予兆と抵抗と

おそらくインスピレーションあふれる芸術とは、個人を表現しているようで、実は世界の中に渦巻いている何らかの「兆候」を深く受け止めてカタチにしたり、反対にその予兆に「抵う」かのように、渾身の力で創造されるものだと思う。
江戸時代の画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう)は、元録時代に「多賀朝湖」の名で名声を博した人物である。
美人画も描いたが、庶民を生き生きと描いた絵こそが出色だった。吉原では花魁の太鼓持ちをし、裏方の世界まで知り尽くしていたからだ。
「吉原風俗図巻」では、客と遊女との喧嘩や、女が嘘泣きで客を巧みに引き止めている姿などを描いている。
ところが、晴天の霹靂。三宅島への島流しを申しわたされる。
表向きは馬を虐待した「生類憐みの令」違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の散財をさせたからだといわれている。
煌びやかな吉原の世界から、死だけが待つ極限の孤島生活となった。
永久に生きては帰れない流人生活の中で、島民のために「七福神」などを描いていたが、天神様つまり菅原道真の表情がかなり怒っているのは、一蝶の気持ちを反映していたのかもしれない。
それでも一蝶は、人を喜ばせるのが性分だったようで、毘沙門天、恵比寿様などの絵をを安く描いて漁民に渡した。
遡ると、三宅島に流されていく途中に風待ちのためによった新島の梅田家が、一蝶がその家を通じて絵を売ることのできる、いわば「地獄に仏」となった。
そのうち画才が江戸に聞こえたのか、江戸から注文がきはじめ、一蝶は背いっぱいの力をふるって懐かしい江戸での遊興の日々を描いた。
実は、先述の「吉原風俗図巻」は、実は三宅島で描いたもので、「四季日待図巻」では 眠ることなく朝日をおがむ神事の様子を、庶民の表情とともに生き生きと描いた。
神主さんから博打まで、裏で鶏をさばく人まで横幅約7メ-トルに描きこんだこの画は、一蝶が幅広く視線が行き届く絵かきであったことを物語っている。
そして1709年奇跡がおこる。将軍代替わりで、生類あわれみの令に関する流人が赦免となったのだ。
一蝶の人生活はあしかけ12年。58歳になっていた。
深川寺前に居を構えると、豪商に取り入り、英一蝶として再スタートした。
その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。
この名作の中に「雨宿り図屏風」(下絵①)という絵がある。
雨をさけるために武家屋敷の門前に身を寄せて凌ぐ人々の姿、坊主もおれば物売りもいるし子供達はむしろ雨にはしゃいでいるのに、ただ武士のみが困ったぞと陰鬱な表情で空を眺めている姿。
元禄時代を「峠の時代」とよんだ通産官僚もいたが、英一蝶は、なにかの予兆をこの絵の中に描きこんでいるように思えて仕方がない。

スペインのプラド美術館にあるベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」(「女官たち」下絵②)は実に不思議な絵である。
まず第一に、絵の中にその絵を描いている「ベラスケス自身」が描かれているという不思議がある。
そして幼い王妃とその周辺には、それまで宮廷絵画では「絶対に」描かれることのなかった人々、つまり王妃の遊び相手である身分の低い「矮人」(小人)までが描きこまれている。
さらには、黒い大きな犬の姿までも描かれていて、これも「宮廷絵画」としては常識はずれである。
スペイン国王のフェリペ4世は、ベラスケスにしか自分の肖像画を描かせないと公言していた。
しかしサスガに、この画面の中に国王フェリペ4世を描き入れることはなかろうと思ったが、鏡の中に映った形でうっすらと「フェリペ4世夫妻」までもが描きこまれている。
