神様の宿題

人生には、「やってみよ」と各人の器(うつわ)に応じて出される宿題みたいなものがある。
実現が非常に困難にも見えても、条件がそろえば不思議とうまくいく。
その条件とは、孟子によれば「天の時」「地の利」「人の和」である。
「天の時」というのは、例えば共感者が増えて周りが動く時、ものごとはすみやかに動く。
天才といえども生まれるのが早すぎれば「狂人」だし、革命も次に続くものがいなければ、首謀者は英雄になりそこねて「凶悪犯」でしかない。
「人の和」については、例えば自分1人で打ち上げた花火を楽しめるか、楽しいことなら周りと楽しんだ方が喜びが倍加するし「人の和」にもつながる。
たとえ「偉業」であっても、広がりも、後に続く者もないならば、空しいものだ。

連続テレビ小説「マッサン」は、日本の国産ウイスキー誕生を支えた竹鶴政孝・リタ夫妻をモデルとした、決して夢を諦めない夫婦の愛と冒険の物語である。
マッサン役は俳優の玉山鉄二だが、ヒロインとなるエリー役はシャーロット・ケイト・フォックスで、朝ドラ史上初の海外からの約500人が参加したオーディションから選ばれた。
シャーロットは、アメリカで舞台を中心に活躍している女優で、ナント日本語がまったく話せなかったため、オーディションでは全然ノーマークで、しかも日本語をとばすミスをした。
それにもかかわらず、オーデションで「ずば抜けた演技力」と評価されたのは、言葉を伝えられないモドカシサが、かえって迫真の演技に繋がったという。
シャーロットは、ニューメキシコ州サンタフェで、ヒッピー世代の両親の元に生まれ、子供時代は家にテレビのない生活を送っていた、というからステーブ・ジョブスを思い浮かべる。
シャーロットは、大学・大学院と演技コースで学んでいたが、女優としては舞台や独立系の映画を中心に出演しキャリアを積んだ。
慣れない日本語での演技は、他の俳優の10倍もの厚さになるという台本と度重なる練習に支えられおり、しかもセリフの意味を理解し、丸暗記とは違う演技の中に見事に消化していた(すくなくともそう見える)。
「マッサン」では、周囲が国際結婚に猛反発する中も愛を貫き、夢を諦めない夫婦の涙と笑いの人情喜劇だが、慣れない異国で奮闘するシャーロットもまた、エリーの人生と重なるところがある。
エリー役のモデル・竹鶴リタさんを感じることはあるかという質問に対し、彼女は「いつもリタさんを身近に感じてる。
どんな時かというと、長い撮影の中でもとても大変で難しい時に感じる。彼女はどんな困難でも乗り越える、前に進む能力を持った人。
私には通訳さんやスタッフなど、いつも側にいて私を助けてくれる人がたくさんいますが、リタには夫・マッサンしかいませんでした。
朝ドラ”での経験は、炎が産み出されるような毎日で、この経験の後には何でもできるような気がします。
第1週目の試写を見ましたが、本当にあれを私が演じたのか自分でも信じられないくらい難しいことだったんです。
私はとても忍耐強くなったし、プロ意識を持ったし、寝不足でも仕事をやりきることもできるようになりました。
日本語がほとんど話せない私を受け入れるのは本当に勇気がいることだと思います。
毎日、いつも一緒にいてくれます。彼が現場に戻ってきたとたんに、ほっと感じます。もう友達です
国際結婚を認めてくれない姑・亀山早苗役の泉ピン子さんとの共演シーンも印象的です。
カットがかかったとたんに全然違う、普段の優しいピン子さんになります。本当に現場にいらっしゃらないと寂しいです。いつも現場で探してしている」と語っている。
シャーロットにとって、「エリー役」こそは神様からの宿題のようなもので、「天の時」「人の和」、日本という「地の利」を得てよく実現できた劇だったように思う。

