人々を鼓舞するもの

民主主義は「多数決」が原則だか、よく考えるとこれほど乱暴な話はない。それは個々の差異を完全に無視しているからだ。
例えば、法案の審議で、議論があって問題の発見がなされ「修正」されていくのが正常なのだが、国会では「党議拘束」がかかっているので、いくら時間をかけても、結果自体は変わらない。
結局、与野党の議席数、つまり多数決で「採決」はあらかじめ決定しているのだ。
安保法制のような重大かつ賛否が分かれる問題は、国会議員の「党議拘束」を解除するような仕組みがあっていい。
フランス革命の思想的バックとなったJJルソーは社会的意思決定の結果を「全体意思」と「一般意思」に分けた。
ルソーはこれにつき、抽象的にしか説明していないので様々な解釈がなされているが、すくなくとも数だけで社会的意思が決まるなら、「全体意思/一般意思」などとワザワザ二つに分けたりしないだろう。
そこで比較的分かり易いのは、数の多さで表された意思を「全体意思」、数の内容(男女比・年齢層・社会的階層・利害など)を考慮し練りあげた意思を「一般意思」と理解することもできそうだ。
ルソーによれば、「一般意思」とは皆にとって最も望ましい意思のことで、安部首相が公言したように「国民の理解さえ充分に進んでいない」段階で、しかも内閣支持率が低落している中での採決結果は、「一般意思」とはほど遠い。
「一般意思」は皆に利益をもたらすものなので、しっかり説明すれば皆が納得しうる社会的意思のことだからである。
しかし民主主義がいつも「一般意思」を志向するのなら問題ないが、民主主義はそれほど優れものではなく、ナイモノねだりで生まれた苦肉の策のようなものでしかない。
だからその運用を間違えると「妖怪」にもなりうるので、「妖怪ウォッチ」は欠かせない。
そもそも「民主主義」は身分制社会に対抗するものとして生まれたのだが、身分制はキリスト教によって支えられたためか、「民主主義」という言葉には国民も代表者も「神の意志」を問わないという少々不遜な響きがある。
政教分離の原則の下、代表者が「神託」を授かって政治を行うわけではないのだが、それでも人間社会のことは人間ダケできめるという、前近代からすれば「不遜」とも思えることが、社会全体で受け入れられたということは、世界史的にみてソレナリに大きな意味をもつことなのではなかろうか。

それでは戦場ではどうか。数の論理はまかりとおるのか。世界史を見る限り、戦場では「数」よりも「質」がものいうケースが多い気がする。
つまり、民主主義が数を問題にするほどには、戦場では人の数はモノをいわない。
やや特殊な例だが、旧約聖書には「ギデオンの三百」という有名な話がある。
イスラエルで王がおらず「士師」とよばれるリーダーがいた時代に、ギデオンとよばれる士師がいた。敵であるミデヤン人や、アマレク人など「いなごのような大群」が谷に伏していた。
それらの敵と戦うギデオンに対して神は、イスラエルは勝利のアカツキには自らの力で勝利したと誇るので人を減らすように言った。そして誰でも恐れおののく者は帰るように命令した。
そして2万2千人が帰っていき、残ったのは1万人になった。しかし神はそれでもまだ多いという。
そして神は、彼らを水際に下らせるよう命じる。そして手ですくって水を飲むものを選び、犬がなめるようにヒザをついて飲む者を帰らせた。
つまり武器をいつでもとれる状態で水を飲んでいる者だけを選んだのである。ひざをかがめて水を飲むものは、もはや敵の不意の攻 撃に対して警戒を怠っているからである。
その時、敵を意識して口に手を当てて水をなめた者の数はわずか300人しかいなかった。しかし、いかに「精鋭」とはいえ、わずか300人だ けで「いなごのような大群」と戦うとすれば、勝てる見込みはない。
