誰かの為に

俳優の藤本隆宏は、もともと水泳選手、岩崎恭子が金メダルをとったソウル・オリンピックに出場していた。マスメディアは岩崎恭子の金メダルに殺到し、藤本についての報道はほとんどなかった。
その藤本は、NHK「坂の上の雲」で主人公の親友、広瀬武夫中佐を好演し、一躍世間の注目を浴びた。
たまたま「坂の上の雲」のエグゼクティブ・プロデューサーが事務所の社長と旧知の間柄であったことから、幾度も藤本の出演舞台に足を運んで演技を見て「広瀬役」に声がかったという。
藤本の実家は福岡県宗像市で、宗像沖は日本海海戦の舞台となったところでもあるので、役柄にも縁があったわけだ。
藤本が、オーストラリアに水泳留学をした頃、初めて観たミュージカルが「レ・ミゼラブル」であった。
その時の舞台と客との一体感が、五輪会場の雰囲気と重なったように興奮と衝撃が身体を巡った。
その瞬間に、これこそが自分にとっての水泳に代わるもの。いや、それ以上のものという感触をえた。
そして早稲田大学人間科学部卒業後の1995年、劇団四季のオーディションを受験し合格、研究生として俳優をスタートし、初舞台は1997年のシェイクスピアの「ヴェニスの商人」であった。
しかし俳優へと転身する道は険しかった。
福岡久留米の西日本短期大学高等学校時代、競泳選手として数々の好記録を出して早稲田に進学し、オリンピックに出場するもメダルを取れなかったことへのワダカマリは残った。
下積みの劇団時代に、元水泳選手・木原光知子さんと出会い、彼女のスイミングスクールで教えることもあった。
6歳から水泳を始め、練習量の多い時は、1日に2万5千メートル以上も泳ぐほどの「水泳漬け」の日々だった。
1988年に18歳でソウル五輪に出場し、次のバルセロナ五輪(92年)では400m個人メドレーで8位入賞した。
この種目で日本人初の決勝進出を果たしたのだが、五輪でのメダルがすべてであったため、同競技における日本史上最高位であったにもかかわらず、少しも嬉しくなかったという。
そこで、もう一度メダルを目指そうと大学卒業後にオーストラリアに水泳留学したが、記録は伸び悩み、結局アトランタ五輪の代表選考会を兼ねた日本選手権で惨敗し、1996年4月引退した。
この時期に出会ったのが前述の「レ・ミゼラブル」(「ああ無情」)であった。
大学卒業後すぐに、劇団四季の研究員として、俳優稼業をスタートさせたものの、歌やせりふができないばかりか、ダンスもできない。
スポーツやってきているのに、手足が伸びないし、リズムにも乗れない。
水泳時代には経験したことのない「落ちこぼれ」体験で、途方に暮れた。
1996年、そんな時、母校西日本短期大学にを訪れた。後輩たちの姿を見て、体育館でバレーボール部が練習している姿を見て、自分の「原点」を思い出した。
水泳とて最初から速かったわけではない。自分が水泳でやってきたように努力をすれば絶対にできるようになる。
もう一回コツコツ努力することの大切さを思い出し、頑張ろうと立ち返ることができた。
俳藤本には、ゼロから努力して今を掴んだだけあって、「名言」と思う言葉がある。
五輪で2連覇した選手なら、「自分のため」だけでは3連覇に向けてのモチベーションを維持するのは難しい。
しかし「誰かのため」「何かのため」であれば頑張れる。そして、自分のためではなく周り、お世話になった人のために頑張りたいと思うのが、一流のスポーツ選手に共通のものであることを知る。
ドラマ「坂の上の雲」でも明治期の若者たちが、国のために勉強をし、両親や兄弟のため、恩師のため、つまり誰かのために頑張ろうと立派な仕事を成し遂げたこととも通じるものがある。
藤本は、芸能界という所は、元プロスポーツ選手や誰かの二世といった人たちであれば、経験が浅くても容易にチャンスが与えられる世界だと思っていた。
しかし藤本の俳優転身は、メダルが取れずに逃げるように入った世界とみられても仕方がない
