甘棠館燃ゆ

最近TVでも放映された「舟を編む」という作品で本屋大賞に輝いた直木賞作家「三浦しをん」のお父様は、国文学者(上代文学)で千葉大学名誉教授の三浦佑之(すけゆき)氏である。
三浦教授は、近年、志賀島で発見されたアノ「金印」が偽造であるという研究成果を発表されており、福岡市民として、イナ日本国民として気になるところである。
この研究がどの程度学術的なものか知らないが、大変興味深く思ったのは、「金印偽造」が福岡市内にあった二つの藩校の「競合関係」から行われたという「大胆な推論」にあり、最近の「スタップ細胞偽造事件」を少々連想させるものがあるからだ。
ところで、2015年10月3、4日、福岡市の渡辺通りのホテルニューオータニを中心に「藩校サミット」が開かれた。
「藩校サミット」は、江戸時代の、それぞれの地域に息づく「藩校教育」の伝統や精神を現代の視点で見直し、次代に活かすことを趣旨として毎年開催されている。
第1回の2002年、東京都・江戸幕府「昌平坂学問所(湯島聖堂)」からスタートして、今年第13回は福岡市で開かれることとなった。
「藩校」とは、江戸時代に各地の藩が藩士の子弟の教育のために設立した教育機関のことである。
「藩士」は、藩の体制を支えるとともに、領地を治めるための実務を担うので、授業内容は主に漢学によって統治者として必要な政治倫理などの「人間教養」を修得したほか、幕末には医学や洋学、兵学などの「実学」も学んだ。
日本初の藩校は1669年に岡山藩で設立された岡山学校とされるが、1750年代を過ぎてからで「藩政改革」にともなう人材育成の必要から、多くの藩で藩校が設置されるようになった。
江戸時代後期以降には、ほとんどの藩で藩校が設立され、江戸時代を通じて設置された数は、二百数十校にのぼるといわれている。
さて、我が福岡藩では1748年に7代藩主・黒田治之(はるゆき)の遺命により藩校が開校された。
「朱子学」をいただく東学問所「修猷館」が福岡城「上の橋」前(旧・平和台球場前)に開校された。
修猷館初代館長には、儒者として名高い貝原益軒の流れをくむ竹田定良が選任され、藩士の子弟は、11才になると入学が義務づけられた。
修猷館では主に朱子学のほか、国学も講じられ、和文や和歌も創作、1798年には武道場を設けるなど、「文武両道」の学風を築いた。
ところが、1871年に廃藩置県により、藩校修猷館も「廃校」をむかえるに至ったが、1885年、修猷館出身の金子堅太郎の尽力により黒田長溥公の命を受けて「再興」された。それが現在の福岡県立修猷館高等学校である。
ちなみに、館名「修猷」の由来は、中国最古の歴史書「尚書」の「厥(そ)の猷(みち)を踐(ふ)み脩(おさ)む)」を出典として、国のため、世のため、人のために尽くすため、常に向上の道を目ざして進むという精神を元にしている。
ところで、福岡藩には、全国でも珍しく二つの藩校が設立されている。
「修猷館」が東学問ならば、西学問所が「甘棠館」(かんとうかん)で、徂徠学派の亀井南冥(かめいなんめい)を館長として、現在の唐人町あたりに設立された。

江戸時代末期に幕政に対して批判的な立場をとり、壮絶な死をとげた人物は少なくない。
「壮絶な死」ならば、まずは高野長英が思い浮かぶ。
蘭学者の尚歯会のメンバーであった高野は、モリソン号事件後の幕府の外交姿勢を批判し一旦は捕縛されるが、獄舎の火災の折に釈放されたのを機会に脱獄する。
各地の知人をたよって潜伏生活を続け江戸に戻り顔面を薬品で焼いて「別人」になりすました。
その間、医療と兵書の著述に専念するが1850年幕吏におそわれて「自刃」した。
また、平賀源内はエレキテル、寒暖計などを製作し衆人の耳目を集め後年は戯作に専念するが、1778年発作的に2人を殺傷し投獄され1779年獄中で「病死」する。
もう一人は水戸学の中心人物である藤田東湖で、尊王攘夷をとなえ幕府を批判するが、江戸藩邸で安政の大地震に会い「圧死」したという。
こうした人々と、「壮絶なる死」という点で共通するのが「甘棠館」の初代館長の亀井南冥である。
1743年に町医者亀井聴因の三男として生まれ、福岡藩主黒田治之に儒医として採用されていた。
亀井南冥は、中国の「後漢書」に「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使い人は自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜るに印綬を以てす」という記述と志賀島で発見された「金印」が一致すると考え、「漢委奴国王印鑑定書」を全国の学者や知人に送りその「保存」を主張した。
実は、福岡藩は、二つの藩校それぞれの儒者に鑑定させている。
修猷館の儒者達が出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだ後に、志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。
