日本文化の奇縁

今ヨーロッパで、「シリア難民」の増加が話題になっているが、あのスティーブ・ジョブズの実父もシリア系の移民である。
もっともジョブズは、この父親を嫌って生涯会おうとはしなかったが。
ジョブズは「私生児」だったため、すぐに労働者階級の家庭へ里子に出されている。
養父母は、貯金を取り崩し、ジョブズを有名なリード大学へ進学させるが、ジョブズは、わずか半年で退学してしまう。
そしてまるで「自分探し」でもするかのようにインドを放浪したり、サンフランシスコでヒッピー生活を送っていた。
そしていつしか、サンフランシスコの禅センターに通うようになる。
実は、ジョブズにとって「父親」がわりになったのは、曹洞宗の日本人禅僧である。この尊崇する禅僧によってジョブズの結婚式も葬式も執り行われている。
ジョブズは、禅センターに通う中で「侘び寂び的/禅的」なものを好むようになり、自然に日本的な美意識を身につけた。
ジョブスは、21歳の時、友人と自宅のガレージでアップル社を創業した。そのこだわりはあくまでも「シンプル」。「中間」を省いて一気に本質に迫るところがジョブズの真髄である。
個人的には、今の「スマホ」を見て、手のひらサイズの「硯(すずり)」に見える。
ジョブズは、日本のデザイナー・三宅一生との交流があり、その身なりもシンプルさに徹した。
ファッションといえば、最近、中国で注目されているブランド名が「無用」。
そのデザイナーである馬可も、日本文化に影響を受けた人である。
国家主席・習近平夫人は元女優だが、彼女が愛好するブランドこそ、馬可が立ち上げた「例外」。
馬可は、もともと大量生産用に「例外」というブランドを立ち上げたが、中国経済が急発展する中、目先の利益を優先し、大切なものを「無用」と決めつけることに反発。ブランド名を「無用」とした。
というわけで「例外」を離れてから、少数民族が暮らす農山村を旅する中で、最も簡単で基本的な生活や服に回帰する「贅沢(ぜいたく)な清貧」を目指したいと考えるようになった。
影響を受けたのは欧米的な審美から独立し日本人のデザイナー、日本の三宅一生、川久保玲、山本耀司の3氏。禅の思想家・鈴木大拙や「清貧の思想」の作家・中野孝次にも影響を受けたという。
戦乱の中で、日本文化に「希望」を見出したのが、「ムーミン」のトーベ・ヤンソンと「灰とダイヤモンド」のワイダ監督である。
トーベ・ヤンソンは、第一次世界大戦が始まった1914年フィンランドの首都ヘルシンキで、彫刻家の父とグラフィックアーティストの母の長女として生まれた。
トーベは早熟なアーティストで、わずか15歳で雑誌やポストカードのイラストレーターとしてそのキャリアをスタートさせた。
10代後半で商業デザインや美術を学び、20代になるとフランスやイタリアに留学した。
帰国後は、油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフラスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎の壁画などのパブリックアートを手がける。
第二次世界大戦がはじまると、怒りや悲しさで、美しく絵を描く気力を失っていった。
代わりに、ヒットラーなど独裁者たちを皮肉った風刺画を数多く描いた。
その片隅には、署名とともに、小さく添えられていた「いつも怒っている醜い小さな生き物」があった。醜い生き物は醜い戦争の「象徴」である。
それでも、ヤンソン一家は毎年夏になると、自然豊かな郊外のサマーハウスで過ごすのが習慣だった。
トーベにとって、ストックホルム近郊の島やペッリンゲ群島地域などで過ごした幸せな夏休みの記憶は、「ムーミン」の物語に色濃く反映されている。
さて、戦争が終わった1945年にトーベは「小さなトロールと大きな洪水」という物語を発する。
ムーミンたちの家が洪水で流され、美しい谷に流されるところから始まる。それは、「ムーミン谷」の始まりで、戦争が終わり「幸せ」の時代の到来を意味していた。
それに呼応するかのように、「醜い小さな生き物」はも愛らしい姿となり、ムーミンと名づけられた。
1950年に第三作「たのしいムーミン一家」が英訳され、1954年には、当時世界最大の発行部数を誇ったロンドンの夕刊紙で連載漫画がスタートし、たちまち人気となった。
母国フィンランドを始め、最盛期には40カ国120紙に転載されたという。
ところで、トーベヤンセンが日本の浮世絵の影響を受けていることはあまり知られていない。
「ムーミンパパの思いで」では、フィンランドらしい荒々しい波が描かれたが、どこかで見た絵である。実はこれが葛飾北斎の有名な波の絵「神奈川沖浪裏」からの影響である。
また、トーベは、広重の「おおはしあたけの夕立」の影響うけて、雨中でのピクニックの画を描いている。
画家としての人生は険しい、しかしその困難を超えれば幸せがやってくるという思いをこめたようだ。
彼女にとって「浮世絵」は、彼女の人生を導く希望の光であったようだ。
「灰とダイヤモンド」などで映画史に名を刻むポーランドの巨匠といえば、アンジェイ・ワイダ監督である。戦乱の中で、日本文化に曙光を見出したひとりである。
1926年ポーランド東北部スバウキ生まれたワイダは、映画大学卒後、1954年「世代」で監督デビューした。