ところが神が「ギデオンの三百」に命じた戦いたるや、実に「風変わり」なものであった。ギデオンは300人を3隊に分け、全員の手に角笛と からツボとを持たせ、そのつぼの中にタイマツを入れさせた。
そして各自が持ち場を守り、敵陣を包囲したのである。そして300人が角笛を吹き鳴らしているうちに、敵の陣営の全面にわたって「同士打ち」が始まったのである。
ギデオンの300人のエピソードの中には1人の英雄もいないのだが、「神の御名が崇められる」という点では「ベストの戦い」であったといえる。
さて、世界の戦史を紐解くと、勝利に必要なのは「戦略」(攻略目標)と戦術(攻略法)があげられるが、それより決定的なのは兵士たちの「士気」(モラール)があげられる。
そしてそれを高めるのがリーダーの役割であるが、いくつかの名演説が歴史に残っている。
日本でいえば、北条政子が夫である頼朝なきあとに、関東の源氏の武士団を前に放ったものが圧巻で、その内容も残っている。
承久の乱で後鳥羽上皇が「義時追討」の院宣を出すと、すぐに1万~3万の兵が集まった。
上皇の院宣のほか、密書は全国の有力御家人に送られたことが想像できたことから、幕府に大きな「衝撃」を与えた。
このとき「朝敵」として官軍と戦うことを恐れた鎌倉の御家人の間に動揺が広がった。
そんなとき、北条義時の呼びかけで御家人たちは北条屋敷に集まる。その数は庭の隅々まで達し、立錐(りっすい)の余地もないほどだった。そこに、すっと立ち上がったのが尼僧姿の北条政子だった。
一瞬にして静まった群衆に向かい、政子は「最後の言葉」として涙ながらに次のような演説をしたとされている。
「朝敵を滅ぼして幕府を創設して以来、地位と生活水準を上げた頼朝の恩は山より高く、海より深い。そんな恩を忘れた逆臣が上皇をだまし、われわれを討とうとしています。ここに秀康、胤義を討ち、恩顧に報いるべきです」と。
そして御家人は、この演説に奮い立った。
世界の歴史では、ハンニバル、ビスマルク、チャーチル、パットン将軍などが、兵士を鼓舞する「名演説」をしたといわれる。
例えば、ローマと戦ったカルタゴのハンニバルの名演説が残っている。
「軍団兵諸君!これは見世物ではない。君らのこれからの姿だ。我々は、アルプスを越えた。ローマ軍を屈服させるために。ここで、ローマ軍を降伏させることができなければ。そう、この決闘に負けたガリア人の様になる。だが、ローマ軍を降伏に導くことができれば、君らは自由を手にすることができる。
だが、君らは、“ローマ軍は強くて降伏させることは不可能だろう”と思っているだろう。私が使者を遣わし、説得しようとしたガリア人らも、そう話していた。ローマ軍は際立って組織されており、強いと。
しかし、ここで思い出してほしい。君らは、アルプスを越えた精鋭であること。数万の軍団兵が凍てつくアルプスを越えたこと等、これまであったであろうか。ローマ軍ですら、“アルプス越え?有り得ないと思っていたことだろう。だが、諸君はやり抜いた。アルプスを越えたのだ。
その中で、将軍や下士官らは、組織の運営の方法を学び、歩兵軍団諸君は、足腰を鍛え騎兵にも劣らぬ俊足を身に付け、騎兵は高度な馬の御し方を自然に学習した筈だ。それは、今や、血となり肉となって諸君らに宿る。
そして、アルプス越え、そう、絶対無理だと、皆が思っていたアルプス越えを発案し、やり抜いた将軍、そう私ハンニバルがついている。
この様な軍団に勝る軍団はローマにいるだろうか。アルプスを越えたこの軍団に勝利できるローマ兵は絶対にいない。そして、この作戦をやり抜いた私、ハンニバルに勝る将軍等、ローマには絶対にいない」。
