも人間の衣食住にはすべて本質的に残酷なプロセスを帯びていて、「近代化」とは、そういう残酷さを覆い隠すプロセスだといってよい。
プロセズ覆い隠されて「結果」のみを得るのが現代人で、「食らう」ことの本質は忘れられがちだ。
、 それでも、時にアレッっという場面に遭遇したりする。
個人的な話だが、福岡市の西部を流れる室見川で夏の風物詩のように白魚の踊り食いなんてしたことがあるが、どこか「残酷」という自責の念が生じたものの、生きたままの魚を喉越しで味わいながら食べるという好奇心が勝ってしまった。
最近問題となった「イルカの追い込み漁」に、我勝手に命名した「白魚の豆腐追い込み料理」というのがある。
鍋に水、透き通った白魚、豆腐がいれてあって、鍋を温めると白魚が熱がって豆腐の中に逃げ込む。
豆腐に入り込んだ白魚は身動きが出来ず窒息死に追いやられ、それに醤油をふって豆腐ごと食べるというもの。
逃げ場のなくしての捕獲ではなく、モロ「食べる」ことなので、こちらの方が残酷かもしれない。
とはいえ、シー・シェパードなど過激な動物愛護団体は、魚に対してではなく哺乳類つまり人間に近い動物に対して保護活動を行っているようだ。
イルカは、哺乳類だから残酷な捕獲や食べ方をしてはならないなら、魚だったらいいのか。また牛や豚の屠殺しはどうなんだ。
人間に近い動物には残酷といいつも、そうでもない生き物に対しては許されるのか。
人間にとって可愛くない哺乳類に対してはどうなのか、などなど様々な疑問が湧き上がってくる。
かつて本で読んだことのある「ジュゴンの捕獲法」を思い出した。
ジュゴンは海で泳いでいると「人魚」のような姿を見せるが、この肉は牛肉以上といわれるほど美味らしい。
そのジュゴンの掴まえ方がスゴイ。
まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。
さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きつき、いちはやく二つ鼻の穴に栓をして窒息死させる。
ジュゴンの捕獲はやや極端だが「食する」ということは本来、その捕獲や殺しも含めたプロセス全体を指す。
つまり本来「食す」ことは、全身全力で行うことで、それにともなう「痛み」も「犠牲」も体感した上で食らうことなのだ。
だからこそ人間の「食」には「祈り」がともなうのだろう。
その本質を忘れたかのような動物愛護は、人間と動物の「戯画」をもたらすものでしかない。