移住者達のドラマ

古代から今日に至るまで、人々の「移動」は様々なドラマを生んでいる。
最近、福岡市出身で愛知県警に長くつとめたひとりの元刑事と話をする機会があった。
どうして福岡で警察官(刑事)にならなかったのかと聞くと、もしも容疑者を捜査した時に何らかの「接点」があったら、人情に動かされて捜査がやりにくくなるという思いから、福岡を避けて遠い愛知で刑事になったのだという。
しかし元刑事は皮肉な出会いの話をされた。
1959年9月、伊勢湾台風が愛知県を襲い、八幡製鉄の縮小で仕事を失った人々が、被災地復興のために数多く愛知県にやってきた。
そのため元刑事は、様々なカタチで福岡出身者との関わりを持つことになったのだという。
この話で思い浮かべたのは、北村正哉青森県知事(当時)の「核燃料サイクル誘致」の話である。そこにも「移住者達」のドラマが隠されていた。
当時の北村正哉知事は、県政を担う者の任務として、新たに雇用を支える産業や、施設を支える立地を求めていた。
そして1994年、「電気事業連合会」が青森県下北の一角六カ所村を、核燃料サイクル誘致の立地として要請した。
北村知事は、それから1年悩み続けた。国策であること、地域のメリット、そしてプルトニウムの危険性など一日たりとも脳裏からはなれることはなかった。
そして、政府は死の灰や放射能を振り撒く事態を黙って見過ごしたりはしないだろう。「防衛策」が万全ならば必ずや農家や地域の為になるにちがいないと受け入れを決定した。
しかし2011年3月11の東北大震災以後、福島第一原発から放射能が撒き散らされ、汚染水は福島から流され続けている。
その結果、六カ所村の「核燃料サイクル」計画、すなわち高速増殖炉でプルトニウムを燃やす構想は完全に「頓挫」したカタチである。
実は北村氏、戊辰戦争後に、新政府軍により会津から青森県「斗南(となみ)」(現青森県むつ市)に強制移住させられた「会津藩士」の子孫であった。
風雪の大地を農業ダケで生き抜くことがイカニ厳しいかを聞き知り、自らも体験もしている。
そのことが「核燃料サイクル」受け入れの背景にあったのは皮肉なことである。
北村氏の先祖・北村豊三は元会津藩士で、会津戦争敗北後に同藩が斗南藩へ移住させられたことにより、上北郡三沢村(現・三沢市)に牧場主の長男として生まれた。
斗南は農業で生きるにアマリニ厳しく、北村豊三は広沢安任と共に日本初の西洋式牧場である「開牧社」の経営に参加している。
戦争中は、軍の獣医少佐として出征し、インドネシアで終戦を迎えている。
1952年に大三沢町議に当選した後、1979年に県知事になると、特に東北新幹線の青森までの整備には副知事時代から取り組み、盛岡駅以北の早期着工を訴えて地元では「ミスター新幹線」と呼ばれた。
また文化面でも、後のユネスコ世界遺産・白神山地(自然遺産)登録への道を開き、1994年には世論を受けて「三内丸山遺跡」の永久保存を決めている。
知事退任後は病で入退院を繰り返し2004年に死去した。享年87。

江戸幕藩体制から明治新政府に代わるなか、北海道移住の先駆けとなった人々がいた。
彼らは、不毛の大地で「牧場経営」で道を切り開いていくのだが、その人々とはナント放牧とは縁のない瀬戸内の淡路島の人々であった。
1870年、徳島藩でおきた「稲田騒動」で、明治政府が稲田氏に下した処分は、ナント北海道・静内への「移住命令」であった。
もちろん稲田氏だけではなく、稲田氏に仕える家臣とその家族も北海道へ「移民団」として淡路島から北海道の原野へ移り住んだ。
江戸時代、淡路島は徳島藩の支配下にあり、淡路島を統治していた家老の稲田氏は徳島藩(蜂須賀氏)から陪臣として扱われていた。
幕末には、徳島(蜂須賀氏)が公武合体派であったのに対し、稲田氏とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。