「地下水道」「灰とダイヤモンド」などでポーランドを代表する映画監督になる。
冷戦下、反体制運動にかかわる。最新作に第2次大戦中の虐殺事件を描いた「カティンの森」(07年)という作品もある。
ワイダ監督は18歳の時、ポーランドの国立博物館で目にした浮世絵や日本の古美術品のとりこになった。またこの体験こそが映画監督になるきっかけともなったという。
「日本文化は世界中で最も洗練され、最も規律のきちんとした芸術的表現方法を持っている」と評している。
1987年「京都賞」を受賞した際、賞金の4500万円に市民の募金を合わせ、1994年、古都クラクフに日本美術・技術センターを作った。
葛飾北斎の「北斎漫画」にちなみ、同センターの愛称は「マンガ」。
2002年、天皇、皇后両陛下もここを訪れている。
ワイダ監督は、東北大震災の際には次のようなメッセージを寄せた。「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのかと問わずにいられないが、こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。
今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくで人が悲観主義に陥らないのは、驚くべきことであり、また素晴らしいことです。
悲観どころか、日本の芸術には生きることへの喜びと楽観があふれています。日本の芸術は人の本質を見事に描き、力強く、様式においても完璧です」と。

最近、福岡市の西新や百道は、直木賞作家の東山彰良さんが過ごした町として紹介されているが、今時の若者達は、この街を「サザエさん」よりも「フォーチュンクッキー」と結びつけるかもしれない。
AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」のPVで、百道の福岡ドームやの西新の商店街や学校で活動する人々が、愉快に生き生きと描かれているからだ。
さてフォーチュンクッキーの発祥の地は、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にある日本庭園である。
この日本庭園は、1894年に開催されたカリフォルニア冬季国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
そして、この庭園や茶屋を運営していたのは、萩原真という日本人移民の「庭師」であった。
萩原真はこの庭園を訪れた客に、言葉を記した紙を入れた煎餅(せんべい)を提供して好評を博した。
この煎餅は、サンフランシスコの和菓子店「勉強堂」が焼いたものであった。
そしてこの日本庭園以外にも、日本人経営のレストランでも出し始め、その後中国人経営の店にも広まった。
カルフォルニア州の中華街でこれを知ったアメリカ人(主に米兵)によって全米の中華レストランに広まったのである。
ちなみに、「フォーチュン・クッキー」として知られる煎餅の形状や発想は、日本の「辻占煎餅」に遡ることができる。
元々の「辻占」は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うもので、「万葉集」などの古典にも登場している。
そして江戸時代になると、「辻占」は、お祭りや市の日に辻(交差点)に立ち、そのオミクジを小さな紙片にして、せんべいの中に入れたものが「辻占煎餅」である。
明治時代、東京大学のお抱え教授で大森貝塚の発見者モースは、「フォーチュンクッキー」について「ある種の格言を入れた菓子」で「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた」と書いている。
さらに「私は子供の時米国で、恋愛に関する格言を入れた同様な仕掛けを見たことを覚えている」と言及している。

日本の近代美術の「恩人」ともいうべきアーネスト・フェノロサ(1853年-1908年)は、モースと同じセイラムに住む「知り合い」同士であった。
東京帝国大学が政治学の教授を捜していることを知ったモースはフェノロサをその職に推薦した。
フェノロサは1878年に来日し、政治学や哲学の講義をするかたわら、日本絵画に魅せられ、「日本美術」の研究と収集に没頭するようになった。
フェノロサは岡倉天心らと交流し、最後はロンドンで客死したが、「琵琶湖の見えるこの地で死にたい」という遺言どうりに滋賀県大津の三井寺に墓がある。
そしてモースやフェノロサの出身地であるセイラムの近くで誕生したのが、世界的ブランド「ティファニー」である。
T・カポーティー原作で映画化された「ティファニーで朝食を」ではオ-ドリー・ヘップバーンが自由奔放な女性ホリ-・ブライトリ-を演じ、彼女がティファニ-のショーウィンドウを覗きこむシーンで映画は始まる。
実は、ティファニー社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の伝統美」との出会いにあった。
ティファニーの祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカ・ボストン近くに居を定める。
