平凡という偉大さ

映画「スウィングガールズ」(2004年/上野樹里主演)は 東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生がビッグバンドを組んで、ジャズを演奏する青春映画である。キャッチフレーズは「ジャズやるべ!」。
女子高校生達が乗ったのが山形鉄道・フラワー長井線である。
山形鉄道は、国鉄改革にともない特定地方交通線に、選定された長井線の経営を引き受けるために設立された、山形県や沿線地方自治体等が出資する「第三セクター」の鉄道会社である。
そして南陽市の赤湯から、川西町・長井市を通り、白鷹町の荒砥までの片道約30キロメートルを1時間ほどかけて結ぶ。
さて「赤字続き」のローカル線であるフラワー長井線は、ホボ廃線がきまっていた。そんな状況を一変させたのが、新入社員・松山愛だった。
松山は全く鉄道の知識が無く、就職の面接でも「駅に動物園を作りたい」と、方言丸出の言葉で語り続けた。
自分でもとんでもないアピールをしたともんだと後悔し、「不採用」とばかり思いこんでいた。
その彼女に「採用」の通知がきた。実は松山は農業高校を卒業後、一度は保母になっている。
保母になって、人間よりも動物の方が好きなことに気がついた。何しろ「牛の堆肥」の匂いに幸せを感じる人だったから。
鉄道会社「採用」になったのは、フラワー鉄道の採用担当者の中に、あんな夢をもった人間ほど、この会社に必要ではないかという人がいたのである。
そして、松山は夢をかなえるためにどこかの駅で実現している「猫駅長」を参考にして、宮内駅の駅長を「白ウサギ」にして就任させることを提案した。
フラワー長井線には「白兎」という駅があり、最初は白兎駅に白うさぎを置こうと予定していたが、無人駅で 待合室が狭いなどの理由で却下になった。
そして次に候補に挙がったのが宮内駅で、白うさぎとは何の関係もなさそうな宮内駅にうさぎを置くことの理由がすぐには見つからなかった。
ところが宮内駅前の蕎麦屋から、駅近くの熊野神社に3羽のウサギが隠し彫りしてあり、その三羽を見つけると願いごとがカナウ話を聞き、白うさぎを駅長にしようと考えたという。
そして、この蕎麦屋が飼っていた「かめ吉」も、その部下に加わった。
宮内駅には、駅長の「もっちぃ」、助役の「かめ吉」、駅員の「ぴーたーとてん」の3羽のうさぎが勤務し、それがだんだんと評判になり、フラワー長井線には多くの人が訪れるようになり、なんと乗客は20倍にも増え、廃線の危機を脱したのである。

映画「スウィングガール」と同じ年2004年に公開されたフランス映画「コーラス」は、平凡さの中にある偉大さを見事に描いている。
舞台は戦後間もない1949年頃、孤児や問題児を集めた寄宿舎、その名も「Fond De L'Étang(池の底)」である。
ある日一人の音楽教師マチューが舎監としてやってくる、となるとアメリカ映画「ミュージック・オブ・ハート」(1999年)を思い出させる。
「コーラス」の主人公・マチュー先生は、厳しい規律と強烈な罰を持って生徒に対する校長や同僚教師、その一方で悪戯が酷く反抗的な生徒達にとまどう。
マチュー先生は、風采はあがらず、声はかぼそく、まるで威厳を感じさせないものの、あくまでも年長の指導者として生徒に接する。
誰かに抗議するにせよ通じないとわかれば引き下がるが、だからといって、自分のやり方を曲げる気はない。
実は、マチュー先生は作曲家として挫折した経歴の人で、自分の経験を生かそうと生徒達に合唱を教え始める。
マチュー先生は、大それたことを考えているわけではなく、ただ生徒に和らぐ場を提供しようと音楽を教える。
そして、ある1人の問題児が「天使の歌声」を持っていることに気づく。
そして、マチュー先生なりの「信念」とは、音痴で物覚えの悪い子には、彼には歌わせず、譜面台役を命じる。
できない子に一緒に歌わせても、欠点が際立つだけだ。かえってイジメにあったり、才能のなさに落ち込むかもしれない。
一方で、天性の美声をもつ少年は、ソロ・パートをやらせて、その才能をより多く発揮させる。
厳しくしごくわけでも、やさしく平等に扱ってやるわけでもない。
どんな状況にあってもごくごく普通の教師であることを淡々と貫き、そういうブレナイ姿勢の故か、冴えない中年男という最初のイメージは変わっていき、偉大な人間に見えてくる。
映画全般を通じて、冴えない外見に隠されたマチュー先生の強さや暖かさが次第にわかっていく。
それがこの映画の素晴らしさだが、この映画のラストちかく、生徒達は「発表会」で盛り上がる。
しかし、「ミュージック オブ ハート」のように喝采を浴びるわけでもない。
それどころか思わぬ不祥事の責任を負わされ、マチュー先生は学校を去る。しかし、その別れはあくまでも感動的だった。