つまり王女や「矮人」や犬や画家を見ているのが「フェリペ4世夫妻」というなんとも巧妙な構図で、ベラスケスはこの絵画の中に、王に関わった身近な人々および動物をことごとくに描き込んだことになる。
コノ絵は要するに国王フェリペ4世夫妻から見た「一族の集合絵」なのだ。
しかもその「集合絵」の中には鏡に写ったかたちで、フェリペ4世自身までもが入っているというものである。だがなぜこんな画を、誰の「発意」で描いたのだろうか。
スペインはその無敵艦隊が1588年にイギリスに敗れ「没落の兆し」が見えていたが、フェリペ4世の時代はスペインの衰退が「決定的」となった時代であった。
後進国であったイングランドやオランダさらにはフランスに遅れを取り始め、結果としてポルトガルやオランダはスペインから「独立」してしまう。
フェリペ4世は危殆に瀕しつつある国家のまつりごとを家臣に委ねきり、自らは芸術に没入していた。
おかげでベラスケスという一介の「装飾絵師」が、貴族に列せられる栄誉に浴したのである。
ベラスケスは、「同じ運命」を辿らんとする人々を、同じ絵画の中に描きこまんとしたのかもしれない。
国王の一族と側近そして自分自身の「滅びの予兆」を感じながらも書いた絵が「ラス・メニーナス」だった。
「ラス・メニーナス」は、その王朝最後の栄華の一瞬を「集合写真」のように写し撮った。
実際、フェリペ4世の子供達はことごとく夭折し、次代のカルロス2世の時にスペイン・ハプスブルグ家は「断絶」してしまう。
それは、同じ運命の波間に今マサニ投げ込まれんとする人々の最期を予感した絵だったのかもしれない。

ジャン・フランソワ・ミレーの「落穂拾い」(下絵③)は誰しもが学校の教科書で見知っている絵である。
はるか地平線までウッスラと広がる麦畑を背景に、画面中央では貧しい野良着姿の三人の農婦が腰をかがめ、大地に散らばった「落ち穂」を拾っている。
旧約聖書によれば、刈り入れの時にこぼれた麦の穂は、貧しい孤児や未亡人が拾うことを許された「神の恵み」であった。
農婦三人の背後では、大勢の人が作業に追われていて、刈り取った麦を荷馬車の上へ、その隣では刈穂をまとめるのに忙しそうに働く人々の姿がある。
背後で馬に乗って指図するのは、おそらくは「農場主」である。その収穫の賑わいから遠く離れ、三人の農婦たちが黙々と落穂を拾っている。
ミレーはフランス北西部のノルマンディー地方にあるグリュシーという村に農家の長男として生まれた。
子供の頃から農作業を手伝う親孝行で働き者の少年であったが、やがて画家を夢見て憧れのパリへ向かった。
当初は神話や妖精、裸婦などを題材に描いていて、そうした作品を欲しがる富裕層の人々もいた。
しかし、民衆が王政を打倒した「二月革命」が勃発すると、その年のサロンに「名も無き労働者」の姿を描いた作品「箕をふるう人」を出品した。
革命により「労働者」という階級が注目を浴びた時代で、神話や古典に関係なく「名も無き労働者」を描いて、ミレーはこの作品で一躍「脚光」を浴びることになる。
その後、パリで「コレラ騒動」が起こると、ミレーは幼い子供への感染を恐れパリの南南東に広がる農村バルビゾンへと移住する。
そして、そこでコローやルソーといった「バルビゾン派」と呼ばれる画家集団と出会う。
彼らはイーゼルやキャンバスを背負って戸外へ出かけ、見たままの自然を描いていた。
彼らと親交を深めるいちミレーもまた屋外で描くことの魅力に目覚め、少年の頃に立ち返ったような喜びを感じるようになった。
彼の心を何よりも捉えたのは光の下で働く農民たちの姿であり、それはノルマンディーの農家に生まれ育ったミレーだからこそ描ける世界であった。
そして、この地に住みつくことを決意し、大地に種を蒔くという単純な作業をする農民「種蒔く人」を描いた。
この作品は、ミレーは単純に「人間の尊厳」を描いたつもりだったが、若い画家たちには「英雄的な」労働者の姿として賞賛された。
