使命に生きた者

1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下によって市内は灰燼に帰した。そして家族を失い、戦災浮浪児が溢れていた。
町の中心を流れる大田川は、鯉で知られる美しい川であるが、被爆により多くの被災者が焼け死んだ。
そんな中、広島の復興にそれぞれの命をかけた三人の男がいた。
孤児の為に施設を設立した森芳麿、野球を通じて再起の力を与えた石本一秀、平和都市構想を実現した浜井信三である。
彼らを共通に突き動かしたものは「生かされ」たという意識、身近な者を失い市民と「悲しみ」を共有した「戦争体験」、そして「己の使命」に目覚めそれを全うしたという点である。
広島市内に日本体育協会の職員として勤務していた森芳麿は、原爆投下の直前に東京に転勤している。
広島に戻った森氏は街に戦災孤児が溢れているのに気がつき、彼らの未来の為に何かをしなければならないと思った。
そして、自ら生かされた命を身寄りのない原爆孤児に捧げようと、彼らのための施設をつくる決意をした。
宇品港から8キロ広島湾に浮かぶ「似島」(にのしま)という島がある。
この島は、瀬戸内のうららかさとは対照的に日本人にとって「重い歴史」を刻んでいる。
日清戦争から太平洋戦争の終結まで、帰還する兵士の検疫所があり、後の台湾総督・東京都知事となる後藤新平も、若き日一時ここで仕事をしていた。
そして、太平洋戦争末期には原爆被爆者の多くがこの島に送られたのである。
この似島には海抜300メ-トルほどの安芸小富士とよばれる山があるが、そのふもとに社会福祉法人「似島学園」がある。
また山の中腹に「いのちの塔」があり、あたかも似島学園の「守り神」ように立っている。
この学園は、教育者・森芳麿が戦災孤児を引き取り、翌1946年9月似島に保護収容施設を開設したのを始まりとする。
この施設は、森氏が広島県や広島市に強く訴えかけ、島の北東部の山林を含む「旧陸軍施」設跡地を借り受け、職員と児童の手によって切り拓かれて作られたものであった。
創立時の正式名称は、「広島県戦災児教育所似島学園」である。
同敷地内には、似島国民学校分教場を併設し、学園生活(福祉)と学校生活(教育)との一体化を目指した。
職員や戦後の窮迫した社会状況の中、養豚、養鶏、カキの養殖などをして生活した。
そして森芳麿は家族とともに移り住み、二人の息子もこの学園で学んでいる。
戦後1948年、児童福祉法に基づく児童養護施設として認可され、1952年社会福祉法人・似島学園と改称し、1966年には知的障害者施設高等養護部を併設した。
森芳麿の長年に渡る「児童福祉」の貢献に対して2002年、第11回ペスタロッチー教育賞が、2007年には、戦後設立された施設として初めて石井十次賞が贈られている。
似島学園の施設の敷地内には森芳麿の胸像がたっているが、この似島にはもうひとつの意外な歴史が秘められている。
それは、「Jリーグ誕生」とも結びついた島でもあった。
この島には、第一次世界大戦後ドイツ時捕虜収容所がおかれ、捕虜達と広島市内の師範学校の学生達の交流試合が行われ、その高度な技術がこの島から広島の教職員達に伝わったのである。
ドイツでサッカーワールドカップが開催された2002年に似島に行った際、フェリーに置いてあったパンフレットに福岡を拠点とするJリ-グチ-ム・アビスパ福岡の元監督・森孝慈の名前を見つけた。
似島学園の創立者・森芳麿の次男が森孝慈で、長男・森健兒はJリーグ設立の功労者である。

広島は伝統的に高校野球においても全国的に高い水準にあるが、特に「広商野球」は我々の心に鮮烈に焼き付いている。
その功労者が石本秀一であり、プロ野球にあっても巨人対阪神戦を「伝統の一戦」と呼ばしめ、市民球団「広島カープ」の初代監督を務めた人物である。
1948年、中国新聞社代表取締役2名、広島電鉄専務の3名がプロ野球で初めての「市民球団」創設の発起人となった。
打ちひしがれた人々の願いを受けてのことであり、アマチュア野球でもプロ球界でも実績を持つ石本秀一を初代監督として招聘することが決定した。
石本もそれを快諾し、本拠地は広島総合球場とした。
広島市の中心を流れる大田川は鯉の産地でもあり、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を「広島カープ 」とした。
さて「市民球団」というのは自治体の負担で運営されるもので、核たる親会社がない。
そのため球団組織に関するバックアップが十分ではなかった。
そして石本は球団発会式に参加した際に、この時点で契約選手が1人もいない事実を知らされる。
球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかったのである。
石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、23人を入団選手として発表した。
1950年1月15日、西練兵場跡(現在は広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ、ファン22万人が押し寄せる。
この日は7名の追加選手を発表しているが、ユニホームが間に合わず背広で登場する選手もいたほどだった。
翌日には広島総合球場で新人採用テストが行われ、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、さっそく選手契約を結んでいる。
