「数合わせ」の代価

我々が生きている社会には様々な「数値」が基準となり、その遵守や達成が求められる。
そんななか、最近フォルクスワーゲンから東洋ゴム、三井不動産レジデンシャルに至るまで、「数値偽装」の事件が相次いでいる。
例えば「分譲マンション」のように、建設会社の「利幅」が少ない上、工事内容が表には出ない部分については、手抜き工事がおきやすく、行政が「数値基準」の達成を監督し、安全をはかるのは当然である。
とはいえ、様々な場面で、数値基準達成の為に「数合わせ」や「数かせぎ」が行われているのも事実。
その結果、「私的利益」を超える「社会的コスト」が発生する、つまり「弊害」の方が大きくなる。
近年、「耐震偽装問題」で知られた「一級建築士」は、驚いたことに30万人弱もいるという。エッと思うくらい多い。
人口比からいうと、訴訟社会・アメリカの弁護士数と匹敵する数だという。
しかし、仕事で一級建築士の資格が直接に役に立つ人は、設計事務所に所属している人々ぐらいだから、コノ数字は大きすぎる。
実は一級建築士の資格を持つ人の多くが、建設会社の一般社員として働いている。
彼らは資格試験に合格するために、夜間や休日に専門学校に通うが、なぜに大量の人々が仕事に役立つかわからないこの資格を、目指すのだろうか。
それは、公共工事の入札基準となる「経営事項審査制度」が大きな影響を与えている。
「経営事項審査制度」とは、入札に参加を希望する会社の経営規模・状況・技術力等を「点数」として評価する制度で、入札に参加できる公共工事の規模が、この「経審」の点数により決まってくる。
その「点数化」において、各建設会社が抱える建築物の構造計算が出来る「一級建築士の数」に、その評価点(5点)を掛けたものが技術評価点となり、結局は一級建築士の数が大きくモノをいうような仕組みになっているからだ。
そのため、公共工事の入札可能な工事の規模を出来るだけ大きくしたい建設会社は、技術系社員に一級建築士の資格習得を義務として課している。
実際、大手スーパーゼネコンは、一級級建築士の数で準ゼネコンクラスの会社を大きく引き離して「優位」に立っている。
したがって、30万人弱にもなる一級建築士の多くは、建設会社が公共工事入札のための、つまり会社の評価点数を上げるダケの為に資格を習得した「数かせぎ」要員である。
逆に言うと、一級建築士を持っている者が多いからといって、建物の設計管理や工事現場の管理が出来るとはいえず、本当の意味での技術力は、会社の有資格者の「経歴」を合わせて判断しなければ、分からないということだ。
さらにいうと、設計の仕事をしない「一級建築士」の数の大さは、会社の利益にはカナッテいるとはいえ、膨大な「社会的コスト」の発生を意味するのではなかろうか。
つまり、それだけのエネルギーと時間をもって資格をとるより、他に向けたほうが、社会的に意味のある価値を生み出すに違いないということだ。
さて、昭和の時代までは、旧国立大学とそれを除く新制大学には色々な「相違」があり、その一番の表れは、新制大学の大学院は博士課程が設置デキなかった。
したがって「博士号」をとりたい人は、「修士」をとったあとで、旧帝大に移るほかはなかった。
というのも旧文部省は、新制大学の教授陣には博士指導の資格がないという、新制大学からすれば「屈辱的」な見方をしていたからだ。
しかし1970年代に、産業界からの大学院卒業生の研究能力を高さを求める声におされて、旧文部省も大学の学術研究レベルを上げる必要を感じ、それには新制大学にも博士課程の設置が必要と考えるようになった。
そこで、文部省は新制大学に大学院設置を認める「設置条件」をつくった。
それは、その学科に所属する教授のうち、博士論文が指導できる資格のある教授は、7~8割りを超えていなければならないというもの。
さらに、文部省に研究業績の詳しい報告書を出して資格があるか「審査」を受けねばならなくなり、審査結果は教授名簿一覧に「合」の記号で通知された。
これは教授陣にとっては「晴天の霹靂」。
わかりやすくいえばオオゴトであり、博士課程の設置が却下された場合には、その責任が問われる事態になることを意味した。
そこで教授の誰もが「合」を得るために必死の努力をするようになった。それ自体はヨイことだが、次第に文部省が「合」を出す基準が単に「論文の中身」ではなく「論文の数」であることが判り始めてきた。
そこで教授達は、それまで1年に1本しか書かなかったところを、1年に3~4本の論文を書くようになり、皆が「合」の資格を得ることを目指した。
教授の中には、論文の数を増やすためにやたらと「共同研究」がなされはじめ、その際に「名前の貸し借り」までが行われるようになった。
あるいは、論文を一度に出さずコマ切れにして出すようなことまでするようになった。
具体的には、3つの材料で1つの論文を書くところを、3つの材料で3本といった具合にして、論文の「数を稼ぐ」といったことが行われるようになったのである。