稲田氏は、豊かな経済力をもち、また公卿とも縁組みをするなどして独自の人脈を築いていた。
このようなことから稲田氏の家臣は、蜂須賀氏の家臣から陪臣として軽蔑されながらも、一種の誇りをもっていたのである。
しかし新政府は、1869年に武士の身分を士族と卒族に分け、稲田氏当主は一等士族として千石給与となるものの、家臣はたとえ陪臣でも「卒族」にされたため、稲田氏家臣は、士族への編入を明治政府へ嘆願するとともに、徳島藩からの「分藩独立運動」を起こした。
この稲田氏側の動きは、徳島藩家臣の激しい怒りを買い、1870年5月稲田家・家臣の屋敷などが襲撃放火され、死者17名を含む数多くの負傷者を出す結果となった。
そこで新政府は、徳島藩側首謀者に対して厳しい処罰を下し、10名に切腹を申し渡し27名が八丈島へ島流しとなった。
新政府は徳島藩と稲田氏を切り離そうと、稲田氏側にも、当主・稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(現・北方領土)への移住が申し渡された。
稲田氏は分藩独立を条件にそれを受け入れ、1871年に稲田氏の家臣と家族達は、淡路の洲本を出航して、総勢137戸・546人が移住した。
この史実を元に作られた映画が「北の零年」(2005年公開)である。
映画のストーリーは、稲が育たず苦境を打開しようと札幌にむかったものの帰ってこない夫・小松原英明(渡辺謙)と、夫を探す旅の途中でたまたま出会った外国人によって放牧を知り、不毛の地に生きる道を開いていった志乃(吉永小百合)を中心に展開する。
夫がいなくなって5年後、志乃と村人の協力により、牧場経営が成功しつつあった。
そんな折、明治政府の役人となってこの地に姿を現したのが夫・英明である。
夫は、戦争に必要だからすべての馬を供出せよと妻志乃に迫る。
しかし、この新政府の圧力と戦ったのが、アイヌに変装していた五稜郭の戦いの残党である元・会津藩士(豊川悦司)であった。
今日、名馬の産地として有名な日高・静内の丘の上には、「開拓100年」を記念して彼らの苦闘を物語る「記念碑」が建てられている。

糸島半島の北部、県道54号線沿いに二見ヶ浦に進むと、海岸沿いに大きな夫婦岩と大鳥居が目につく。
伊勢を訪れた人ならば、誰もが伊勢志摩の夫婦岩を思い出すにちがいない。
糸島の「夕日の二見ケ浦」伊勢の「朝日の二見ケ浦」といわれるが、糸島半島の東部は「志摩」とよばれ、伊勢志摩と地名が一致している。
観光客は、地名の一致にアテコんで糸島が伊勢の真似をしたぐらいにしか思わないかもしれない。
しかし糸島と伊勢はそんな皮相な関係にはない。
その証拠が二見ケ浦のすぐ近くにある桜井神社である。
伊勢神宮の用材は、20年後の式年遷宮後の後、深い縁のある全国の神社に譲り渡されるが、桜井神社の鳥居は伊勢神宮の用材が新品同様に削り直されて使用される。
それでは、伊勢神宮と桜井神社にはどんな関係があるのだろうか、ひいては伊勢と糸島には何か奥深い関係でも秘められているのか。
そこには日本史を揺るがす大問題が横たわっている。昨年6月放映のNHK「歴史秘話ヒストリア」の「女王卑弥呼はどこから来た?二つの都の物語」は、そう思わせるのに充分な内容であった。
さて、「卑弥呼の墓」として最も有力視されてきたのが、奈良盆地東南の「纏向(まきむく)遺跡」である。
2009年、その中心部で大きな発見があった。
三百を越える柱穴の大型建物群の跡が出てきて、東西12.4メートル、南北19.2メートル、三階建てほほどの高さの高床式の建物は、三世紀の日本では例を見ないことから、3世紀の前半から半ばにかけて、政治の中心であったと見られた。
運河の総延長は2.6キロあり推定人口は7千人。
