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夢の分布図

昔からカネはないけど夢だけは大きい芸術家たちが住む街というのがある。
安価な家賃とできたら広いスペース。しかも、アーチストの創造力を刺激する何かがある場所。
もしも「夢の分布図」があるなら、ハングリーさにあふれていた分、夢の濃度が高い場所ともいえる。
1970年代半ば「グリニッジビレッジの青春」というアメリカ映画があった。
とはいっても舞台は1950年代のニューヨーク。
主人公ラリーと同じく俳優や画家などを夢見る若者たちで溢れていた。
グリニッジ・ビレッジは、五番街の南端に位置し、ワシントン・スクエア公園、大規模私立大学のニューヨーク大学 、ジャズで有名なヴィレッジ・ヴァンガードなどがある。
そんなグリニッジ・ビレッジは今や高級化がすすみ、芸術家志望の若いアーティストたちはソーホーやトライベッカへと流出した。
今日の日本で「夢の分布図」をつくったなら、どの辺りの色づけが濃くなるのだろうか。一番に思い浮かぶのは東京都福生(ふっさ)市である。
米軍横田基地周辺には米軍払い下げのハウスがあり、画家、小説家、音楽家など若きアーティストが夢をハグして住んでいた。
大滝詠一、桑田圭介、忌野清志郎、フィンガーファイブ、福山雅治、そして村上龍や山田詠美ら。
村上龍が小説「限りなく透明に近いブルー」で描かれた街は、この福生であった。
そこは、安く住める払い下げ住宅街があったばかりではなく、フェンス越しにアメリカがあったのがポイントか。
多くのミュージシャンが成功するとこの街をでたが、最近亡くなったミュージシャン・大滝詠一は終生・福生の住人であった。
それでは、世界的にみて若い芸術家が多く住む街といえば、パリのモンマルトルがあげられる。
ここに集まってきた貧乏芸術家たちが共同生活をしていた場所、つまり「夢のヒストグラム」が最も高い街といってよい。
モンマルトルはパリ市街の景色がよく見えるので、確かに絵心を刺激する場所である。
そのモンマルトルをさらにフォーカスすると、モンマルトル頂上から麓へむかって道なりに歩くと、全体が坂になった感じのちょっと特殊な広場に出る。
ここは、「Le Bateau Lavoir」(バトー・ラヴォワール)という名づけられた地点である。
自分がパリ観光ツアーの際に、フリータイムのタイムリミットに遅れまいと丘を走って辿りついた場所でもある。
フランス語で「Bateau=船、Lavoir=共同洗濯場」という意味があるようで、セーヌ川に浮かぶ「洗濯船」によく似ているので、或る詩人が名づけた場所である。
この場所こそ、「アトリエ洗濯船」の跡地である。
残念ながら1970年に当時の木造家屋は焼失してしたが今は再建されている聞く。
パブロ・ピカソは、1904年から1909年までの5年間をこの「洗濯船」で過ごし、自らの表現方法を模索し続け、後に現代美術の幕開けとも言われる「アヴィニヨンの娘たち」を描き、“キュビスム” を確立させた場所である。
キュビスムとは、3次元を2次元(というより4次元かも?)に再構築するアノ芸術手法である。
「洗濯船」でピカソの絵を見た友人の誰もが驚いて理解できなかったし、マティスに至ってはフランス美術を汚すものだ、怒り出した。
ピカソ自身はここに住んだ時期を「自分の黄金期だった」と語っている。
なおアメデオ・モディリアーニら他の貧乏な画家達もここに住み、ギヨーム・アポリネール、ジャン・コクトー、アンリ・マティスらもここに出入りし、活発な芸術活動の拠点となったが、1910年代以後その多くはモンパルナスなどへ移転した。

ところで東京・神楽坂は近年フランス人がとても多い街として知られている。
その一番の理由は、神楽坂から飯田橋周辺にフランス人たちが通う学校、日仏学院や、在日フランス人学校であるリセ・フランコ・ジャポネの存在などがあるためである。
実際に神楽坂は、古い石畳、小さなショップが多いところなどが、パリのモンマルトルの街並みを彷彿とさせる。
この街もまた、夢を育み夢をハグした街といってよいのだが、それは芸術的創造の夢ではなく「革命の夢」であった。
神楽坂は中華革命の「震源地」だったのだ。
中国革命の父といわれる孫文が日本に亡命したとき、孫文は「中山樵(しょう)」という偽名を使い、東京とその周辺の街を転々としていた。
そして神楽坂の築土八幡の界隈にも、孫文が隠れ住んだ伝承の残る家がある。
約一万人の中国人留学生の中には、黄興を指導者と仰ぐ湖南省出身者と孫文を中心とする広東人のグループが大きな勢力をもっていた。
孫文は宮崎滔天の勧めで神楽坂の中華料理店「鳳楽園」で黄興と会うことになった。
初対面の孫文と黄興はすっかり意気投合し、旧知の仲のように語り合い、革命組織を統一することで合意した。
その後、黄興の呼びかけで留学生が飯田河岸の富士見楼に集まり、孫文歓迎会が開かれた。