こうなると、論文の「数値」が「中身」を犠牲にしているという意味で、「社会的コスト」を招いているという他はない。
その後、「論文の数」ではなく、「論文の質」を評価すべきだという声が上がり始めた。
アメリカでは、論文の質を表す指標として「論文の引用件数」を表すサイテーション・インデックス(SCI)とか、発表雑誌のインパクト・ファクター(IF)が広く使われるようになっていた。
そこで日本でも1990年代より、これらを「論文の質」を表すものとして採用されるようになっていった。
「論文引用数」が必ずしも論文の質を表すとは限らないが、低いコスト「論文の質」に近似できる点で評価したい。
ただし教授たちは、論文のテーマを「引用数」を意識した方向に切り替えていくことが予想できる。
ちなみに、1980年代の経済学における「ケインズ対マネタリスト」論争で、盛んに引用されたのが、無名の経済学者の統計資料「フリップス曲線」であることを付言しておこう。

今年7月、参議院小選挙区の「一票の格差」是正のために、ようやく「10増10減」で決着をみたのが、参議院小選挙区の改革だった。
選挙区の統合すなわち「合区」によって、違憲状態を脱したものの、ハカラズモ「対象」となった県どうしの「仲の悪さ」ブリをアラワにした。
そのひとつが「島根/鳥取」両県の選挙区の統合。
昔は、鳥取県民と島根県民が結婚しただけで後ろ指さされるような土地柄で、鳥取県人には、島根の候補に投票しなければならないなら人生初の「棄権だ」という人までいる始末。一体、両県に何があったのか。
実は、1876年から81年(同14年)の5年間、鳥取は島根に併合されていた。
その間、鉄道がないため移動は馬、船、徒歩のいずれかで、官庁や議会が松江市に移った鳥取市の経済や治安は悪化、荒廃した。
さらに、鳥取東部の議員が松江へ向かう途中に落馬、死亡するという悲劇まで起こった。
しかし、そんな昔のことをイマダに引きずるかと思わぬではないが、1970年代に起こった「もうひとつの統合」がサラナル亀裂を生んだ。
975年から77年まで、夏の高校野球の島根代表と鳥取代表は「山陰代表」でひとくくりにされ、山陰代表は3年間とも島根になり、審判の判定への不信感もからんで、両県の溝をより深めたという。
ごく最近では、スターバックスがどちらが先に出店するかでも注目をあつめた。
またもうひとゆ「合区」となってしまった「因縁の県」は、高知県と徳島県である。
自民党の両県連が「候補者」を立てて譲らず、「一本化」をめぐってどちらかの県の候補が公認を得るかで、前代未聞の戦いが起こった。
土佐高知と阿波徳島がギクシャクするのも、ひとつには、「廃藩置県」の頃の恨みがある。
維新直後の1876年から約4年間、南四国は纏めて高知県とされ、徳島は一地方扱いされ、県議会は阿波と土佐で紛糾した。
徳島の一部では、高知に併合された悔しさが今に語り継がれているという。
もう一つは、戦国末期の遺恨で、今から400年以上前の1582年、土佐の長宗我部元親が阿波を攻め、掌中に収めた。
土佐側はこれを「阿波平定」と誇るが、阿波は「長宗我部の兵乱/侵入」と呼ぶ。
今でも徳島には、あの家は長宗我部系だから付き合わないなどという古老がいるそうだ。
高知県立歴史民俗資料館の玄関にはファンの寄付で長宗我部元親の像が据えられた。
さらには「元親の大河ドラマを」とNHKに促す「署名集め」をすすめたところ、徳島側は「何故あんな悪党を」と冷ヤヤカだという。
ところでNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で大沢たかおが演じる「小田村伊之助」は、ヒロイン・文(井上真央)の再婚相手で、後に「楫取素彦」(かとりもとひこ)と改名して初代群馬県令(現在の県知事)となった人物である。
また、妻・文の兄である吉田松陰とも親しく、互いに深く尊敬しあう間柄であった。
楫取は1829年に長州(山口県)萩の藩医である松島家の次男として生まれた。
12歳で藩校明倫館の儒者・小田村吉平の養子となり、吉田松陰の信頼を受け松下村塾の後事を託され「松門の柱石」と讃えられた。
「尊王攘夷運動」などへの幕府からの追及を逃れるため、藩命により1867年に「楫取」(かとり)と改名した。「楫(かじ)を取る」としたのは、祖先が水軍であったことに因むらしい。
楫取は、幕末維新の国事に藩主・毛利敬親の「懐刀」として活躍し、明治維新政府に「参与」として仕える。
一旦は免官し帰郷するものの、新政府は楫取をほおっておくことなく、再び新政府に仕え、明治9年群馬県「初代県令」となる。
在任期間は熊谷県時代を含め10年に及び、産業、教育面などに力を注ぎ、「名県令」と称された。
ところがその楫取県令、群馬では必ずしも評判がよくない。その理由は、県庁所在地を高崎市から前橋市に移したことにある。