一方、亀井南冥の鑑定書は「漢籍」をシッカリ照合した内容のもので、これによって、亀井南冥の評価は一躍高まった。
しかし、その後「徂徠学」は、幕府に批判的立場をとっていたため次第に「危険思想」とみなされ、亀井南冥の学派も藩により禁じられる。
そして南冥は晩年、大宰府で不遇の時を過ごす。太宰府の都府楼跡の広場の中心に、亀井南冥書の「石碑」が建っているのは、そういうわけである。
その後、亀井南冥は、1814年に甘棠館とともに自宅が焼失して「焼死」という壮絶な死をとげている。
その後、甘棠館の再興はなされず、「廃校」となるのである。
さて、学校では「漢委奴国王」印が志賀島の畑の中でで見つかったことをアタリマエのように教えているが、よくよく考えると実に不可解な出来事である。
実際に志賀島の発見場所といわれる「金印公園」に行ってみれば、そういう気持ちがいや増すのではないだろうか。
公園入口の石碑には「金印が光を発した處」と彫られており、公園は海に面した山腹に位置し、とても水田などが営まれる場所ではない。
金印は、1784年に志賀島の叶崎(かなのさき)というところで農民が畑を耕していたところ、二人がかりで持ち上げるほどの大石が出てきた。
金梃子を使って石を動かすと、その下にあった石に挟まれるように金印が置かれていたという。
発見者は百姓「甚兵衛」である。
こうした発見の状況は、当時甚兵衛が那珂郡役所奉行「津田源次郎」に宛てでサシ出した「口上書」に残っている。
金印を鑑定したのは、甘棠館の館長・亀井南冥は「後漢書」東夷伝にある「漢印」ソノモノであることを説き「金印弁」という書物を著わした。
そして「金印」の重要性を訴えた南冥の努力により、金印は黒田藩庫に納められ、永く保存されることになる。
その後、江戸時代から現在まで多くの学者が「金印」の考証、研究をすすめて、なかには「金印偽物説」がとなえられたこともあった。
例えば「偽物説」の根拠となったもののひとつが「蛇鈕」(金印の持ち手のデザイン)についての疑義だが、1957年に中国雲南省晋寧県石寨山の古墓から、「王之印」蛇鈕金印が発見され、金印が「本物」であるこを裏付けることとなった。
つまり、志賀島の金印が「偽者」である決定的証拠はなく、今日ではこの金印が、光武帝より委奴国王に賜与された印であることが確定しており、1954年には「国宝」に指定された。
永く東京国立博物館に寄託されていたが、福岡市美術館の開館にともない、1978年に黒田家から福岡市に寄贈された。
ところが今日、冒頭の三浦教授は、金印ソノモノの性格というより、発見の状況や周囲の人間関係から、「金印」に関する疑義を新たに提示している。
三浦教授が抱いた疑問は、この「発見」の口上書の内容と、金印が発見されてから役所に提出するのに、なぜ20日以上も要したかである。
そこで、三浦教授は、「金印」の発見者の周辺の「人間関係」を調べ、次のようなことがわかった。
金印の「発見者」甚兵衛の兄の喜兵衛が以前奉公していたのが福岡の酒造業6代目の豪商・米屋才蔵であり、才蔵は亀井南冥と旧知の関係にあったこと。
そして、「口上書」が提出された那珂郡役所の奉行が津田源次郎であり、津田は亀井南冥と共通の学問上の知友であるという。
つまり、金印の発見者(甚兵衛)と、その発見の報告を受けた者(津田)と、金印の鑑定者(南冥)が繋がるのである。
三浦教授は、20日の間、金印は本当に甚兵衛の手元にあったのか。亀井と「旧知」の仲であった米屋才蔵の手元に置かれていたのでは、と推理する。
つまり、金印発見から役所に提出されるのに、20日間の時間がかかっているのは、この三者の間で何らかの「工作」が行われたという疑いである。
実は、金印発見の記録は甚兵衛の「口上書」だけではない。志賀島の寺の古記録には、天明4年の項に「二月二三日、小路町の秀治、田を耕し大石の下より金印を掘出す」とある。
また、金印公園の北東に当たる「勝馬」という所の某氏の蔵書に、「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」とあるそうだ。
こうした資料から判断すると、実際の発見者は甚兵衛ではなく、「秀治」という名前の農民である。おそらくは、甚兵衛は田の持ち主であり、田を耕していて金印を見つけたのは、甚兵衛の小作人だった「秀治」または「秀治と喜平」の二人だったかもしれない。
このことから、三浦氏は甚兵衛の「口上書」そのものに「作為」の可能性があることを指摘している。
さて、亀井南冥は金印を「鑑定」した後に、「金印」発見の情報を積極的に藩の外に流している。
ところがなぜか、ある時期を境に口をつぐんでしまったばかりではなく、息子の昭陽に対しても「口封じ」をしたという。