1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)ー豊田大谷(愛知)の試合。
炎天下の中始まったその試合は、2-2のまま延長に入ったが、両校ともに得点を挙げることができず、なかなか決着がつかなかった。
迎えた延長15回裏、豊田大谷はヒットと相手のエラーで無死一、三塁と、一打サヨナラのチャンスとした。
ここで宇部商は次打者を敬遠し、満塁策をとる。
無死満塁。ここまでひとりで投げ続けてきたのは、宇部商の左腕のエース藤田修平。身長172センチ、58キロの細身の2年生投手だった。
藤田は、ボールカウントを2ストライク1ボールとして、追い込んだ。
そして勝負の211球目となるハズだった。
キャッチャーのサインを確認した藤田は、セットポジションに入ろうと、腰部分に構えていた左手を下ろし、右手のグラブに収めかけた。
ところが、藤田はその左手を再び腰へと戻してしまった。左足はプレートから外されてはおらず、明らかな投球モーションの中断である。
「ボーク!」球審の林が両手をあげると、甲子園の空気が一変した。
5万人が見つめる中、林はスススッとマウンドに向かって歩を進め、ピッチャーとキャッチャーの間に入って三塁走者を指した。そして、生還を促すジェスチャーを2度、繰り返した。
延長15回、3時間半を超える大熱戦は、実にアッサリと終止符が打たれた。
この“延長15回サヨナラボーク”は、多くの高校野球ファンには“悲劇”と映った。そして、藤田に集まったのは同情だった。
学校に届いた激励の手紙は約300通。だが、当時の監督は本人を浮かれさせまいと、手紙のことは黙っていた。
試合後、林審判は記者に囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。
ほとんどが、藤田に同情を寄せるような内容だった。「注意でも良かったのでは?」と食い下がる記者もいた。
しかし林球審は、「我々はルールの番人ですから、それはできません」との言葉で、ようやく記者から解放された。
それでも、お茶の間では“悲劇の藤田投手”が続いていた。まるで犯人扱いされる林球審を救ったのが現在、巨人の監督を務める原辰徳だった。
当時、野球解説者だった原は、テレビのスポーツ番組に出演した際、こう言ったのだ。「あれは完全なボークです。的確にジャッジした審判員を、私は称えます」と。この言葉で林への世間の見方が変わった。
実は、林球審にも彼の「野球人生」があった。
1955年5月25日、東京都生まれ。小学5年の時に、友人らと「調布リトルリーグ」を結成。
6年時には近隣4市の選抜チームで全国優勝を達成した。
同年米国で行われた世界大会でも優勝する。
早稲田実業高校に進学し、投手として活躍。2年春には関東大会で優勝した。
3年夏はエースとして期待されるも、肩を故障し、外野手として出場。
都大会決勝で敗れ、甲子園出場はかなわなかった。
早稲田大学、大昭和製紙では打撃投手、マネジャーとしてチームを支えた。
31歳で父親が経営する林建設に入社後、知人からの依頼で審判員を務める。
東京六大学野球リーグ、高校野球、社会人野球と、27年間にわたる審判員生活で約1200試合を裁いた。
2004年には日本人で唯一、アテネ五輪の審判員を務める。12年に審判員としての現役を引退後、一般財団法人日本リトルシニア中学硬式野球協会理事長となっている。
さて、高校野球を愛した作詞家、故・阿久悠は藤田修平に「敗戦投手への手紙」という詩をおくり、その詩は今も自宅に飾られている。
しかし藤田には、ある気がかりなことがあった。
自分は、ボークでサヨナラ負けしたが、そのことで一度も責められたことはない。しかし球審の林があのボークの判定で責められていることを知っていた。
そして、明治大学阿久悠記念館の来館者3万人を記念して行なわれたトークイベントで、宇部商の元投手・藤田修平は、ボークを宣告した球審の林清一と15年ぶりの再会を果たした。
そこで観客の誰も知らない、あの試合での2人の秘密が明かされた。
あの日ボークを宣告された藤田は試合後、持っていたボールを球審の林に渡そうとした。
勝利チームに記念として渡されるのが通例だからだ。
だが、林は「そのまま持っておきなさい」と受け取らなかったという。
林も甲子園を目指した高校球児として、藤田の気持ちは痛いほどわかっていたからだ。
だからこそ、投げることを許されなかった211球目、そのボールを藤田から受け取ることはできなかった。
そして、それが審判員の林に許される精いっぱいの「情」だった。
林球審が、いつも思い出す言葉に「名前を覚えられないのが名審判」というのがある。
実は、この言葉、アマチュア球界きっての名審判・郷司裕の言葉である。
この郷司の言葉にはどんな思いが秘められているのか、よくはわからない。