孫文の来日で、中国人留学生の中に革命気運が一気に高まり、坂本金弥代議士邸(ホテル・オークラあたり)で「中国同盟会」が結成されるのである。
ところで、神楽坂はいまだに残る料亭の町で、そうした料亭の中には、テレビドラマの脚本が数多く書かれた木暮美千代の一族が経営する「若菜」もある。
テレビドラマや映画のシナリオ書きのカンヅメ部屋でも有名だ。
また、高度成長期には田中角栄が建設会社を設立して実業家としての青雲の志をとげ、その野望を政治へとむけた場所といってもよい。
そこは、若き田中がおおいにモテタという神楽坂芸者の行きかう街であった。
、 ところが、神楽坂のイメージを変えたのは十数年前、日本中で大ブームになったパラパラである。神楽坂のディスコ「ツインスター」が火付け役となり、随分とイメージが変わった。
また、今やケータイと共に女子高生のマストアイテムとなった「プリクラ」ことプリント倶楽部も、この神楽坂で生まれている。
神楽坂に本社を構えるゲームソフトメーカー「アトラス」のある女性社員のアイディアからプリクラが誕生した。
ゲームの開発中、パソコン画面をプリントアウトしているのを見て、自分の顔写真をシールにして、こんなふうに出力できたらおもしろいんじゃないかと閃いたという。

冒頭で述べたモンマルトルは、「印象派」など前の世代の芸術家たちの揺籃の地であったが、観光地か高級住宅街となってしまった。
そこでアーティスト達は次第に家賃の安いモンパルナスに移動した。
そこは平地だが絵なる農村風景が残存しているためであった。
さて、東京にもかつて「池袋モンパルナス」とも言われた地域があった。
今なお清々しい鳥のさえずりが聞こえる閑静な住宅街の中、緑豊かな公園や美術館などがある。
ネットには、「西武池袋線・椎名町駅から丘パルテノン跡→熊谷守一美術館→千早公園→峯孝作品展示館→千川彫刻公園→千川駅」というコースがその界隈を味合うルートとして紹介されていた。
1930年代アトリエ付き貸家群の中でも大規模だったのが「さくらが丘パルテノン」で、約60戸数あり、画家や彫刻家、詩人といった芸術家達が、苦境の中にも、自由で旺盛な創作活動を送っていたという。
なお現存する画廊「ギャラリーいがらし」は、1996年9月のオープン以来、池袋モンパルナスに所縁のある画家の作品を中心に展覧会を開いている。
池袋モンパルナスに近く、西武池袋線で「椎名町」という地にいくと、戦後の最大の謎の事件である帝銀事件や宮崎龍介・柳原白蓮夫妻が住んだ家もあるが、「夢の分布図」に逃してはならない「トキワ荘」跡がある。
彼が若き日に東京豊島区椎名町のトキワ荘でに共に暮らした仲間達すなわち、手塚治、石森章太郎・藤子不二男・赤塚不二男らはいずれも漫画世界の「大家」として名を残すことになる。
しかし、それにしてもナゼこれほどの漫画家が集まったのだろうか。偶然にしては出来すぎである。
実は、多くの才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、リーダー的漫画家であった寺田ヒロオの思いがあった。
寺田ヒロオは、「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。
また「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と「他の漫画家の穴埋めでもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている。
なお、トキワ荘への入居と「仲間入り」に際しては、条件があった。
『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で優秀な成績を収めていること。
本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていて協調性があること。
最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたりする程度の技量には達していること。
こうした基準で厳格な「事前審査」が行われていたのである。
こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート達であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく「必然」だったのだ。
また、1955年5月に結成された新漫画党のメンバー、すなわち寺田ヒロオ(総裁)、藤子不二雄(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄)、鈴木伸一、森安なおや、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二は、トキワ荘に当時かかっていたカーテンに結成を祝って漫画を描いている。
現在そのカーテンは、ひとりのコレクター・鑑定士の所有となっており、漫画界の「釈迦の衣」と呼ばれているという。