その一方で、容赦ない批判が巻き起こった。
富裕層は「過激な」社会主義の台頭におびえていたために、労働者の悲惨な姿を描いて社会に抗議していると批判したのだ。
つまり、ミレーの絵は富裕層にとって「警戒の対象」となったのである。
そして、このバルビゾン村で描かれた風景画の一つが「落穂拾い」である。
この絵がサロンに発表されるやいなや、評論家たちは一斉に非難の声をあげた。貧しい農民を「気高く」描いたが故の誤解だった。
あの物静かな絵を、「貧困の三女神」とか「秩序を脅かす凶暴な野獣」と評する人さえもいた。
しかし、この美しく穏やかな絵が、一体どこか問題視され、批判されることになったのだろうか。
それは画家本人にとっても予想もできないところにあった。
それは「構図」にあり、手にした落穂の束から左へと視線を移していくと、背景の大きな刈穂の山にたどり着く。さらに落穂を拾う手から二人の頭を結ぶと、その先は一直線に「農場主」につながる。
この「対角線」上の対比が「貧富の差」を強調して、当時の政治体制を批判しているというのだ。
つまり、何もカモを「革命」に結び付けようとする時代だったのだが、ミレーはいわれなき「中傷」に対しても弁解せず「生活の中で学んだことを物語るだけだ」と語っている。
「農民として生き農民として死ぬ」がミレーの終生変らぬ信念であった。とするとこの絵は有為転変に翻弄されることのなく地に根付いた農民の姿といえるかもしれない。

グスタフ・クリムトは、「金の装飾」を施したあまりにも官能的な作品で有名である。
聖書でヨハネの首を切り取った「サロメ像」なんていうのは、彼が一番得意とする題材ではなかったであろうか。
この金色に魅せられた画家が、20世紀初頭にウィーンで生み出した傑作が「接吻」(下絵④)である。
クリムトは正方形のキャンバスに縦横180センチの画面全体を金色が覆い尽くしマバユイ輝きを放っている。
その光の中で、絡み合うように熱い抱擁をする男と女の姿であり、男は愛おしく女を包み込み、女は恍惚と男に身を委ねている。
男の衣装は四角の、女の衣装は丸の紋様で埋め尽くされ、色の違う数種類の「金箔」と「銀箔」がふんだんに使われている。
足元には咲き乱れる花々やその生命力に満ちあふれた色彩に彩られるが、花園の先には崖がある。
切り立った「断崖」は、男女の「極限の愛」が描かれているようである。
そして周囲には、意外ヤ「平面的な装飾」が施されている。
この絵のモデルは、男はクリムト自身、女は生涯連れ添った恋人だと言われている。
1862年、クリムトはウィーン郊外の貧しい「彫金職人」の子として生まれた。
工芸美術学校で絵画と装飾美術の基本を身につけた後、弟たちと共に「建築装飾」の会社を設立する。
クリムトは圧倒的な描写力でタチマチ優れた「装飾芸術家」として名を馳せていった。
クリムトは20歳を過ぎる頃には工房を設立し、数多くの郊外の邸宅の装飾の業績が認められ、30歳の頃にはウィーン美術史美術館の階段室の装飾という名誉ある仕事を完成させていった。
クリムトの「死とエロティシズム」の世界は多くの人々を魅了し、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフから「勲章」を授与され、高い評価を得た。
そしてクリムトは、ウィーン大学の天井画の依頼をうけた。それは医学・法学・哲学と題した「壁画」だった。
しかし生来「体制に順応出来ない性格」のクリムトは、この天井画によって「大批判」を招くことになる。
人間の知性の勝利を歌いあげるという依頼者の意図とは裏腹に、人間の「非合理性」に満ちた内面性を表現したかのようでもあったからだ。
なんと「医学」では天高く人間を連れ去らんとする死神と、地に足をつき、毅然とした態度で正面を見据える人を描いたのだ。
巻き上がる人間の勢いは、医学たりとも全ての人間を救うことは出来ないということを暗示しているようでもある。