ニューヨークで現在のティファニー社の基礎を作ったのはチャールズで、1837年に同郷で義兄のヤングとともに「雑貨店」を開いたのがハジマリである。
ところで、ティファニーといえば宝石であるが、この宝石は「革命」のドサクサの中で多く入手したものである。
フランスで2月革命がおこり、ヨーロッパに革命が広がりはじめると、ヨーロッパの王族・貴族は国外脱出のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわし、その過程で「門外不出」と通常考えられたような貴重品が次々とティファニーのものになったのである。
さらに、店の売り上げを伸ばそうと、品物をいれ変えたり並び替えたりしたが、ある日「ボストン港」に入港する船から降おろされた「日本製」の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われた。
そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。
そしてチャ-ルズの息子のルイスは、画才があり内装飾の色ガラス製作を試みる中で「ガラス工芸」に魅せられる。
ジャーナリズムで紹介されるも、著名な評論家がルイスのガラス器は「生活雑貨」にスギズ「芸術」とは認められないと評されるや、熱がさめたように売れなくなってしまった。
この「行き詰まり」の中で、日本を旅した最初のアメリカ人画家ラファージが、ルイスの「ガラス工芸」確立に協力し道を開く。
ラファージはボストンで岡倉天心らと交友し、ルイスはガラス工芸の中でも、乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程を確立していった。
しかしルイスとラファージの蜜月はそう長くは続かず、「製法特許」をめぐって裁判沙汰になってしまう。
ラファ-ジは日本美術を範としてステンドグラスの第一人者として1889年パリ万博でも勲章を得たが、ガラス製品を大量生産し全米に流通させたのはルイスの方だった。
ルイスは、新しい技術者やデザイナーを招いて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほど大量生産していったのである。
そしてこの「ティファニー・グラス」は飛ぶように売れ、「世界ブランド」の地位を確立したのである。
「ティファニー」は、ルイスとラファージのライバル関係が生んだといって過言ではないが、ラファージの妻は「マ-ガレット・ペリー」という名前で、その名が伝えるとおり、黒船来航のペリー提督の弟の孫という関係である。
そして、ラファージは妻の実家で偶然にも「広重の浮世絵」を見て、すっかり日本画に魅せられたのである。
ティファニーと日本は、かくも「奇縁」で結ばれていたのである。
テファニーグラスに、そのエポックを映すとすれば、フランス革命、メイフラワー号、ペリー提督が乗った黒船なども映し出されることであろう。
さて、日本との出会いが「奇縁」となったのが、「シェル石油」を設立したマーカス・サミュエルである。
ユダヤ人の両親は、ロンドンで雑貨商を営んでいたが、高校を卒業したばかりの18歳の彼に、船の三等船室の片道切符を1枚「お祝い」として贈った。
1872年のある日、18歳のサミュエルには、横浜港に降り立った。
日本には、もちろん知人もいないし、住む家もなかった。彼は湘南の海岸に行き、ツブレそうな無人小屋にもぐり込んで、初めの数日を過ごした。
そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿で、彼らは砂の中から貝を集めていた。
サミュエルが手に取ってみるとその貝は大変美しく、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなどになると考えた。
そこで彼は、自分でもセッセと貝を拾い始め、その貝を加工して父親のもとに送ると、父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。
ティファニーが日本の工芸品をニューヨークで売ったように、サミュエルは日本の貝殻をボタンや小物玩具に加工してイギリスへ輸出して成功し、多くの富を得ることができたのである。
その後、サミュエルはこの石油の採掘に目をつけ、色々相談して、インドネシアなら石油が出るのではないかと考え、そして、幸運にも石油を掘り当てることができた。
そして彼は、「ライジング・サン石油株式会社」という会社をつくって、日本に石油を売り込み始める。
そしてサミュエルは「造船」の専門家を招いて、世界で初の「タンカー船」をデザインし、自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけたのである。
1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。
彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称した。
これが今日、日本の津々浦々でもよく見られる貝のマークの「シェル石油」の始まりである。