天空の幸

「山の幸」や「海の幸」という言葉は聞くけれど、「空の幸」という 言葉はアマリ聞かない。
ただ、村上春樹の小説「海辺のカフカ」に空から魚が降る話が登場するが、こういうことは結構起きているらしい。
最近では、2009年に石川県七尾市で、多数のオタマジャクシが降ったという騒動が起こっている。そしてこの奇怪な現象の原因は、鳥が何らかの事情で吐き出したという説が有力である。
聖書でいえば、マナという食物が砂漠に降って、40年間イスラエルの民を養ったという記述もある。
というわけで、人間は、案外と空から「降ってくるもの」の恩恵に浴しているものかもしれない。
巨大隕石が「急角度」で落下するような場合は、すさまじい破壊を引き起こすが、ふつうの隕石なら人間に被害をもたらすより、天からの「贈り物」という側面が大きいという。
隕石なるものは、頻々と地上に落下してきているらしいが、地面にクレーターを作ることもないし、充分に冷えているので草地を焦すこともない。
そして、隕石の中には「隕鉄」という種類があり、その中身は鉄やニッケルの塊で、金属の精錬技術を持たなかった昔の人々は、「隕鉄」を貴重な金属として、道具に使ってきた。つまり「天空の幸」なのだ。
さらには、「目撃情報」を伴った場合には、天からもたらされた物質として「宗教な意味」づけが加わることにより、「隕鉄」をとても大切に扱い畏敬の念すら抱いていたに違いない。
それは天上を起源とする「天空の力」を宿した貴重なモノだったはずだ。
人類学者エリアーデは、古代人には「天空は石で出来ている」という共通の信仰があったと書いている。
とすると、隕石は「天空のカケラ」であり、世界各地に見られる地上の「ストーン・サークル」は、そのカケラが突き刺さった場所を指すという解釈も成り立ちそうである。
これは少々無理な解釈かもしれないが、すくなくとも「ストーン・サークル」を「天地の交流」を願う場所という解釈は充分可能だ。
聖書の創世記28章に「天の梯子」の話が登場する。
ヤコブ(後イスラエルに改名)がベエル・シェバから立ってハランへ向かった際に、ある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。
ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
すると、夢かウツツか、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしているのを見た。
すると、神が傍らに立って「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と語った。
ヤコブは自分は、気がつかないまま「天の門」に寝ていたことに気がつき、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立てた。そして、先端に油を注いで、 その場所を「ベテル(=神の家)」と名付けたという。
さて、天を起源とした「天空のカケラ」たる剣や斧などの武器は、そのまま神秘的な霊力と直結して、敵を打ち滅ぼし持ち主と仲間を守ってくれると信仰が生まれた。
そうならば「天来の武器」を持つ民族は、天から降り来った神々の末裔として畏れられる。
そして、山麓に降った「隕鉄」をたくみに加工し上手に操る者達もまた、天からやってきた人々またはその子孫というように見られたかもしれない。
ひょっとしたらヒョットして、それが「天孫民族」という言葉と関係しているのかもしれない。

さて、日本各地には星上山、大月町、天川村など、天体に関する字が付く地名は全国各地に数多く見られる。
その全てが天体や天文現象に関わるわけではないが、中にはソノ地に星が降ってきたという伝説や実際に落ちてきたとされる石を祀る場所もある。
京都貴船には、実際に「天降石」なるものがあるし、鳥取県には「落岩神社」という隕石ソノモノを祀る神社もある。
奈良県吉野の「天河神社」は、能楽の発祥の頃より深く関わってきた「芸能の守り」本尊といわれ、天河社に能面・能装束多数が現存している。
いずれも桃山文化財の「逸品」だが、天河社にはソノ名にふさわしく、赤ん坊の頭ほどの「三つの隕石」が柵に囲まれて存在しているのである。
この神社は、もともと「天の安河の宮」といい、八百万の神々が、天岩戸にこもった「天照大神」を引き出すために集まって話し合った場所をさした場所なのだという。
福岡県・鞍手町のほぼ中央にある剣岳(つるぎだけ)はその山容から鞍手富士と愛称されている。
この山麓にある「古物(ふるもの)神社」は、あまり目立たないが実に興味深い神社である。
まず驚きなのは、祭神が「天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神」 などで、並の神社ではないことが推測できる。
そして村の名は、石上布留魂大神の座所のゆえ、「布留毛能(ふるもの)村」と名付け、それがナマッテ「古門村」(ふるもんむら)とよぶようになったという。
そして一番の驚きは「石上布留魂大神」といえば物部氏ユカリの奈良・石上神社に祭られた神だから、この古物神社こそが石上神社の「元宮」なのだという。