だから「元オリンピック選手」の肩書きを使うのはやめよう。「違う藤本」で勝負しなければ本当の成功はできない、と水泳の元五輪選手という経歴は「封印」してきたという。
芸能界は努力そのままに答えが出るほど甘くはないが、水泳を一生懸命やってきたからこそ、演劇の世界でも頑張れた。
つまりひとつの夢に向かって努力していけば、たとえその夢に届かなくても、もう一つ別の夢が現れてくる。
藤本をみると、脇道には必ず意味があり、人生にとって遠回りは無駄ではないことを示しているようだ。
そして藤本自身、ドラマの中でで演じた明治人のように、「誰かの為」があったからこそ、無骨でひたむきな努力が出来た人であったにちがいない。

ソチ・オリンピックでは個人銀メダル、団体で日本に銅メダルをもたらしたのがスキー・ジャンプの葛西紀明選手。
小学3年生の時、ジャンプをやっていた友達に誘われてやってみた。
負けず嫌いなので、誰より飛んでやろうと、人より跳ぶ、人に勝つ快感をその時初めて知った。
すぐにジャンプ少年団のコーチが家まで来、ジャンプをやらせないかと誘ってくれた。
ジャンプという競技はお金がかかるため、米も食べられないくらい貧乏だったためそんな余裕はなくて、泣く泣く諦めた。
しかし、親の目を盗んで人が跳ぶのを見に行ったり、跳ばせてもらったり、ジャンプヘの思いは募る一方だった。
町民スキー大会に親に黙って出場したら1位になった。もらった金メダルを手に、どうしてもやりたいと親に泣いて頼んだら、やっと首を縦に振ってくれた。
ただし必要な道具は全部先輩のオサガリだった。
父親が、麻雀にのめり込んで、母が朝から晩まで1人で働いて姉と妹と自分を育ててくれた。
いつかオリンピックで金メダルを取って家を建ててあげると母に約束した。
それだけに、絶対に勝たなければならない。夢中で練習し。中学、高校と、ライバルはおらず、勝ちまくった。
中学3年の時に札幌の大倉山で開かれた宮様大会で、テストジャンパーとして出場し、中学生が跳ぶことは当時としては異例のことだった。
とにかく怪我だけはせずに家に帰りたいと考えていただけなのに、優勝した選手よりも遠くへ跳んでしまった。
「陰の優勝者」と新聞に書かれて随分話題になり、その時はじめて遠い夢だった金メダルを、現実の目標としてハッキリ意識しはじめた。
高校はスキーの名門、札幌の東海大学第四高校に学費免除で入り、1年生の時に初めて世界選手権に出場した。
しかし世界は強かった。特に葛西が中学の時からあこがれていたフィンランドの “鳥人”ニッカネンとドイツのバイスフロクの二人はずば抜けていた。
日本チームが精いっぱい跳んで70mくらいなのに、彼らは120mとけた桁違いの距離を出した。
こんなに差があるのかとショックを受けた反面、逆に闘志も湧いてきた。
日本に帰ってからは、一層練習に熱が入った。
世界で戦うためにはもっと筋力をつけなければと考えて、特に筋力トレーニングに集中して取り組み、まずいプロテインも我慢して飲み、やれることは何でもやった。
ところが1994年のリレハンメル五輪の前年に、妹が再生不良性貧血という重病にかかり、辛い治療を何度も受けたりして、ドナー探しでも苦労した。
妹のためにもぜひ金を取りたいと願っていたが、リレハンメル五輪では「銀」に終わってしまった。
それでも、誰にも触らせずにおいたメダルを、元気になってくれという願いを込めて最初に妹に触らせた。
病気の妹に比べれば、自分は何も辛いことはない。そんな妹を支えに今度こそは金だと、1998年の長野五輪へ向けて気持ちを奮い立たせた。
ところが1994年の11月、ある大会で転倒して鎖骨を折り、しばらく跳べない状態が続いた。
翌年の5月頃ようやく完治して、ブランクを埋めるためにそれまで以上に猛練習に励んだ。