それにしても、なんという名演説だろう。これに鼓舞されたカルタゴ軍は、アフリカ象を率いてアルプスを下るという離れ業をやってのけたカルダゴ軍は、8年に渡ってローマを占領しローマ人を震撼せしめたのである。
また、劣勢にある兵士たちにとって、予期しない「援軍」ほど大いに士気を高めることはないであろう。
さらに戦場で奏でられる音楽や戦歌も大きな力となって戦士を鼓舞したに違いない。
現在のフランス国家は、フランス革命時に劣勢に陥った市民軍を助けようと、マルセイユで義勇軍が結成され援軍としてやって来た時に歌った「ラ・マルセイエーズ」である。
この「ラ・マルセイエーズ」が市民軍の団結と士気をイカニ高めたかは、「はかりしれない」という評がもっともふさわしい。

戦時において国民を鼓舞するものは色々あるが、それが「ファンタジー」や「メルヘン」だったら誰もが意外に思うにちがいない。
しかし19世紀のはじめ頃、ドイツのグリム兄弟が収集した「童話集」は、長い目で見るとそういう側面があったのである。
それは、ドイツ国民に「誇り」をあたえ、国民をひとつにする役割を果たしたからだ。
18世紀の終わり頃から民謡や民話や伝説の価値を認め収集しようという機運はすでに起こっていた。
しかし、ナポレオン戦争で悲境のドン底にいたドイツ国民に、伝承的遺産の発掘と再認識を学問的使命としたグリム兄弟が、昔話の中に脈打っているドイツ民族の心の鼓動を蘇らせ、民族としての自覚と誇りを取り戻すことを使命とするようになったとしても不思議ではない。
このことの重大さは「ドイツ」という国が、いつ頃から現れたのかという問題とも関連する。
一般にヨーロッパ諸国は、国や民族をあらわす名から、言語の名前がつけられている。
フランス人(国)→フランス語、スペイン人(国)→スペイン語なのだが、ドイツだけは→の方向が違う。「ドイツ語→ドイツ人(国)」なのだ。
「ドイツ」という言葉が歴史上に姿を現すのは、9・10世紀以降である。
カロリング王国(フランク王国)が崩壊した時、その東半分に住む人々が用いた言葉によって「ドイツ人」とよばれるようになったのである。
ドイツという言葉はゲルマン語で「民衆の/民衆に属する」という意味で、カール大帝時代にラテン語に対して「民衆の言葉」すなわちドイツ語を話す地域がドイツと呼ばれるようになる。
世界広しといえども、「民衆の言語」という国号を持っている国民はドイツ以外にはないであろう。
そして962年にドイツ語を語る地域を含む、「神聖ローマ帝国」が成立するが、数多くの領邦を含んでマトマリに欠け、近代的な意味で「国家」というものとは、程遠い存在だった。
ところが19世紀の終わりごろのフランス革命とそれに続くナポレオン・ボナパルトによるドイツ占領は、ドイツに「ナショナリズム」の高揚をまねき、それが「グリム童話」の成立と深く関わることになる。
作者であるグリム兄弟は、ドイツのハーナウに生まれた。
父は法律家で、シュタイナウの伯爵領管理官兼司法官であった。
ヤーコプ・ヴィルヘルムのグリム兄弟は裕福な家庭に生まれたが、1796年に父親が肺炎で死去し、困窮に陥ったが、伯母の援助により、二人は、ギムナジウムに入学し、それぞれが首席で卒業、そろってマールブルク大学法学部に進学した。
大学で、新進の法学者ザヴィニー教授の影響を受け、ドイツの古文学や民間伝承の研究に目を向けるようになる。
そしてヤーコプとヴィルヘルムは共に名門ゲッティンゲン大学の教授となる。
ゲッティンゲン大学は、ドイツのニーダーザクセン州ゲッティンゲンに位置する大学で、ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト(英国王としてはジョージ2世)によって1737年に設立された。