魏志倭人伝により、卑弥呼が死んだ年は247年とはっきりしており、考古学者の「年代測定」で3世紀と年代的に合致しているため、その可能性が高いとされた。
そして、纏向遺跡で大変興味深いことは、、発掘された土器が、四国、山城、近江、吉備など九州北部から関東地方に及ぶ地域からの物が混在していて、住民が列島各地から「移住者」であることである。
さて、魏志倭人伝に曰く「倭国は三十国に分かれ、争うこと七十年、八十年」だが、卑弥呼をたてたところようやくオサマったという。
この三十国のひとつが福岡市西部の糸島にあった伊都国で、「一大卒」が置かれ、30国の中でも大きな勢力を有していたことが推定されている。
その伊都国の中心が2世紀の三雲、井原遺跡で、その規模は60ヘクタールと大きく、一般の国の支配者の住居でさえ立て穴式の時代に、ここは高床式住居が多いのが目立つ。
そしてなんといっても圧巻は「平原古墳」である。
1965年に最初に発掘され、首飾りが続々と出土し、今のピアスで、古代中国の後漢の女性の墓からしか出土しないもので、伊都国の王は「女性」だったのだ。
平原王墓は2世紀の終わり頃のもので、卑弥呼の時代の「直前」の墓であるため、この墓の主は卑弥呼の母親や姉の墓とも推定されている。
平原王墓はわずか径14メートルほどの方形周溝墓だが、王墓の側には40枚もの鏡があり、一番大きな鏡は直径46.5センチ、重さが8キロあり、それが5枚も出土した。
その中央部には光の反射の絵柄と、8つの花びらと8つの葉っぱが描かれている、いわゆる「内行花文八葉鏡」である。
平安時代の書物に、伊勢神宮にある三種の神器「八咫鏡」(やたかがみ)について「8つの花弁と8つの葉っぱ」が描かれているが、それと一致しているのである。
さてNHK「歴史ヒストリア」の番組で、考古学者の一人が「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)が大和(纏向)で突然出現する」といった驚くべき発言をされていた。
この風習は、太陽崇拝と銅鏡の関係にあるようだ。
糸島の考古学者・原田大六氏が「女王の遺体は糸島(旧前原町)の東にある日向峠に向かって足を向けて横たわっているが、これは冬至の太陽の昇る方向であり、生命再生の意味を持つ」と述べられていることは、個人的に大変インパクトがあった。
これは推測だが、埋納されたたくさんの大鏡に太陽の光を反射させ、遺体の横に寝かされた新たな巫女に降り注ぐことで後継者としての霊力を移したのではないだろうか。
また一方でショッキングなことは、日本最大の「内行花紋八葉鏡」が叩き割られて埋められて いることだが、役割を終えた鏡を叩き割るという行為は、亡くなった女王の霊力を封じるという意味なのか。
ともあれこの伊都国の女王が、当時の日本で最高クラスの巫女であったことには間違いない。
かなり飛躍するが、伊都国で生まれた巫女が、大和(奈良県)で即位し纏向遺跡の「箸墓古墳」に葬られたという推測はどうであろうか。
平原王墓の造られたのは200年ごろで、卑弥呼が大和で死んだ247年との開きは約50年である。
もしも、平原の女王の「娘」が伊都国で生まれて、邪馬台国の卑弥呼として即位したのなら、年代からしてそれほど不自然ではない。
女王ではないものの、大勢力の移動で思いつくのが「神武東征説」で、九州の宮崎から八咫烏に導かれて大和に移り橿原宮で即位した初代天皇の神武天皇である。
しかし実在可能性が見込める初めての天皇は、第10代の崇神天皇(すじんてんのう)であり、3世紀から4世紀初めにかけて実在した「大王」とみられている。
また日本史研究の立場からは崇神天皇と神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。