そして甘棠館の開校から8年目の完成1793年7月、亀井南冥が藩命で「突然」官職を取り上げられ御役御免の処分を受けた。
従来、亀井南冥の学派「徂徠学」が、江戸幕府の正統学派「朱子学」と異なるため、不遇の晩年を過ごしたように解釈されてきたが、そこにもうひとつ「金印偽造」の疑いがつけ加えられるカモしれない。
繰り返すが、藩校が同時に二校も開校するなどとは他藩には例のないことであった。
三浦教授の推論は、両校の競合関係に着目した。
修猷館の館長に任命されたのは、福岡藩の歴代藩儒だった竹田家の第4代当主竹田定良であり、町医者出身の亀井南冥からすれば、「藩儒」としての位格は劣っていると感じられたであろう。
そこで、亀井派の人々は、甘棠館の開校を祝福し南冥の株をあげるために何かをしようと計画した。
それが「後漢書」に記載された金印の偽造だったという推理である。
ただこの推理少々無理があるのは、米屋才蔵はともかく藩の治安を預かる奉行の津田順次郎は、計画が露見すれば、死罪にも匹敵する重罪刑を免れえず、そうしたリスクを犯してまで南冥の名を上げる計画に加担するとは考えにくい。
三浦教授の「金印偽造説」もやはり、当時の人間関係や周囲の状況証拠の積み重ねにすぎず、「決定的」なものとはいえない。
ただ、金印発見にまつわる、イマひとつの腑に落ちなさを、ふたつの藩校の競合関係からスッキリしようとした点でいえば、「推理モノ」としては実に面白いものである。
さすにが、娘が流行作家になるだけのことはある。

甘棠館は灰燼に帰したが、その系統は意外な形で生き残った。それは亀井南冥が当初目指していた「医学」との関わりであった。
黒田藩はもともと、琵琶湖畔・賤ヶ岳近くの木の本町あたりが源流であるが、軍令にそむき近江を追われ備前長船に一旦落ち着く。
備前長船の地は刀鍛冶が多く目を病む者が多く目薬を作って売っていた。
6代目・黒田高政が流浪と貧困の果てに没すると、7代目重隆は姫路の広峯神社の神主の宣託により目薬の製造と販売をはじめ大きな富を築いた。
そして黒田氏はある種の商人的発想で近燐の地侍や小豪族達を家臣に組み込んでいく。
そして備前福岡に移り一党を担うまでになり、播磨に進出するのである。
こうした商人としての過程をへて戦国の世に名を高らかしめた人物として、油売りの斎藤道三や、堺の薬商人の子として生まれた小西行長などがよく知られている。
黒田家は黒田官兵衛(如水)の時代に、関が原の戦いでの功績により、北部九州の・豊前にはいる。
豊前中津は後に藩医に前野良沢がでて幕末には洋学が発展した土地柄で、福沢諭吉もこの地で生をうけている。
そして官兵衛の子・黒田長政の時代に中津から福岡にでてきた黒田藩は、高場順世をはじめ眼科の名医に恵まれたのである。
これは、目薬と縁が深かった黒田家にとっては偶然の一致で姫路の広峯神社の霊験はなお生きていたかのようであった。
さて、天正期、日本で最初の医学校を開いたポルトガルの外科医ルイス・アルメイダである。
アルメイダは晩年天草に住んだため、天草には古くからポルトガル系の治療法が伝わった。
そこに学んだ高場順世は、その後牢人の身としてさすらい、現在の福岡県粕屋郡須恵村に落ち着き眼科医を開業した。
高場順世の門下生から田原順貞、高場正節らが独立し、その医術を子孫に伝えていった。
そのうち、須恵村は「眼療宿場」として栄え、「目薬の里」として世に知られるようになる。
眼医者では洗眼・点眼を繰り返し時には簡単な手術もおこない、効果を確かめるために、最低75日の滞在が要求されたために、「宿屋」が必要とされたためである。
村人が眼病人宿屋を兼ね、またある者は目薬の製造販売を行った。最盛期には、59軒の宿ができて人々は宿屋稼業・目薬販売・行商と忙しく働いた。
そして須恵町の眼医者の「娘」として生まれた高場乱(たかば おさむ)が、亀井南冥の息子・亀井昭陽に学んだ。
高場は亀井昭陽門下の「四天王」の一人といわれた「女傑」である。
そして高場乱は、現在の博多駅近くの「人参畑」とよばれていた場所に「私塾」を興したのである。
この通称「人参畑塾」に学んだ人々の中に、後に「玄洋社」をおこす平岡浩太郎や頭山満や進藤喜平太らがいた。
ちなみに「玄洋社」の名前の由来は平岡の号が「玄洋」だったからである。
頭山満は眼病にかかり1871年高場乱にみてもらったことがきっかけで高場乱の人参畑塾で学んだといわれている。
つまり、亀井南冥から高場乱へ、高場乱から頭山満の玄洋社へと日本近代史の「伏流」を創り出すのである。
甘棠館の燈火は、クスブリりながらもメラメラと燃え続けていたのである。
藩校修猷館(東学問所)は明治になって復興し卒業生の金子堅太郎が伊藤博文に近く「大日本憲法制定」などに関わり、いわば政治の「表舞台」で活躍した人材を多く生み出したのに対して、終始政治の「裏面」から影響力を与え続けた甘棠館(西学問所)の流れは、時に交錯し、近代日本の政治の動向に「微妙な」色合いを与えたことは間違いない。