創設者のゲオルク2世は、科学尊重の大学として、この大学を設立したため、そして多くの有能な科学者や数学者が集まり、ドイツで最多のノーベル賞学者45人を輩出している。
また、大学設立に先立つ1734年に設立された大学図書館は約350万冊の蔵書を誇り、世界に4冊しか現存していないグーテンベルク聖書、グリム兄弟の草稿、ヒルベルトの書簡など世界的に貴重な資料を保存している。
1837年にハノーファー王エルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件に、グリム兄弟も連座し、兄弟はベルリン大学に、ヴェーバーはライプツィヒ大学に移った。
1840年に兄はベルリン大学教授となるが、弟ヴィルヘルムは同じくベルリンで、より自由な立場で著述活動を行った。
そして兄弟は、ゲルマン語の研究者としてもしられ、比較言語学を生み出したとされている。
そして「グリム童話集」の編集者として世界的にしられていく。
ある著名な学者は、実証学問を築いた点で、ヤーコプ・グリムがいなかったらカール・マルクスも何だろうといっている。
実際にマルクスの共著者であるエンゲルスは、グリム童話やドイツ語辞典の愛読者であった。
さて、「グリム童話」はどのように作られたのか、それはアンデルセンの創作童話とは違い、古い伝承や民話の聞き取りなどの方法で収集したものに手を加えたものである。
グリム兄弟の努力によって我々は、「赤ずきん」「シンデレラ」「ヘンデルとグレーテル」などの「人類の宝」を手にすることができるのである。
ドイツ文学者の高橋健二氏の書いた伝記「グリム兄弟・童話と生涯」を読むと、二人が同じ道を互いに足りないものを補い合いながら、生涯離れることなく歩んだ姿に感動を覚える。
高橋氏は二人が共に歩んだ「調和」につき、次のようなことを書いている。
兄弟の違いをもっとも良く示すのが散歩の仕方である。二人は一体の仕事をしたが散歩だけは決して一緒にはしなかったという。
兄ヤーコブは早足で歩くが、弟ヴィルヘルムは心臓を気遣ってかゆっくり歩かねばならなかった。
そしてその歩みの違いこそが、二人の仕事の違いとなって現われた。
ヤーコプは万巻の書をがむしゃらに読破し、無謀とも思えるプランでも大胆に構想するタイプ。一方、弟ヴィルヘルムは、詩人のような語り手で、音楽と絵の才能があり、学問では手を広げず、細心な優美さでモザイク師のような仕事をした。
そして童話集を収集したのは兄の方であったが、仕上げたのは弟の方であった。
これほど違う兄弟が、あれほど仲良く生活を終始ともにし、しばしば共同の著者を兄弟の名で発表しているのは不思議でさえあるが、むしろ異なっていることが、二人を調和させたといえよう。
実は、兄弟にはそのほかに妹や弟もいたのだが、父母亡き後の家族でヤーコプは厳父の、ヴィルヘルムは慈母の役割を果たしたように、全般に渡って補い合う関係をなしていた。
さて、グリム兄弟に先行した民話の収集家ヘルダーはメルヘンについて、「いかなる文学も童話ほど、人間の心に向かって微妙なことことを微妙に言うことはできない。童話においては、世界全体が、その内的な仕事場が、人間の心が、まったくわれわれのものである。ただこの魔法の世界で仕事をするためには、みずから妖精の素質を恵まれているように!」と言っている。
そして、「グリム童話集」に含まれる数多くのメルヘンは、空想の産物という性質上、特定な姓名も地名も登場せず、それがたとえドイツの伝承や昔話だったとしても、普遍的な性格を帯び、世界中の子供達に夢とファンタジーを提供してきた。
つまりグリム兄弟が当初企図した「ドイツ精神の覚醒」をハルカに超え、世界中の人々の魂を穏やかに鼓舞することとなったのである。