なにしろ神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」の称は、崇神天皇の称とまったく一致している。
記紀によれば、実在の11代崇神と皇子の垂仁一族はちょうど神武天皇の東征の話と重なるかのように「大倭」を率いて大和へ東征し、これにより奈良に「大和政権」が誕生したのである。
2009年、国立歴史民俗博物館は纏向遺跡の「箸墓古墳」から出土した土器に付着していたものを炭化物を放射性炭素年代測定法で調査し、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果をマスコミに発表した。
邪馬台国の女王・卑弥呼の死はこの年代幅におさまるため、マスコミは箸墓古墳は卑弥呼の墓で決まり、といった論調でこの発表を報道した。
しかし倭人伝には、卑弥呼の居所には「宮室、楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、常に人がいて、兵器を持ち守備をしている」「兵器には矛(ほこ)を用いる」「竹の箭(や)は鉄の鏃(やじり)あるいは骨の鏃である」などと記されている。
しかし300年以前に出土した鉄鏃、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈といった武具の数は圧倒的に福岡県が多くて、奈良県の出土例はほとんどゼロに近い。
10種類の魏晋鏡も福岡県では37面出土しているが、奈良県ではたった2面にすぎない。
そういう点から推測すると、卑弥呼の墓は近畿であるはずがない。卑弥呼の時代に鉄器が出土するのは北九州であり、邪馬台国は伊都国の南にある吉野ヶ里や平塚川添遺跡の方が可能性が高い。
また、纏向の箸墓古墳からは「大量の」木製農具が見つかっており、それらは鉄器の存在によってはじめて製作が可能となるものである。
しかし卑弥呼の時代に近畿地方ではほとんど鉄器が出土しておらず、鉄器がなくして魏志倭人伝にあるような「宮殿」はつくれるはずもないという。
実は、歴史民俗博物館は放射性炭素(C14)年代測定法で年代を測定して、従来350年頃と推定されていた箸墓古墳の築造時期を一気に100年早め、卑弥呼の死期と重なったためにセンセーションを巻き起こした。
しかし現在、科学者達はC14年代測定法は、局所的にムラを生じ、日本では古墳出現期を含む1~3世紀に最大約100年古くズレルという結果をだしている。
それでは纏向遺跡が邪馬台国ではないとすると、一体どんな勢力が住んでいたのだろうか。
それは記紀神話を読めばすぐわかることである。記紀には崇神・垂仁・景行天皇の宮は「纒向」の地とされているから、大きな遺跡があったとしてもナンラ不思議ではなく、これを卑弥呼の墓とするのは、ムシロ結論に無理やりデータをあわせたようなものだ。
ところで記紀に登場する神々は、天照大神以前にも数多くある。
天皇家が重視する十六の神をまつる「十六天神社」(地禄神社と関係あるかも?)は圧倒的に福岡の糸島に多く、その次に鹿児島の川内や宮崎に多いという。
数理統計学をもって考古学を研究しておられる石井好教授によれば、これらの「十六天神社」の位置から「東征」以前に倭国の中心的な勢力が、中国大陸や朝鮮情勢の危機意識からか、伊都国から鹿児島経由で宮崎に移住して行ったという。
崇神が生きた時代は邪馬台国の時代と重なり、卑弥呼との関係には諸説あるが、崇神天皇の時代に疫病がはやり、宮中に祭った「天照大神」と「八咫鏡」を皇女・豊鍬入姫に託して移動させ、その子・垂仁天皇の時代に「天照大神」と「八咫鏡」は伊勢神宮にオサメられている。
倭の中心勢力が伊都国(糸島)から日向(宮崎)へ向かい、そこから纏向の地(奈良)へ東遷したのなら、糸島の平原王墓と伊勢神宮の「内行花文八葉鏡」や両「二見ケ浦の夫婦岩」の一致も、それほど不思議なことではない。