「地の利」とはいろいろな要素があるだろうが、たまたま居合わせた場所に、もっとも必要なもののがそこにアッタ、または現われたというのような幸運を思い描いた。
日本における世界に先駆けた「霊長類学研究」の発端となった場面である。
日本の霊長類研究者として文化勲章に輝いた今西錦司は、1902年京都・西陣の織元「錦屋」の長男としで生まれた。
そのため経済的には比較的に恵まれ、31歳で京大理学部講師になるものの無給のまま15年間を過ごしている。
理由は「講義はいやだから給料はいらん」といい、確実な収入は貸家の家賃だけだった。今西の口癖である「好きなことだけをやる」精神はここにも表れ出でている。
小さいころは昆虫採集に熱中し、中学時代に登山をはじめ、この頃には日本アルプスの未踏峰を次々に踏破し、登山家としで有名になっていた。
今西のもうひとつの口癖「自然そのものから学ベ」は、彼の登山体験からにじみでた言葉である。
生態学の研究と登山や探検に明け暮れるなか、動物の社会にも人間のように社会があるハズという直感を抱き、人間の社会の成り立ちを動物の社会から考えようとした。
終戦後まもない1948年、今西は好きなことだけやったせいか、46歳になってもまだ講師だった。
今西はまず「野生馬」の観察からはじめようと、フィールドを「野生馬」の生息で知られる宮崎県・都井岬と決めた。ふかし芋がはいった弁当箱をぶら下げ岬を尾根伝いに馬を探し歩いた。
その彼の前に、突然「ニホンザル」の群れが現われたのである。40~50頭はいる、その中にボスザルのような大きなサルがいた。
今西の頭に予感めいたものが閃いた。「馬ではなくサルだ」。
今西は大学にはいったばかりの学生二人を連れて、再び都井岬を訪れた。学生は百頭近いサルの集団と出会い、いくつかの鳴き声の違いで意思を伝えあっていることを直感した。
今西は、動物の世界にも人間と同じように「社会」があるという根本的な認識をもっていた。
それがこの場所でウマ探しを始めた理由だが、今西はウマよりもサルに「社会」性が強いことを感じた。
動物はけして無名の集団ではなくそれぞれが個性があり、複雑な社会関係があることを今西は観察によって裏づけようとした。
当時、人間以外の動物の世界に「社会」があるなどとは誰も考えていなかった。今西は今や未知の領域に踏み込もうとしていたわけだ。
そしてウマの調査で初めて用いた「個体識別」という手法でサル集団の観察をはじめた。
群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方で、今西が考えついたことだった。
実は今西は1944年、内モンゴルの張家口に設立された西北研究所の所長に迎えられたことがあった。
そこで彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察していたことがある。
そして遊牧民が何百頭ものウマを正確に見分けていることに気がついたのである。実は「個体識別」のヒントはこのモンゴルで得たものである。
今西は、このように過去の体験がヒントになったが、彼にとっての「地の利」とは、この都井岬から海を隔て少し離れたところに幸島という野生ニホンザルの格好の観察地があったことである。
今西もヒマラヤ踏査の間、その学生達らがサルの調査を引き継ぐことになり、サルにそれぞれ名前をつけノートを手に朝から双眼鏡をのぞく日々が続いた。
するといままでに見えてこなかったサル社会における縄張り、上下関係、相互のコミュニケーションが見えてきた。
実は今西が最初にウマを探しに宮崎県都井岬に行った際に、「北海道日高」というもう一つの候補地があった。
今西が迷っていたある日、たまたま手にとった雑誌に、たまたま日向灘を背に岬で草をはむ馬の群れが紹介されていた。彼はその時フィールドを都井岬に決めたという。
北海道日高にはニホンザルはおらず、もしあのとき今西が北海道に行っていたら世界に先駆けた「霊長類学」はなかったかもしれない。

周りが動くことは、ことが成就する大きな要素だが、周りが動かないならば、動くように巻き込むこと。
それを教えられるのは、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」完成に至る過程である。
レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、農薬の無制限な使用について世界で始めて警告を発した書として全米ばかりではなく世界をも揺り動かした。
彼女が「沈黙の春」執筆することは、彼女自身の病や身内の不幸にとどまらず、州政府、中央政府、製薬会社などを敵にまわしての戦いを意味することだった。
世の中に烈女といわれる女性がいるが、レイチェルの写真からはそうしたイメージはまったく浮かばない。
見えるのは、柔和さや穏やかさで、むしろ繊細で傷つき易そうにえ見える。
その彼女が書いた、「沈黙の春」に対する攻撃は、彼女自身の人格に対する誹謗・中傷にまで及んだ。一体何が彼女を支えたのか。
レイチェル・カーソンは地元のペンシルヴァニア女子大学に進みそこで作家になるため英文学を専攻する。
しかし、生物学の授業に魅せられ生物学者になる道を歩み、海洋生物学者として書いた全米図書賞の候補にもなった本で、充分にその名は知れ渡っていた。
レイチェルには、科学者としての観察力と詩人的な資質が一体となってたのである
彼女の人生の大きな「転機」は1958年1月。見知らぬ女性から、毎年巣をつくっていた鳥が薬剤のシャワーによりむごい死に方をしたという手紙を受け取ったことにある。
DDTは1939年に発見されDDTが害虫を駆逐し大きな収穫の向上が見られその経済的な利益ははかりしれず、当時州当局が積極的に散布していたDDTなどの合成化学物質の蓄積が環境悪化を招くことはまだ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。
心を痛めていた彼女は雑誌社の編集者にこうした問題の本を書き上げる人物はいないかと打診したが適当な人物は見当たらず、結局専門家でもない彼女自らペンをとる決心をする。
「沈黙の春」の完成は、レイチェルにとって、神様から出されたいわば「宿題」のようなものになった。
彼女は本を書くことによって、連邦政府・州政府・製薬会社を敵にまわすことになることは、あらかじめ想定していたことだった。
彼女自身がかつてアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働いていたこともあるが、その政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は本を執筆する際に少しでも疑問を覚えたならば、科学者達に直接手紙を書いて尋ねた。
これはこうした専門家達が敵となる政府や会社に対して味方になってくれるという彼女なりの戦略でもあった。
つまり、レイチェルは孤軍奮闘にならないように、周囲を自分の戦いに「巻き込ん」でいった。
しかしその執筆期間中には、覆いかぶさるように苦難が待ち構えていた。
最愛の母親の死、両親を失った親戚の子供を養子にむかえて育てる負担、そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ-ン、のみならず彼女の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
1962年、それでも「沈黙の春」は完成する。彼女を支える力は、まず生物学者としての命に対する高い感性、そして彼女自身の「死の予感」だったかもしれない。
彼女は友人につぎのような手紙を書いている。「事態を知っているのに沈黙をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います」。
1964年春、自然破壊に対して「沈黙できなかった」彼女はメリ-ランド州シルバ-スプリングで56歳の生涯を終えた。
「沈黙の春」に啓蒙された数多くの人々が、彼女の後に続いて環境破壊問題に取り組んでいった。