しかし、郷司球審といえば忘れられないのが、1969年8月17日、松山商業と三沢高校の決勝戦である。
延長18回の死闘で0ー0のまま決着がつかず、翌日に再試合が行われ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
「あの日」の観衆は満員の5万5千人で、観客席は立錐の余地もなかった。
青森・三沢高校のエース太田幸司投手は、174センチ、74キロ。一昨日の準々決勝、京都・平安高校戦から3連投になった。
日本人の父と白系ロシア人の母とを両親に持ち、真っ向から投げ下ろすフォームとその風貌は、かつての名投手スタルヒンを彷佛とさせた。
一方、愛媛・松山商業の投手は井上170センチ、65キロと体格には恵まれないが、コントロールには絶対の自信をもっていた。
さらに春センバツ2回、夏選手権3回の優勝を誇る四国の名門校としての誇りを胸に、この日戦後3回目の優勝を目指していた。
松山商は、全国制覇だけを目標に猛練習に明け暮れたといってよいチームだったのに対し、対照的に三沢高校は小学生の時から顔なじみの選手たちが集まった田舎のチームにすぎなかった。
何のイタズラか、その両校が決勝の舞台で一歩もひかない死闘を繰り広げたのである。
最も忘れがたいシーンは延長15回裏と延長16回裏におとずれた。
延長15回裏、三沢高校が一死満塁の大チャンスを迎える。
三沢の9番打者立花に対し、松山商の井上投手はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となった。
あと一球ボールがきて、三沢高校の「押しだしサヨナラ」が濃厚な場面を迎えた。
この時、「松山商業の優勝」を予想できた人は、視聴者の中に一人もいなかっただろう。
観客は固唾を呑んで試合に見入った。
そして、次に井上投手が投げた4球目はストライク。応援席の叫びにも似た声が大歓声へと変わった。
その後も何度も歓声と悲鳴を交互に聞いたような気がする。
しかし、守る松山商ナインはそれほどでもなく、井上のコントロールを絶対的に信じていたという。
井上には、練習の時、10球続けてストライクを投げなければ練習をやめないという方法でコントロールを磨いたというエピソードが残っている。
しかし、この日で一番忘れがたいシーンは、次の5球目と6球目であった。
それは、いまだに鮮烈に蘇ってくる。
井上投手が投げた5球目は山なりとなり、低めに外れたかに見えたが、振る気の無い打者に大森捕手は咄嗟に前に出て捕球した。
打者や走者、そして相手ベンチの動きからウェイティングで来ると確信していた大森は、低めいっぱいに来た球にニジリヨリながら通常より50センチも前(投手寄り)でキャッチしたのだ。
打者・立花は歩きかけたが、郷司球審は一瞬の間をおいてストライクと判定し、フルカウントとなった。
このストライクは大森捕手の咄嗟の判断によるファインプレイだった。
しかし、試練は次ぎのボールである。打者が打ってくるとわかった上で、次のストライクを投げることは、さすがの井上投手でも至難の技に思えた。
そして立花は、次の6球目を強打した。
打球はワンバウンドで飛びピッチャーを強襲、井上投手はボールに飛びついたがボールを大きく弾いた。
その瞬間、本当にゲームが終わったかに思えた。
しかし次の瞬間、弾いたボールを拾ったショート樋野が矢のような返球を本塁に投げ、三塁走者は間一髪本塁アウトとなった。
ボールがライナーに見えた為、三塁走者の飛び出しが遅れたこともあったが、松山商業の底知れない力を見せつけた場面であった。
松山商内野手からすれば、この場面は何度も練習した場面であったという。
そして次打者はセンターフライに打ち取り、松山商が絶対絶命のピンチをしのぎ0点に抑えた。
井上投手にとっては、まさに奇跡の25球であった。
一塁側アルプススタンドは総立ち、松山商業ナインを大歓声で迎えた。ベンチ前では笑顔の一色監督が両手を広げて選手たちを称えた。
そしてベンチに戻った時、松山商ナインは泣いてた。
ところで、引退後、郷司球審はこのシーンのビデオを見て「確かにこうしてビデオで第三者の目で見ると、外れたようには見える。
だけど、私はあの現場で見て、ストライクだと思った。自分にウソはつけないからね。今でもあのボールはストライクだと思っています」と語った。
ところで、三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長は、この碑に野球部員たちの「名を刻む」ことに反対した。
あの延長18回という試合の「重荷」をこれからズット彼らに負わせてしまうことになるという判断からだ。
両校球児のその後を追跡した「延長十八回終わらず」(田澤拓也著 文春文庫)という本がある。
この本は、はからずも平凡に徹することの難しさを教えている。