群馬県一帯は古くは「上野国/上州」と呼ばれていたが、江戸時代は前橋藩、高崎藩などに分かれ、維新後の1871年廃藩置県で前橋県や高崎県など9県に分かれた。
その後1876年に群馬県に統一されるが、長らく別の藩だった前橋・高崎両地域の「対抗意識」は強く、その対立をヨリ際立たせたのが「県庁移転」問題だった。
当初、県庁機能は高崎市に置かれていたが、高崎城が兵部省の管轄に入っていたこともあり、県庁舎を置くのに十分な建物がなく、各部署が別々の建物に分散していた。県政に滞りが生じたため、「生糸」生産で豊かになっていた前橋市民が寄付を募り、「県庁誘致」運動を起こしたのである。
現在の貨幣価値では30億円に相当する額を準備し、楫取県令がそれ応じて、1876年に仮庁舎を前橋に置いたのである。
この前橋市のいわゆる「県庁買収」に、高崎市民は猛反発した。
楫取県令は、地租改正が終わったら県庁を高崎市に戻すと語ったものの、結局県庁が高崎に戻ることはなく、1881年には内務省から群馬県庁を正式に前橋に置くという布告が出された。
そこで「約束が違う」と怒った数千人の高崎市民は前橋の県庁を包囲した。
しかし、楫取は病気を理由に面会を拒否し、翌日には高崎市民が前橋市内をデモ行進する騒ぎとなったのである。
高崎市民の中には、NHK「花燃ゆ」で、楫取県令が富岡製糸場を立て直して群馬を救った「恩人」とばかり描かれては、納得できないという人々も少なくないようだ。
楫取はその後、元老院議官に転任し、宮中顧問、貴族院議員などを歴任し、大正元年に山口県防府市)で亡くなった。享年84。
さて、群馬県には吉田松陰とも関わりのある人物がもうひとりいる。しかもこの人物の終焉の地は我が地元・福岡県の久留米である。
京都の阪急電車の駅にちかい三条河原町に、「待ち合わせ場所」の定番という像がある。
それは地元で「土下座像」とよばれているが、この「土下座像」の主を知っている人はそれほど多くはない。
この像の人物、高山彦九郎は1747年、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれた思想で、「寛政の三奇人」のうちの一人に数えられる。
ここで「奇人」というのは変人というより、「傑物」が正しい解釈である。
13歳で「太平記」を読み、自分の祖先が南朝の武将、新田義貞につながることを知り、高山もまた若くして先祖に倣って「尊皇の志」を抱くようになった。
18歳で置き手紙を残し京都へ遊学し、三条大橋で皇居の方角に平伏したという。
これが前述の「土下座像」で、台座には「京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した」と書いてある。
つまり「土下座像」は正しい表現ではなく、「拝礼像」というのが正しい。
確かに、「高山彦九郎像」の目線は、京都御所のある北西を向いている。
27歳から47歳で自刃するまでのほぼ全ての年の日記やその写本が残されていて、茨城県の水戸では伝記が作られ、「尊王運動」の先駆者的な存在とされた。
高山没後7年後に生まれた吉田松陰は、水戸で彦九郎のことを知り、兄への手紙の中で彦九郎を武士の手本のような人物、と評している。
ちなみに「松陰」の号については、彦九郎の謚(おくりな=戒名)「松陰以白居士」から取ったという説もある。
実は、高山彦九郎は戦前の教科書には楠木正成と並んでよく登場した。
天皇制国家の下、「忠君愛国」を国民に刷り込むには格好の存在だったが、価値観が一変した戦後は教科書から消え、忘れられてしまった。
前述の「土下座像」も1944年に「金属供出」で撤去され、61年に再建されたものである。
さて、高山彦九郎は全国を歩いて各地の社会状況を膨大な日記に残したため、「旅の思想家」として再評価する動きもある。
高山は各地を旅して遊説を行い、京都では公家や国学者、画人、江戸では支援者だった大名や儒学者、各地の藩士、蘭(らん)学者の前野良沢宅にも滞在した記録が残っている。
江戸後期、諸国を行脚して「尊王論」を説いたため、幕府の追及を受け、1793年に、身を寄せた久留米の医師・森嘉膳宅で自決している。亡骸は寺町の遍照院に埋葬された。
森は久留米の儒医で、長崎で蘭方も学んだ交遊の広さで有名な人であり、高彦九郎とは江戸で知り会ったらしい。
さて、参議院小選挙区の統合の対象となった「鳥取/島根」「高知/徳島」、さらには県庁移転の禍根が残る群馬の歴史を長々と述べたのは、このたびの「選挙区統合」がイカニ「機械的」であったかを浮き彫りにしたかったからだ。
「一票の格差問題」は、有権者に対しての議員の数を全国的に「均一」にするのが「法の下の平等」にかなうという発想によるものだ。
当然、過疎地域を代表する議員はいなくなる。
「選挙区改革」において、人口構成の中身、さらには県民感情を一切「切り捨てた」議論では、単なる「数合わせ」に見えてしまう。