ところがトキワ荘には意外な展開がまっていた。リーダー寺田ヒロオが漫画の一線から退くのである。
それは「少年漫画は健全明朗であるべきだ」というスタンスを絶対に譲らず、そういう風潮の雑誌には自ら「距離」を置いていたが故だという。
そして寺田は壮絶に彼自身の信念に殉じることになる。
1990年、すなわち61才で他界する2年前に、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一)を自宅に呼んで宴会をし、終了後に去ってゆく仲間達にいつまでも手を振り続けた。
そして家族には「もう思い残すことは無い」と話していたという。
次の日、藤子Aはお礼をしようと寺田宅に電話をかけたが、寺田は会話を拒否、夫人を通じて「一切世俗とは関わらない」という旨を伝えている。
仲間への思いを寄せつつ一切の世俗との交わりを断ったのだから、それは生半可の覚悟ではなかったことが推測できる。
晩年は一人離れに住み、母屋に住む家族とも顔を合わせることはなかった。
朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、朝食が手つかずで置かれたままになっているのを不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。
さて、西武池袋線・椎名町駅の「トキワ荘の壁画」を降りていくと斜め前に見える大きな「散策マップ」がある。そこには「漫画界の偉人」たちの絵が一枚におさまっている。
そしてこの一帯も、近年の水木しげるの調布同様に、トキワ荘関連で街を売り出している感じもある。
大江戸線落合南長崎駅方面から歩いて数分、トキワ荘通りの入口にある南長崎花咲公園にはトキワ荘のブロンズ像がたっている。

ところで最近では、海外の若者にとって「るろうに剣心」や「NARUTO」などの漫画コンテンツが「日本文化」の扉になっているようだ。
日本人はどうしてこのように優れたアニメ文化を世界に発信できるようになったのだろうか。
その歴史的背景を見ると、まずキャラクタ-のデフォルメということに関しては江戸期の浮世絵、シンプルな線ということになれば能面や人形浄瑠璃が思い浮かぶ。
しかし日本のマンガが海外で支持されている理由はこうした絵画的要素ばかりではなく、むしろストーリー展開の面白さにあるといわれている。
そしてやはりその核心には、キャラクターの「いたいけな心情」や「ピュアな心意気」がアルのではないかと思う。
日本の文化の中にはかなり昔から「物語り文化」が根付いていた。
御伽草子(室町)・仮名草子(江戸)・紙芝居(明治)・立川文庫(大正)などの流れである。
日本のマンガ文化におけるストーリー展開の面白さにはこうした歴史的背景があるのかもしれない。
しかしいかなる背景があったにせよ、日本マンガコンテンツの海外人気の淵源に、「トキワ荘」出身の手塚治虫という一人の天才の存在を抜きにしては語ることはできない。
そこには、手塚とその関係者が生んだ「手塚プロ」というプロダクション方式がある。
かつてマンガ家を目指す人々はマンガ家になるために、先生に師事して仕事を手伝いながらデビューを目指した。
ところが、はじめからアシスタントとして会社(宮崎プロなど)に入り自分の役目を果たしつつ腕を磨いていく。
組織になった以上、漫画家は組織を支えるために描かなければならない。
総合プロでは作品はテレビ化・映画化されてヒットしてナンボと評価される。
ただ売れる売れないは、今やマンガ家1人の問題ではなくプロダクション組織全体の問題となったのである。
こうしたアニメの「プロダクション方式」につき、江戸時代の最高の芸術家といってもよい本阿弥光悦の「芸術村」を思い浮かべる。
本阿弥家は刀剣の家で、室町時代には足利氏に仕え刀剣の鑑定、研磨・浄拭を家業としてきた。
光悦は京都人であり「江戸嫌い」で知られて、家康により洛北・鷹峰の地に土地を与えられた。
京都郊外の鷹峰は、辻斬り・追剥が出る治安の悪い土地であったのだが、一族だけでなく、絵師、蒔絵師、神筆職人、陶工など本阿弥家にゆかりがある人達が集まり、自然ここに「芸術村」が誕生した。
彼の周囲に集まった人々は芸術家というよりもむしろ職人的な人々であり、本阿弥光悦は「芸術村」のいわば総合プロデューサーというべき役を担った。
こういう制作の有り様は、マンガ・プロダクションにおける制作現場を思わせるものがある。
実は、光悦芸術の粋は「茶碗」と「書」といわれるが、完成した作品の一体どれだけが光悦自身の手によるものかは判別しがたいものだという。
家康が鷹峰の地をどうして本阿弥光悦に与えたかについて深い理由は分からないが、今日の「クール・ジャパン」の先鞭者の1人として、徳川家康の名をあげてはどうであろうか。
それは言いすぎとしても、家康は、少なくとも辻斬りで有名な殺伐とした鷹峰を「夢の分布図」に加えた点で評価されるべきであろう。