さてこの神社の縁起に遡ると、この辺りにはもともと八幡宮と剣神社のふたつの産土神があった。
「剣神社」は、江戸時代1828年8月に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに移して、八幡宮の相殿として合祀した。
また明治になって、「布留毛能(ふるもの)村」の名前から取って古物神社となったという。
さて、剣神社の「縁起」に面白い記述がある。
「天智天皇の御世に、僧・道行が熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた」という。
朝廷がこれを聞いて「草薙の剣」だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻したが、剣の霊は落ちたところにとどまり、そこに祠をたてたのが「剣神社」の起源である。
そして、この縁起の中の「その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった」という箇所に注目したい。
これは「隕石落下」の情景そのものに思える。袋を破って落ちてきたその剣はしばらくこの剣岳に置いてあったという地元の言い伝えがある。
ちなみに、この村の名前「古門」は、隕石の古語である「降るもの」を連想させる。
、 さて熱田神宮から「草薙の剣」を盗んだ道行という人物は何者であろうか。
「日本書紀」には、天智天皇の7年に、沙門の道行というものが、草薙剣をぬすんで新羅に逃げようとし、途中風雨に出会って、迷って帰ったと記されている。また、熱田神宮の縁起では難波より「本国」に逃れる途中で嵐に遭い失敗したとあるので、道行が新羅僧であることがわかる。
新羅に逃げるのであれば、当然北九州経由である可能性があり、この神社の縁起には何らかの真実を物語っているようだ。
さて、「隕石落下」といえば、鞍手に近い福岡県直方市の須賀神社で行われる祭りがある。
須賀神社では「世界最古」と銘打った「隕石」を輿で担いで街を巡るというものだ。
須賀神社の御神幸大祭では、境内に落ちたと伝わる隕石を輿に乗せて地域を巡る。
神社の伝承によると、コノ「隕石」は平安初期の861年4月7日夜、光や大きな爆発音とともに落ちてきたものとされている。
その「隕石」は赤黒く、拳より一回り小さい程度のものだったが、宮司家が大切に保存してきた。
1981年に国立科学博物館の専門家らの鑑定で「目撃記録を伴う世界最古の隕石」と確認され、神社に記念碑も建立されたという。

日本人なら「三種の神器」という言葉を一度は聞いたことがあるに違いない。
それは、天皇家に受け継がれてきた秘宝である「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊曲玉」(やさかのまがたま)、「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)を指している。
古物神社のもうひとつの「八幡宮」の縁起の方をみてみよう。
古門村は神代の昔、スサノオの命(ミコト)が高天原より出雲国に行く時の経路のあり、この宮はこの「十握剣」と、その持ち主のスサノオの命を最初に祀っていた。
つまり、スサノオの命が出雲の国に行く途中、高天原から出雲に行くルートにこの神社があるという。
これに関わる「古事記」の物語は、スサノオの命は父イザナギから追放されて、姉アマテラスのいる「高天原」に行って、ウケイ(誓い)をする場面から始まる。
ソサノオは、黄泉国にいる母イザナミに会いたくて、姉に別れを告げようと「高天原」に向かうのだが、姉アマテラスからすると、乱暴者の弟スサノオが高天原を侵略しにやってくるように思え、それを警戒して自ら武装した。
そこで、スサノオは姉アマテラスに、これから良い神様がうまれたなら、自分にソンナ野心がないことを信じて欲しいとウケイをする。
アマテラスがスナノオのもつ「十握剣」三つに折ると、3柱のよい神様が生まれ、スサノオの正しさが証明された。
これが福岡県の宗像に奉られている「宗像三女神」である。あまりしられいないことだが、宗像神社の祭神の三女神は、この十握剣から生まれ、もともとは鞍手町の六ケ岳に降臨し、移動しつつ現在の宗像大社に鎮座しているのである。
さて、ウケイに勝ったスサノオだが、相変わらず乱暴者で、ついには高天原から追放され、その後に出雲へと向かった。
そして出雲で、スサノオが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際に、その尾から取り出したものが「草薙の剣」なのである。
さて、「三種の神器」のうちの「草薙剣」以外の二つの神器ルーツは、天岩戸神話や国生み神話の時代に由来している。
岩戸が閉ざされて暗闇が訪れた際、岩屋から出ることを拒むアマテラスに困り果てた八百万の神々は、協議した結果、宝物を作って木に掲げ、アマテラスを誘い出すことにした。
まず、鏡作りの職人集団により「大きな鏡」が鋳造され、玉造部の遠祖に導かれる別の職人集団は、「曲玉」を作った。