しかし、それが災いして、その冬のシーズンで今度は着地の時に足を骨折してしまう。練習し過ぎで、腰や股関節に負担をかけ過ぎたのが原因だった。
それから1年半くらい記録と遠ざかっていたが、そんな折に実家が放火に遭う。
母が全身火傷で病院に担ぎ込まれ、なんとか一命は取り留めたが、火傷は全身の70%にも及んでいて、炎の熱で肺も気管も焼けていた。
何度も皮膚移植を繰り返したが、結局1997年の5月に亡くなった。
母親は死の恐怖と必死に闘っていたそんな中で、不調な葛西を気にかけて、励ましの手紙を送ってくれた。
「いまこの時を頑張れ。絶対におまえは世界一になれる。お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ」と。
その言葉を胸に、葛西は「レジェンド」といわれる選手となった。

トム・ワトソンアメリカを代表するゴルフプレイヤー。1949年9月4日生まれの65歳。
6歳から父の影響でゴルフを始め、1970年に全米アマチュア選手権5位の資格でマスターズに出場した。
一方、学業はスタンフォード大学に進学し、心理学で学士号を取得、1971年5月に卒業し、その翌年プロ・デビューした。
プロ2年目の23歳となったワトソンは、練習場で1人の青年に声をかけられる。
「僕を、あなたのキャディーにしてくれませんか?」それは、18歳のブルース・エドワーズであった。
エドワーズは、高校時代にアルバイトでキャディを経験し間近で見るプレーの迫力に酔いしれて、高校卒業後は、プロのキャディとして仕事を探していた。
その熱意に押され、ワトソンは専属キャディとして採用した。
キャディとしては若いドワーズだったが、彼の手帳には細かいメモがビッシリ書き込まれていて、パットの際のアドバイスも的確だった。
今でこそ、キャディが戦略的アドバイスをするのは当たり前になったが、当時は、バックを担ぎ、クラブを渡せばそれで充分だった。
つまりエドワーズは、近代キャディの「草分け的存在」となっていく。
例えば、グリーン手前に池のあるコースで、3番ウッドで池越えを提案するブルースに対し、池を避け6番アイアンで刻むルートを選ぶワトソン。
そんなワトソンにブルースは、「ミスが続いたから諦めるのか?」「らしくない。自信を持て!」と。
しかし、意見を譲らないワトソンに、3番ウッドと6番アイアンを置き、「好きにすればいい」と行ってしまった。
結局、2本のうち、ワトソンが選んだのは、エドワーズがすすめた3番ウッドであった。
すると、ワトソンが打ったボールは池を超え、見事グリーンに乗った。こうして彼らは、信頼を深めていった。
そして、ワトソンとエドワーズで8度のメジャー大会優勝を果たし、エドワーズはそれまでのキャディのあり方を覆す、ゴルフの世界では知らない人がいないほど有名なキャディとなった。
その後、ワトソンとエドワーズは快進撃を続け、世界最高峰のアメリカのゴルフツアーで、1977年から4年連続賞金王に輝いた。
ただワトソンは87年の30歳を過ぎたあたりから、長期スランプに陥り、出場を見合わせる試合が増えていった。優勝からは遠ざかり、賞金ランキングは39位にまで転落した。
思い通りのショットが打てないことから、出場を見合わせる試合が増え、試合に出なければ、キャディであるエドワーズの仕事もない、才能溢れるキャディを、飼い殺しにしているようなものだった。
そして、ワトソンは、エドワーズのためを思い、他のプレーヤーにつくことを提案した。
ワトソンは昔のようなプレーはできないと弱気な発言を吐き、エドワーズは「失望したよ」と言い残してワトソンの元を去って行った。
そしてエドワーズは、当時、世界ナンバーワンだったグレッグ・ノーマンからのオファーを受け、彼のキャディとなった。
ノーマンは、世界中で様々な大会に出場し、好成績を収め、獲得した賞金も多く、ワトソンについていた時に比べて、 エドワーズのギャラはおよそ2倍になった。