しかし石本監督をもってしても一年目は惨憺たる結果で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた最下位の8位(最下位/勝率.299)でシーズンを終えた。
しかも、この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。
そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込み、5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生している。
ニ軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみという惨状だった。
さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資2000万円を見込んだ計画であったが、各自治体からの出資があったものの、慎重論も渦巻く中その半分しか集まらなかった。
セリーグ連盟は加盟金の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったうえ、経営合理化策として給料の支払いが滞っていたニ軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせたりしている。
1951年2月分の給料や合宿費が支払えず、選手側も給料の遅配は当然で生活が苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい生活費を稼ぐ者もいた。
3月16日から甲子園で開催予定であった準公式大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められる。
選手達は「甲子園まで歩いていこう」と意気盛んだったが、球団社長らはセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と厳しい叱責を受けた。
その結果3月14日、広島市の「天城旅館」で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まった。
選手達は実質「解散」に等しい決定を、テレビのニュース速報で知り途方にくれた。
選手たちは石本に監督そ信じてついてきたことを訴えたが、同時に選手達は一番つらい思いをしているのが石本自身である事を知っていた。
報告を受けるために後から役員会に参加した石本は、グローブを買うために貯めたお金を使ってくれと差し出した子供のことや、天城旅館の周りに集まった市民達の悲痛な訴えを語り、寸前で「合併方針」は撤回された。
そしてファンに協力を求め危機打開を図るという「後援会」構想を打ち出し、石本自ら音頭をとって球場で「樽募金」まで行い名物となった。
さらに、シーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を繰り返した。
さらには元新聞記者の経験を生かして、中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。
その結果、その都市7月には石本が構想した「カープ後援会」が正式に発足した。
また1952年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定に目途が立つことになった。
ところで、石本秀一は広島市の石妻組という土木請負業の子として生まれた。
尋常小学校時代からエースとして活躍し、旧制広島商業学校では二年生でエースとなる。
野球熱の盛んな広島で二年でエースを張る石本は有名人だったという。
旧制関西学院高等部商科に進むが中退して満州に渡り、大連の三井物産保険部に勤務しながら大連実業団で野球を続けた。
1923年に帰国し、大阪毎日新聞広島支局の記者となる。
しかし、母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒し自ら志願して26歳で監督に就任する。
そこで「野球の鬼」と化した石本は、練習が終わると誰も立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した。
そして1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝を果たし、その後も3度の全国制覇を成し遂げた。
バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」を築いた人こそ、この石本秀一である。
その後に新聞記者に復帰し、甲子園大会にも毎日の運動記者として辛口の「戦評」を書くうちに、1936年プロ野球開幕年大阪タイガースの二代目監督に招かれた。
1939年までの在任中、いずれも東京巨人軍を年度優勝決定戦で下し、二度の阪神タイガースの優勝を果たしている。
そしてタイガースを人気チームにしてタイガース黄金時代を築き上げた。巨人・阪神の「伝統の一戦」は石本によって始まったといって過言ではない。