更に、青和弊(あおにきて)・白和弊(しろにきて)の木綿で作られた供え物も作り、天香山の根元から掘り起こして切った樹の枝に、「八咫鏡」「八尺瓊曲玉」と共に掛けて、岩屋の前に立てた。
そして岩戸の前で一同が祝詞をあげ、神事を執り行う最中、アメノウズメが楽しげに踊った。
その騒ぎが気になり、また、美しい祝詞の言葉に心を留めたアマテラスは、岩戸を少し開けて外を窺った。
その時、岩戸の陰に隠れていたタジカラオはアマテラスの手をとり、岩屋から誘い出すことに成功する。
これら物語の詳細は、日本書紀や古事記に記載されているが、「三種の神器」という言葉自体は日本書紀や古事記などの古文書には用いられてはいない。
しかし、それらの宝物を所持することは「正統な皇位継承者である証」であり、皇室のシンボルとして、古代より重要視されてきたため、いつしか神聖な意味が加えられ「三種の神器」と呼ばれるようになったのである。
伊勢神宮においては「三種の神器」のひとつである「八咫鏡」が、皇位継承を象徴する御神体として、古くから内宮にある正殿の奥におさめられている。
そして20年に一度行われる遷宮の際には、神宝が白い布で覆われ、夜間に限り移動されるという、最も重要な儀式が執り行われてきた。
また、「草薙剣」は熱田神宮に、そして「八尺瓊曲玉」は宮中三殿の賢所に安置されていると伝承されている。
しかし、これら「三種の神器」は何人も見ることが許されないため、神器の詳細や製作の趣旨などについても検証されないまま、今日に至っている。
それどころか、「三種の神器」は、「実在」そのものが不透明なのである。
さて、前述のように「三種の神器」のうち、高天原に起源がないのが「草薙の剣」なのである。
「草薙剣」は、スサノオが退治した「八岐大蛇」(ヤマタノオロチ)の尾から取り出したものだが、「八岐大蛇」とは何を意味するのだろうか。
「大蛇の尾」とは、その長い船尾にみえることから、大陸からの巨大な船を意味するという説もある。
あるいは、八方に広がる鉱山のようなものを意味するかもしれない。
よくはわからないが、スサノオが「何か」巨大なモノと格闘した結果、獲得したモノとはいえそうだ。
従って「草薙剣」は大陸に由来するモノの可能性が高く、その「草薙剣」はスサノオから天照大神に献上された後、一時、「八咫鏡」と一緒に伊勢にて収められた。そしてヤマトタケルが東国を平定するために旅立つ際、伊勢神宮のヤマトヒメが、剣をヤマトタケルに授けている。
ヤマトタケルが亡くなった後、「草薙剣」は尾張の地へもたらされ、熱田神宮にて祀られたという。
さて、天智天皇の時代の情勢を仔細に見ると、661年 当時中大兄皇子)の母の斉明天皇が福岡県朝倉で突然亡くなり、662年 36歳の中大兄皇子は天智天皇となった。
ところが663年 白村江で大敗し、667年 大津へ遷都している。
白村江の戦いとは「日本・百済」連合軍×「新羅・唐」の連合軍の戦いだが、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位があった。
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、福岡の大野城や佐賀の基イ城を築いて、強固な国造りに取りかかっており、新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都している。
その翌年、前述の新羅僧・道行が「草薙の剣」を盗んで新羅へ逃走している。
日本が白村江で敗北した時、当然西日本には百済からの難民があふれていたことが想像できるため、この混乱の時期は人目をごまかす絶好機だったに違いない。
ただし、668年熱田神宮から「草薙の剣」を盗んだ新羅僧・道行の試みは「嵐によって」失敗したことが記されている。
我が地元福岡市周辺には、「遣新羅使」の遺跡を平和台などいくつか見出すことができるが、道行の逃走が「博多経由」だったしたら鞍手の古物神社も遠くない。
ただ古物神社の縁起にある「剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた」というのはにわかには信じがたく、嵐のなかでオリジナルの「草薙の剣」は紛失したのではなかろうか。
ところが、ちょうどそのこのころ多数の目撃者のいる「隕石落下」がおきていて、これが隕石落下の現象とも知らず、何か光り輝く「天の恵み」が降ってきたように思ったかもしれない。
そして、この出来事にことよせて、「草薙の剣」が戻ってきたという解釈を施したのではなかろうか。
つまり鞍手「古物神社」の起源は「隕石落下」だが、この「隕石」を素材として製造された剣がココにしばらく保管され、それが「草薙の剣」として熱田神宮に戻されたのではないかと、個人的に推測する。
また、「平将門」の首が晒された平安京から東京・大手町まで飛んできたという話も「隕石落下」と関係があるのではないか。
ともあれ「草薙剣盗難」の真相は、歴史のはるかかなたの闇に閉じ込められたままである。
草薙剣の飛来も「隕石落下」にことよせたものであるとすれば、「隕石」はロマンあふれる物語を提供する「天空の幸」といえようか。