エドワーズは、キャディとして華々しい活躍を見せた一方、ワトソンは、相変わらずスランプから抜け出せていなかった。
そしてコンビ解消から2年後のこと、エドワードから「トム、誕生日おめでとう」と電話がかかった。
その電話でエドワーズは、ノーマンのキャディを辞めることをワトソンに告げる。
ワトソンは、キャディとして最高の舞台に立っている今の生活を捨てるのかとエドワードに念をおした。
「ああ、立ってるよ!でも、どうせ立つなら、君と立っていたいんだ。不調の時こそ一緒にいるべきだろ。頼むよ、ボス!」
そしてエドワーズは苦しみ続けるワトソンの元に戻ってコンビが復活し、再び二人三脚の戦いが始まった。
それから4年後の1996年、ワトソンはスランプを抜け、世界最高峰のツアーで46歳にして、9年ぶりに優勝を果たした。
エドワーズも結婚を決め、全てが充実した日々が続くかに思えた。
しかし、想像だにしなかった悲劇が待っていた。
2002年のある日のこと、ワトソンからボールを渡されたエドワーズの手からボールが落ち、その落としたボールを、掴もうとするがうまく掴めない。
さらに、ロレツが回らないエドワーズを心配したワトソンは、エドワーズに検査を受けさせ、その結果「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)ということが判明した。
それは特効薬がなく、次第に筋肉が委縮し、話すこともできなくなるという難病だった。
最終的には、呼吸さえも自力でできなくなる病で、余命3年と告げられた。
迷惑をかけまいと、キャディを辞めることを告げるエドワーズに、ワトソンは「諦めるのか!」「僕はゴルファーとして、これからも世界の舞台に立ち続ける!」
ワトソンは「でもどうせ立つなら、君と立っていたいんだ」とスランプの時もらった言葉をエドワーズに返した。
ワトソンはALSがどんな病気かを勉強し、解決の道があるのではと必死に探した。
かつて「共に乗り切ろうと」言ってくれたエドワーズに応えるかのように、エドワーズの体力に合わせて、練習時間を軽減したり、バックの重量も軽減、さらに、病気のことを調べて、最新の治療を行い、治療費も全て支払った。
しかし、病気の進行は恐ろしいほど早く、残された命を振り絞るようにして、彼らは最後の大舞台に立った。
それは、2003年の全米オープン、余命を宣告されて5か月後のことだった。
招待選手としての特別参加で、カートの使用も認められたが、エドワーズは、自分の足で歩くことを決めた。
自分の足で、ワトソンと共にコースを確かめ、風を感じたかった。
2人は、もしかしたらこれが最後の全米オープンになるかも知れないという思いで戦った。
エドワーズは、立っているのもやっとの状況であったが、それでも寄り添うように、2人は、穏やかな表情で戦い続けた。
そしてエドワーズは、ワトソンが自分のために頑張ってくれていることを感じた。
そしてワトソンは、トップの成績で初日を終えた。
最終日には、惜しくも首位から転落してたが、2人を迎えたのは、スタンディングオベーションであった。
そして、ギャラリーから拍手と大歓声が送られたのは、プレーしていたワトソンではなく、キャディを務めたエドワーズに対してのものだった。
翌年の2004年4月8日、 ブルース・エドワーズは49歳で他界する。
しかしワトソンによれば、人々との会話の中で、エドワーズはいまだに登場するという。
エドワーズは「やってやろう!道を見つけよう!」どんなピンチでもそう言ってた。つまりいつもポジティブだった。
ブルースだったら、こう言うよ。ブルースだったら、こうするよ。
ブルースだったら、面白いジョークを言うよ。ブルースだったら、いいニックネームをつけるだろうな。
トム・ワトソンは、今もアメリカを代表するプロゴルファーとして65歳にして「現役」を続けている。
まるで誰かのために戦っているように。