映画「スラムドッグ・ミリオネア」(2008年)は、インドの児童虐待労働の実態を描いた衝撃的な映画であった。
スラム街で犬のように暮らした少年が、クイズ番組に出演し見事に全問正解で大金を手にする夢物語である。
しかし教育もなく知識もない少年がなぜそんなに正解が出せたのか。
それは、解答のヒントがすべて彼自身の不幸な体験の中にあったのだ。まるで少年の人生が神の御手の中にあったかのように。
実際、何かの導きであったかのように、畑違いの過去の体験が、今に生かされることは我々も体験するところである。
さて今、沖縄が普天間基地の「名護移設」問題で揺れている。
この移設につきかつて民主党が最低でも「県外移設」を約束したが、それも候補地が見つからず立ち消えとなり、結局前沖縄県知事(仲井知事)が辺野古への移設で国と合意した。
ところが昨年11月の県知事選では、辺野古反対の翁長県知事が決定したためにゴタゴタが起きている。
ところでひとつ留意したいことは、普天間は世界一危ない基地といわれるがが、何も人の集まるところに基地をつくったわけではなく、基地をつくったら人が集まったということである。
つまり、基地によって生活をしようという人々が数多くいて、人が集まれば学校も病院もできることになり、世界で一番危険な基地ということになってしまったのだ。
ということは、基地を移設することが何を意味するかを 想像して頂きたい。
さて、名護移設反対では、「環境汚染問題」が前面にでている感がある。
具体的には、地位協定の中に「環境条項」を入れて、返還が予定される米軍基地の敷地に関して、返還前のタイミングでの環境調査(アセスメント)や浄化措置(クリーンアップ)を行うためのルール作りをしようというものである。
ところで、現在のアメリカの駐日大使といえば、ケネデイ大統領の娘キャロラインだが、実は彼女は「環境問題」と深く関わった経歴の持ち主である。
カリフォルニア沖のプエルトリコのビエケス島は、長い間米海軍が様々な種類の砲弾を着弾させる射撃場として使用していた。
ところが1990年代になって各種の砲弾の爆発による環境汚染が問題となると、抗議活動がだんだんとエスカレートしていった。
重金属類から弱い放射性物質など、色々と毒性のある物質がこの島を汚染していたのである。
抗議活動は、最初はプエルトリコ人だけの運動だったが、1999年頃からはアメリカ本土からも環境活動家たちが参加して大きな運動になっていった。
2001年4月、以前から環境運動家として活動していたロバート・ケネディ・ジュニア(故ロバート・ケネディ司法長官の息子、JFKの甥)がビエケス島に乗り込んで「砲弾の飛び交う射撃訓練の近くでキャンプをする」という実力行使に出た。
ケネディ氏は逮捕されて、ニューヨークの元知事であるマリオ・クオモ氏が弁護士として奔走するが、一時ケネディ氏は収監されたこともある。
しかしながら、ブッシュ政権は「反テロ戦争」遂行に向けて国内の分裂を避けるため、ビエケス島の射撃場を閉鎖し、プエルトリコと環境運動の側が結果的には勝利したのである。
実は、ケネディ・ジュニアのいとこにあたるキャロライン・ケネディは、ニューヨークのリベラルな政界の中におり、「ビエケス島問題」に関しては、環境保護側の視点で関わっていたのである。
というわけで、普天間の返還の前提として「環境条項」を設けるという「地位協定」の見直し案に関して、「ビエケス島の射撃場を閉鎖に追い込んだ」政治的経緯をもつ駐日大使・キャロライン・ケネディ氏にとって、基地移設問題は宿題の続きのようなものだ。
何らかのコミットメントを期待したい。