戦後、広島市に原爆の投下された日、石本は広島市から北に30km、向原町に疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷で済んでいる。
しかし親族には焼け死んだものが多く、生き残ったものとして広島に夢をあたえようとした。
その後いくつかの球団のコーチを務め1966年に野球界を引退している。
ところで広島カープは1957年に広島市民球場ができ、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来て大型補強を可能にした。
1973年古葉竹識がコーチから監督に就任しし、この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど「赤ヘル旋風」を巻き起こした。
1975年、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目でセリーグ初優勝達成した。
この時、77歳の石本はインタビューで涙をみせつつ「感無量」と語った。
また1979年・80年と伝説の江夏と近鉄打線の日本シリーズに勝利し広島の連続日本一となる。
それをを見届け、1982年11月10日死去している。86歳だった。

広島で、戦後初の地方特別自治法「広島平和都市建設法」が成立した。
それを実現したのは、自ら被爆体験をもつ浜井初代市長であった。
被爆時点で浜井は、「配給課長」の役職にあり、自らも原爆症に苦しんでいた。
それだけに市長就任以来広島を「平和のシンボル」として復興させることがいかに国にとって大事なことかを説いてまわった。
それは、国から予算を引き出すための「戦略」でもあった。
浜井氏は何度も国会に陳情に赴き、有力議員を夜がけ朝がけで訪問し「平和都市」建設の予算を獲得しようとしたが、いつも「財源」と言う壁に阻まれていた。
これでは自分が市長である意味がないのではと、何度も「辞職」を考えたという。
そうしたある日、人々の話を聞くうちGHQに働きかければ何とかなるのではとヒラメき、当時のGHQの国会担当に「法案」を見せたところ「素晴らしい」という応えを受けた。
これを機に「広島平和都市建法」実現へと歯車が動き出したのである。 しかし、人々の気持ちはいまだにバラバラだった。
どうせ金を使うなら、この焼け跡はこのままにしておいて、どこか別のところに新しい町をつくることを考えてはどうかといった意見もあった。
百年は人が住めないといわれていたからだ。
一方、市民の住みなれた土地に対する執着を断ち切るのは、そんな生やさしいものではなかった。
たとえ行政がどうであれ、計画がどう立てられようと、市民たちは続々と焼けただれた町に帰りはじめたのである。
復興局も審議会も、こういう市民の姿を見ては、計画の完成を急がないではいられなかった。
新しい街づくりの為には、いままでの住宅地にソノママ人々が住み直すだけでは何の発展もなかった。
バラックを立て住み始めた人々に立ち退いてもらうことも必要であった。
浜井市長の長男は、突然押し入ってきた「立ち退き」反対の怪しい人々との等の口論が恐ろしかったと語っている。
しかし、浜井市長といつも対立する立場にあった市議会議員は、浜井市長は誰よりも腹が据わっていて根性があったと語っている。
ヤクザまがいの人間に匕首(アイクチ)付けられようと、「どうしてもやらねばならぬのじゃ」といって広島の未来にむけた「都市設計」を開陳した。
そのうちに、ヤクザ達もその話に聞き入った。
1947年4月、公職選挙による最初の広島市長となり、同年8月6日に第1回広島平和祭と「慰霊祭」をおこない「平和宣言」を発表した。
1948年から式典はラジオで全国中継されるようになり、この年はアメリカにも中継された。
浜井は、原爆で死ぬべきはずの人間が、生き残ったのだから、自分の人生をすべて「広島復興」にささげようと覚悟していた。
浜井が「死んだつもり」で広島復興に賭ける姿は、癌宣告をうけて公園設立に命をかけた黒澤明の「生きる」の主人公と重なるものがある。
そして浜井は、まず広島市民の心を一つにすることが大事だと「平和の祭り」をすることを思いついた。
また、この「広島平和都市建設法」の成立に、一人の福島県人が加わり助力したという奇縁がある。
福島県人というより「会津人」という方が理解し易いが、会津といえば戊辰戦争で鶴ヶ崎城落城により灰燼と帰した。
白虎隊士の「唯一」の生き残りの飯沼貞吉の弟を父にもつ内務官僚の飯沼一省は、静岡県知事、広島県知事、神奈川県知事などを歴任した。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務め、都市計画に関連する国の行政に協力した。
とくに1949年制定の「広島平和記念都市建設法」については、法案の提出に尽力したという。
戊辰戦争の敗戦で荒廃した会津人と被爆した広島人とが共感し合うのものがあったに違いない。
しかし「広島平和都市建設法」は、当時の市民から「あまりに理想的」と批判をうけたが、これによって広島平和記念公園の建設、平和大通りの建設を打ちだし、現在の広島市の街並みの基礎が出来上がったのである。
当時広すぎると批判された道路は、それが交通のためではなく「防災の目的」であることを強調してそれを実現させた。
1968年2月26日、広島平和記念館の講堂で開かれた、広島地方同盟定期大会に出席し、不動の信念と抱負を訴え終えた直後、来賓席に戻ると同時に心筋梗塞で倒れ他界した。62歳であった。