そしてギリシャ神話で医学の女神「ヒュゲエイア」は死の沼に蛇になって生まれる。
ヒュゲエイアが盃を持ち、腕には蛇がまとわりついている。背後には、病人や骸骨が漂っているのだ。
そのため、それらの絵は、およそ理性を重視する学問の殿堂にふさわしくないと批判され、帝国議会でもとりあげられるほどのスキャンダラスな論争を巻き起こした。
想定外の論争の大きさに、クリムトはついに「契約の破棄」を求め、事前に受け取った報酬を返却している。
そしてクリムトはもはや国家をパトロンとすることはできず、「ウイーン分離派」として作品を出したが、これらの作品でクリムトが多用したのが「金色」であった。ひとつの理由は、クリムトは彫金師の家に生まれただけあって、1万分の1ミリという厚さの金箔を扱う技術だけでなく、絵の具と金箔を結び付ける術を持っていた。
またクリムトの造形に、強い影響を与えたのが日本美術で、浮世絵や絵巻物は「陰影」を描かず平面的な色面で描かれた。
特に金銀を巧みに取り入れた「琳派」に影響を受けている。「琳派」は江戸初期の俵屋宗達を始祖とし、江戸期に尾形光琳、乾山らが完成させた装飾的で意匠性に富んだ様式をいう。
クリムトのテーマの一つであるエロティシズムはあまりに「赤裸々」であるが、それが華麗だが平板な日本の「装飾画」と奇跡的に融合して出来上がったものである。
クリムトの晩年は、第一次世界大戦と重なり、終戦の年にクリムトもなくなっている。

戦争で敵国を爆撃する場合には、まずは敵国の軍事的拠点を攻撃するのが常道である。ただドイツ軍によるスペイン爆撃は少しばかり趣が違っていた。
スペイン内乱中の1937年4月26日ナチス・ドイツ軍がゲルニカという町を爆撃した。
この爆撃によって人口三千人の小さな町で、死者1654人、負傷者889人を出し、町の建物の4分の3は破壊されつくした。
当時パリの万国博覧会のスペイン館のための壁画を依頼されていたピカソは、ドイツ軍の暴挙に対して怒りをこめて「ゲルニカ」を描いた。
しかしゲルニカは軍事拠点でもなく、ドイツ軍がこの町を攻撃することの実質的な意味は、スペインの軍事拠点を無傷で明け渡すべく威嚇されたということでしかなかった。
こうして自治の象徴バスク地方の小さな町ゲルニカで無辜の市民の血が流されたのである。
絵の良し悪しが分からずとも、畳6畳分ぐらいあるこの画の前にたてば誰でも圧倒されるにちがいない。
パブロ・ピカソが「ゲルニカ」(下絵⑤)を戦争の無惨に対してへの怒りをこめてとか、平和への願いをこめて描いたとか、祖国スペインが、フランコ政権というファシスト集団によって自由を奪われたことに対する芸術家としての抗議がこめられているともいわれてる。
ピカソは「ゲルニカ」を黒・白・灰という色調で描き、画の中の牡牛をファシズム、馬を抑圧された人民とする解釈などもあるという。
またピカソはスペインの戦争は人民と自由に対する反動の戦争だと語ってはいるが「ゲルニカ」は究極的にはピカソが平和の願いをこめて描いた絵などではなく、ただただ人間の「真実」を描ききろうとして描かれたものではないだろうか。
ピカソは町の惨状を見て「ゲルニカ」を描いたのであるが、だんだんと絵の中をゲルニカの町を想像させる具体的なものを取り払っていく。 つまり「ゲルニカ」を一つの町の惨状から人類の惨状へと普遍化するのである。
人間の体や牛の体を解体してその背後までも描かれているのは、戦争における悲惨な惨状のように見える一方で、人間の内側をもつかみだしてまた裏側の姿をも突き出して描いているように思える。
またピカソが「ゲルニカ」を何度か描き直し普遍的な絵としたのは、つきつめていえばゲルニカの町に「予兆」としての人間の未来図を見ていたのかもしれないとも思うのである。
これから8年後に広島・長崎に原子爆弾が投下される。

○○○○○○○○○○○○